第12話 怖かったのはあなたが死ぬこと
「雪崩です!」
扉が開くなり、側近が声を上げた。朝の執務室で、クレアは古い記録を開いていた。レオンは報告書へ目を通していたが、その一言で立ち上がる。
「場所は」
「北東の街道です。荷馬車が数台巻き込まれ、近くの集落から救援要請が」
「規模は」
「大規模とのことです」
「怪我人は」
「まだ、確認中です」
「人数は」
「不明です」
側近が一瞬ためらった。
「何人ほど、巻き込まれたと」
「はっきりとは、分かりません。ですが、多くはないかと」
「急ぐぞ」
「今日は、お身体の氷が」
クレアもレオンの右腕を見る。今朝から凍結が強く、指先だけでなく手首から肘近くまで白い氷が戻っていた。ここ数日では一番広い。
「大丈夫だ」
「大丈夫、という顔ではありません」
「行くしかない」
「行く」
「ですが」
「雪崩なら、遅れれば死ぬ」
反論できない。側近も口を閉じた。
「せめて、護衛だけでも」
「時間の無駄だ」
「しかし」
「行くぞ」
「私も行きます」
レオンの目がこちらへ向く。
「駄目だ。危険だ」
「公爵様が倒れた時、誰も近づけない可能性があります。初めてお会いした夜、近づけたのは私だけでした」
一瞬、全員が黙った。
「危険は承知しています」
「承知しているなら、なおさら駄目だ」
「だから行きます」
「それを理由にするな」
「では、心配だからです」
自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。レオンがわずかに目を見開く。
「……勝手にしろ」
「許可ですか」
「違う。止めても来る顔をしている」
「分かって、いただけて嬉しいです」
「軽口を叩く余裕があるなら、心配はいらないな」
外へ出ると、雪が強くなっていた。馬車では時間がかかるため、途中までは馬で進む。クレアは乗馬に慣れていなかったが、弱音を吐く暇はなかった。風が顔を叩き、白い景色が続く。レオンは先頭を進み、氷に覆われた腕で手綱を握りながら、何度かクレアの方を振り返った。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
短いやり取りが、何度か繰り返された。
側近と医師はやや遅れて別の馬に乗り、荷物と薬箱を運んでいた。誰も言葉を発さない。ただ馬の蹄が雪を蹴る音と、風の唸る音だけが、しばらく三人の間を埋めていた。
雪崩の現場は斜面の下だった。道の半分以上が雪に埋もれ、荷馬車の車輪が一部だけ覗いている。人々が必死に雪を掘っていた。
「公爵様!」
領民が駆け寄る。
「どうか、お助けを」
「まだ息はあるはずです」
レオンは馬を降り、雪へ手を当てた。白い光が雪の下へ走る。凍らせるためではなく、雪を固め、崩れないよう支えるための力だった。周囲に集まった人々の顔に、恐れと同時に、確かな希望の色が浮かぶのをクレアは見た。
「今のうちに掘れ」
人々が動く。雪がまた崩れそうになると、レオンは反対側へ手を伸ばし、斜面の一部を固定した。そのたびに、彼自身の腕の氷も広がっていく。
「公爵様、これ以上は」
医師が声を上げる。
「まだ一人いる」
「お身体が」
「知っている」
一人、また一人と、雪の中から人が引き出されていく。最後に、声が小さく、遠く聞こえた。子どもの声だった。レオンが目を閉じ、もう一度手を雪へ当てる。今度は、氷が肩まで一気に広がった。
側近が青ざめた顔で立ち尽くし、医師はすぐに駆け寄ろうとしたが、レオンの周囲に広がる冷気を見て、一瞬足を止めた。誰も踏み込めない距離だった。それでも、クレアの足は自然と前へ出ていた。
「やめてください!」
クレアは思わず叫んだ。だが、レオンは止まらなかった。
「まだいる」
「でも」
「生きている」
「なら、急いでください」
「分かっている」
雪が軋み、斜面が止まる。人々が掘り、最後の一人――ぐったりした子どもが引き上げられた。周囲から安堵の声が上がる。クレアも息を吐いた。その瞬間、レオンの身体が大きく揺れた。
「レオン様?」
返事がない。右腕だけでなく、肩、首、頬にまで、白い氷が一気に広がっていく。初めて倒れた時より、明らかに速かった。医師が駆け寄ろうとして、その速さに息を呑んだ。
「離れろ」
レオンが低く言い、クレアを見た。
「来るな」
胸が締め付けられる。あの時も同じだった。近づくな、離れろ。けれど、今は違う。あの時はこの人をほとんど知らなかった。今は知っている。温かいスープを好むようになったことも、真顔で冗談を否定することも、城下の人々を守り続けてきたことも。名前を呼ばれると、わずかに返事が遅れることも。そのどれもが、この一月の間にクレアの中へ積み重なってきたものだった。今さら、それを見なかったことにはできなかった。
「レオン様」
クレアは歩き出した。
「来るな」
「嫌です」
