第15話 帰ってこいという手紙
その手紙が届いたのは、朝の空気がまだ白く凍りついている時間だった。
「クレア様に、実家から書状が」
侍女から差し出された封筒には、見覚えのある家紋の封蝋が押されていた。差出人は父。実家を出て以来、一度も便りをよこさなかった相手からの、初めての手紙だった。
差し出された瞬間、指先が硬くなる。破って捨ててしまいたい気持ちと、無視できない何かとの間で、しばらく手が止まった。結局、執務室でレオンの前で開くことにした。
『北方でお前の力が役に立っていると聞いた。伯爵家の娘として、その力を家のために使うのが当然だ。すぐに戻れ』
「無能」と呼び、追い出した娘に対する言葉とは思えないほど、あからさまな態度の変わりようだった。けれど、問題はその先にあった。
『公爵家との婚姻についても、こちらで改めて調整する。先方にも、一時的にお前を実家へ戻すよう話を通す』
クレアは指先で紙の端を押さえたまま、しばらく動けなかった。実家にいた頃の記憶が、じわりと蘇る。妹が刺繍の腕を褒められる隣で、自分は帳簿の誤りを指摘されるばかりだった。「お前は魔力もない、愛想もない、ただ数字が読めるだけの娘だ」。そう吐き捨てられた言葉は、今でもはっきりと耳に残っている。その父が、涙の力を知った途端に態度を変えたことは、驚きでも失望でもなく、ただ深く冷たいものとして胸に落ちてきた。
「随分と勝手ですね」
側近が言う。
「昔からです」
自分でも驚くほど、淡々と答えられた。以前なら、父の命令を読むだけで身体が固くなったかもしれない。今は怒りより先に、乾いた違和感がある。
「どうする」
レオンが尋ねた。
「戻りません。ですが、婚姻のことまで一方的に書かれるのは、看過できません」
「君が決めろ。私は、何も言わない」
「本当に、何も言わないのですか」
「言えば、君が自分で選んだことにならなくなる」
その言葉に、クレアは胸の奥が少し軋むのを感じた。以前のレオンなら、こうまで自制しなかったかもしれない。今の彼は、クレアの意志を尊重することを、何より大事にしようとしている。だからこそ、余計に答えを急がずにはいられなかった。
机に紙を広げ、震えそうになる手を押さえながら、一文字ずつ言葉を綴っていく。
『戻りません。私は自分の意志で北方に残っています。今後、私の居所や婚姻について、私の同意なく決めないでください』
書き終えた手紙を封じる間、レオンは何も言わずに見守っていた。急かすことも、止めることもしない。その沈黙が、かえってクレアの背中を押していた。署名を書き終え、侍女に手紙を託す。以前なら、父を説得しようと長々と理由を並べていたかもしれない。だが今は、それが必要だとは思わなかった。父が納得するかどうかは、自分の人生を決める条件ではない。
「君は、呼び戻されたことをどう思っている」
レオンが尋ねる。
「腹は立ちます。それに、少し悲しいのかもしれません」
自分でも意外な言葉だった。声に出して初めて、その感情の輪郭がはっきりした気がした。
「戻りたいわけではありません。ただ、父は私の価値を認めたわけではなく、ただ利用できると気づいただけです。それが、やはり少し悲しいのだと思います」
「でも、戻らない」
「はい。それとこれとは、別の話です」
レオンの目が僅かに和らぐ。慰めもせず、父が間違っていると長々と言うこともしない。その距離感が、クレアにはありがたかった。この城に来る前は、誰かに気持ちを分かってもらおうと期待すること自体、とうに諦めていたはずだった。
昼を過ぎた頃、側近が慌ただしく執務室へ入ってきた。
「公爵様、南側から入る予定だった穀物と塩、灯油の輸送便について、商会から契約条件の変更申し入れがありました」
「理由は」
「輸送路の危険増大、と」
冬の街道と雪崩を理由にすること自体は不自然ではない。けれど、クレアは差し出された書類に目を通し、ふと手を止めた。
「この商会は、去年も同じ道を使っています。実家の帳簿で見たことがあります。父の代から、うちと取引のあった商会です」
「条件は、どこが変わった」
レオンに問われ、クレアは書面を卓へ広げた。
「運賃は二倍。さらに遅延時の損失をすべて公爵家が負うとあります」
「雪道を理由にするなら、去年も同じ条件のはずだ」
「ええ。しかも塩と灯油だけ、契約期間が一月短い。冬の終わりを待たずに再交渉できます」
