第11話 あなたの冬を知りたい
「これは、いつ頃からですか」
翌朝、クレアは診療記録の一頁を指で押さえた。書庫と違い、診察室には常に暖炉が焚かれていて、指先が悴む心配はなかった。覗き込んだ医師が答える。
「最初の凍結記録ですね。右手人差し指の先端に、原因不明の凍結。痛みなし、外傷なし。魔力異常、軽度。日付は数年前――公爵様がまだ二十代半ばの頃です」
「この前に、大きな病気や怪我は」
「ありません。ただ、その直前に大きな吹雪がありました。北方では珍しくないのですが、その年は特に酷かった。複数の集落が雪に閉ざされ、道路も途絶え、救援も難しかったそうです」
「死者は」
医師はすぐには答えなかった。
「出ました」
それ以上は語らない。クレアも無理に聞かなかった。食卓でレオンが「明日のことは決めない」と言った時と同じ感覚があった。触れれば何かがある。だが今はまだ、開くべきではない扉のように思えた。
記録を閉じ、クレアはしばらくその場に座ったまま、数字の羅列を目で追い続けた。実家で帳簿を扱っていた頃からの癖で、分からないものを見ると、すぐに答えを探したくなる。数字が合わない、契約が噛み合わない、原因があるなら見つける。それで大抵の問題は解決してきた。しかし、人の抱える傷は違う。本人が話したくないなら、記録だけでは埋められないと分かっていても、指先はまだ頁の上を彷徨っていた。
「その直後から、凍り始めたのですね」
「はい。最初は指先だけでした。数週間後には手の甲、さらに腕。薬も魔力治療も、高熱も低温も、魔力遮断も試しましたが、大きな効果はありませんでした」
「本人に、心当たりは」
医師が黙る。その沈黙で、クレアは気づいた。
「あるのですね」
「私から申し上げることではありません」
医師はそう言って、それ以上は語らなかった。長年この城に仕えてきた者としての節度なのか、あるいは本人にしか語れない領分だと弁えているのか、クレアには判断がつかなかった。
記録を閉じ、クレアは書庫へ向かった。側近に頼み、普段あまり開けられない棚を見せてもらう。北方の歴代当主が残した資料が並ぶ中に、一冊だけ違う装丁の本があった。表紙に公爵家の紋章。中には古い儀式や魔法についての記述がある。
書庫は城の中でも一段と冷え込む場所だった。窓は小さく、日中でもわずかな光しか入らない。分厚い外套を羽織り、指先に息を吹きかけながら頁をめくる。もとより魔力に乏しい自分にできることは限られていたが、こうして地道に調べることくらいは、誰に頼まれなくてもできた。役に立ちたいからではなく、知りたいからだと、クレアは自分の中でその違いをはっきり意識するようになっていた。
ページのところどころは文字が薄れていたが、同じ言葉が何度も繰り返し現れた。冬守り、誓約、土地の魔力。
「冬守りの誓約――ご存じですか」
側近の表情がわずかに変わった。
「名だけです。北方公爵家の当主が、土地を守る際に用いた古い儀式だと聞いています」
「今も使われているものですか」
「今では、詳しい手順を知る者がおりません」
「公爵様は、この記録をご存じなのですか」
「知っておられます」
「では、吹雪の後にこれを使った可能性は」
側近は答えなかった。皆、何かを知っている。けれど、レオン本人が話さない限り、誰も口を割ろうとしない。クレアは礼を言って本を借り受け、しばらく一人でその場に残った。破れたページの断面を指でなぞりながら、これまでの出来事を頭の中で整理してみる。大吹雪、複数集落の遭難、そこから始まった呪い。そして「冬守りの誓約」という古い魔法体系。断片同士は繋がりそうで、まだどこか噛み合わない。答えに近づいているはずなのに、輪郭だけが霧の向こうに霞んでいるような感覚だった。
午後、クレアは古い本を抱えて執務室へ向かった。扉を叩き、中へ入る。レオンの右手の氷は、今日は手首を越えているように見えた。
「お話があります」
