13話 紅の語るもの
宮島の死から、すでに二週間以上が経とうとしていた。
事件の被疑者は徹底して痕跡を残さぬよう行動しており、その足取りを追うのは非常に困難を極めている。
近隣住民に聴取しようにも、犯行現場はどこもひと気のない場所ばかり。ゆえに、防犯カメラのたぐいもほとんどない。仮にどこかに写り込んでいたとしても、まず被疑者がどこから来て、どこへ向かって行ったのかを推測しなければアタリをつけることも難しい。
結果として超広範囲にわたってカメラ映像を地道に調べるほかなく、捜査員たちの疲労は積もるばかりであった。
だが、ひとつ判明したこともある。宮島の遺体に付着していた微細な繊維片は、強力な撥水性を示すフィラメント繊維であった。つまりこれは、被疑者がレインコート等の防水性の高い衣類を身に着けていたことを意味する。
南城の殺害現場に残されたラバーブーツの痕跡に、レインコート、そしてスタンガン。ほぼ間違いなく、雨の日を狙った計画的な犯行であろうと結論づけられた。
喫緊の課題として、被疑者の割り出しと確保を可及的すみやかに行うべきであるのはもちろんだが、同時に〝被害者の共通点〟を解き明かすことも求められている。
被疑者がなんらかの秩序にもとづいてターゲットを定めているのであれば、さらなる被害者が増える可能性は十二分にある。それが判明すれば、未然に犯行を防ぐことができるのと同時に、おのずと被疑者にもつながる糸口がつかめるはずだ。
……しかしながら、そう容易に捜査が進むはずもなく。
次に雨の夜が訪れるのは、いつなのか。
いったいなにが、模倣犯を突き動かしているのか。
焦りばかりが増していく。
季節はすっかり夏の色を帯び、連日気温が30度を超える中、警察官たちは酷暑にあえぎながら捜査へと尽力する日々がつづいていた。
◇
「あの……田之倉先輩。ちょっとだけ、お時間いいですか?」
そう真白が耳打ちをしてきたのは、肌を刺すような夕日がかたむき始め、記録室の署員の姿もまばらになったころだった。
ちょうどそろそろ給湯室に向かおうかと思案していた光洋は、
「ん? なんかあったのか?」
不自然に思いながらも平素と変わらぬ調子でそう返すと、真白は身をかがめてやはり声をひそめつつ、
「ちょっとここでは話せないんですけど……」と周囲を気にしている様子で。
なにか言いにくいことを相談したいのだろうか、と。
ならば人目につかない場所へ行こうと、二人で連れ立ちF署のかたすみにある倉庫室へと移動した。
「いったいどうしたんだよ、急に」
倉庫室には日ごろから人が来ることはほとんどないのか、ほんのわずかな身動きで埃が立つ。カビと埃の混ざった匂いが充満する中、目の前に舞い上がるそれを手で払いながら、体躯に似合わずもじもじとうつむく真白へと問いかけた。
「えーっと……捜査資料で、気になるとこがあって……」
「捜査資料?」
首を傾げ見上げる光洋に、真白は言葉を探しているのか目を泳がせている。
「前に見た、あの赤いシンボルの写真なんですけど……」
気になることがあるのなら、率直に言えばいいものを。一体なにをためらう必要があるのかと訝しむこちらの視線を察してか、真白は小さく「す、すみません」とこぼしたあと、ふう、と息をついて顔を上げた。
「……サンプルとして提出された口紅の色と、現場で使われた口紅の色……あれ、別のものだと思うんです」
「……はっ?」
思いもよらぬ台詞に、素っ頓狂な声が出た。
即座に、幾度も資料で目をとおしてきた写真を思い浮かべる。記憶の限りではどう見ても、何回見ても同じ色だと思っていたし、なにより──
「そんなはずないだろ。あれはメーカーの協力もあって、品番まで特定してるんだぞ」
「そ、そうなんですけど……でも、よく見ると濃淡が微妙に違うんです」
「えぇ……?」
濃淡だって? と、光洋はあからさまに顔をしかめた。
