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第05話 ここにいる理由

「昨日の質問への答えだ」


翌日の午後、レオンは一枚の書類をクレアの前へ置いた。場所は執務室だった。昨日までの診察室とは違い、ここには公爵家の仕事がそのまま積まれている。領地から届いた報告書、雪で遅れている荷の一覧、薪の備蓄表。机の端には、氷に触れないよう革を巻いた筆記具まで置かれていた。


クレアは書類を手に取り、最初の一行を読んだところで顔を上げた。


「離縁に関する契約ですか」


「正確には、婚姻成立後の選択権についての付帯契約だ。だから今のうちに決めておく」


婚姻後であっても、クレア本人が望めば離縁できる。その際、十分な生活費を公爵家が負担し、住居は王都でも別の土地でも本人の希望を優先する。護衛も付け、実家へ戻る必要もない。何度読み直しても、クレア側に不利な条文が見つからなかった。


「随分と一方的ですね。私に有利すぎます」


「昨日の答えだ。何のためにここにいるのか、と聞いただろう」


クレアの指が止まった。確かに聞いた。役に立たなくてもいいと言われて、では何のためにここにいればいいのかと。自分でも、子供のような問いだったと思う。


「私は君を治療のために妻として縛るつもりはない。涙が使えるかもしれないから残れ、とも言わない」


「使える、とは言わないでくださいと言われました」


「覚えていたか」


「はい」


「なら、なおさらだ」


「でも、公爵様にとって私は必要なのではありませんか。昨日の涙です」


「それが必要だと確定したわけではない」


「少なくとも、あの時は溶けました。一度でも、何年も起きなかったことなのでしょう」


レオンが口を閉じた。その沈黙だけで、答えは分かった。必要だ。少なくとも、可能性としては。それなのに、レオンは離縁できる契約を用意した。クレアには、その考え方が理解しにくかった。


「私が帰ったあとに、また昨日のような発作が起きたら」


「それは私の問題だ。だから君を縛っていい理由にはならない」


即答だった。実家なら違った。家のためなら娘の婚姻を決め、利益になるなら本人の希望より優先するのが当たり前だった。だから自分も、涙が役に立つならここに残るのが当然だと思っていた。


「君は、自分でここへ来ると決めたのか」


「……いいえ。伯爵に言われたから来ました。妹の代わりに」


「なら、少なくとも残るかどうかくらいは君が決めろ」


「簡単に仰いますね」


「難しいのか」


「難しいです」


思ったまま答えると、レオンがわずかに目を見開いた。


「私は、何かを選ぶ時に『自分がどうしたいか』で決めたことがほとんどありません。必要かどうか、家のためになるかどうか、失敗しないかどうか。そういうことで決めてきました。ですから、帰ってもいいと言われても、何を基準に考えればいいのか分からないのです」


「では、時間をかけろ。決まるまで」


「急がなくていいのですか。公爵様の呪いがあります」


「それを理由にするな」


また、同じところへ戻る。クレアはわずかに息を吐いた。


「では、公爵様は私に帰ってほしいのですか」


レオンの表情が止まった。


「私の希望は関係ない。君の人生だからだ」


その言葉が、昨日よりわずかに分かる気がした。ただし、完全には分からない。


「もし私が、帰る場所がないから残ると言ったら」


「却下する。それでは選んだことにならない」


レオンが契約書を指で叩いた。


「だから住居も金も用意した」


そこでようやく、クレアは契約書の意味に気づいた。追い出すためではない。戻る場所がないから残る、という逃げ道のない選択にしないためだ。出ていく道を作ったうえで、それでも残るかどうかを自分で決めろと言っている。


「そこまでして」


「そうしなければ、君はまた『仕方ないから』で残るだろう」


言い返せなかった。その通りだった。


クレアは契約書を抱え、自室へ戻った。窓の外では細かな雪が降り続いている。実家へ戻る必要はない。王都に住居を用意すると書かれ、生活費もある。だから「帰る場所がない」は理由にならない。では、自分はどうしたいのか。


