第01話 無能な娘は北へ行け
「お前が北へ行け、クレア」
父の言葉を聞いた瞬間、クレアは驚くより先に、机の上に置かれた二枚の書類へ目を落とした。一枚は婚姻に関する同意書、もう一枚は実家から持ち出す財産と今後の権利について記された確認書だった。どちらにも、すでに父の署名が入っている。相談ではなく、決定の通達だった。
「承知しました」
短く答えると、父の眉間にわずかな皺が寄った。もっと取り乱すと思っていたのだろう。泣いて縋るか、妹の代わりになどなりたくないと訴えるか、あるいは自分が何をしたというのかと声を荒げることを、どこかで期待していたのかもしれない。だが、そんな真似をして何になるのか、クレアには分からなかった。
北方公爵家から婚姻の打診があったのは、三か月ほど前のことだった。相手は「氷の公爵」。北方において王家に次ぐとも言われる大貴族でありながら、王都では誰もが顔を歪めてその名を口にする。本来なら伯爵家の令嬢にとって拒む理由のない縁談だったが、三日前、妹はこの話を父の前ではっきりと拒んだ。「お姉様でいいじゃない。どうせほかに縁談なんて来ないのでしょう」――その一言に、父は妹を咎めもしなかった。
「先方が求めていたのは伯爵家の令嬢だ。お前でも条件は満たす」
父は机の上で指を組み、帳簿の不足を別項目から補う方法でも説明するように言った。窓の外では、朝から降り続く雪が音もなく積もっていた。
「妹にはまだ使い道がある。けれど、お前は違う。魔力もない。社交にも向かない。これまで家で食わせてやっただけでも十分だろう」
「仰る通りです」
短く答えると、父は拍子抜けしたような顔をした。
魔力がまったくないわけではない。測定器がかろうじて反応する程度にはある。けれど、それを訂正したところで父にとっては何の意味もないことを、クレアはずっと前から知っていた。だから何も言わず、ペンを取り、紙の上に自分の名を書いた。クレア。それだけのことなのに、妙に自分の名前が他人のもののように見えた。窓の外の雪は、いつの間にか一段と強くなっていた。
「持参金の内訳を確認させていただきます」
「細かいことを」
「大事なことです」
一言だけ返し、クレアは続けた。
「こちらの装身具三点は、妹の成人祝いとしてすでに贈られたものです。私の持参財産には計上できません。それから、西の農地の今年分の収益から使用人への冬季手当を支払う予定になっていました。私が家を出るのであれば、引き継ぎが必要です」
父の顔に、苛立ちとは違う色がわずかに浮かんだ。長年、家の中で誰もやりたがらないことがあれば、クレアがやってきた。備蓄の確認、使用人の手当、古い契約書の整理。父が忘れた支払い期限を書き留め、妹が急に欲しがった衣装の予算を別の出費から捻出したこともある。それで褒められたことは一度もなかった。魔力が少ないという一つの事実の方が、父にとっては何十倍も大きかったからだ。
「明日までに一覧を作っておきます」
「……お前は本当に可愛げがないな」
ペン先が紙を擦る音だけが、しばらく部屋に残った。クレアは顔を上げなかった。可愛げが具体的に何を指すのか、未だによく分からない。父の望む時に笑うことなのか、失敗したら泣いて詫びることなのか。幼い頃、一度だけ父の前で泣いたことがある。魔力測定の日、妹の測定器が鮮やかな光を放ったあと、クレアのものはほとんど動かなかった。周囲の落胆する顔が怖くて泣いた自分に、父は「役に立たないうえに、泣いて面倒まで増やすな」とだけ言った。それ以来、人前で泣いた記憶はほとんどない。泣かなければ、少なくとも余計な迷惑はかけない。何も求めなければ、失望されることも少ない。それは強さではなく、単なる習慣だった。
「今後、私の名義を用いた契約はなさらないでください。婚姻後は公爵家の人間になります。こちらの都合で私の署名が使われれば、先方にも迷惑がかかります」
「誰に向かって、そんな口を」
「口の利き方を、教えられなかったとでも」
「そういうつもりでは」
「もういい」
父は苛立たしげに手を振った。
「必要書類は明日までに整えておきます」
クレアは軽く頭を下げた。
「それで、この家で私がすべきことは終わりです」
「行け」
短い一言だけが、返ってきた。
クレアは返事を待たず、部屋を出た。
廊下へ出ると、窓の外には薄曇りの冬空が広がっていた。北はここよりずっと寒いという。どれほど寒いのかも、どんな男のもとへ嫁ぐのかも、ほとんど知らない。怖くないと言えば嘘になる。それでも不思議なことに、たった今出てきたばかりのあの部屋へ戻りたいとは、少しも思わなかった。
