第03話 あなたの涙だけが
「公爵様!」
側近の声が響く。倒れたレオンの身体を中心に、床を白い氷が走っていた。駆けつけた医師は大きな鞄を抱え、部屋へ入ろうとしたところで足を止める。氷は机の脚から天板へ、椅子から壁へと、生き物のように広がり続けていた。
「先生、何とかしてください」
「近づけません。触れられなければ、いつもの薬も使えません」
「触れるとどうなるのですか」
「凍傷では済みません」と医師は短く答えた。「以前、直接支えようとした者が腕を凍らせました。以来、発作が起きると誰も近づけないよう命じられています」
だから一人でいた。だから、近づくなと言った。
数分前まで、この男は自分を王都へ帰す話をしていた。屋敷まで用意すると言った。望んでいない婚姻相手なら、もっと簡単に追い払うこともできたはずなのに、安全が確認できるまで留め、帰る場所まで用意しようとしていた。氷がまた広がり、レオンの胸元へ白い筋が伸びる。
「胸まで達すると……」
その先を聞く前に、クレアは歩き出していた。
「奥様!」
側近に腕を掴まれる。婚姻さえまだしていないのに、妙な呼び方だと思ったが、今はそれを指摘している場合ではなかった。
「離してください」
「いけません。近づけば、あなたまで凍ります」
「このままでは死ぬのでしょう?」
答えが返らないことが、答えだった。氷はレオンを中心に円を描くように広がっている。一歩先、さらにその先。近づけば危険なのは分かる。怖くないわけではない。手袋の中で指が震えていた。けれど、身体は後ろへ下がろうとしなかった。
「ほかに方法は」
「現在はありません」
「では、待つだけですか」
氷の割れる音がして、レオンの肩が大きく震え、苦しげな息が漏れた。クレアは側近の手を振りほどいた。
一歩。靴の裏で氷が鳴る。冷気が裾から入り込み、足首を刺す。呼吸をするたび肺まで冷えていくようだった。「戻ってください」と背後から声が飛んだが、止まらなかった。目の前の男が死ぬ。その考えだけが、妙に鮮明だった。今日初めて会ったばかりで、会話をした時間もほんのわずかしかない。夫婦になってすらいない。それでも、床の上で人が死にかけているのを見ながら、命じられたからと扉の外へ戻ることなど、クレアにはできなかった。
膝をつくと、氷の冷たさが衣服を通して皮膚へ染み込んだ。
「公爵様」
返事はない。手を伸ばそうとした指先が、「触れてはいけません」という医師の声に止まる。レオンの頬にも氷が広がり、残った肌の色は死人のように青白かった。本当に、このまま死ぬのだ。そう思った瞬間、胸の奥が強く縮んだ。息がうまく吸えなくなる。何が怖いのか、自分でも説明できなかった。人が死ぬ場面を見るのが怖いのか、自分が何もできないことが怖いのか。あるいは、ほんのしばらく前まで「近づくな」と言っていた男が、その命令を守ったせいで誰にも触れられないまま死ぬことが、たまらなく嫌なのかもしれなかった。
視界が滲み、頬を何かが伝う。一滴。涙だった。自分が泣いていると気づくまで、少し時間がかかった。人前で泣くのはいつ以来だろう。泣いてはいけない、役に立たないうえに面倒まで増やすな――父の声が反射のように蘇り、クレアは慌てて拭おうとした。だがその時、もう一粒が顎から落ち、レオンの頬へ触れた。
音はしなかった。眩しい光も起きなかった。ただ、涙の落ちた場所だけ、白い霜が消えていった。朝日を受けた薄霜のように、結晶が輪郭を失い、消えていく。
「公爵様?」
もう一度呼ぶと、閉じていた瞼がほんの少し動いた。
「今、何をしました」
「涙が……落ちただけです」
答える間にも、また涙が頬を伝う。止めようと思うほど止まらなかった。先ほどまで泣く理由すら分からなかったのに、瞼が動いたのを見た途端、張りつめていたものが崩れたように溢れてくる。その一滴が、今度は首筋へ落ちた。氷が退く。誰も止める余裕がないまま、クレアは指先でレオンの頬に触れた。覚悟していた冷たさはなかった。
「温かい」
自分でも信じられず、そう呟いた。氷に覆われていない肌から、確かな熱が返ってくる。人間の体温は当たり前のはずなのに、この城へ来てから初めて触れた温度のように感じられた。
「……なぜ」
掠れた声に顔を寄せると、「近づくなと……言った」と、苦しそうなのに口にするのはそのことだった。
「聞きましたが、このまま死ぬかもしれない人を置いていけません」
