15話 肌をつたう眼差し
応援も呼ばずにひとりで飛び出していったことを、強行犯係の刑事たちにきつくしぼられたあと、光洋は病院の簡素なパイプ椅子に腰を下ろして頭を抱えていた。
真白は両腕の縫合手術と心電図検査を受け、休む間もなく病室にやって来た刑事課の警察官たちに聴取を受けている。
……あの電話のとき、やはり真白は模倣犯と思しき何者かに襲撃されていた。だが、幸いにも彼は両腕に切り傷を負うのみで済んだ。
光洋が現場に駆けつけ、呼び出した救急車へと同乗するまで、そして病院へと到着するまでのあいだ、痛みに耐える真白は懸命に、覚えうる限りの情報を伝えようとしていた。
──寮へと向かって歩きながら光洋と通話をしていたら、背後から強い衝撃を感じた。腰のあたりから走ったそれに一瞬、意識を失いかけたが、うつ伏せに倒れ込みながらどうにか気絶だけは免れようと必死だった。
そして急に「いましがた受けた衝撃はスタンガンによるものなのでは」と思い至り、同時に「これが模倣犯だとしたら、首を狙われる」と気づいて反射的に両腕で首をおおった。
不吉な予想はしかと当たり、襲撃犯は真白の両腕めがけてナイフを切り下ろしてきたが、スマホから漏れ聞こえた光洋の声に反応して動きが止まった。
真白が「先輩」と声に出そうとした背後から舌打ちのような物音が聞こえ、襲撃犯はいずこかへと走り去っていった──。
それを聞いたばかりのときは気が動転していて「とにかく生きていて良かった」としか思わなかった。だが、熱帯夜の住宅街を全力で駆けた汗が冷えたころ、光洋は胃の奥からぎりぎりと締め上げてくるような感覚に渋面を浮べていた。
自分が、店の存在を教えなければ。いやせめて、雨の夜への警戒をもっと促していれば……。
吐けども吐けども、次から次へと湧いて出てくるため息。
いくら後悔を重ねたとて起きてしまったことをくつがえすことは叶わないというのに、手のひらに残る生温かい鮮血の記憶が、意識をうしろへと振り向かせようとする。
べたり、と貼り付く衣服も赤黒く染まっていて、鉄錆びた匂いとその色に、下を向くだけであの瞬間が何度でもよみがえった。
「──田之倉」
不意に、自身を呼ぶ声に顔を上げた。
そこには刑事課の吉川課長が立っていて、彼も非番の中あわてて飛んできたのだろう。汗だくの額をタオルでぬぐい、ポロシャツには大きな汗染みを作っている。
立ち上がろうとした光洋を吉川は手の動きだけで制し、彼もまたふう、と深く大きな息をついてとなりのパイプ椅子に腰を下ろした。
「いや、まいったよ。姫路の衣服も持ってた買い物袋もぜんぶ鑑定にかけたんだが、あの被疑者かなり周到だ。姫路の体にはいっさい触れずに、犯行におよんでる」
「……そういえば、今までの被害者にも指紋は出ませんでしたね……」
吉川の言葉に同調し、これまでの捜査資料を思い浮かべる。
犯行時に手袋をする被疑者は、めずらしくはない。だがその〝手袋を着けた手〟で触れた箇所は、鑑識の目をごまかすことは難しい。まして被害者に触れたとなれば、科学捜査の力をもってその痕跡をあきらかにすることができるのだ。
「ズボンの腰のあたりには例の長靴の跡があったんだ。姫路も記憶があいまいだって言うから完璧にはアテにできないが、たぶんスタンガンを一発バチッとやったあとに蹴り倒したんじゃないかって話だったよ」
その推測を聞き、なるほどたしかに真白の体格を鑑みれば、手を触れずに制圧するならそれがもっとも効率が良いように思えた。それと同時に……。
「……足痕も手口も一致、ということはやっぱり……」
わずかに震えながらしぼり出した光洋の声に、吉川もまた小さく「模倣犯、だろうな」と腕を組む。
