20話 天秤の答え
「う、うそだ……うそだ、うそだ! ちがう、そんなはずない! 僕の父親は、父さんは……!」
ずっとこらえてどうにかせき止めていたものが、いつしか視界を曇らせていた。父を亡くしてから、けっして他人には見せるまいと、奥深くに押し込めていた涙が。
取り乱す光洋を、怜士はひたすらにおだやかな──〝無〟とも捉えうる面差しで、ただ見つめている。
その鼻筋に、ぱたりとしずくが落ちた。つづけざまに、ぽつりぽつりと水の落ちる音が静かに広がっていく。
「……お前が父親だと思っていた男は、赤の他人で。お前が殺したかもしれない男こそが、本当の父親だった」
「……ちが、う……」
「どうあがいても、それが真実なんだよ」
つぶやくような、ささやくようなその声が肩口へ落ちたかと思うと、腰のあたりでかちりと鳴って。抱き込むように背中に回された怜士の腕が、手錠の鍵を外したのだと理解した。
解放された両手が痺れるような痛みときしみを訴えて、苦悶に顔をしかめる。
戦慄く両手で髪を掻きむしりながら、頭の中ではありとあらゆる記憶が、思い出が、次から次へと浮かび上がってきていた。
父が自分に向けていた愛情は、父性はきっと本物だった。
けっして父との思い出は多くはない。それでも、自身のために尽くしてくれた事実は間違いなくあって、警察官を拝命して一番に喜んでくれたのは、父で……一緒に、捜査本部で働いて……。
そうして父への尊敬を胸にするかたわら、黒崎と母への憎悪や嫌悪にさいなまれていた。……そのどす黒い感情は、実父へと向けたものだった?
自分のせいで一人の人間が死んでしまったのだと、罪悪感に押しつぶされそうだった日々。……僕は、実父を殺したというのか……?
そうと自覚して尋常でない衝撃を受けたはずなのに、田之倉孝幸が実の父ではないと知ったはずなのに。
やはり光洋にとって代えがたい〝父〟は、黒崎ではあり得なかった。
同時に、怜士に聞かされた父の行いの数々が本当であるのならば、ぜったいに父を許してはならない。許されて良いはずがない。そう思うのに、どうしても信じられない──信じたくない。
でも、父がそんなことをしなければ……半井智美が亡くなることはなく、きっと怜士が罪を犯すこともなかった。被害者たちが、殺されることはなかった。
……僕が信じていたものは、なんだったんだ……?
おさまりそうにない心臓の鼓動に、吐きそうなほどの戸惑いの連続。身体を折って顔を伏せる背中に、半壊した屋根の隙間から降りそそぐ雨が染みこんでいく。
◇
「……さぁ、俺はすべてを話した。だから、」
ふと。怜士の口から語られたことに、欠けているものに気づく。
嗚咽をこらえてゆっくりと身体を起こし、
「まだ……まだ、だ」
怜士の言葉をさえぎると、ようやく彼の視線が揺らいだ。
むせかえるようなじっとりとした重い空気が、雨を孕んだ冷ややかなそれに塗り替えられていく。
「──どうして、真白を襲ったんだ」
怜士の、そして光洋の過去にも、真白は関係していないはずだった。
彼は同じ署内の同僚で、可愛がっている後輩で、それ以上でも以下でもない。真白をターゲットにした動機だけが、分からなかった。
そっと見上げると、一瞬だけ交差した視線はすぐにそらされた。唇を噛んだそのさまは、いつか光洋へと理不尽に苛立ちを向けられたときのそれに、よく似ている。
「……わからない」
「な……なんだよ、それ……理由も分からずに、殺そうとしたのか……!」
思わず怜士のシャツにつかみかかる。痺れの残る手のひらに常のような力は入らず、頑強な男はそれぐらいではびくともしなかった。
「……俺は……」
けれども、その強固さに反して、彼の内側ではなにかが傾いでいる。
音を紡ごうとしてはため息とともに散らしていくその口もとを見るに、今までシニカルな仮面の下にひた隠しにしてきたものが、一端をのぞかせようとしている……そんな気がしてならなかった。