いくら高精度な鑑識用カメラで撮影したものとは言え、パソコンの液晶画面上で、しかも撮影条件だってそれぞれ異なる。それで濃淡などと言われても、誤差の範囲内だろう。まして捜査員のだれもが、あれらの色味が同じであると信じて疑わないのだ。
そう伝えようとした矢先、さらに気まずそうに目を細めた真白は
「あのサンプルと採取した証拠……おれ一人のときに保管室に入って、実物を比較してみたんです」と、ひと息に言い放った。
保管室に入るのは特段おかしなことではないし、どうしても気になったから確かめずにはいられなかった、というのは同じ鑑識である以上、まったく理解できないことではない。
ただ、実物を見てみたからといって「じゃあそのとおりだ」と即答できるはずもなく、光洋は唸ったまま後輩を見上げるしかなかった。
「あ、でも。安斉が使っていた口紅と、模倣犯が使ってるものは多分同じ色です」
「……それは、週刊誌にもリークされたし……ネットでも〝呪いの口紅〟なんて変な名前で有名になってたって聞くし、なにもおかしなことじゃ……」
顎に手をやり思案していると、再びまごまごとこちらの表情をうかがっている真白に気づいた。まだなにかあるのかと、視線だけで促す。
「こっ……これ、他の人にはまだ言わないで欲しいんですけど……!」
◇
真白の告白を受けてもにわかには信じがたかった光洋は、数人の署員たちが残る記録室に戻ると、半信半疑ながら県警本部の佐伯に電話をかけてみることにした。
わずか数コールでそれに応じた佐伯は『めずらしいですね、先輩から電話なんて』と欠伸を噛み殺した様子で返答した。彼女は彼女で、本部での仕事に忙殺されているようだ。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
『なんですか?』
手もとに置いたメモに並ぶ情報を整理しつつ、なにをどう伝えるべきかとしばらくの逡巡ののち、言葉を選び尋ねた。
「安斉の口紅のことを調べてるんだけどさ、その……たとえば、同じ品番でも微妙に色味が違うとか、よくあることなのかなって」
『あぁ、ロットの話ですか? たしかにそういうの聞きますけど、正直素人目にはそんなのわかんないですよー』
笑いながらそう答えた佐伯は、直後に『あ、でも』となにか思い当たることがあったらしく、少し待つよう言うとキーボードを叩く音がうっすらと聞こえてきた。
『あー、ありました。ちょっとスマホに送りますね』
数秒ののちに、メッセージの通知。それをタップすると佐伯とのトーク画面が開き、そう古くはないニュース記事が出てきた。
いわく──
【若い女性に人気のデパコスブランド●●●。限定クリスマスコフレに理不尽なクレームか】
……そこに並ぶカタカナの文字列には頭が痛くなりそうだったが、書かれているブランド名はたしかに安斉のシンボルに使用されていたものと同じだ。
ニュースの内容を見るに、通常販売している人気カラーの口紅をクリスマス限定のセットにも同梱したが、通常商品とは色味が違うと主張する客がいて、メーカーとトラブルになった……という経緯らしい。
『一昨年のクリスマスだったかな、ちょっと話題になって。結局クレーマーの言いがかりってことで終わりそうだったんですけど、他にも何人か色が違うんじゃないかーって、賛同する人がいたみたいで……』
「……うん、そっか。わかった。ありがとう」
『えっ? 先輩、ちょっと──』
さらになにか言いたげな佐伯の言葉を待たずに、光洋は通話を終わらせた。
真白の告白と、佐伯からの情報。それらを総合し、徐々にあらわになっていくもの。
胸騒ぎのような、落ち着かない心持ちが、みぞおちの奥深くにぼたりと……黒く重たい層を成していく。
だがその積もる質量の正体は、未だベールに包まれ判然としなかった。
◇
刑事課の執務室でメーカーへの問い合わせをしようと決めた時には、サポート窓口はすでに時間外になっていた。
