14話 雨の夜
それは、真白から「だれにも言わないで欲しい」と頼み込まれた翌日。
『お忙しいのであれば、無理にとは申しませんが……』
そう前置きをした上で告げられた母の状態に、知らずして険しい顔をしていた。
しばらく面会に行けずにいたのは事実だが、「ずっと息子さんの名前を呼んでいるんです」と言われてしまっては、塵ほどの情しか残っていなくとも行かないわけにはいかなかった。
はあ、と深い息を落として電話を終え、出かける準備をしようと鏡に写した自分の眉間に、うっすらと皺の痕跡が残っているのに気づいて。二度目のため息が、その銀色の表面を曇らせた。
「すみません、田之倉さん。たしか今日ならお休みだったかしらと思って、ご連絡さしあげたんですけど……ご予定とか、大丈夫でした?」
ナースステーションから顔を出した看護師の申し訳ないといった表情に「大丈夫です」と返して面会名簿に氏名を記入した。
母を入院させてから、数週間が経つ。
「すくなくとも梅雨が明けるまではどうにか」とどうにか頼み込み、しかしその期間もことしは異例の早さで終わりを迎えてしまった。
すこし前にはほんの一日ばかり彼女を帰宅させて様子を見てはいたものの、光洋の目がないと安定剤を飲み忘れること。そして、ときおりその内服の量を間違えること……諸々が重なり、「留守の間になにか起きては困る」と病院に押し付けるような形になっている。
その〝なにか〟を思えば病院側も理解を示してくれたが、いよいよ彼女を受け入れてくれる場所を探さねばならないだろうかと、光洋は日々頭を悩ませていた。
病室へ近づいていくにつれ、話し声が大きくなっていく。今回の入院は個室の空床が出ず、四人部屋の多床室を間借りしている。部屋の前のネームプレートには、二つの名前が並んでいた。
開け放たれた引き戸からそっと顔をのぞかせると、窓際に椅子を並べておしゃべりに花を咲かせている女性二人。一方は母で、もう一方は同室の患者らしかった。
「……母さん、入るよ」
引き戸をノックし、遠慮がちに中へ進む。
母と、向かい合っていた女性とが振り向き、「あら」と声を上げた。母よりもすこしばかり年上のようにうかがえる女性は人のよさそうな笑みで、椅子から立ち上がり小さく頭を下げる。
こちらもまた会釈を返し、視線を下げた矢先に聞こえた言葉に、光洋はぴたりと動きを止めた。
「こんにちは。あなたが洋一さん?」
頭の先から冷水を浴びせられたかのごとく、一瞬で全身から血の気が引いていく。
ぎこちなく顔を上げれば、二つの穏やかな微笑み。
ひとこと「違います」と言えばいいだけのことを、口の中がからからに渇いていて思うように出てこない。まばたきと呼吸ばかりが空まわりして、首のあたりで脈打つ拍動が痛い。
どうしたら、と戸惑っているうちに、背後からやってきた看護師が
「伊藤さん。そろそろ検査の時間ですよ」と女性を呼びに来て、光洋の口から訂正する間もなく彼女は出て行ってしまった。
乱れようとする呼吸をおさえながら、母の向かいへと腰を下ろす。
伊藤と呼ばれた女性の言葉は母もしっかりと聞いていたであろうに、彼女は貼り付けたような笑みをそのままに光洋を見つめている。
「……母さん」
漏れ出た声音は低く、平坦だった。
「なあに? 光洋」
応える母の声は、常と変わらず〝優しい母親〟だ。
笑顔はそのままで、眼差しだけが、きっとどこか違う場所を見つめている。
「あの人……伊藤さんに、話したのか」
「なにを?」
「……黒崎洋一の、ことを」
母に直接、その名前をぶつけたことはなかった。自身が〝知っている〟ということも、明かしたことはない。だから彼女はきっと己の行いを恥じてしかるべきで、
「あぁ……洋一さん」
そんな風に、笑みを深くして
「そう……そうね。話したかしら。話したかもしれないわ」
他愛も無いことのように、平然と口にして良い話題であるはずが、ない。
「どうしたの? なにかいやなことでもあった?」
自分は今、どんな顔をしているのだろう。困惑か、あきれか、……怒りか。
