第08話 私は治療道具ではありません
「王都から使者が参りました」
その報告が入ったのは、クレアが診療記録を読み始めて三日目の朝だった。古い記録を確認しても、レオンのように身体そのものが氷に覆われた例は見つからない。薬も治療法も、ほとんど効果がなかったという記述ばかりだった。唯一大きく変化したのが、自分の涙だった。だからこそ、王都にも情報が届いたのだろう。
執務室へ呼ばれると、机の前に側近が立っていた。その手には、王都の封蝋が押された厚い書状がある。
「内容は」
「私がいてはいけませんか」
クレアが尋ねると、レオンは即答した。
「いや。本人に関する話なら、本人の前で読め」
側近が封を切り、読み上げる。
「公爵様の凍結症状に著しい改善が確認されたとの報告を受け、原因となった伯爵令嬢クレア殿の涙について、定期的な採取および記録を行うよう――」
そこでレオンが片手を上げた。
「待て。原因となった?」
「書面には、そのように」
「続きを」
「一定量を保存し、王都へ送付すること。また、可能であれば毎日決まった時間に採取し、公爵様への使用結果を詳細に報告すること、とあります」
部屋が静かになった。毎日、決まった時間に、涙を採り、保存して送る。先日の実験を思い出す。目への刺激、悲しい記憶、針。どれも反応しなかった。
「それは無理です。意図して流した涙では反応しません」
「その点については、報告済みです」
医師が横から答える。今日はこの件のために呼ばれていたらしい。
「それでも採取するのですか」
「研究のため、ということでしょう」
自分の涙が、瓶へ入れられて王都へ送られる。妙な感じだった。嫌かと聞かれれば、すぐには答えられない。ここへ来たばかりの自分なら、役に立つ可能性があるならやればいいと思っただろう。今も、その考えが完全に消えたわけではない。
「どうしますか」
レオンの声に、クレアは顔を上げた。
「私が決めてよいのですか」
「君の涙だ」
その答えに、わずかに胸が詰まる。
「王都の命令では」
「命令ではない。要請だ」
側近が微妙な顔をした。
「かなり強い要請ですが」
「要請は要請だ」
レオンは書状へ手を伸ばし、一通り目を通した。読み進めるにつれ、表情が冷たくなっていく。
「痛みを与えてでも採取せよ、と書いてあるな」
クレアが思わず側近を見る。側近は黙った。レオンは書状を机へ置く。
「医師。意図的な涙は反応しなかったな」
「現時点では。純粋な研究資料としてなら意味はありますが、公爵様の治療という意味では何とも」
「分かった」
レオンはペンを取った。
「公爵様、断るのですか。私が答える前に」
ペンが止まった。レオンがこちらを見る。
「先ほど、私が決めてよいと」
「そう言った」
「なら、しばらく考えます」
レオンは意外そうな顔をしたが、ペンを置いた。急かさない。そのことが、今では以前ほど不思議ではなくなっていた。
クレアは書状を自分でも読ませてもらった。国家的に貴重な症例、解明すれば多くの人々の利益になる可能性、北方公爵の身体を救うため――どれも、もっともらしい言葉が並んでいる。そして最後の方に、小さく書いてあった。必要量を得るため、心理的刺激または軽度の身体的刺激を用いることも検討されたい。
指先が止まった。診察室で針を刺した時の痛みを思い出した。大したものではなかった。だから、あれくらいなら何度でも耐えられる。そう考えたところで、自分の中に別の声が浮かぶ。耐えられるかどうかで、やることを決めるな。レオンの言葉だった。
クレアはしばらく紙を見つめた。
「嫌です」
自分の口から出た言葉に、自分が一番驚いた。レオンが何も言わず待っている。
「私は、このやり方は嫌です」
必要かどうかでもない。役に立つかでもない。できるかでもない。嫌だから嫌だ。たったそれだけ。胸が少し速く鳴った。こんな簡単な言葉を口にすることが、なぜこんなに難しいのだろう。実家では、嫌だという感情を口にした瞬間、我儘だと切り捨てられてきた。誰かの都合より自分の感情を優先することが許されなかった日々の記憶が、一瞬だけ胸をよぎった。それでも、今の自分は口にできた。それだけで、何かが変わった気がした。
「分かった」
レオンが書状を引き寄せ、今度は迷わず返答を書き始めた。
「何と書くのですか」
「本人が拒否した。それから、今後、本人の同意なしに採取を求める文書は受け取らない」