側近が条文を読み、顔をしかめた。
「断れば困る品ばかりを選び、受け入れても春前にもう一度締め上げるつもりですか」
「恐らく。父は帳簿を読みませんが、相手の弱い場所を使うことには慣れています」
「君も、よく分かっているな」
「何年も、その弱い場所を埋める側でしたから」
口にしてから、クレアは初めて気づいた。家で押しつけられていた仕事は、父の失敗を隠すだけの雑務ではない。こうして誰かの意図を読み、次の手を考えるための経験になっている。
「北西の商会へ、同じ品の在庫を照会してください。量が足りなければ、一社ではなく三社に分けます」
「運賃は上がるぞ」
「ですが、一社に止められて全量を失うことはありません」
レオンは側近を見た。
「彼女の案で調べろ。今日中に返答を」
「かしこまりました」
レオンの目つきが鋭くなる。実家からの手紙が届いたのと、ほぼ同じ時期に条件変更の申し入れが来たことは、偶然にしては重なりすぎていた。
「私を、取り戻すための材料にするつもりでしょうか」
「まだ断定はできない。だが、調べさせる」
「調べさせろ。相手方の商会に、どこから圧力がかかっているのか」
「かしこまりました」
側近が退室した後、部屋にはしばらく重い沈黙が落ちた。窓の外に降り積もる雪の音さえ聞こえるような静けさだった。もし本当に父の差し金だとすれば、実家はクレアを取り戻すために、公爵領の冬越しそのものを人質に取ろうとしていることになる。
「私が戻れば」
「それ以上言うな」
レオンの声が低くなる。
「君を取引材料にする時点で、相手が間違っている。君を差し出して解決する話ではない」
薬の代わりに涙を差し出そうとした時も、痛みに耐えて役に立とうとした時も、同じように止められてきた。今度も同じだった。完全に納得したわけではない。物資が止まれば、人が困るという事実は重い。それでも、自分を差し出す以外の方法を、まず考えてみようと思った。
「北西経由の小さな商会に、心当たりがあります。取扱量は少ないですが、今年は契約が続いているはずです」
「調べておけ」
「はい」
昔、実家で誰にも評価されなかった帳簿仕事が、今ここで役に立つかもしれない。そのことに小さな手応えを覚えながらも、クレアはかつてレオンにかけられた言葉を思い出していた。役に立たなければ価値がないわけではない。そのことも、忘れたくなかった。
夕方、側近が再び戻ってきた。今度の表情は、先ほどよりも硬い。
「公爵様、たった今、冬越し用の輸送便が一便、途中で止まったとの報告が」
部屋の温度が、一段と下がった気がした。窓の外では、白い息が凍りつくほどの寒風が吹き付けている。クレアは自分の返事が届く前に、既に事態が動き出していたことを悟った。父の圧力は、思っていたよりずっと早く、この地に届き始めている。
「レオン様」
「……分かっている」
短く答えたレオンの横顔には、これまでにない緊張が浮かんでいた。クレアは自分の手紙が、思っていたよりずっと大きな波紋を呼んでしまったことを、その場で静かに悟った。
その夜、クレアは自室の窓辺で、遠くの街道に灯る輸送隊の松明の列を眺めていた。本来なら、今頃はもっと多くの荷馬車が北へ向かっているはずだった。止まった一便のことを思うと、胸の奥がざわついて眠れそうになかった。
扉が小さく叩かれ、レオンが顔を覗かせた。
「起きていたのか」
「眠れなくて」
「私も、同じだ」
レオンは窓辺に歩み寄り、クレアの隣に立った。二人の視線の先には、変わらず白い雪原が広がっている。
「後悔しているか。あの手紙を書いたことを」
「いいえ」
即答だった。自分でも驚くほど、迷いはなかった。
「戻らないと決めたことに、後悔はありません。ただ、私の決断が、皆様を巻き込んでしまったことは」
「巻き込んだのは、君の父親だ。君ではない」
「明日、王都へ人をやる。父君が、どこまで手を回しているのか調べさせる」
同じ言葉を、レオンは繰り返した。何度でも、そう言い聞かせるつもりのように。窓辺に並んで立つ二人の吐く息が、白く重なっては消えていく。これから何が起きるのか、まだ誰にも分からなかった。それでも、隣に立つ人の存在だけが、今の自分を支えていることは確かだった。
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