第04話 泣いてくださいとは言わない
「もう一度、同じ現象が起こるか確認したいのです」
翌朝、医師はそう言って、小さな硝子瓶を机の上へ置いた。診察室に差し込む朝の光は弱く、外はまだ雪雲に覆われていた。昨夜までレオンの身体を覆っていた氷は、ほとんど消えている。頬にも首筋にも白い霜はなく、右腕も指先まで人間の肌へ戻っていた。窓辺に立つ姿だけを見れば、昨日まで誰も近づけなかった男には見えない。だが、部屋は寒かった。暖炉には火が入っているのに、足元から染み込んでくる冷えは消えていない。
クレアは椅子に座り、医師の前に並べられた道具を見た。硝子瓶、清潔な布、小さな針。どれも見慣れたものばかりだ。
「これは何ですか」
「目を刺激して涙を出させる薬です。害はありません」
クレアが瓶を手に取ろうとすると、その前にレオンの声が落ちた。低く、有無を言わせない響きだった。
「必要なのか」
「昨日の現象が一度きりなのか、再現可能なのかだけでも確認しておくべきかと」
「本人に害はないと言ったな」
「はい。ごく軽い刺激です」
レオンはクレアを見た。
「嫌なら断れ」
それが最初に出てくる言葉なのかと、クレアはわずかに戸惑った。
「構いません」
「内容を聞いたばかりだろう」
「害はないのでしょう」
「だからといって、やる義務はない」
義務。その言葉が妙に耳に残った。昨日、自分の涙がレオンの氷を溶かした。それが本当に自分にしかできないことなら、確かめるのは当然だと思っていた。
「私も知りたいのです」
そう答えると、レオンは何も言わなくなった。医師の指示に従い、布へ薬を一滴落とす。目元へ近づけると、すぐに刺激が走った。鼻の奥がつんとし、目が熱くなる。反射的に涙が滲んだ。
「そのまま、公爵様の手へ」
クレアはレオンの右手へ向き直った。手袋も何もつけていない、剥き出しの手だった。昨日、自分が触れた手は、今は温かい。けれど手首の内側には、ごく薄い白い筋が戻り始めていた。今朝の診察で医師が見つけたものだ。完全に消えたと思っていた氷が、徐々に戻っている。
透明な涙が、白い筋へ触れる。全員が見守ったが、何も起きない。もう一滴、二滴と重ねても、氷はそのままだった。
「……反応しません」
医師が低く呟き、記録帳へ書き込む。その横で、レオンは自分の手を見ていた。
「薬で出た涙は、涙ではないのですか」
クレアが尋ねると、医師は筆を止めた。
「成分だけなら、昨夜のものと大きくは違わないはずです」
「なら、違うのは私の方ですね」
「そう結論づけるのは早い」
レオンが遮った。
「でも、昨夜は死ぬかもしれないと思いました。今は皆様が見ていて、失敗しないようにと考えています」
「それを失敗と呼ぶな」
「氷が溶けなければ、実験としては失敗でしょう」
「実験が失敗したのであって、君が失敗したわけではない」
言い直されても、その違いはすぐには飲み込めなかった。クレアが黙っていると、レオンは医師へ向き直る。
「記録にもそう書け。彼女の能力不足などという言葉は使うな」
「もとより、そのつもりはございません」
医師の返答を聞いても、クレアだけは胸の奥に残った引っかかりを消せなかった。
「昨日は、公爵様が倒れられたことへの強い感情がございました。ならば、意図的に悲しい記憶を思い出して流した涙ではどうかと」
クレアは頷いた。
「クレア」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
「無理に思い出す必要はない」
「大丈夫です。悲しいことなら、ありますから」
自分でも変な答えだと思った。医師がわずかに視線を伏せる。レオンの表情も硬くなったが、それ以上は止めなかった。
クレアは目を閉じた。幼い頃の魔力測定の日、ほとんど光らなかった測定器、妹のものが鮮やかに輝いた時の周囲の視線、父の失望した顔。役に立たないうえに、泣いて面倒まで増やすな――その声だけは、今でもよく覚えている。それでも涙は出なかった。婚姻の話を聞いた日のことも思い出したが、悲しいはずだと頭では分かるのに、身体はもう、その程度では泣き方を思い出せないようだった。
「出ません」
医師が困ったように眉を寄せる。
「一応、考えていた方法はあります。軽い痛みです」
レオンの声がすぐに重なった。
「却下だ」
「どの程度ですか」
クレアが問うと、レオンの目が細くなった。
「なぜ君が決める」
「私の身体だからです」