古い本を机に置く。
「冬守りの誓約」
レオンの目が止まった。ほんの一瞬だったが、それだけで十分だった。知っている。深く。
「これは何ですか」
「古い魔法だ」
「使ったことは」
「ない」
即答だった。けれど、速すぎた。
「数年前の吹雪のあとから、凍結が始まっています。その吹雪で死者が出た」
「医師から聞いたのか」
「記録にもあります」
「なら、それ以上聞く必要はない」
声が硬くなる。クレアは一度黙り、それから短く答えた。
「分かりました。今は、これ以上お聞きしません」
レオンが少し驚いたような顔をした。
「聞かないのか」
「レオン様が話したくないなら。でも、私は調べます」
「なぜ」
「知りたいからです。呪いのことだけではありません」
レオンを見る。
「あなたが、なぜ明日のことを決めないのかも。私は、あなたの冬を知りたいのです」
上手く言葉にできず、それだけを口にした。
「何だ、それは」
「上手く言えません。でも、今のレオン様だけを見ても、分からないことが多すぎます」
氷、食事、明日を決めないこと、城下へ出なくなったこと、吹雪、古い誓約。全部が一本の線なのかどうかも、まだ分からない。
「知らない方がいいこともある」
低い声だった。
「そうかもしれません。それでも、決めるのは私です」
残ることを決めた日に言われた言葉を、そのまま返す。レオンが苦い顔をした。
「使い方を覚えたな」
「便利です」
「そういうために言ったんじゃない」
「知っています」
わずかに空気が緩んだが、レオンの目はまだ遠かった。
「今日はここまでにしろ」
「分かりました」
本を抱えて扉へ向かうと、背後から呼び止められた。
「クレア」
振り返る。
「その記録を読むなら、古い余白も見ろ。昔の書記官は、本文より余白に本音を書く」
それだけだった。それでも、完全に拒絶したわけではない。教えてくれたという事実が、何より嬉しかった。
書庫へ戻り、言われた通り一頁ずつ余白を確認していく。古い書き込み、数字、修正、誰かの名前。手の甲に息を吹きかけながら、根気強く頁をめくり続けた。日が傾き始めた頃、侍女が温かい茶を運んできた。書庫にこもりきりのクレアを見かねてのことらしい。
「旦那様のことを調べていらっしゃるのですね。私がこの城に来た頃には、もう旦那様は氷を纏っておられました。昔の旦那様を知る者は、もうほとんど残っておりません」
「離れていった、ということですか」
「怖かったのだと思います。呪われた方にお仕えすることが。責めることはできません」
侍女はそれだけ言うと、一礼して静かに書庫を出て行った。残された茶の湯気だけが、しばらく冷たい空気の中に細く立ち上っていた。クレアはその湯気を見つめながら、この城で長く生きてきた者たちの孤独に、ほんのわずかに触れた気がした。
何冊目かの終わり近く、本文とは明らかに違う筆跡で、後の時代に書き足されたような小さな文字を見つけた。
――永冬の誓い。
冬守りではない。永冬。指先が止まる。その二つの言葉が何を意味するのか、まだ何も分からない。けれど、レオンが語りたがらない過去と、この四文字の間に、何か決定的な繋がりがある気がしてならなかった。
窓の外では、夕暮れの光が書庫の埃を薄く照らし、やがてゆっくりと沈んでいった。クレアはその一文を記録帳へ書き写しながら、この城に来て初めて、明確な目的を持って何かを調べていることに気づいた。呪いを解くためだけではない。ただ、この人のことを、もっと深く知りたいという、それだけの理由だった。
書き写した文字を、もう一度指でなぞる。永冬の誓い。誰かに問うても、答えは返ってこないだろう。それでも、この四文字を見つけたことを、今はまだ誰にも言わずにおこうと思った。答えに近づくには、もう少し時間がいる気がした。
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