第07話 怖い公爵様の本当の顔
「奥様、今日は城下へ出られますか」
朝食を終えたところで、側近からそう声を掛けられ、クレアは手にしていた診療記録を閉じた。
「城下へ?」
「はい。公爵様から、城の中だけでは分からないこともあるだろうと」
「公爵様が?」
「直接そう仰ったわけではありませんが」
「では、誰が」
「私がそのように解釈しました」
側近は平然としている。最近になって分かってきたが、この人はレオンに忠実である一方、本人が口にしないことまである程度汲み取って動くらしい。
「公爵様は、今朝もお仕事ですか」
「朝から執務室です」
「氷は?」
「昨日より少し戻っています。ですが、今のところ急激な変化ではありません」
わずかに安心する。同時に、それを聞いて安心した自分へ気づいた。数日前なら、レオンの身体の状態は「呪われた公爵に起きている異常」だった。今は違う。昨日より悪いか良いか、食事はできたか、眠れたか。そういうことが、自然と気になるようになっている。
「では、行きます」
外套を羽織り、厚手の手袋をつけて城を出る。空は曇っていたが、雪は止んでいた。城下町へ続く坂道はきれいに雪かきされ、両側には商店や工房が並んでいる。初めて城へ向かった時には馬車の窓越しにしか見られなかった町を、今日は自分の足で歩く。
「もっと静かな土地かと思っていました」
クレアが言うと、側近が振り返る。
「公爵様の噂からですか」
「はい」
人間ではない。触れれば凍る。呪われた公爵。王都では、北方そのものまで恐ろしい場所であるかのように語られていた。実際には、パンを焼く匂いが通りへ流れ、商人たちが荷の値段を交渉し、子どもたちが積まれた雪を蹴って遊んでいる。人が暮らしていた。当たり前のことなのに、その普通さが意外だった。
一軒の店先で、初老の男が屋根から落ちた雪を片づけていた。クレアたちに気づくと、慌てて道具を置いて頭を下げる。
「奥様でいらっしゃいますか」
「はい」
「遠いところをようこそ。公爵様には、いつも世話になっております」
「世話に?」
「去年、北側の橋が雪で落ちましてな。春まで待つしかないと思っていたんですが、公爵様がすぐ人を出してくださいました」
隣から別の女が口を挟む。
「うちは冬の薪が足りなくなった時、公爵家の備蓄から融通していただきましたよ」
「でも、怖くはないのですか」
口にしてから、聞き方が失礼だったかと思った。二人は顔を見合わせる。初老の男が苦笑した。
「見た目は、まあ……怖いですな。近づかないよう言われますし。公爵様がお城から下りてくる時は、皆少し離れます」
「でも、公爵様が怖いのと、公爵様を信じているのは別の話です」
女はそう続けて、雪の向こうに見える城を見上げた。
「公爵様がああなられてからも、税を急に上げたことはありません。吹雪で作物が駄目になった年も、王都へ援助を頼むより先に、ご自分の蔵を開けられました。怖くないと言ったら嘘になります。でも、あの方が私たちを見捨てたことはないんです」
その言葉が、胸へ残った。守っている。レオンは、自分が凍っても領地を守り続けている。城へ来た時の姿を思い出す。腕も首筋も氷に覆われ、暖炉の火さえ役に立たない部屋で、一人で立っていた。ただ、執務机には書類が積まれていた。今朝も仕事をしている。昨日、人間に戻れた短い時間に温かい食事をして、小さく笑った。その翌朝には、また氷が戻っている。それでも仕事へ戻った。
さらに歩いていくと、一軒の乾物屋の前で店主が商品の箱を持ち上げようとして苦戦していた。クレアは思わず手を伸ばす。
「こちらですか」
「いえいえ、奥様にそんな」
「二人なら早いです」
側近が何か言おうとしたが、クレアは気にせず箱の端を持った。箱は思ったより重かった。中には干した豆や穀物が詰まっている。無事に店内へ運ぶと、店主が何度も頭を下げた。
「公爵様も昔、同じことをなさいましたよ。荷車が雪にはまって動かなかった時、ご自分で押されたんです」