窓辺に立ち、考えた。ここへ来てまだ数日しか経っていない。それでも、父の機嫌を読む必要がなく、妹のために何かを譲る必要もなく、失敗して無能と言われることもない。代わりに、分からないことが増えた。なぜレオンの身体は凍るのか。なぜ自分の涙で一度だけ溶けたのか。なぜ意図的に流した涙では何も起きなかったのか。なぜレオンは、自分が死ぬかもしれないのにクレアを縛らないのか。


知りたい。そう思った。役に立つためではなく、少なくとも昨日のように「使えるものを使ってほしい」という気持ちとは、どこか違う。理由が分からないまま、帰りたくなかった。


その日の夕方、クレアは医師の部屋を訪ねた。


「公爵様の診療記録を見せていただけますか」


医師が驚いた顔をする。


「これまでの記録すべて、ですか」


「可能な範囲で」


「公爵様の許可が必要です」


引き返そうとするクレアを、医師が呼び止めた。


「奥様。昨日は、ご自身を実験に使おうとしていらっしゃいましたね。今日は記録を読むのですか」


「……はい」


「その方がいいと思います。分からないものを調べる方法は、痛みに耐えることだけではないからです」


昨日のレオンと同じようなことを言われ、クレアは小さく頷いた。


執務室へ戻ると、レオンはまだ仕事をしていた。机の上には雪害の報告書が増えている。


「決めたのか」


「はい。私は、ここに残ります」


レオンの表情はほとんど変わらなかった。


「理由を聞こう」


やはり、それを聞くのだ。クレアは準備していた言葉を選んだ。


「帰る場所がないからではありません。知りたいからです。あなたの呪いを」


「治すために自分を使うつもりなら」


「違います。昨日のようなことはしません。記録を読みます。医師の診療記録も、公爵家に残る古い資料も」


「なぜそこまで」


答えはまだ完全には分からない。だから嘘のないところだけを言う。


「分からないまま帰りたくないのです」


「それは、誰かに言われたのか。伯爵家のためでも、私の妻だからでもない?」


しばらく考えて、クレアは答えた。


「まだ、そういうつもりでもありません」


正直に答えると、レオンの口元がほんの僅かに動いた。


「では、誰として残る」


クレアはそこで初めて、自分の名前を思い浮かべた。父に呼ばれる時、妹に呼ばれる時、昨日レオンに呼ばれた時。同じ名前なのに、どこか違って聞こえた。


「クレアとして、です」


答えたあと、胸の奥がわずかに軽くなった。レオンは長く彼女を見てから、机の引き出しを開けた。


「分かった。診療記録の閲覧を許可する。古い記録は側近に案内させる。ただし、勝手に実験するな」


「分かっています」


「本当に?」


「……努力します」


レオンが額へ手を当てた。


「そこは了承しろ」


「承知しました」


自分でも少し可笑しくなった。契約書へ署名する。実家を離れるために書いた署名とは違う。あの時は決められたものへ名前を書いただけだった。今度は自分で残ると決めて書く。同じ名前なのに、今は心なしか自分のものに見えた。


その夜、寝台へ入ってからしばらくした頃、遠くで硬い音が響いた。一度、少し間を置いてもう一度、そして三度目。今度ははっきり分かった。氷が割れる音だった。それはレオンの部屋の方角から聞こえていた。


クレアは寝台の上で身を起こし、しばらく耳を澄ませていた。行くべきかどうか迷ったが、昼間の会話を思い出した。自分のことは自分で決めろと言われたように、レオンにも彼自身のやり方があるのだろう。それ以上の物音がしないことを確かめてから、クレアはようやく横になった。今日一日で、契約書に自分の意志で署名したこと以上に、大きく変わったものがある気がした。

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