つづく言葉を待っていると、胸ぐらをつかんでいた腕に、怜士の右手が添えられる。袖からあらわになった、火傷による引きつれが痛々しく残る肌。父の死を象徴する、彼自身に刻まれた記憶。
「──最後に、お前を殺して……俺も死のうと思っていた」
不意に漏らされた剣呑な計画に、知らずして眉が跳ね上がる。
だのに彼の口ぶりとは裏腹に、うつむきがちな表情におそろしげな色はうかがえなかった。
それどころか、筆舌に尽くしがたい苦しさを──切なげにも感じられる憂色をにじませるそれに、およそ憎悪からはかけ離れた感情が、全身に広がっていくのを感じる。
「いくらあのクズのように手を尽くしたところで、いずれは必ず俺へと捜査の手は伸びてくる。警察だって馬鹿じゃないことは、自分が一番よく知ってる。だから……」
いつの間にか力の抜けていた光洋の右手を、怜士は両の手のひらで握りしめた。触れる力は優しく、指先は冷えているはずなのに、どこか熱い。
「ぜったいに、ヘマなんかするつもりはなかった。完璧に成し遂げて、ぜんぶブッ壊してやるんだと……そう、思っていたのに……」
にぎり込まれた手のひらに、怜士はうつむいた額を寄せる。まるでなにかに祈るような、赦しを請うようなそのたたずまいが、腹の奥の重い泥濘に渦を巻く。胸のどこかで、聞き逃すことのできない音が鳴る。苦しくて、息が詰まる──
「……じゃあ、ここで僕を殺せばよかったじゃないか」
こぼした言葉に、怜士の肩がわずか、ゆれ動いたような気がした。
指先に触れる黒くまっすぐな髪から、光る雨粒がしたたり落ちる。
「被害者たちにしたように……僕を引きずり倒して、首をめった刺しにすればよかったんだ。お前の力には、どうせ僕は敵うわけがないんだから」
自分でも驚くほど不穏な提案をしておきながら、不思議と目の前の男をおそれる気持ちにはならなかった。だからこそ、そんな台詞が口をついたのだとも言える。
怜士は、黙したまま動かない。
お前は今、なにを思っている?
刻まれる呼吸に合わせて男の両肩が上下し、降りやまない雨音は静かに時間を止めているかのようにすら感じられる。
永遠かと錯覚する数秒ののち、怜士の額へと宛てがわれていた手のひらが、そっと下ろされて。
「……そうしようと、思っていた。あの男が大切にしてきたお前を、あいつが死んだ場所で殺して……それなのに、どうして俺は……!」
消え入りそうな、細い声。伏せられたままの彼の睫毛を、しずくがつたい落ちる。重なり合った二人の手のひらの境界に、ぱたりと沈んでいく。
再び見上げた視線が、宙空で怜士のそれとぶつかった。
雨が焼け落ちた屋根を、葉を叩く音はたしかに激しさを増している。反して、音もなく彼の相貌を照らした雷光に──そこに見出した揺らぎに。形容しがたいほどの痛みが、ひび割れた心に絡みつく。
「罪に……向き合おう、怜士。父さんたちがしたことを、赦してくれとは言わない。憎んだままでいいから、だから……」
「もう、無理だ。駄目なんだよ。逮捕されれば待っているのは死刑か無期懲役だ。俺にはもう、居場所なんて……どこにもないんだよ」
ひと息にそう言い放ち、枯れ果てた顔で笑う怜士の瞳に見とめた光るものは、果たして降りかかる雨粒であったのだろうか、と。
……だれもいない夕暮れの公園に、ひとり置き去りにされた少年の姿が浮かぶ。
大人たちから温もりを与えられることなく、憎しみによってがんじがらめにされ、孤独に苦しみをかかえて生きてきた彼の、本当の……。
もし、自分が彼の立場だったなら。同じように憎悪に身を焦がし、復讐に囚われて生きていたのかもしれない……そう考えると、心から彼の行いを糾弾しようなどとは到底思えなかった。
せめて、僕にだけでもすべてを打ち明けてくれたら。
その苦痛を、分け与えてくれたなら。
今とはちがう形で、となりに並ぶことができたかもしれないのに。
「……俺は、どこから間違ってたんだろうな。お前を傷つけるために、近づいたはずなのに……」
