第09話 その顔で笑うのは反則です
「何を読んでいる」
声を掛けられ、クレアは顔を上げた。午後の執務室、窓の外では細かな雪が降り続き、暖炉の前にはいつものように薪が積まれている。クレアは最近、レオンの執務室の一角を借りて診療記録や古い資料を読むことが増えていた。理由は単純だった。自室より暖かい。それに、分からないことがあれば側近やレオンへすぐ聞ける。
「診療記録です」
「それは見れば分かる」
「でしたら聞かなくても」
レオンがこちらを見る。クレアも見返す。先に視線を逸らしたのはレオンだった。窓辺に積まれた書類の山は、この数日でさらに高くなっている。とはいえ、以前のように誰も寄せ付けない張り詰めた空気は、徐々に薄れているようだった。
「最近、随分言うようになったな」
「公爵様が話しかけるようになったのでは?」
「私のせいか」
「半分くらいは。残りは医師のせいです」
「やはり悪影響だ」
思わず口元が緩む。こんな会話をするようになるとは、北へ来た日に想像もしなかった。あの日のレオンは、人間とは思えないほど氷に覆われていた。近づくなと言い続けた。今も氷は戻っている。今日は右手の指先から手首近くまで白くなっていた。ただ、数日前より表情が増えた。食事も取る。仕事の合間に茶を飲む。時々、クレアへ話しかける。
「それで、何か分かったのか」
「まだ、ほとんど何も。以前の治療は薬や魔法ばかりですね」
「ほかに何を試せと言う。涙を落とす令嬢を探すわけにもいかないだろう」
クレアは思わず吹き出しかけた。
「……今、冗談を仰いましたか」
レオンの表情が止まる。
「違う」
「では本気で?」
「忘れろ」
「無理です。公爵様が冗談を言うとは思っていなかったので」
「言っていない」
耐えようとしたが、あまりにも真顔で否定するので余計に可笑しくなった。
「笑うな」
「笑っていません」
「笑っている」
「わずかにです」
肩が震える。レオンの眉間には皺が寄っている。けれど、本気で怒っているわけではないことは、もう分かるようになっていた。冗談とも言えない一言、それを必死に否定するレオン。数日前まで「氷の公爵」として恐れていた男が、今は真顔で言い訳をしている。その落差が可笑しかった。
「クレア」
「はい」
「もういい」
「すみません、だって」
そこで、ついに堪えられなくなった。声が漏れ、一度笑い始めると止まらない。何がそんなに可笑しいのか、自分でも分からなかった。とうとう目元に涙が滲んだ。笑いすぎたせいだ。クレアは指で拭おうとする。
「待て」
レオンの声が変わった。クレアも止まる。右目の端から落ちた涙が、ちょうど机へ置かれていたレオンの左手へ触れた。指先には薄い氷が戻っていたが、ほんの小さな範囲、白い霜が消えた。
「……今」
医師が呼ばれ、記録帳を抱えて入ってくる。
「笑って涙が出ました。その一滴が公爵様の手へ触れて」
「刺激薬では反応しなかった。悲しい記憶を思い出しても涙は出なかった。今回は意図して泣いたのではない、ですね」
医師はしばらく考え込む。
「昨日までの仮説を少し修正する必要がありますね。まだ断定はできませんが、公爵様が死ぬかもしれないという恐怖だけが条件ではなさそうです。悲しい涙ではなくても――感情が強く動いた時の涙、と考える方が近いかもしれません。ただし、まだ二例です。条件を決めつけるのは早い」
「試しますか。もう一度笑えば」
レオンと医師が同時にこちらを見る。
「却下だ」
あまりにも早かった。
「笑うことまで禁止なのですか」
「実験として笑わせるのは違う。それに、君が無理に泣くのは、悲しくても笑っていても同じだ」
あの実験の時と同じだった。意図して作る、役に立つために使う。そこへ戻るなと言っている。クレアはわずかに胸の奥が温かくなるのを感じた。あの日、実験の途中でレオンが止めてくれたことを思い出す。理由も方法も違うのに、根っこにある考え方は同じだった。
「分かりました」
「今日は反論しないのか」
