第16話 無能がいなくなった家
「伯爵家の帳簿が、崩れているそうです」
朝一番に執務室へ入ってきた側近の報告に、クレアは手にしていた輸送契約書から顔を上げた。
「崩れている、とは」
「支払い遅延が三件。商会との更新漏れが二件。さらに、春先の種子購入で二重発注が見つかったとのことです」
一瞬、意味が分からなかった。実家では、どれも起きてはならないことだった。種子の二重発注など、在庫と作付面積を照らし合わせれば避けられる初歩的な誤りだ。
「誰からの情報ですか」
「王都へ確認に出した者からです。商会側へ事情を聞いたところ、伯爵家との取引に問題が増えている、と」
レオンが書類を置いた。
「君が抜けた影響か」
クレアは答える前にしばらく考えた。自分がいなくなったから。そう言えば簡単だ。だが伯爵家はそれなりの規模の家で、自分一人が抜けただけで、すぐに全てが崩れるはずはなかった。
「私が担当していた仕事ではあります。支払日程の確認、商会ごとの更新期限、倉庫在庫、使用人への冬季手当、それから農地ごとの購入量です」
側近の顔がわずかに引きつった。
「かなりありますね」
「皆、やりたがらなかったので。最終確認は父がしていましたが、内容を見ていたかどうかまでは分かりません」
レオンは何も言わなかった。ただ、その目がすこし冷たくなった。
「伯爵家側は、新たな管理担当を置いたと商会には説明しているようですが、問い合わせへの返答も遅れているそうです」
クレアは机に広げた北方の帳簿を見つめた。実家を出て、まだそれほど長くは経っていない。けれど積み重なっていた仕事は、すでに小さな歪みを生んでいる。嬉しいわけではない。ざまあみろとも思わない。ただ、無能と呼ばれていた自分が消えた結果、初めて見えるものがあることに、奇妙な気持ちになった。
窓の外では朝から降り続く雪が、中庭を白く埋めていく。屋根の雪を落とす音が、遠くから間隔をおいて響いていた。実家にいた頃の冬は、こうした音を気にする余裕さえなかった。帳簿と請求書に追われ、外の景色を眺めることもほとんどなかったように思う。
「北方への圧力は」
レオンが尋ねる。
「続いています。昨日止まった便に加え、もう一社から次回更新の保留連絡が。表向きは雪害と輸送コストですが、二社とも王都で伯爵家と長く取引しています」
断定はできない。ただ、偶然と言い切るには重なりすぎている。
「備蓄は」
「穀物は三か月分。塩は少し余裕があります。灯油と薬品は、今のままなら二か月ほど」
「冬はまだ長い」
クレアが言うと、部屋の空気が重くなった。城下だけではない。山間の集落もある。雪崩が起きれば道は止まる。一つの便が止まるだけならまだ対応できるが、二つ三つと続けば話は変わる。
「私が戻れば」
言いかけて、レオンの視線がすぐに来る。自分を差し出せば。その言葉が形になる前に、クレアはそれを飲み込んだ。
「……いえ。別の方法を考えます」
レオンの目がわずかに和らいだ。
「そうしろ」
午前中、クレアは側近と共に城の地下にある備蓄庫へ向かった。石造りの階段を降りるたびに、外の寒さとは違う、乾いた冷たさが肌を刺す。松明の灯りが、積み重なった木箱の影を壁一面に長く伸ばしていた。穀物袋、塩樽、乾燥肉、薬品箱。帳簿上では知っていた数を、実物で確かめていく。壁際に積まれた木箱の陰では、使用人が数人がかりで在庫の入れ替えをしていた。誰も、クレアが手伝いを申し出るとは思っていなかったのか、驚いた顔で頭を下げてくる。
「この豆は、思ったより多いですね」
「去年の収穫が良かったので」
「麦粉の代替に、一部使えます」
側近が目を見張った。
「パンに、ですか」
「全部ではありません。粉にして混ぜれば、穀物の消費を少し落とせます」
昼、厨房で試作した豆粉入りのパンが食堂へ運ばれてきた。レオンも呼ばれている。
「これは何だ」
「非常時の試作です。今の穀物備蓄を、少しでも延ばせないかと」