震える両の拳を握り締め、引きつる唇をおさえ、言葉をしぼり出す。
「く……黒崎はもう、死んでるだろ……目を覚ましてくれよ、母さん……!」
苦しげな吐息とともに吐き出された台詞に、沈黙が覆い被さる。すがるような、懇願するような息子の声にも、母の表情はぴくりともしなかった。
どうして。どうしてそんな目で、動揺ひとつ見せずに。
「……だって、洋一さんはまだ、生きてるもの」
淡々と、けれども強い確信をともなった口ぶりで。瞳にこそうつろな陰を落としてはいたが、まっすぐに光洋を見つめてくる母に、たがえようのない恐れを抱いた。
このひとは、反省などしていない。真実から目をそらしたうえに、あまつさえ自身の行いをなかったことのように扱っているのではないか──。
二の句がつげないままでいる光洋の頬を、母の両手がそっと包み込む。慈愛に満ちた〝母親の顔〟で、ふわりと優しく、笑みのかたちに弧を描く眼差し。
幾年かぶりに至近で真正面から見つめあった母の目もと、口もとにはちいさな皺が刻まれていて、如実に過ぎ去った年月をいやでも突きつけられる。
だのにこの人の心は、十数年前のあの日からずっと、囚われつづけている……。
「洋一さんはね、死んでなんかいないの。ずっとずっと、ずうっと……生きつづけているのよ……」
ふふ、と笑い声を漏らした母の瞳に、自身の顔が映り込む。目蓋を見開くそのさまは、きっとなにかに慄いていた。
この人はもう、とっくに壊れてしまっていたのかもしれない。
◇
母との面会を終えた光洋は、ため息のおさまらぬままにF署へと車を走らせていた。
──昨晩、怜士の不可解な言動によって惑わされたことで、光洋は自身に課されていた仕事を失念してしまっていた。
真白の発言に関心が向けられていたことと、居眠りをしてしまったことへの後悔とともに、「悪いのは自分だから」と悪天候の中を億劫ながらに進んだ時には、すでに時刻は夕方を回ろうとしていた。
「まだなにかやることあるんですか。せっかくの非番なのに、鑑識もたいへんなんですね」
「きのうちょっと、やり忘れてたことがあって……」
当番の署員に「証拠品保管室を開けてほしい」と頼みに行った光洋を出迎えたのは、以前に取調べを担当した江波巡査長だった。
江波の声色に不満だとか面倒だとかのニュアンスが見られなかったことで安堵はしたが、結果彼の手をわずらわせていることに違いない。
「すみません」と頭を下げ、鍵を探す江波の背中を待つ。すると間もなく振り向いた彼の視線が、眼鏡越しにこちらの上から下までをじっと眺めてきたことで、光洋は首を傾げた。
「あの……なにか……?」
「あぁ、いや……ちょっと、気になったものですから」
「気になった?」
廊下を歩き出した江波に並び、疑問を投げかける。相変わらず彼はちらちらとこちらに意識を向けている様子で、なにか気にさわるようなことでもしただろうか、と要らぬ気を揉んでしまう。
向こう側から歩いてきた、おそらく泊まり込みでもしているのであろう署員と「お疲れさまです」と挨拶を交わしたあと、江波は不意に立ち止まって。
「……田之倉さんって、西原巡査部長と仲良いですよね」
思いがけない言葉に「えっ」と声が裏返った。
手首を揺らし、ちりちりと鍵を鳴らす江波の目つきはいたって平静そのものだ。ただ〝同僚として〟問うてきたのであろうが、唐突なそれに冷静さを欠いてはいないかと冷や汗がにじむ。
「うん、まぁ……良い、のかな? たぶん」
「家に泊まるのは、じゅうぶん仲が良いって言えると思いますけどね」
ふふ、と目を細めた江波に、こちらも引きつった笑みを返す。
「巡査部長って、ぼくらにはけっこう当たりが強くて……田之倉さんには違う顔を見せてるのかなーと思うと、ちょっと不思議で」
「……へぇ……」
再び歩を進めた江波の後ろにつづき、小さく相槌を漏らした。知らずして握り込んでいた手のひらを、ゆっくりと開く。
自分自身では怜士からの扱いを特別どうこう感じたことはなかったが、周囲から見てなにかが違うらしい、という事実を改めて聞かされるのはどうにもそわそわして落ち着かなかった。
