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第14話 名前を呼んで

「公爵様、こちらの書類ですが」


そう呼んだ瞬間、レオンの手が止まった。


「今、何と呼んだ」


「公爵様、と」


「なぜだ」


「公爵様だからですが」


「それは分かっている」


執務室には二人しかいなかった。側近は領内の確認に出ており、医師も診察を終えて別室へ戻っている。最近では、クレアがここで記録を読むことも珍しくなくなっていた。


「前は名前で呼んだだろう」


言われて、クレアは瞬きをした。残ると決めた日と、雪崩の時。確かに「レオン様」と呼んだ。


「必要な時には呼んでいます」


「必要な時とは」


「緊急の時や、二人で話している時など」


「今も二人だ」


「そうですね」


「なら」


そこでレオンが口を閉じた。何を言いたいのか分かりそうで、分からない。


「公爵様」


もう一度呼ぶと、眉間に皺が寄った。今度ははっきりと不満げだった。


「嫌なのですか」


「嫌というほどではない」


「では」


「ただ、君にそう呼ばれると、遠い」


クレアの胸が、一瞬止まったような気がした。遠い。たった二文字が、想像していたよりずっと重く響いた。


「公爵様と呼ぶと、遠いのですか」


「そうだ。ほかの者は皆そう呼ぶ。君は違う」


即答だった。レオンも、自分で言ってから少し表情を硬くしている。


「では、これから普段も名前で呼べばいいのですね」


レオンは一度窓の外に目をやった。雲の切れ間から、薄い光が差している。


「……そうしてくれ」


声が思ったより小さかった。これまでも呼んだことはある。だが「これから普段も」と決めた途端、急に意味が変わる気がした。


「分かりました」


一度息を吸う。


「レオン様」


返事がない。レオンは目を逸らしたままだった。


「レオン様」


「聞こえている」


「返事をしてください」


「何の用だ」


「呼んだだけです」


「確認です」


「何の」


「ちゃんと呼べるかどうかの」


「もう二度呼んだ」


「では、大丈夫ですね」


少し笑うと、レオンもほんの僅かに口元を緩めた。廊下から漏れる誰かの足音が遠ざかっていくまで、二人ともそれ以上何も言わなかった。


昼食の席でも、クレアは意識して名前を使った。


「レオン様、スープは」


匙を持つ手が一瞬止まる。


「……食べる」


「今日は野菜が多いそうです」


「そうか」


向かいにいた側近が、何も言わずに二人を見た。医師も一瞬、眉を上げる。やはり、普段から名前で呼ぶのは、今までとは違う空気を作るらしい。


「何でしょう」


側近に尋ねると、絶対に何かあるという顔で「何もございません」とだけ返ってきた。レオンが低く「見るな」と言うと、側近はすぐに視線を皿へ戻した。医師が咳払いをして「食事中です」とだけ告げる。クレアは口元を押さえ、レオンも少し目を伏せた。


食事の後、庭を横切る渡り廊下で、若い使用人二人がすれ違いざまに小声で話しているのが聞こえた。


「今日、旦那様のお名前を呼んでいらしたわね」


「クレア様が来られてから、旦那様も随分変わられたもの」


聞こえていないふりをして通り過ぎたが、耳の先が熱くなるのを感じた。城の人々の間で、自分たちの変化がどう見られているのか、初めて具体的に意識した瞬間だった。


午後、クレアは書庫へ向かい、昨日借りていた本を返し、新しい記録を探した。高い棚の上に目的の冊子が見える。踏み台に乗り、手を伸ばす。あと少し、指先が背表紙に届いた瞬間、踏み台がわずかにぐらついた。


「危ない」


背後から腕を掴まれる。振り返るとレオンだった。


「どうしてここに」


「側近に、書類を取りに来いと言われた」


腕はまだ掴まれたままだった。近い。クレアは急にそれを意識した。レオンの左手は人間の肌に戻っている。その手が、肘の少し上を支えていた。


「降りろ。私が取る」


「でも」


「落ちるよりいい」


渋々踏み台を降りると、レオンが代わりに手を伸ばし、簡単に冊子へ届かせた。渡される瞬間、指先が触れた。ほんの一瞬だったが、クレアの胸が小さく跳ねる。レオンも一瞬止まったように見えたが、すぐに手を離した。


「ほかには」


「大丈夫です」


「レオン様」


呼び止めると、今度はすぐに振り返った。クレアは思わず笑ってしまう。


「今日は、返事が早いですね」


レオンが気まずそうに眉を寄せる。


「呼ばれたからだ」


「名前で」


「……そうだ」


たったそれだけのことが、なぜか嬉しかった。理由はまだ、考えないことにした。窓の外では、昼の光が雪原を白く照らしている。書庫を出るとき、レオンの後ろ姿を見送りながら、クレアはしばらくその場に立ち尽くしていた。