「だからこそだ」
意味が分からなかった。自分の身体なら、自分で決めればいい。それなら先ほどレオン自身が言った「嫌なら断れ」とも矛盾しないはずなのに。
「私は嫌ではありません。役に立つならあります」
言った瞬間、部屋の空気が変わった。医師が黙り、側近も何も言わない。レオンだけが、しばらくクレアを見ていた。
「役に立つなら、痛くても?」
「耐えられる程度なら」
その答えに、レオンの眉間へ深い皺が寄った。怒っているように見えたが、何に怒っているのかが分からない。クレアは自分から手を差し出した。医師は迷った末、レオンを見た。許可を求めているのだろう。レオンは答えなかった。沈黙を了承と受け取ったのか、医師が細い針を取った。
指先へ針が触れる。小さな痛み。皮膚の上に赤い点が浮かんだが、涙は出ない。
「もうやや強く」
クレアがそう続けようとした、その瞬間だった。レオンが椅子を引いた。脚が床を擦る音が響く。
「やめろ」
低い声だった。医師の手が止まる。
「もういい。薬も、痛みも、悲しい記憶も終わりだ。彼女を泣かせるな」
「君もだ。自分からやろうとするな」
理解できないまま、クレアは自分の指先を見た。ほんの小さな傷だ。血の粒すら、もう止まりかけている。
「この程度で済むなら」
「この程度かどうかは関係ない」
レオンが机を回ってこちらへ来た。昨日までなら、誰も近づけなかった距離だった。彼はクレアの手を取り、指先の小さな傷を確かめる。触れた手は、まだ温かい。
「痛いか」
「少しは」
「なら、なぜ続ける」
「耐えられるからです」
「聞いていることが違う」
代わりに、レオンの親指が傷口の少し下へ触れた。そこだけ避けるような、慎重な動きだった。
「耐えられるかどうかで、やることを決めるな」
「では、何で決めるのですか」
「嫌ならやるな」
「嫌かどうかは、あまり」
そこで言葉が止まった。嫌かどうかを考えて何かを決めたことが、ほとんどない。必要ならやる、できるならやる。自分が嫌かどうかは、そのあとだった。それが普通だと思っていた。
「私は、役に立ちたいだけです。昨日、私の涙で公爵様が戻れました。今朝は少し氷も戻っています。なら、私にできることがあるなら――魔力もありません。戦うこともできません。ここへ来たのも妹の代わりです。でも、涙だけが使えるなら」
「使えると言うな」
強い声だった。クレアは息を止める。レオンは手を離さなかった。
「君の涙を、物のように言うな」
その言葉は、すぐには意味にならなかった。自分の涙も身体も、自分のものなのだから使えるなら使えばいい。そう考える方が自然ではないのか。
「でも、それが役に立つのであれば」
「役に立たなくても、君はここにいる」
クレアは何も言えなくなった。レオンも言ってからわずかに顔を硬くした。何か言いすぎたと思ったのかもしれない。
「……実験は終わりだ」
手を離し、医師を見る。
「今後、彼女が望んでも痛みを与える方法は禁止する。薬も必要最低限にしろ」
「承知しました」
クレアだけが、その場に取り残されたような気がした。役に立たなくても、ここにいる。そんなことを言われたのは初めてだった。実家では、役に立つかどうかがすべてだった。魔力が少ない、社交に向かない、だから無能。逆に帳簿を整えても、備蓄を管理しても、それは家の娘なら当然のこととして扱われた。できることは評価されず、できないことだけが価値を決める。だからこそ、何か一つでも必要とされるものが見つかったなら、それを手放してはいけないと思っていた。
それなのに、レオンはそれを止めた。クレアは指先の小さな傷を見つめた。血はもうほとんど止まっている。けれど、そこに触れたレオンの指先の感触だけは、まだはっきりと残っていた。皮膚に沈んだ赤い点は、痛みというよりも、むしろ奇妙な熱を持って残り続けているように感じられた。誰かに「そこにいるだけでいい」と言われたことなど、これまでの人生で一度もなかった。その言葉の重みを、傷の小ささと引き比べてみると、釣り合わないほど大きく感じられて、クレアは少しの間、指先から目を離せなかった。
「……それでは」
声が思ったより小さくなった。
「それでは私は、何のためにここにいればいいのでしょう」
部屋の中で、誰もすぐには答えなかった。
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