廊下の突き当たりを過ぎたところで二人は立ち止まり、江波が保管室の扉へと向かう。
「じゃあ、ぼくはこれで。帰るときはまた声をかけてください」
解錠された保管室へと入り、光洋は何度も「すみません」と頭を下げた。
◇
自分以外にだれもない保管室は、古い換気扇の音だけが静けさを際立たせていた。
鑑識で鑑定した証拠品と、科捜研へ送る品々の整理に、逓送の準備。特に科捜研へは月曜日に送るから、絶対に準備を終わらせておかなければ。そう追われているうちに、いつの間にか夜は更けていた。
ふと、真白が言っていた〝濃淡の違い〟が思い浮かぶ。
彼は、どうしても気になって保管された証拠とサンプルを見比べた、と話していた。……本当に、違って見えるものだろうか。
棚の中から安斉の事件にまつわる箱を探すと、まだ目新しいそれはすぐに見つけられた。その中から例の口紅のサンプルと、現場で採取されたものとを手に取り、目の前で並べてみる。
「……うーん……」
やはり眼前であろうと、ライトに照らそうと、どんなに角度を変えてみようともまったく同じにしか見えなかった。いったい真白には、これがどのように見えているというのだろう。
いくら考えをめぐらせたところで答えは出ず、諦めて証拠品を箱へと戻した直後、ポケットの中でスマートフォンが鳴動した。画面には『姫路真白』とある。
「……もしもし?」
『あ、田之倉先輩! この前教えてもらったお店、行って来たんです!』
はずんだ声でそう報告する真白に、あぁそんな話をしていたっけ、と思い出す。
数ヶ月前の研修中、プラモデルを愛好していると話していた彼に、うわさ程度ではあったが「老舗の専門店があるらしい」と教えたのはごく最近である。機鑑隊のだれかに聞いたような気がしたが、光洋にとってはさしたる興味を惹かれる話題ではなかった。
それが可愛い後輩には有益な情報になったのならば、喜ばしいことだ。今日の買い物がよほど楽しかったのか、興奮気味に光洋へと感謝を告げる真白の声に、笑みがこぼれる。
『あの店長さん、けっこうお歳だからそろそろ店じまい考えてるらしくて。今日行けて良かったです』
「へえ、そうだったんだ。でも寮に置き場あるのか?」
『そこなんですよね……そろそろ積みプラ解消しないと、同室の人に占領したぶんだけ金取るぞって言われてて』
一人部屋じゃないのにそんなに買ったのか、といよいよ笑い声を漏らしてしまい、電話の向こうで『おれなんか変なこと言いました?』と焦った様子がうかがえる。
なんとなしに壁時計を見やるとすでに20時を回っていて、確か真白の住んでいる寮は門限が早かったな、と自身の寮暮らし時代に思いをはせた。
……そのときだった。
『多分また、うちの寮長がッ──』
不自然に、真白の言葉が途切れた。
直後、スピーカーから耳をつんざくような騒音。
「……真白?」
がたがたと、得体の知れぬ物音が響く。
はたと窓に視線を送れば、ガラスをつたい落ちるしずく。
──雨だ。今日は、雨の降る夜……。
「真白! おい真白返事しろ! なにがあった! 真白!」
いくら呼びかけようと、彼の声は返ってこない。
まさか……まさか。
今まで目にしてきた現場が、フラッシュバックする。
うす闇。ひと気のない路地に、アンダーパス。壁に描かれた、赤いシンボル……。
次の瞬間、光洋は保管室を飛び出していた。
真白の住む寮はF署からそう遠くはないはずだと、車を出す時間も惜しんで全力で駆け出す。
夜の雨の中、一度切った電話を再び鳴らす。
スニーカーが地面を蹴るたびに、跳ね上げた雨水が足元を濡らした。しかしそんなものに構ってなどいられず、徐々に近くなるコール音に耳を澄ます。
どこだ。どこにいる。
角を曲がり、警察の独身寮が何棟か連なり立つ道を照らす灯りを横目に、その向こうの暗がりへと。
焦りばかりが増していく中、街灯の途切れた暗闇の中に転がる青い傘と、白いビニール袋、そしてコール音を鳴らしながら光るスマートフォンが目に入った。
「──真白っ!」
お読み頂きありがとうございます!