孤児院へ配る毛布の数を確認する用事で、その足で倉庫へ向かうことになった。積み上げられた木箱の埃を払いながら、二人で数を読み上げていく作業は、意外なほど気詰まりではなかった。


「五十二枚。思ったより余裕がありますね」


「今年は雪崩の分、余分に用意させていた」


「それは、レオン様が」


「私ではない。管理を任せている者の判断だ」


そう言いながらも、指示を出したのが誰なのか、クレアには何となく察しがついた。詳しく聞いても、決して認めないだろう。


夜、レオンは珍しく書類仕事の手を止め、暖炉のそばで椅子に深く座り込んでいた。


「今日は、随分早くお仕事を終えられたのですね」


「終わらせたわけではない。放り出しただけだ」


クレアは向かいに腰を下ろした。暖炉の火が爆ぜる音だけが、しばらく部屋に響いていた。沈黙は嫌ではなかった。言葉を探さなくてもいい時間があることに、むしろ安心すら覚えていた。


「レオン様」


炉の火が揺れる。返事がなかった。


「レオン様」


もう一度呼んでも、彼は黙ったままだった。目を見開き、視線をクレアに向けたきり言葉を失っている。耳の先が、暖炉の熱のせいだけではないだろう赤みを帯びていた。


「聞こえていますか」


「……ああ」


「返事が遅いです」


「今、考えていた」


「何をです」


「別に」


明らかにはぐらかされたが、それ以上は追及しなかった。命令にも危機にも決して顔色を変えないレオンが、たった二音の呼びかけにこれほど反応するとは思わなかった。


「もう一度、呼んでみてもいいですか」


「……好きにしろ」


「レオン様」


「……ああ」


三度目にして、ようやく返事らしい返事が返ってきた。それでいて、その顔はまだどこか呆けたようで、いつもの冷静な公爵の表情ではなかった。身体の距離よりも先に、何かがずっと近くなっている。クレアはそのことに、初めて気づいた。


「お前も、私を名で呼ばれるだけで、そのように驚くことがあるのか」


「試したことがないので、分かりません」


「試すな」


言葉とは裏腹に、その声に拒む響きはなかった。クレアは暖炉の火に照らされたレオンの横顔を、しばらくの間ただ見つめていた。


「昔から、名前を呼ばれることが苦手だったのですか」


「呼ばれる相手が、限られていたからだ」


その一言に、クレアは何かを察した。呪われて以来、レオンの名を親しく呼ぶ者は、ほとんどいなかったのだろう。側近でさえ「旦那様」と呼ぶ。家族の話も、これまで一度も聞いたことがなかった。


「昔は、誰が呼んでいたのですか」


レオンはしばらく黙っていた。答えないつもりかと思った頃、ようやく低い声が返ってきた。


「母だ。父は、公爵としての名で呼んだが、母だけは違った」


「今は」


「もういない。私が十四の時に」


短い言葉だった。それ以上を語る気配はなかったが、拒んでいるようにも聞こえなかった。クレアは何も言わず、ただ隣に座り続けた。詳しい事情を聞き出すことよりも、今はこの沈黙を守る方が大事だと感じた。


「それから、私の名を呼ぶ者は減った。呪いを受けてからは、なおさらだ」


「寂しかったですか」


「考えたこともなかった。名などなくても、公爵として振る舞えれば、それでいいと思っていた」


「今も、そう思いますか」


レオンは、しばらく炎を見つめていた。


「……分からなくなってきた」


その答えに、クレアの胸がわずかに温かくなった。分からない、という言葉は、以前のレオンなら決して口にしなかったはずだった。何もかも決めつけ、動じないふりを続けていた人が、たった一つの呼びかけで揺らいでいる。それが、少しだけ誇らしくもあった。


「私が呼んでも、よろしいのですか」


「今更、聞くことか」


「聞いておかないと、また明日から公爵様に戻すかもしれません」


「それは、困る」


思いのほか早い返事に、クレアは思わず笑ってしまった。レオンは気まずそうに視線を炎へ戻したが、耳の赤みはまだ引いていなかった。


その夜、部屋に戻ってからも、クレアは自分の口の中に残る「レオン」という響きを何度も確かめていた。呼び慣れない名前は、それでも呼ぶたびに、徐々に自分の声にしっくりと馴染んでいくようだった。

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