第02話 氷の公爵
「こちらが、公爵領でございます」
御者の声に促され、クレアは馬車の窓へ顔を寄せた。数日前まで見えていた土の色は、もうどこにもない。街道も森も遠くの丘も雪に覆われ、空まで低く垂れ込めているせいか、昼間だというのに辺りは薄暗かった。窓枠に触れた指先が、厚手の手袋越しにも冷える。
王都を出てから、すでに四日が経っていた。宿場に着くたびに行き先を告げると、主人たちはわずかに顔をこわばらせ、それ以上は詮索せずに逃げるように部屋を用意した。誰もその先を続けたがらなかった。三日目の夜、クレアは御者にだけ尋ねてみた。
「公爵様について、何か聞いたことは」
「……あっしは、送り届けるだけが仕事でして」
御者はそれだけ言うと、それ以上は語らなかった。翌朝、馬車は雪の深い山道へ差しかかり、辺り一面が完全な銀世界に変わった。
「まだ城まではございますが、ここから先はさらに冷えます」
同行してきた使用人が言い、クレアは実家の侍女が持たせてくれた毛布を膝の上へ引き上げた。道中で宿を取るたびに、公爵についての噂を耳にした。触れた者が凍る、眠らず食べず人間だった頃の姿を失い続けている、すでに死んでいるのだと言う者さえいた。どれも噂にすぎないとクレアは考えるようにしていたが、北へ近づくほど、それを笑い話として語る者はいなくなった。
馬車が石造りの門をくぐると、城下町には人影があった。雪かきをする者、荷車を押す商人、軒下で薪を積む老人。誰もが忙しく働いていて、想像していたよりずっと普通の街だった。呪われた公爵が治める土地なのだから領民も怯えて暮らしているものと、どこかで勝手に決めつけていたらしい。馬車が通り過ぎると人々が立ち止まり、好奇と心配と、わずかな同情の入り混じった視線がクレアへ集まった。楽隊も花もない。婚礼の華やかさはどこにもなく、公爵本人が迎えに出てくる様子もなかった。
城で待っていたのは、数人の使用人と側近だけだった。
「長旅、お疲れさまでございました。公爵様がお出迎えできず、申し訳ございません」
「ご体調が悪いのですか」
側近の表情が、ふと硬くなる。「……まずは、中へ」とだけ言葉を濁して先を促された。
城の扉が開いた瞬間、クレアは思わず息を止めた。外より寒い。風がないぶん体感は穏やかなはずなのに、壁や床へ染み込んだ冷気が足元から身体の中へ這い上がってくる。廊下の大きな暖炉には火が燃えているのに、少しも暖かくなかった。
「絶やしてはおりません。ですが、公爵様の近くでは……あまり効かないのです」
側近はそう説明しながら、廊下の壁に掛けられた肖像画の前を通り過ぎた。まだ若く、日に焼けた健やかな笑顔をした男の絵姿だった。今の主の顔とはあまりに違い、クレアは思わず足を緩めたが、側近は説明を加えることなく先を歩き続けた。案内された客間には湯を入れた容器がいくつも用意され、温かな飲み物を渡されて、ようやく指先の感覚が戻ってきた。
「婚姻の儀式は、いつになるのでしょう」
クレアが尋ねると、侍女は答えに詰まり、代わりに側近が「公爵様がお話しになります」とだけ返した。「今からお会いできますか」と重ねると、側近はしばらく迷った末に息を吐き、「分かりました。ただし一つだけお願いがございます」と切り出した。
「公爵様が何を仰っても、一定以上は近づかないでください」
「触れると、どうなりますか」
側近は答えなかった。それだけで十分だった。
公爵の部屋は城のさらに奥にあり、近づくにつれて廊下の窓には内側から霜が張りついていた。床にも薄い氷が伸び、侍女たちは途中で足を止める。最後まで同行した側近さえ、大きな扉の前で立ち止まった。
「公爵様は、いつからお一人で過ごしておられるのですか」
「三年ほど前からです。初めは私どもも部屋へ入りましたが、凍傷を負う者が続きまして」
「ご本人が遠ざけたのですね」
「はい。ご自分が苦しい時ほど、ほかの者を近づけません」
「食事は?」
「扉の前まで運びます。召し上がれない日も多くございます」
「眠る時も、誰も付き添わないのですか」
側近は答える代わりに、霜の張った扉を見た。その沈黙で十分だった。人を凍らせる怪物が閉じ込められているのではない。誰かを傷つけないため、自分から閉じこもった男が、この向こうにいる。
「奥様。改めて申し上げます。命じられてここまで来られたからといって、危険まで受け入れる義務はございません」