高電圧器具をためらうことなく人体に向けて使用した上に蹴り倒し、切りつける……その容赦のなさに、よくも真白はとどめを刺されずに済んだものだと、背筋が凍った。
「あの……真白の腕は、大丈夫なんですか? 業務に差しつかえ、とか……」
めった刺し、とまではいかなかったようだが、真白は両腕を縫合している。もしかすると大事な部位を負傷し、鑑識としての業務に悪影響が出るのではと、それだけが気がかりだった。
「あぁ、どうかな……今はまだ麻酔が効いてるみたいだし。ほらあいつ、手先を使うのが得意なんだろ? できれば、支障なく回復してほしいよなあ」
タオルで幾度も汗をぬぐいながらそう話す吉川の表情は、若者の未来が途切れてしまう可能性を憂いているようであった。
◇
襲撃事件を受けて召集された刑事課の面々の中に、よく見知った怜士のうしろ姿を見とめながら、この時ばかりは彼の皮肉めいた態度をぶつけられたくなくて背を向けた。
非番なのに呼び出されたとか、お前が余計なことを教えるからとか、怜士の言いそうなことはいくらでも考えつく。きっと今それらの冷たい棘に刺されたら、もう前を向いて歩けない……そんな気がしたから。
そうして事件の捜査に聴取にと忙殺され、眠る間もなく迎えた翌日。
「……ら。……田之倉。おい、大丈夫か?」
吉川課長の声にはっと顔を上げ、知らぬうちに居眠りをしていたことに気づいた。
「すみません」と頭を下げてあたりを見回すと、捜査会議を執りおこなっていたはずの室内は、おのおのが持ち場へと去って行く警察官たちの背中が、すこしばかり残るのみとなっていた。
「君もゆうべからずっと寝ずに駆けずり回ってるだろ。聴取の予定時間はずらしてやるから、一回仮眠室に行ってきなさい」
「いえ、でも……」
椅子から立ち上がり、あわてて捜査資料をまとめる光洋の肩に分厚い手を添え、
「君をこき使って病院送りにでもしたら、親父さんになんて言われるか分かったもんじゃないしな」
そう言って浅黒い肌に快活な笑みを浮かべた吉川に、一度開きかけた口をつぐむしかなかった。
強引に会議室から押し出され、教えられたとおりに〝仮眠室〟の看板を探し歩けば、古い金属扉に手書きのそれが貼り付けられた一室を見つけた。
なるべく音を立てずに開けようとするも、年季の入った蝶番がギイ、と耳障りな音を立てる。のぞき見た室内はこちらも同様に新しくはないであろう畳張りの部屋で、うすい布団や枕がその隅で山になっていた。
だれもいないことを願ったがやはり先客が二、三、肩を並べて寝息を立てており、光洋はいくらか迷ったすえに枕だけを拝借して壁際に顔を向け、背を丸めて横になった。
カーテンの隙間から差す日差しに埃がちらちらと輝いて、脂っぽいような汗の匂いが鼻につく。
けっして心地良くはない空気の中、息苦しさから気をそらそうにも、目を閉じれば鮮やかな血の色が何度でもよみがえってくる。
また目の前で、命が散る瞬間に対峙してしまうのかと、戦慄した。
ふう、と吐いた息は小刻みに震えていて、それをおさえるがごとく手のひらで口もとを覆う。
怖かった。生きていてくれて、良かった……。
◇
目を覚ましたのは、古びた重たい扉がバタン、と床を震わせるほどの勢いをもって空気を締め出したときだった。
けれどもよほど疲れが溜まっていたのか、意識だけは覚醒しつつも目蓋を持ち上げるだけの気力は得られず、まどろみの中で「そろそろ起きないと」と脳からの指令だけが反響している。
あれほどの音で扉を閉められても、他にだれかが起き出す気配はない。どうやらすでに自分以外には、この部屋を利用する者はいなかったらしい。
とおく廊下の向こうから聞こえてくる電話の呼び出し音に身をよじり、喉の奥から小さなうめきを漏らそうとした時、背後の畳を擦る気配がした。