想像しにくかった。今のレオンが荷車を押す姿。けれど、城の廊下にあった若い頃の肖像画を思い出す。日に焼けた顔、今より柔らかい目。あれなら、少し分かる気もした。
町の広場では、雪だるまを作って遊ぶ子供たちがいた。一人の少女がこちらに気づき、友だちへ何か囁く。やがて三人ほどが、遠慮がちに近づいてきた。
「本当に、奥様なの?」
「その予定です。まだ婚姻の儀式が終わっていないので」
子どもたちはよく分からないという顔をしたが、すぐに後ろにいた少年が身を乗り出した。
「公爵様、元気?」
怖いか、本当に氷なのか。そう聞かれると思っていたクレアは、意外そうに目を瞬いた。
「昨日は、温かいスープを召し上がりました」
そう答えると、子どもたちの顔が明るくなる。
「食べられたの? すごい! 前は、お祭りでお菓子くれたんだよ。自分では配らなかったけど、公爵様が買ってくれたって母ちゃんが言ってた。冬祭りの時。……ずっとやってないけど」
最後の一言だけ、声が少し沈んだ。クレアは覚えておこうと思った。冬祭り、今は中止されている。理由まではまだ聞かなかった。側近を見ると、彼も何も言わなかった。
その時、一番小さな子どもがクレアの外套の裾をそっと摘んだ。
「奥様。公爵様、治る?」
胸の奥が止まったような気がした。治る。その言葉を、自分はまだ使えない。涙が一度だけ氷を溶かした。意図して流した涙では反応しなかった。数時間後にはまた凍り始めた。分からないことばかりだ。
「まだ、分かりません。でも、何が起きているのかは調べています」
「奥様が?」
「はい」
少年がしばらく考えてから言う。
「じゃあ、奥様なら公爵様を助けてくれる?」
クレアはすぐには答えられなかった。自分がレオンを治す、自分の涙で救う――そう言えば簡単だ。けれど昨日、レオンは「君の涙を物のように言うな」と言った。役に立たなくても、ここにいるとも。だからクレアは、しばらく考えて答えた。
「できることは、してみます」
それ以上は言えなかった。子どもは満足したのか、小さく頷いた。
城へ戻ると、レオンはまだ執務室にいた。朝と同じ場所、同じ机、増えた書類。右手の氷も朝よりやや広がっている。
「町はどうだった」
「皆さん、公爵様のことをよくご存じでした。橋を直したことも、薪を出したことも、昔ご自分で荷車を押したことも」
レオンの手が止まった。
「余計なことを」
「昔の公爵様も、今の公爵様でしょう」
レオンがこちらを見る。わずかに驚いた顔だった。
「怖くないわけではないそうです。でも、信じているそうです。あなたが自分たちを見捨てたことはないから、と」
長い沈黙が落ちた。
「公爵様。少し休まれては」
「なぜだ」
「町の皆さんは、公爵様が倒れることまでは望んでいないと思います」
一瞬、レオンが言葉を失った。それから、小さく眉を寄せる。
「君まで医師のようなことを言うのか」
「昨日よりは、少し」
口元が僅かに動いた。笑ったのかもしれない。けれどすぐに、いつもの抑えた表情へ戻る。クレアはその顔を見ながら、城へ来た日のことを思い出した。怖い人だと思った。次に、孤独な人なのかもしれないと思った。今日、わずかに違う。この人は、一人でいる人なのではない。自分から一人になろうとしている人なのかもしれない。その違いを、クレアはまだうまく言葉にできなかった。
窓の外では、町の灯りが一つ、また一つと点り始めていた。あの通りのどこかで、今日話した子どもたちも夕食の支度を待っているのだろう。橋を直したのも、薪を分けたのも、荷車を押したのも、誰かに褒められるためではなかったはずだ。ただ、そうする以外の生き方を知らなかっただけなのかもしれない。だとすれば、この人が一人でいることを選び続ける理由も、少しだけ分かる気がした。
ただ一つ、町の子どもの問いだけが、いつまでも耳に残っていた。
――奥様なら、公爵様を助けてくれる?
答えは、まだ持っていない。それでも、今日見た町の景色と、そこに暮らす人々の言葉を、忘れないでおこうと思った。
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