自室へ戻ると、扉の前で妹のドロテアが待っていた。目元が赤い。
「お姉様……ごめんなさい」
謝罪の言葉に、クレアは小さく首を振った。責める気にはなれなかった。ドロテアが泣いて拒んだ相手のところへ、自分が身代わりとして行く。それだけの、ただの事実がそこにあるだけだった。
「謝らなくていいわ。あなたが選ばなかった道を、私が選んだだけよ」
「でも、お姉様は」
「大丈夫。ただ、行くだけのことよ」
「怖くは、ないの」
「怖くない、と言えば嘘になるわ。でも、今更、驚くようなことでもないの」
「お姉様は、いつもそう。強がるところが」
「強がっているわけでは、ないのだけれど」
感情を込めずに言うと、ドロテアはますます泣きそうな顔になった。何か言いたげに口を開いたが、結局言葉は出てこなかった。クレアはそれ以上何も言わず、荷造りのために部屋へ入った。
出発は明後日と決まった。その日の夕食でも、父は北行きに触れず、妹は何度もクレアを見ては視線を皿へ戻した。沈黙に耐えかねたらしく、ドロテアが先に口を開く。
「北へ持っていく外套は、決まったの?」
「古い灰色のものを。あれが一番厚いから」
「でも、あれはもう流行遅れよ。私の白い外套を持っていって」
「あなたの成人祝いでしょう。受け取れないわ」
「北では流行なんて誰も見ないでしょう」
「ドロテア」
父が名を呼ぶと、妹は肩を揺らして黙った。気遣うことさえ咎められたような空気に、クレアは匙を置く。
「明日、会計帳をお借りします。私が管理していた支払いを一覧にしますので、次の担当をお決めください」
「執事に任せればいい」
「執事は契約の期限までは把握していません。北西の農地は今月、布商会は来月です」
「もう出ていく娘が口を出すな」
「出ていくから申し上げています」
父は返さなかった。家族の誰も引き止めず、皿の触れ合う音だけが再び食堂を満たした。ただ、卓の下でドロテアの指が白い外套の裾を握りしめているのを、クレアは見ていた。
出発の前夜、クレアは屋敷の会計帳と使用人名簿を書斎から借り出し、自分が担当していた仕事の引き継ぎ書を一晩かけて書き上げた。誰に頼まれた作業でもなかったが、置き土産のように残しておきたかった。翌朝それを執事に手渡すと、彼は驚いた顔をして「ご丁寧に……」とだけ呟いた。無能と呼ばれ続けたこの屋敷で、クレアがまともに礼を言われたのは、それが最後だった。
自室へ戻る途中、年配の侍女が大きな布包みを抱えて歩いてきた。クレアに気づき、足を止める。
「お嬢様。北方は寒いでしょうから、お持ちになるものを少しでも増やそうと思いまして」
包みの中から、厚手の毛布が覗いていた。家を出される娘に、わざわざこんなものを用意する意味などないと思っていたクレアは、柔らかな布地に指先で触れながら「ありがとうございます」とだけ返した。
「……どうか、ご無事で」
侍女の声が微かに震えていた。何を返せばいいのか分からず、クレアはただ頷いた。
その時、廊下の向こうで二人の使用人が小声で話しているのが聞こえた。
「本当に北へ? でも、あそこの公爵様は……」
こちらに気づいた使用人たちが青ざめ、慌てて頭を下げる。「構いません」とクレアが促すと、片方が観念したように口を開いた。
「噂でございます。北の公爵様は、もう半分、人間ではないそうです」
「……そう」
「お嬢様、お気を確かに」
「大丈夫よ。ただの噂でしょう」
そう答えながらも、抱えていた毛布を握る指に、無意識のうちにわずかに力がこもった。
出立の朝、迎えの馬車は霜の降りた石畳の上で静かに待っていた。見送りに出てきたのはドロテアと年配の侍女の二人だけで、父の姿はどこにもなかった。
「お姉様、本当に行ってしまうの」
ドロテアが震える声で尋ねた。
「ええ」
「また、会えるかしら」
「さあ、それは分からないわ」
素っ気ない答えだったが、それ以上の言葉を、クレアは持ち合わせていなかった。
クレアは小さく頷き、御者の差し出す手を借りて馬車に乗り込んだ。座席に腰を下ろし、窓越しに屋敷を見上げても、そこにはもう自分を待つ者の姿はなかった。車輪が石畳を軋ませて回り出す。屋敷の門が遠ざかっていくのを、クレアは最後まで振り返らずに見送った。振り返れば、何かが崩れてしまいそうな気がしたからだ。
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