まただれかがひと眠りしに来たのか、と目を開けようとして、その気配がやおら近づいてくることに気付く。それがだれなのか、まとう空気に答えを得ながら──確信が持てないことを理由にじっと目を閉じているのは、なぜ。
畳を擦る音が、すぐうしろで止まる。起きざまの心臓がその距離を感じるにつれ、刻む速度を上げていく。
ぴたりと、首筋に。皮膚の引きつれた指先が触れる。撫でるような、そうと思いながらもどこか力が込められているようなそれに、喉が鳴る。
ふっ、と。耳朶をかすめて行った吐息に、背筋を小さな電流が走った。
「……お前、起きてんだろ。いつまでサボってんだよ」
耳もとでぼそりと吐かれた言葉に、どんな顔をすれば良いのか分からなかった。
「怜士……」
この心臓の音が、どうか聞こえませんように。
うすく目を開けて彼の手を振り払いながら、よりにもよってこんな場所でこんな至近にまで詰めてきた男に、ないまぜになった感情がひどく醜く暴れ回っていた。
欠伸を噛み殺し身を起こせば、思っていたよりもすぐそこに腰を下ろした怜士の顔があって、まるでベッドの上にいるかのような距離感を彷彿とさせる。
差し込む陽光の中、反して暗い影に沈む眼差しが、妙にぎらついて見えた。
なにを思って、なんのためにそうしているのか。疑問は浮かぶのに交わす言葉は見つからず、真正面から視線を結ぶのも憚られてつい、口もとへとそれを落としてしまう。
──これでは、まるで。
その先へつづくなにかが胸の奥から湧き起こりそうになったとき、扉のノック音とともに「入りまーす」と間の抜けた声が響いて、転げ落ちるように畳から降りた。
◇
所轄で丸一日を過ごし、マンションに帰ってきたときには、空が白んでいた。
昨晩の雨はすっかり止んでいたが、代わりに顔を出し始めた太陽に、駐車場に降り立つなり黒いアスファルトの地面からは、耐えがたい湿り気が立ちのぼってくる。
泊まり込みで聴取と鑑識作業とに追われた身体には、なにもかもがただただ辛かった。もっと日が高くなれば、さらに茹だるような暑さが襲い来るのだろうと予感させる空気に、足取りが重くなる。
全身からじわじわと湧き出してくる汗を何度もぬぐい、エントランスのエレベーターに向かおうとしていた光洋は、不意にポストの存在を思い出した。最近は忙しさが勝って家のこともおざなりになっており、これではたしかに留守だと思われかねない。
……そんなふうに、注意をしてきたのはだれだったろうか。
集合ポストの一角、端からカラフルなチラシのたぐいがはみ出ている『田之倉』の文字を前に、記憶のどこかで声が反響していた。
ダイヤルロックを合わせ、開錠された扉を開くとばさり、とチラシやはがきが崩れる。なにか重要なものでも入っていたら大変だと、しょぼつく目蓋をこじ開けて紙を束ね──なぜか、開かれたポストに違和感を覚えた。
「……なんだ……?」
開け放したポストの奥、銀色の扉の内側に、さらに小さな銀色が重なっている。
よくよく見れば、ビニールテープかなにかで鍵らしき金属と、白っぽい紙が貼り付けられていた。
手を伸ばし、暑さで粘性を増したそれを剥がし取る。不快なべたつきに顔をしかめながら小さな鍵を手に取り、剥がしきれない紙を観察してみれば、それには文字が書かれていた。
『キミの父親から、捨ててくれと言われてずっと持っていた。なんの鍵かは知らない。これはキミが持っているべきだ。──宮島』
どくり、と。心臓の奥が強く脈打つ。
ポストの話をしていたのはそう、宮島だ。あのとき、これを残していたのか?
手のひらに乗せた鍵は小さく、簡素なものだ。「捨ててくれ」と頼むほどのなにか……。
父さんは、なにを隠していた?
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