第13話 答えられない理由
「まだ痛みますか」
雪崩から戻った翌朝、クレアは診察室の長椅子に座るレオンへ尋ねた。窓の外では、昨日とは打って変わって穏やかな雪が降っている。あれほど激しかった風も収まり、城の屋根や中庭には新しい雪が厚く積もっていた。
「痛くはない」
「その割には、右腕がまた白くなっています」
昨日、クレアの涙によって肩や首筋まで広がっていた氷は大きく退いたものの、完全には消えていない。指先から手首へ、白いものが徐々に戻ってきていた。
「身体が重い程度だ」
「それを元気とは言いません」
「元気だとは言っていない」
「似たようなものです」
医師が横で小さく咳払いをした。
「お二人とも、診察中です」
「私は何もしていません」
「公爵様が『問題ない』の一言で済ませようとなさるので、こちらが困っております」
「実際、問題ない」
「昨日倒れられた方の言葉とは思えません」
レオンが面倒そうに視線を逸らす。クレアはそれを見ながら、昨日のことを思い出していた。あなたが、死ぬことが怖かった。あの場では、それ以上考える余裕がなかった。だが城へ戻り、一晩眠って朝を迎えてしまうと、言ってしまった言葉だけが妙に鮮明に残っている。なぜ、それほど怖かったのか。答えはまだ出ていなかった。
診察を終えて廊下に出ると、医師が追いかけてきた。
「クレア様も、少しお休みになった方がよろしいかと」
「私は平気です。それより、峠の集落から運ばれた方々は」
「重傷の方が三名。今は城の別棟で手当てをしております。人手が足りず、侍女たちも駆り出されているところです」
クレアは自分の脚がまだ震えていることに気づいた。誰かを支えられるような状態ではない。ただ、何もせず部屋に戻ることが落ち着かず、結局は包帯を運ぶ手伝いだけを申し出て、日が暮れるまで別棟を行き来した。その夜、自室に戻ってからも、レオンの問いだけが耳の奥から離れなかった。書庫で見つけた「永冬の誓い」という四文字も、頭の片隅に引っかかったままだった。あの言葉と、昨日の涙の反応と、何か繋がりがあるのだろうか。今は考える余裕がない。それでも、忘れないでおこうと、記録帳に書き写した文字をもう一度目でなぞった。
「奥様。昨日の涙について、少し確認したいことがございます」
医師に呼ばれ、クレアは顔を上げた。記録帳を開きながら、医師は淡々と続ける。
「以前、公爵様が命の危険に晒された時にも、涙で氷が大きく退いたことがありました。今回も同様です。悲しみだけでなく、強い恐れや安堵が伴った時に、反応が特に大きくなる傾向があるようです」
「それは、なぜですか」
「はっきりとは、まだ申し上げられません。涙の量や成分の問題ではなさそうだ、というところまでしか」
医師はそれ以上を語らず、道具を片付け始めた。何かを見つけかけているが、確信までは至っていない。そのもどかしさが、横顔からも伝わってきた。診察はそれで終わり、医師も側近も書類を取りに部屋を出て行った。二人だけが残る。
「クレア」
呼ばれて足が止まる。
「昨日の、あれは」
また同じ問いだと分かった。なぜ、私のためにそこまで泣く。昨日も聞かれ、答えられなかった。
「まだ分かりません」
正直に言うと、レオンの目がわずかに細くなった。
「一晩考えても」
「考えました。それでも」
クレアは自分の手を見た。昨日、雪の上でレオンの頬に触れた手だ。冷たかったのが、次第に温度を取り戻していく感覚を、まだはっきり覚えている。
「死んでほしくないと思いました。それ以上は、まだ言葉にできません」
理由を並べようとすれば、いくらでも並べられる気がした。領主だから。優しくしてくれたから。守ってくれたから。けれど、そのどれか一つだけでは、どうしても足りない気がした。
「理由が必要ですか」
「私は聞いたが」
少し間があった。
「答えられないなら、それでいい。無理に作るな」
その一言に、クレアは肩の力が抜けるのを感じた。無理に泣くな、無理に痛みに耐えるな。これまでも、そうやって言われてきた。今度は、無理に答えを作るなと言われている。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではない」
