第10話 もう少しだけここに
「滞在の期限は、今日までだったな」
朝食の席でレオンがそう言った瞬間、クレアの手が止まった。窓の外では、夜のうちに降った雪が庭を白く埋め尽くしている。使用人たちが朝から雪かきを始めており、遠くで木のシャベルが石畳を擦る音がかすかに聞こえた。
「期限、ですか」
「最初に決めたものだ。忘れたのか」
言われて、ようやく思い出す。北へ来た初日、レオンは安全が確認でき次第、王都へ戻すと言っていた。その後、離縁を選べる契約を交わし、自分の意志で残ると決めた。だから、いつの間にか最初の期限のことを忘れていた。
「忘れていました」
「君は時々、大事なところで抜けているな」
「公爵様に言われたくありません。昨日も、医師に薬を飲むよう言われて忘れていたでしょう」
「忘れたわけではない。あとで飲むつもりだった」
「同じです」
レオンは返事をしなかった。最近は、こういうやり取りが増えている。数日前までは、話しかけるたびに一つ一つ言葉を選んでいたのに、今は考える前に口が動くようになっていた。それが嫌ではなく、むしろ楽だった。
「それで、約束通り今日出ることもできる」
「王都へ、ですか」
「望むなら。住居も護衛も、既に用意してある」
「本当に全部準備していたのですね」
残ることを決めた日に見た契約書を思い出す。あの時は、逃げ道を用意するためのものだと理解した。だが、本当にここまで整えていたとは思わなかった。答える代わりに、クレアはスープを口へ運んだ。温かい。この城へ来たばかりの頃は、食堂そのものがもっと寒かった気がする。実際に暖かくなったわけではない。レオンの氷はまだ戻るし、暖炉の火も完全には部屋を温めない。それでも、以前ほど寒く感じなくなっていた。
食事を終え、レオンが席を立つ間際、ふと思い出したように付け加えた。
「今日すぐ出られるのですか」
「天候次第では明日になるが、準備はできる」
「分かりました」
答えると、レオンの視線が少し止まった。
「それだけか」
「何がでしょう」
「いや」
またそれだった。何か言いかけて、やめる。最近のレオンには、そういう場面が少し増えていた。
朝食のあと、クレアは自室へ戻り、机の上の鞄を見つめた。まだ荷をほどいていないものもいくつか残っている。王都へ行くなら、準備はすぐにできる。衣服、書類、実家から持ってきた少ない私物、年配の侍女がくれた毛布。それだけだった。思ったより、荷物は少ない。
では、この城に残していくものは何だろうと、クレアは考えてみた。診療記録。古文書。執務室の一角に置いた自分の筆記具。最近使うようになった食堂の席。朝、厨房でよく出してもらう茶。それから――レオン。
そこまで数えて、クレアは手を止めた。人を「残したもの」に数えるのは違う気がして、つい可笑しくなり、鞄の蓋を閉じた。窓辺に立ち、雪に埋もれた城下の屋根を眺める。初めて歩いた町、公爵様を助けてくれるかと尋ねてきた子どもたち。涙の採取を「嫌です」と断った日。笑って流れた涙が氷を溶かした日。徐々に、何かが変わっていた。自分も、レオンも。
帰る理由を数えてみれば、悪くないものばかりだった。安全な暮らし、王都での生活、十分な財産、誰にも縛られない自由。むしろ条件だけを見れば、出ていく方が楽なのかもしれない。では、残る理由は何だろう。呪いのことを知りたい。北方のことも、まだほとんど知らない。そして――もうわずかに、この人が普通に笑うところを見ていたい。その最後の理由だけは、まだ自分の中でも上手く扱えずにいた。
昼過ぎ、クレアは執務室へ向かった。レオンは仕事をしており、顔を上げなかった。
「古い記録を、もう少し詳しく調べたいのです」
「好きにすればいい」
「今日出ていくとしたら、困りますか」
ペンが止まった。レオンは窓の外へ視線を向ける。
「呪いの調査は途中だ。診療記録も、古い資料も、まだ全部読んでいない」
「それは、仕事の話ですね」
「ほかに何がある」
「分かりません」
「なら聞くな」
素っ気ない答えだったが、以前ほど冷たくは聞こえなかった。役に立つから困る、と言われたわけではない。調査が途中だから、それだけかもしれない。けれど、以前なら「涙が必要だから」と言われたかもしれないと思うと、随分と違って聞こえた。