ならば明日、とカレンダーを確認するも今日は金曜で、これではあと二日はもどかしい思いをしながら過ごすことになってしまう。メールの問い合わせページにも土日祝祭日は対応していないとあり、お手上げだった。
気がつけば執務室はすっかり静まり返り、周りを見回すも光洋以外の署員は、あと数人を残すばかりになっていた。
時刻は20時半。遠く廊下の向こうからは、かすかに話し声や足音が聞こえてくる。おそらく捜査本部で泊まり込みをしている捜査員たちがいるのだろう。
自分もそろそろ帰るか、それともいっそ仮眠室に泊まってしまおうか……考えあぐねて椅子の背もたれに身をあずける。
ヤタガラス……安斉の、遺留品……口紅のロット……真白の……
「──まーた居残りしてんのか、優等生」
「うわっ」
突如かけられた声に飛び起きる。いつの間にか、目を閉じて居眠りをしていたらしい。すぐ背後には怜士が立っていて、二人を除いた他の署員は姿を消していた。
見上げた怜士の顔は、パソコンのバックライトに青白く照らされている。光洋を見下ろすその眼差しは、いつにも増して凪いでいるようだった。
「き、今日も泊まり込みか……?」
「……そうだな。その予定だ」
そう答えた怜士の瞳が、ちらと横にずれる。その視線の先には、メモ用紙があった。
真白から聞いた話と、佐伯からの……。
あっと思った時には怜士の手が小さなメモに伸びていたが、
「相変わらずきったねえ字。なに書いてんだかさっぱりわかんねー」と罵られ、紙片はデスクへと戻ってきた。
しばしば〝ミミズが這ったような字〟と称される自身の筆跡の酷さはこの歳にもなればとっくに諦めていたし、今さらそれに対して言い返す気にもなれなかった。
時計を確認すると21時を回っていて、ほんの一瞬の居眠りかと思ったが意外にもしっかりと眠ってしまっていたらしい。
今この時間なら、帰宅してしっかり睡眠を取るべきだろう。そう判断してパソコンをシャットダウンし、荷物を片付け始めた光洋の左肩に手のひらが添えられた。
「……怜士?」
振り向き見上げると、無表情な横顔が目に入る。
執務室の電灯は最低限にまで絞られ、窓から差し込んだ月明かりが怜士の鼻筋をすべっていく。彼の冷涼な相貌を際立たせるその光景に、思わず見入ってしまっていた。
男の意図が見えずしばしの沈黙を置いたころ。彼はこちらへと視線を向けたかと思うと、不意に身をかがめてきて。
動揺をおぼえた呼吸が怜士の鼻先に触れるが早いか、胸ぐらをがしりとつかまれ、デスクへと引き倒される。安っぽいオフィスチェアが床に転がり、にぶい金属音が執務室に響く。
「いっ……た……!」
倒されたはずみでデスクに置かれたなにかに後頭部を打ちつけたのか、するどい痛みが局所的に走った。同時に、硬い天板に押し付けられる背部もまた、骨がきしむような痛みを訴えている。
身じろいで抵抗しようにも、敵うはずがない。頑強さだけは刑事課随一と言われる、この男に。
そしてなにも語らず突然の暴挙に出た怜士は、案の定こちらの抵抗などものともせず。暗がりの中で見下ろしてくるその瞳には、これまでついぞ目にしたことのないゆらぎが宿っていた。
「なっ、なんなんだよ……!」と苦しさにあえぐ光洋にも構う様子はなく、男のうすい唇が小さく開かれる。
「……お前、今日……倉庫で、なにしてた?」
「っそ、倉庫……?」
それはつまり、夕方ごろの話だろうか。
真白に頼み込まれ、二人で席を外したときの……?
「あれは、真白にっ……相談があるって、言われて……」
息も絶え絶えにそう言い放つと、ふっと胸ぐらをつかんでいた手が離れていった。
解放され、咳き込みながら呼吸を整える光洋の眼前で、怜士はその手で顔を覆っている。先ほど垣間見た瞳をうかがうことはできない。
──けれどもあの行いは、反応は……。
それを表す言葉が浮かびそうで、また沈んで。
怜士は謝罪のひとことも言わず、足早に光洋の前から姿を消した。
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