「私も成長します。徐々にです」
医師と側近が出ていき、執務室に二人だけが残った。クレアは閉じていた診療記録をもう一度開こうとしたが、視線を感じた。
「何でしょう」
「いや」
「見ていました」
「見ていない」
「今、目が合いました」
「偶然だ」
また真顔だ。クレアは小さく笑う。
「また涙が出るかもしれません」
「笑うなとは言っていない。実験にするなと言った」
「難しいですね、公爵様との会話が」
「私もそう思う」
今度こそ、クレアは吹き出した。レオンも一瞬だけ口元を緩めた。
「今、笑いましたね」
「気のせいだ」
「最近そればかりですね」
不思議だった。呪いの話をしている最中なのに、こんなに普通の会話をしている。氷はまだある。原因も分からない。涙がなぜ反応するのかも分からない。それでも今だけは、少し楽しかった。
「公爵様。何がお好きか分からないと仰っていましたね。明日のことは決めないそうなので、今日食べたいものを決めてください」
レオンが少し黙る。
「急だな」
「今日のことなら決めてもよいのでしょう」
返事がない。クレアは待った。以前なら、答えがなければ勝手に必要なものを選んだかもしれない。今は違う。自分で選べと言われた。ならレオンにも選んでもらいたかった。
「……肉。昨日の」
「焼いたものですか」
「そうだ」
クレアは嬉しくなった。何でもない答えなのに、レオンが「食べたいもの」を自分で口にしたことが妙に嬉しい。
「厨房へ伝えます」
「君が?」
「はい、私が聞いたので」
立ち上がり、扉へ向かいかけたところで、背後から呼ばれた。
「クレア」
振り返る。レオンがこちらを見ている。何か言いかけて、止めたような顔だった。
「何でしょう」
「……いや。行ってこい」
仕方なく廊下へ出る。扉を閉める直前、何となくもう一度中を見た。レオンはまだこちらを見ていた。目が合う。今度は逸らさなかった。クレアの胸が、とくりと速くなる。理由を考える前に、レオンが僅かに眉を寄せた。
「何だ」
「いえ」
クレアは扉を閉めた。廊下を歩きながら、自分の頬が少し熱いことに気づく。笑ったせいだと思うことにした。だが執務室の中で、レオンが閉じた扉をしばらく見つめたまま動かなかったことを、クレアは知らなかった。
厨房へ向かう道すがら、すれ違った使用人がクレアの様子に気づいて、不思議そうな顔をした。頬が赤いのかと尋ねられ、クレアは「厨房が近いから暑いだけです」と、まだ辿り着いてもいない場所を理由にして誤魔化した。自分でも苦しい言い訳だと分かっていたが、それ以上の説明を考える気にはなれなかった。
夕食の時間、食堂に入ると、すでに席についていたレオンが、クレアの顔を見るなりごく僅かに表情を和らげた。羊肉の焼ける匂いが、食堂に満ちている。厨房番の使用人が、これまでで一番上機嫌な顔で皿を並べていた。
「今日は肉ですよ」
「分かっている」
「楽しみでしたか」
「そこまでは言っていない」
「では、少し?」
給仕の使用人が、二人のやり取りに気づかない振りをしながら、口元だけをかすかに緩めていた。城の中で、こうした軽いやり取りが交わされる食卓を見るのは、誰にとっても久しぶりのことだったのだろう。
「クレア」
また名前を呼ばれる。低い声。でも、もう怖くない。クレアは笑った。今度は涙は出なかった。それでいくぶん安心し、同時にほんのわずかに残念な気もした。自分でも、その理由は分からなかった。窓の外では、夕暮れの光が雪原を薄紅色に染めていた。
食後、皿を下げに来た使用人が、二人の間に流れる空気の変化に気づいたのか、いつもより丁寧に一礼して部屋を出ていった。クレアはその後ろ姿を見送りながら、今日という一日が、これまでとは少し違う速さで過ぎていったことに気づいた。原因も、解決も、まだ何も見えていない。それでも、この食卓の温度だけは、確かに変わり始めていた。
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