「レオン様」
その名を、クレアは自分から呼んだ。これまでは向こうから呼ばれるばかりだった名を、初めて自分の口から出してみた。
ペンを持つ手が止まる。レオンは顔を上げ、驚いたようにこちらを見た。
「何でしょう」
今度はクレアが聞き返す番だった。
「……いや」
珍しく、返事が遅い。
「呼んだだけです」
「そうか」
「はい」
「……そうか」
二度繰り返す様子が可笑しくて、クレアは小さく笑いそうになったが、堪えた。代わりに、もう一度だけ名を呼んでみる。
「レオン様」
「私、残ります」
「理由は」
また、それを聞かれる。前に同じ問いを受けた時は、答えに詰まった。今度は違う。
「呪いを調べたいからです。それに」
窓の外の雪、食堂、執務室――この城で見たものが、頭の中に浮かんでは消えていく。
「ここに、もう少しいたいのです。理由はまだ、上手く説明できません」
「もう少し、とはいつまでだ」
「期限を決めなければいけませんか」
「君は曖昧な契約を嫌うだろう」
「契約なら嫌います。でも、これは契約ではないのでしょう」
レオンが答えに詰まる。クレアは机の上に置かれた退出用の書類を指した。
「王都の住居も護衛も、今すぐ取り消さないでください。出ていく道があると分かったうえで、私はここに残りたいのです」
「いつでも選び直せるように、残しておけということか」
「はい。残ると決めたからこそ、逃げ道を消して覚悟を示すような真似はしたくありません」
「随分、言うようになったな」
「誰の影響でしょう」
「私ではない」
「では、側近様に感謝しておきます」
「それは納得できない」
初めて、レオンの方から引き止める気配が言葉の端に覗いた。クレアは笑わず、けれど聞かなかったふりもしなかった。
レオンは何も言わなかった。ただ、口元がわずかに緩んでいるのが分かった。
「君は時々、理屈が通っているようで通っていないな」
「では、公爵様はいつも理屈が通っていますか。明日の朝食も決めないのに」
レオンが黙る。効いた、とクレアは思った。
「……それを出すな」
「反論として、効きましたか」
「君は本当に」
言葉が途切れたところで、レオンがはっきりと笑った。今度は、隠しようのないほどはっきりと。クレアもつられて笑う。
「では、残ってもよいですか」
「私が決めることではない。君が決めたなら、それでいい」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。帰らなくていい、でも、残れ、でもない。君が決めたなら、それでいい。ただそれだけの言葉が、これほど嬉しく響くとは思わなかった。
夕食の席で、側近が「では、滞在の延長として書類を作り直します」と事務的に告げた。医師も記録帳に何か書き加えながら「引き続き、よろしくお願いします」とだけ言う。城の誰もが、それを当然のことのように受け止めていた。もしかすると、クレアが去る可能性など、誰も本気で考えていなかったのかもしれない。
側近は食事の締めくくりに、改まった様子で付け加えた。
「奥様がお残りになるとのこと、使用人一同、大変安堵しております。お越しになってからというもの、城の空気が随分と変わりましたので」
医師も頷きながら言葉を継いだ。
「診療記録の上でも、公爵様の状態は明らかに改善しています。数値だけの話ではなく、朝の顔つきからして違いますよ」
その言葉に、クレアは少し照れくさくなって視線を落とした。自分の存在が誰かの日常をこれほど変えているとは、実家にいた頃には想像もしなかったことだった。
食事のあと、中庭に面した回廊で、クレアはもう一度足を止めた。氷の張った噴水のそばに、レオンが立っている。近づいていくと、彼が振り返った。
「北へ来た当初は、誰もお前を引き止めなかったのだろう」
「はい」
「それでも、行けと言われれば行き、残れと言われれば残った。今回は、誰にも言われていない」
「はい」
「なら、それが答えだ」
夜風が二人の間を吹き抜け、噴水の氷がわずかに軋む音を立てた。クレアはその音を、これまでとは違う意味を持つものとして聞いていた。
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