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第06話 人間に戻れる時間

「昨夜から、また凍り始めています」


医師の言葉に、クレアはレオンの右手へ視線を落とした。昨日の朝には細い白い筋だけだったのに、今は指先から第一関節まで薄い氷が戻っている。昨夜聞こえた音は、凍結が広がる時に机や床へ張った霜が軋んだものだったらしい。大きな発作ではなく、レオン本人も痛みはないと言う。それでも、昨日まで確かに温かかった指が、今は見ただけで冷たそうに見えた。


「元に戻っただけだ」


診察されながらレオンが言うと、医師は顔も上げずに返した。


「元に戻ったで済ませないでください。何年ぶりかに体温が戻った身体が、半日ほどで再凍結を始めたのです。経過を取らずにどうするのですか」


「好きにしろ」


「すでにそうしております」


少し離れた場所で側近が顔を伏せた。笑いを堪えているようにも見えたが、クレアは見なかったことにした。


「半日ほど、ですか」


「昨日の昼には、ほぼ正常な体温でした。夜半から指先に変化が出ていますから、それくらいでしょう」


「毎回同じとは限らない」


「一度しか起きていませんからね。だから調べます」


「昨日、自分を使うなと言ったばかりだろう」


「記録を取るだけです。公爵様が何でも止めるからでは?」


言ってから、わずかに言いすぎたかと思った。けれどレオンは怒らず、むしろ一瞬だけ呆れたような顔をしただけだった。


医師が診察を終える。


「急速な悪化ではありません。ただし、昨日の状態が永続したわけではない。そこだけは間違いありません」


人間に戻れる、ただし限られた時間だけ。その事実が、妙に胸へ残った。


「人間に戻っている間は、身体の感覚も普通なのですか」


「昨日はそうだった。寒さを感じなかった」


「では、温かさも」


「分かる」


「味覚はどうですか」


レオンが黙った。


「昨日、何も召し上がらなかったのですか」


「食欲がなかった」


横から医師が口を挟んだ。


「公爵様は、ここ数年ほとんど温かい食事を召し上がっておりません。凍結が喉まで進んでいる時は、飲み込むことも面倒だったそうです」


淡々とした説明だった。しかしクレアは、昨日までの自分が何も考えていなかったことに気づいた。身体が凍る、その言葉だけで異常だと分かったつもりになっていたが、実際には食べることも、眠ることも、暖かい部屋で寛ぐことも、普通の人とは違っていたのだろう。温かいものを温かいと感じる。それすら失っていた。


「では、今なら分かるかもしれませんね。味です」


レオンが嫌そうな顔をした。


「必要ない」


「必要です。身体機能がどこまで戻っているかの確認になります」


医師が大きく頷く。


「奥様の仰る通りです」


「お前はどちらの味方だ」


「公爵様の健康の味方です」


側近がまた顔を伏せ、クレアもそっと口元を緩めた。


昼になる頃、食堂には二人分の食事が用意された。長い食卓の端と端へ座れば、普通の声では話せないほど距離がある。クレアは少し迷った末、レオンの斜め向かいの席へ座った。近すぎず、遠すぎない。レオンは何も言わなかった。


最初に運ばれてきたのは、湯気の立つスープだった。根菜と肉を煮込んだものらしく、香草の匂いが立ち上る。レオンはしばらく器を見ていた。


「冷めます」


「分かっている。……久しぶりすぎる」


予想していなかった返答だった。クレアは何も言わず待った。レオンが匙を取り、一杯すくって口へ運ぶ。飲み込む、それだけの動作なのに、食堂の端に立つ使用人たちまで息を詰めて見ているのが分かった。