王都から涙の採取を求められた日に覚えた言葉だった。嫌だから、それだけで言える。あの時よりも、もっと強く、もっと迷いなくその言葉が口から出た。雪の上に膝をつく。冷たさは気にならなかった。レオンの氷が胸元へ近づいている。呼吸が浅い。
「先生! 最初の発作と同じなら、涙が」
「意図して出しても効きません!」
分かっている。診察室で、無理に泣いても駄目だと確かめた。笑い泣きした時には、強く感情が動いた涙だけが力を持つと分かった。けれど、泣こうとすると出ない。悲しいこと、怖いこと、何か思い浮かべようとするほど、涙は遠のいていく。焦りだけが募った。
「泣かなければ」
思わず口に出してしまい、すぐに気づく。それでは駄目だ。役に立つために、道具として使おうとしている。レオンが一番嫌がったことだった。
「それは、違う」
掠れた声で、レオンが遮った。
「泣かなくていい。ただ、生きていてくれれば」
「クレア」
掠れた声。目はまだ開いている。
「戻れ」
「嫌です」
「死ぬぞ」
その一言で、何かが弾けた。レオンが死ぬ。その可能性が、初めて言葉になって胸に落ちてきた。呪いが怖いのではない。氷が怖いのでもない。自分が凍ることでもない。この人がいなくなる。明日の朝、食卓にいない。執務室で名前を呼ばれない。真顔で冗談を否定しない。それが、ただ嫌だった。
視界が滲む。今度は、泣こうとしていなかった。勝手に涙が溢れ、頬を伝う。一滴が、レオンの頬へ落ちた。白い氷が音もなく消えていく。触れるたびに、これまでのどの回復よりも速く氷が引いていくのを、クレアは自分の目で確かめていた。
「……っ」
医師が息を呑んだ。もう一滴、今度は首筋へ。氷が退いていく。クレアは震える手で、レオンの頬に触れた。温度が、徐々に戻ってくる。
「レオン様」
呼ぶと、灰色の目がこちらを見た。
「なぜ、私のためにそこまで泣く」
クレアは答えられなかった。自分でも、分からない。いや――分かり始めているのかもしれない。けれど、それを言葉にするには、まだ早すぎる気がした。
「分かりません」
正直に答える。涙がまた落ちた。
「ただ、怖かったのです」
「何が」
クレアはレオンを見た。氷ではない。呪いでもない。自分が傷つくことでもない。
「あなたが、死ぬことが」
声が震えた。それが、今言葉にできる精一杯の答えだった。ただ、なぜこれほどまでに怖かったのか、その奥にあるものまでは、自分でもまだ名づけられずにいた。
「私が、死ねば」
「言わないでください」
「もし、そうなれば、君は」
「聞きたくありません」
クレアは強く首を振った。
医師が静かに近づき、脈と呼吸を確かめてから、小さく息を吐いた。
「峠は越えたようです。ですが、しばらくは安静に」
「良かった」
声が、震えていた。
その言葉に、その場の空気がわずかに緩んだ。側近も、こらえていたものを一度に吐き出すように、深く長い息をついた。レオンは何も言わず、弱い力でクレアの手首に触れた。
「……そうか」
それだけだった。周囲の音が遠くなる。雪、風、人々の声。ただ、触れている頬の温度だけが確かだった。
「クレア」
「はい」
「すまなかった」
「謝らないでください。無事なら、それでいいのです」
「次からは、置いていく」
「嫌です。次も、行きます」
「頑固だな」
「レオン様ほどでは、ありません」
レオンは何も言わず、ただ小さく息を吐いた。それが、了承なのか、諦めなのか、クレアには分からなかった。
やがて、遅れて駆けつけた集落の者たちが、無事だった住民の名を一人ずつ数え始めた。誰かが感謝の声を上げ、それに応えるように別の誰かがすすり泣いた。クレアはレオンの手を握ったまま、しばらく雪の上に座り込んでいた。
「全員、いるか」
掠れた声でレオンが問うと、集落の男が何度も頷いた。
「はい。荷馬車の者も、子どもたちも。全員おります」
「怪我人を先に運べ。私のことは後でいい」
「その言い方はやめてください」
クレアが握る手に力を込める。
「公爵様も怪我人です」
「私は動ける」
「先ほどまで息もしていなかった方の言葉とは思えません」
「していた」
「私には、そう見えませんでした」
レオンは言い返しかけ、クレアの赤い目元を見て口を閉じた。
「……怖かったのか」
「雪崩が、ではありません」
「なら、何が」
答えようとすると、胸の奥がまた締めつけられる。クレアは彼の手を離さず、ようやく言葉にした。
「あなたが、このまま死んでしまうことです」
レオンの指が、握られた手の中でかすかに動いた。
先ほどまで頬を叩いていた冷たい風が、今は嘘のように止んでいる。人々の声は、まだそこにあるはずなのに、まるで分厚い布の向こうから聞こえてくるように遠かった。手のひらに伝わるレオンの体温だけが、この瞬間の唯一確かな手がかりだった。
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