「公爵様、同意があれば採取を認める、と読まれませんか」
医師が控えめに指摘すると、レオンの筆が止まった。
「では、どう書く」
「採取の可否だけでなく、方法と目的をその都度説明し、撤回も認めるべきです。最初に同意したから最後まで続けろ、では意味がありません」
「私は途中で嫌になっても、やめてよいのですか」
クレアが問うと、医師は当然のことのように頷いた。
「もちろんです。昨日は受け入れられたことが、今日は嫌になる場合もございます」
「理由を説明できなくても?」
「嫌だという意思に、立派な理由は要りません」
レオンは新しい紙を取り、先ほどの文面を最初から書き直した。
「王都が長いと文句を言いそうだな」
「短くすると、都合よく読まれます」
「なら、読めなくなるほど明確にしてやろう」
側近がため息をつきながらも、新しい文面を覗き込む。その顔には、呆れより確かな賛同があった。
側近の手が止まった。
「そこまで書きますか。王都側が反発する可能性があります」
「構わない」
レオンは書状へ視線を落とし、さらに書き加えた。
「妻は薬ではない」
一瞬、誰も動かなかった。クレアはその言葉を聞いた。意味そのものより、別の部分へ意識が引っかかった。妻。契約書ではなく、制度上の説明でもなく、レオン自身の口から、自分をそう呼ばれたのは初めてだった。胸の奥が妙に熱くなる。理由が分からない。
「……奥様?」
医師に呼ばれ、クレアは我に返った。
「お顔が赤いようですが」
「暖炉が近いからです」
全員が一度、暖炉を見る。クレアの席は、特に近くなかった。側近が何も言わず視線を逸らす。レオンだけが不可解そうに眉を寄せた。
「体調が悪いなら、休め」
「大丈夫です」
早く答えすぎた自覚があった。
「本当に?」
「はい」
「ならいい」
それで終わる。レオンは本当に何も気づいていないらしい。そのことに安心していいのか、少し腹立たしく思うべきなのか、自分でも分からなかった。
王都への返答は、その日のうちに送られた。書状を持たせた使者を見送りながら、側近が小声で呟いた。
「これで、また王都の心証を損ねますね」
「構わない」
レオンは短く答え、それ以上取り合わなかった。それで終わると思っていたが、午後になってもう一つ問題が起きた。城内の一部の使用人が、自分たちで涙を集める準備をしていたのだ。王都から正式な要請が来る前に、噂だけが先に広がっていたらしい。小さな空瓶と清潔な布を見つけたクレアは、足を止めた。侍女たちが慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません。万一また公爵様に何かあった時のために」
「誰かに命じられたのですか」
「いいえ。皆で。奥様のお涙があれば、公爵様が助かると」
責める気にはなれなかった。この人たちも、レオンを心配している。町で出会った人々がそうだったように、城の使用人たちも彼を大切にしている。だからこそ、涙を準備しておきたいと思ったのだろう。数日前までの自分なら、分かりましたと言っていたかもしれない。けれど今は、どこか違う。
「意図して流した涙では効きません。それに――私は、採っておくのは嫌です。必要な時に何が起きるかは分かりません。でも、泣くことを前提に待たれるのは、嫌です」
言い終えると、胸の奥が妙に軽かった。侍女たちはすぐに頭を下げ、空瓶を回収してもらった。それだけの出来事だったが、自室へ戻ってからも胸の鼓動が落ち着かなかった。自分の嫌なことを、誰の許可も取らずに自分で決めた。
夜、寝台へ入っても、なかなか眠れなかった。王都の要請が気になるわけではない。もっと短い言葉が、頭に残っている。妻は薬ではない。契約上は何度も見た言葉のはずなのに、レオンの口から聞くと違って聞こえた。政略で結ばれ、拒絶から始まった関係だったはずなのに、公の場でそう呼ばれたことが、これほど胸を騒がせるとは思っていなかった。
「……暖炉のせいではなかったですね」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。その夜は、なかなか眠れなかった。窓の外に降り積もる雪の音さえ、いつもより大きく聞こえるような気がした。
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