「……熱い」


誰かが小さく息を呑んだ。クレアは思わず笑いそうになる。


「熱すぎましたか」


「いや」


もう一口。今度は先ほどより迷いがない。


「温かい。……する」


「何の味ですか」


「試しているのか」


「確認です」


「医師より厳しいな」


「褒め言葉として受け取ります」


レオンの口元が僅かに動いた。笑ったとは言えないが、先ほどまでより表情は柔らかい。


「肉と根菜。香草がやや強い」


「では正常ですね」


「なぜ君が診断する」


「分かりやすかったので」


クレアもスープを口へ運んだ。確かに香草がやや強い。それでも身体が温まる。窓の外では雪が降り、暖炉の火が鳴る。二人で同じ食卓に座り、同じものを食べる。それだけのことなのに、不思議な感じがした。実家では食事の席にいても、父と妹の会話を聞きながら、翌日の仕事や支払いのことばかり考えていた。自分が何を食べたいかなど、ほとんど考えたことがない。


「公爵様は、何がお好きなのですか」


レオンが匙を止めた。


「考えたことがない」


「嫌いなものは」


「ない」


「それでは厨房の方が困りますね」


「出されたものを食べればいい」


返事に窮した様子から、図星らしいことが分かった。次に焼いた肉が運ばれてくると、レオンは最初断ろうとしたが、クレアが「味覚の確認です」と言うと、渋々手を伸ばした。それを見ていた年配の使用人が、皿を置く時にほんのわずかに目元を緩めた。公爵が食事をする、ただそれだけで嬉しいのだろう。


「皆さん、見ていますね」


「放っておけ」


「嬉しいのでしょう。……君もか」


思っていなかった問いだった。クレアはしばらく考えた。


「安心しました。昨日、死ぬかもしれないと思った人が、今日は温かいスープを飲んでいるので」


レオンが視線を逸らした。


「大げさだ」


「昨日の医師の顔を見る限り、大げさではありません」


答えはなかったが、そのあとの一口は少しゆっくりだった。食事が終わる頃、レオンの皿はほとんど空になり、温かい茶まで飲んでいた。それを見て、クレアは自然に口にした。


「明日の朝は、何を召し上がりますか」


レオンの動きが止まった。ほんの一瞬だったが、はっきり分かった。


「……必要ない」


先ほどまでの柔らかさが消えていた。


「何か問題がありますか」


「そういう話ではない」


「では、厨房へお任せしますか」


「クレア」


声に制止が混じった。クレアはそこで初めて、彼が朝食の内容を嫌がっているのではないと気づいた。


「明日のことは決めない」


その言葉に、クレアは黙った。「今日決めておけば、準備もしやすい」と続けたくなったが、口をつぐんだ。レオンの横顔は、しばらく前まで温かいスープを飲んでいた人とは思えないほど硬い。聞かない方がいい、そう思った。昨日までなら、分からないことはすぐに解決しようとしたかもしれない。それでも昨日、自分も自分のことを決める時間をもらった。なら、レオンにも話したくないことはある。


「分かりました。今は聞きません」


レオンが、ふとこちらを見た。意外そうな顔だった。


「話したくなったら、教えてください」


レオンは何も言わず、代わりに茶へ口をつけた。クレアは残ったスープの器を見つめ、それから静かに続けた。


「では、明日ではなく、今日の午後の予定を決めましょう。診療記録を読ませていただきます。そのあと夕食をどうするか」


「まだ食わせる気か」


「人間に戻っている間に確認しないと」


「君は本当に医師に似てきたな」


「公爵様が言うことを聞かないからでは?」


また言ってしまった。今度こそ怒られるかと思ったが、レオンは数秒クレアを見てから、ほんのわずかに口元を上げた。大きな笑顔ではない。声も出ない。けれど確かに、笑っていた。


クレアは思わず見つめた。氷の公爵。半分、人間ではないと言われていた男。誰も近づけず、温かいものの味さえ忘れていた人。その人も笑うのだ。当たり前のことなのに、不思議なくらい胸へ残った。


「何だ」


視線に気づいたレオンが尋ねる。


「いえ」


クレアは首を振った。説明するほどのことではない。ただ心のどこかで、また明日もこの顔が見られればいいと思った。けれどその言葉は口にしなかった。彼が「明日のことは決めない」と言ったばかりだったから。

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