「では、なぜ案内してくださったのですか」
「公爵様が、あなたを追い返すにしても、ご自分の口で話すと仰ったからです」
クレアは扉へ向き直った。噂の怪物に会うつもりで来たはずが、その言葉を聞いた今は、別のものを確かめたいと思っていた。
「一人で?」
「申し訳ありません」
「謝らなくて結構です」
「危険かもしれません」
「存じています」
側近が驚いたようにクレアを見た。金属製の取っ手は手袋越しにも刺すように冷たく、ゆっくり押し開けた先の室内は広かった。大きな窓、机、本棚、暖炉。必要なものは揃っているのに、人が暮らす部屋には見えない。机の脚、窓枠、床のあちこちが凍っていた。その中心に、一人の男が立っていた。
噂は、大げさではなかった。右腕は指先から肘近くまで白い氷に覆われ、襟元から覗く首筋にも透明な結晶が食い込んでいる。頬の片側には細い霜が走り、黒い髪の一部まで白く凍りついていた。それでも痩せた顔色は青白いだけで、視線は病人らしい弱さより先に強い警戒を宿していた。
机の上に置かれた書状に目を落としたまま、男が低く読み上げた。
「クレア・――」
家名の途中で、声が途切れた。まるで、その先を読む価値もないというように。男は書状から顔を上げ、値踏みするような目で彼女を見た。
「クレアです」
「……そうか。名だけで十分だ」
それが、レオン公爵との最初の会話だった。彼は机の向こうから動かず、「長旅だったと聞いている」「すぐに休め」とだけ告げた。
「お心遣い、感謝します」
「その前に、ご挨拶を」
「必要ない。婚姻についても、今は進めない」
「理由を伺ってもよろしいですか」
「見れば分かるだろう」
氷に覆われた腕がわずかに動き、袖口から細かな氷片が床へ落ちる。
「私はこの状態だ。妻を持つつもりはない」
「ですが、婚姻の申し入れは公爵家からだったと伺っています」
「私の意思ではない」
「では、私と同じですね。私も、自分から望んで来たわけではありません」
レオンの眉が、ぴくりと動いた。「同じ、か」と呟き、しばらく彼女を見つめたあと、不意に視線を逸らして机の上の紙を取った。
「ならば話は早い。王都へ戻れるよう手配する。安全が確認できるまで滞在してもらうが、それ以降は好きにすればいい」
クレアは受け取らなかった。
「実家へ戻れ、ということでしょうか」
「そこまで指定するつもりはない。必要なら王都に屋敷も用意する」
「追い返す相手にしては、ずいぶん手厚いのですね」
一瞬、沈黙が落ちた。拒絶されている。確かにそうだ。だが、父の拒絶とは違う。父は不要だからクレアを追い出した。レオンは――。
「私がここにいると危険なのですか」
レオンの目が鋭くなった。「余計なことを考えるな」「私に近づくな」――低く冷たい声だったが、なぜかクレアは怖いとは思わなかった。
「それが、公爵様ご自身のためではなく?」
「クレア」
初めて名前を呼ばれた。強い制止の響きがある。「私に近づくな」と繰り返され、「承知しました」と頷くと、レオンの肩から、すっと力が抜けた。安堵したように見えたその一瞬を目にしてしまったせいで、クレアの中で「恐ろしい氷の公爵」という噂が、わずかに形を変えた。冷酷な人なのではない。誰かを近づけたくない理由がある。まだ、それだけしか分からない。
「今日は休め」と告げられ、クレアが扉へ向き直ったその時、背後で硬いものが砕ける音がした。振り返ると、レオンが机へ片手をついていた。指先から一気に腕、肩へと氷が這い上がっていく。
「公爵様」
「来るな!」
怒鳴り声に足が止まる。荒い呼吸、頬まで伸びる氷、床へ片膝をついた瞬間、周囲の床までが白く凍りついた。扉の外で異変に気づいた側近たちの声が響き、扉が開いたが、誰も中へ入らない。入れないのだ。
「公爵様!」
「医師を!」
「すでに呼んでいます!」
そのやり取りを聞きながら、クレアは倒れていくレオンを見ていた。先ほど彼は「近づくな」と言った。その意味が、ようやく分かった。彼の周囲では床だけでなく、触れてもいない机の脚や椅子までもが、次々に凍り始めている。人間が近づけばどうなるのか、考えるまでもなかった。
苦痛に歪んだ目がクレアを捉え、「……離れろ」と絞り出す。それが命令ではなく懇願に近いことを、クレアは初めて知った。次の瞬間、レオンの身体が床へ崩れ落ちた。
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