口の端を歪ませて独りごちる怜士の頬に、左手をそっと伸ばす。降りしきる雨に冷えた肌と肌が重なり、触れた箇所から熱が広がっていく。
彼の瞳に映し出された自分は、今にも泣きそうな顔をしていた。それは、見つめ合う彼もまた、同じで。
示し合わせることなんて、なにひとつなかった。
ただひと言「怜士」と漏れ出た音だけが、地を揺らすほどの豪雷にかき消されて、気がつけば触れ合った唇に呑み込まれていた。
互いの呼吸すらも奪い合うように、ただ熱を移し合うように乱暴なそれを、口づけと呼んで良いのかどうかも分からない。
二人をつなぎとめる雨粒ごと、重なる舌の温もりをもぜんぶ、ほどけないよう縫い合わせて。
背をかき抱く腕も、逃すまいと押さえつける手のひらも。熱くて、優しくて、痛い。
1ミリの隙間も許さない無言の語らいに、感覚が溶かされていく。
離れてしまえばすべてが雨の向こうに沈んでしまうのではと、言いようのない不安から目をそらして。すこしでも長く、今までよりもずっと近く。
言葉なんか、要らなかった。
すべてをしとどに濡らす土砂降りの残響だけが、二人を包んでいた。
◇
「これって……」
雨に濡れた灰が地に固まりこびりつき、黒と灰色の層を作り出した床の上。
同じく灰と泥のようなものにまみれた黒檀色のペンを手に取って、真白は怪訝そうに顔をしかめた。
鑑識作業服の上に羽織った雨衣など意味を成さないほどの激しい降雨の中、複数人の鑑識係と捜査員たちは、みな帽子から雨粒を滴らせている。
西原怜士と田之倉光洋との連絡が途絶えてから、そう時間は経っていなかった。
とりわけ怜士は職務中に〝いつものように〟単独でいずこかへふらりと消えていったため、F署の面々は「またか」とさして気にした様子もなかったのだという。
それというのも、彼はいつでも勝手な行いをしながらも彼なりの矜持に基づいているのを皆知っていたし、危険なことはしない程度の分別があると理解していたからだ。
事態が一変したのは、怜士が呼び出しの無線に応答せず、所在を調べたところ〝GPSの反応が署内から動いていない〟と判明してからである。
すわ一大事とばかりに署員が動き出し、スマホの位置情報を探った結果、最後の発信が確認されたのが安斉が死亡したガレージであった。
機鑑隊へも出動を要請したが、この土砂降りで各所での事故が相次ぎ「すぐには臨場できない」と一蹴され、結果、真白たちがいの一番に臨場することと相成った。
「どうだ姫路、なんかあったか」
「あ、これなんですけど……」
声をかけてきた今野に、拾い上げたペンを掲げてみせる。
「……田之倉のボールペンだな……」
彼もまた真白同様に眉をひそめ、よく見知ったであろうそれをしげしげと眺めた。
あまりにひどい雨に下足痕はほとんど採取できなかったが、その中にあって金色の刻印がなされた光洋のペンは、妙な存在感を放っていた。手袋で表面に付着した汚れを軽く拭ってみると、『K.Tanokura』というアルファベットが浮かび上がる。
「……ここの灰がついた足痕が、ごくわずかだが散見された。まだ確定じゃないが、おそらく西原巡査部長と田之倉じゃないかと思う」
ため息まじりにそう話した今野が視線だけをめぐらせたのを見て、真白もそれにならってあたりとぐるりと見回してみた。
焼け落ちた木々の匂いと、アスファルトから立ちのぼる湿気。穴だらけでかろうじてそこにあるだけの屋根を叩く、雨の不協和音。
「……先輩……いったい、どこに行っちゃったんですか……」
惑いに満ちた小さな問いは、だれに届くこともなく沈んでいった。
夏雨はいっこうに上がる気配なく、無慈悲に降りつづいている。
了
お読み頂きありがとうございました!
初の長編で、ミステリで、鑑識やら警察やらで、とにかく全てがむしゃらに書き切ったのを覚えています。
「とりあえず埋めた10万字」と言っても過言ではないほどの出来ですが、これを書き上げたことで欠点や失敗、改善点が見えたので……アンフィビアスは通過点として、ここに置いていきます。