レオンがパンを割り、一口食べる。
「……固い」
「分かっています」
「味も、少し」
「分かっています」
「なら、なぜ出した」
「食べられるかどうかの確認です」
医師が横で一口かじり、首を傾げた。
「食べられなくはありません」
「褒めていませんね」
側近が笑いを堪えている。レオンはもう一口食べた。
「非常時なら十分だ。ただし、毎日は嫌だ」
思わずクレアは笑ってしまった。
「では、もっと美味しくできるよう厨房にお願いしましょう」
午後は過去の輸送経路を洗い直した。大きな商会ばかりを見るのをやめ、小さな商会、領内の馬車隊、北西の街道、山越えの細い道にまで目を向ける。量は少なく、効率も悪い。とはいえ、ゼロではなかった。
「北西経由で、毎年少量の塩を運んでいる商会があります。規模が小さい分、伯爵家の影響も薄いかもしれません」
「量が足りません」
「一社では。でも三社なら」
側近が黙り込む。それから、レオンを見た。
「公爵様」
「私を見るな」
レオンはクレアを見ていた。
「続けろ」
夕方になる頃には、机の上が紙で埋まっていた。小さな経路、代替品、備蓄、優先順位。まだ完成していないが、道は見え始めていた。
「クレア。一度休め」
「あと少しです」
「そう言って、もう一時間経った」
「数えていたのですか」
「見れば分かる」
以前にも似た言葉を聞いたことがある。クレアは少し笑って立ち上がったが、ずっと座っていたせいで脚が痺れていた。指先も、蝋燭の灯りの下でずっと羽根ペンを握っていたせいで、うっすらと白くなっている。一歩踏み出したところで、膝がわずかに崩れる。
レオンが反射的に腕を伸ばした。支えられる。
「ほら見ろ」
「少し痺れただけです」
「それを休めと言っている」
素直に「分かりました」と答えると、レオンが意外そうな顔をした。支えられた腕から伝わる冷たさに、クレアはしばらく身を任せていた。以前なら、こうして誰かに寄りかかることすら躊躇っていただろう。今は、それを恥ずかしいとは思わなかった。
その直後、側近が新しい報告書を持って戻ってきた。
「伯爵家の件です。支払い遅延を理由に、一社が取引停止を通告。使用人への冬季手当も、一部遅れているとのことです」
クレアの指が止まった。それは、自分が出発前に引き継いだ仕事だった。一覧も残した。期日も書いた。なのに守られなかった。
「父は」
「責任は、新しい管理担当にあると主張しているようです」
思わず息が漏れる。やはり、自分がいなくなっても父は変わらない。誰かのせいにして、自分の判断は間違っていないと思い続ける。実家にいた頃、何度この繰り返しを見てきただろうか。失敗の責任を誰かへ押し付け、自分だけは正しいという顔を崩さない。その姿を思い出すだけで、胸の奥に古い疲労感が蘇った。
「クレア。大丈夫か」
「悲しいです。でも」
机に広げた北方の帳簿へ視線を戻す。
「今は、こちらを先に考えます」
実家が崩れることより、ここで暮らす人たちの冬。その方が、今の自分にとって大事だった。クレアは再び椅子へ座り、新しい紙を一枚取り出す。蝋燭の灯りが揺れ、机の上に散らばった帳簿の影を長く伸ばしていた。
「この道が使えないなら」
北西の経路へ線を引く。
「別の道を作ればいいのです」
窓の外では、いつの間にか雪がやみ、雲の切れ間から淡い月明かりが差し込んでいた。まだ何も解決していない。それでも、真っ白な紙の上に引いた一本の線が、確かな出発点になる気がした。
指先はまだ冷たかったが、羽根ペンを持ち直すと、不思議と迷いは消えていた。実家にいた頃なら、失敗の後始末はいつも誰かに押し付けられ、自分の判断で何かを決めることなど許されなかった。今は違う。線を引くのも、それを消して引き直すのも、すべて自分の手に委ねられている。その重さは、思っていたよりずっと心地よいものだった。
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