「では、言いません」
「もう言っただろう」
わずかに笑いそうになる。レオンも、ほんの僅かに口元を動かした。
その日の午後、クレアは執務室で古い記録を読み、レオンは向かいの机で報告書に目を通していた。以前なら、同じ部屋で無言の時間が続けば緊張したかもしれない。今は違う。紙を捲る音、ペン先の音、暖炉で薪が弾ける音。それだけで十分だった。
「クレア」
「はい」
顔を上げる。レオンがこちらを見ていた。
「何でしょう」
「……いや」
「またですか。最近、それが多いですね」
「気のせいだ」
「便利な言葉ですね」
また資料に戻る。けれど数分後、ふと顔を上げると、また視線が合った。今度はレオンの方が先に逸らした。
「私、何か変ですか」
「見ていない」
「先ほども目が合いました」
「偶然だ」
「二度目です」
「偶然は二度起きる」
「三度目なら」
レオンが黙った。少し可笑しくなる。
「では、今度から数えておきます」
「やめろ」
真顔だった。以前、頬を撫でる冗談で笑い泣きさせてしまった時と同じ焦り方だと、クレアは思った。今度は笑わなかった。その代わり、胸の奥が妙に落ち着かなかった。見られているというだけのことを、どうしてこんなに意識してしまうのだろう。
夕方、書庫から戻る途中、廊下の窓辺で雪を眺めていると、背後から足音がした。振り返るとレオンだった。
「こんなところで何をしている」
「雪を見ていました」
「寒いだろう」
答えた直後、レオンの視線がクレアの手に落ちた。手袋をしていない。書庫で細かな文字を読むために外したまま、持ってくるのを忘れていた。
「手を見せろ」
差し出すと、指先が赤くなっている。レオンの眉間に皺が寄った。
「なぜ手袋をしない」
「文字が捲りにくくて」
言いながら、レオンは自分の右手を止めた。その手には、まだ氷が残っている。温めようとしても、今は逆に冷たいままだ。一瞬、そのことに気づいた顔が曇った。クレアも気づいたが、何か言う前に、レオンが外套を脱いでいた。
「着ろ」
「レオン様」
「いいから」
厚い外套が肩にかけられる。レオン自身が今まで着ていたせいで、内側にはわずかな温度が残っていた。首元には彼の匂いもする。クレアは急に、息の仕方が分からなくなった。
「私は大丈夫です」
「手が冷たい」
「レオン様の方が」
「私はいつも冷たい」
あまりに淡々と言われて、返す言葉を失った。
「昔から、そうやって涙を我慢する質だったのか」
唐突な問いに、クレアは手を止めた。
「なぜ、そう思われるのですか」
「あの日以外、お前が泣くところを見たことがない。雪崩の時でさえ、自分のために泣くことはなかった」
図星だった。幼い頃、人前で泣いて嘲笑われた記憶が、今も胸の底にこびりついている。それ以来、涙は誰かに見られてはいけないものになった。なのに、レオンの前でだけは、その堰が壊れる。理由を聞かれても答えられないのは、ここでも同じだった。
「昔のことは、あまり話したくありません」
「無理に聞くつもりはない」
レオンはそれ以上踏み込まなかった。二人で歩き出すと、廊下の途中で側近とすれ違った。クレアが外套を着ているのを見て、一瞬だけ目が止まる。けれど何も言わず、深く頭を下げて通り過ぎていった。その反応が、なぜか気恥ずかしい。
自室へ戻り、外套を脱いで返そうとすると、レオンは首を振った。
「明日の朝まで持っていろ」
「もう部屋は暖かいです」
「手が戻るまでだ」
「医師みたいですね」
「誰のせいだと思っている」
わずかに笑ってしまう。レオンも目を細めた。扉が閉じたあと、クレアはしばらく外套を抱えたまま立っていた。なぜ死ぬことが怖かったのか。なぜ目で追われると落ち着かないのか。なぜ外套を掛けられただけで、こんなに胸が速くなるのか。答えはまだ出ない。それでも、答えられないことそのものが、以前ほど怖くなくなっていた。外套に残るわずかな温度に指を触れる。それだけで、また胸の奥がじんわりと熱くなった。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