レオンが目を開けた。先ほどより焦点の合った灰色の瞳が、すぐ目の前でクレアを見る。身体を離そうとした瞬間、手袋越しの手首へ、レオンの指が弱く触れた。氷に覆われていたはずのその手は、先ほどよりずっと温かかった。
我に返った医師が、恐る恐る床を踏んで前へ出る。新たな凍結は起きなかった。脈を取り、額に触れ、首筋、胸元と確認を重ねるたび、表情が変わっていく。
「脈は?」
側近が待ちきれずに問う。
「あります。弱くありません」
「体温は」
「……温かい」
医師は自分の答えを疑うように、もう一度レオンの首筋へ指を当てた。
「先生、温かいとは、どの程度ですか」
「普通の人間と同じです。少なくとも今は」
「今は、とは」
「この状態が続く保証はありません。喜ぶのは、変化を見届けてからです」
側近が口を結ぶ。クレアは濡れた頬を拭い、自分の指先へ目を落とした。
「私が触れたからでしょうか」
「触れたことか、涙か、その両方か。まだ一つも断定できません」
「では、もう一度泣けば分かりますか」
「分かりません。ですから今は、何もしないでください」
厳しい制止だったが、医師の声は震えていた。長年動かなかった何かが動き、喜びより先に恐れが来ているのだと分かった。
「体温が……」
「良い、方向にですか」
「はい。明らかに」
診察が始まり、クレアはようやく手を離して一歩下がった。そこで初めて、自分の膝が震えていることに気づいた。怖かったのだ。当然だった。何も平気だったわけではない。頬に残る涙の跡を袖で拭う動作を、レオンがじっと見ていた。
「……泣いていたのか」
「申し訳ありません」
反射的に謝ると、レオンは不可解そうな顔をした。「なぜ謝る」と問われても、「人前で泣くのは、あまり」と言いかけて、クレアは口を閉じた。説明する必要はない。レオンも追及せず、自分の右手を見た。つい先ほどまで氷に覆われていた腕。今は肌が見え、指を一本ずつ曲げている。信じられないものを見るような顔だった。
「痛みは」
「ない」
「寒さは」
しばらく考えたあと、「……ない」という声はひどく小さかった。とはいえ、部屋にいた全員へ確かに届いた。
医師が立ち上がり、床に残る氷を見て、レオンを見て、最後にクレアを見た。
「先ほど、公爵様に何をなさいましたか」
「ですから、何も。薬も魔力も持っておりません。私にそんな魔力がないことは、実家で何度も証明されています」
医師は黙り込み、やがて床へ視線を落とした。「涙……」と呟き、一つずつ確認するように話し始める。
「最初に変化が起きたのは公爵様の頬でした。次が首筋。どちらも、奥様の涙が触れた場所です」
「偶然では」
「ならば、なぜそれ以外に説明できる変化がないのでしょう」
医師はレオンへ向き直り、腕に触れる許可を求めた。差し出された肌はまだ白いが、氷はどこにもない。指が触れても何も起きなかった。以前ならそれすら危険だったのだろう。側近が堪えきれないように口元を押さえたが、レオンだけは喜んでいなかった。むしろ困惑しているように見えた。それがクレアには不思議だった。
「手を」
「何をする」
「確認したいことがあります」
「……分からないことを試すな」
「先ほど、私はもう試してしまいました」
レオンが黙り、少し迷った末に素手で触れてきた。指先が重なる。温かい。はっきりとそう感じた瞬間、クレアはなぜかまた泣きそうになった。今度は死にそうだからではない。理由は分からない。数分前まで氷のように冷たかった手が、今は自分よりわずかに温かい。そのことが、どうしようもなく胸に響いた。
「……本当に温かいのですね」
レオンがわずかに目を見開き、重なった手を見下ろした。
「何年ぶりか、分からない」
低い声だった。クレアは返す言葉を見つけられなかった。
医師がその沈黙を破り、急に仕事の顔へ戻る。
「記録を取りましょう。体温、脈拍、凍結部位の変化、それから――」
一度言葉を切り、クレアを見た。
「奥様の涙についても」
「現時点では断定できません」と前置きしながらも、その声は震えていた。長い間、誰も見つけられなかったものを目の前にした人の声だった。
「ですが、今確認できた事実だけを申し上げます。奥様の涙が触れた直後、公爵様の氷は明らかに溶けました。今のところ、ほかに同じ変化を起こしたものはありません」
医師は一つ息を吸い、静かに告げた。
「奥様の涙だけが、公爵様の呪いを溶かしています」
誰もすぐには言葉を返せなかった。その沈黙の中で、レオンの手だけが、確かに温かかった。
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