Xデーのその後
そこからはもう、てんやわんや。何が起きたのか、何をどうしたのか、当事者であるトウカ自身すら把握しきれないほどに事態は目まぐるしかった。
追い詰められたユキシロがエンジュを刺した。エンジュの腹には包丁が柄まで食い込み、場は鮮血で染まった。エンジュはそのままどこかへ運ばれていった。おそらく、というかほぼ間違いなく病院へ輸送されたのだろう。
ユキシロ本人はというと、エンによって取り押さえられた。普段の愛嬌のある可愛らしい犬っころの印象などなく、猛獣そのもののような雰囲気をまとったエンはまさに獲物を狩る猟犬で、牙も爪も剥き出しにしてユキシロをその場に押さえつけた。噛み殺さんばかりにのしかかるエンに取り押さえられ、ユキシロは学校の警備員たちに連れていかれた。事情聴取や取り調べの後は4課に引き渡されるのだろう。
そしてトウカはというと、それらの騒ぎを聞きつけたアンラによってひとまず自宅へ帰された。アンラも4課としての後処理の仕事があるようで、付き添いの代わりにと使い魔の鳥を一羽残しておいてくれた。
その鳥がソファの背もたれを止まり木として使っている様子を横目に、とりあえず淹れた紅茶のカップを両手に持ってソファに座り、今に至る。リビングの雰囲気はじっと暗く、緊張感に包まれていた。
いつまでそうしていたのか。アンラの使い魔の鳥はソファの背もたれから微動だにすることなく、トウカも両手で持った紅茶を飲むことなく、ただ時間だけが過ぎる。日が沈みかけ、室内の暗さを感知したセンサーが自動で電灯を点けなければリビングは暗いままだったろう。
すっかり冷めきった紅茶を飲むことも淹れ直すこともせず、ただじっと握ってもう何時間か。夕飯時になってもまだトウカはその場から動けなかった。
だって。そう言って、しかしそれ以上の言葉を紡げず。だって何だ、続きが言語化できないまま時間が過ぎていく。
だって。だって。もうどうしていいのかわからない。いつか来るだろうなと思っていた日は覚悟を固める前に来てしまった。そのことをどう処理していいかわからない。
エンジュはユキシロを追い詰め、ついに捕らえた。捕らえた又木は思想矯正をはかるのが常だが、それは更生の余地がある時の話。エンジュはユキシロのことを汚物と言っていた。およそどんな語彙でも表現しきれないほどのものだと。つまりそれは又木の思想に染まりきって更生の余地がないことを意味する。更生の余地がない又木は処刑される。よって、ユキシロの末路は。
ユキシロは死ぬだろう。エンジュによって殺されるだろう。エンジュがやらなくたって4課の誰かが。それはアンラかもしれないし、他の誰かかもしれない。
もう二度と会うことはない。洛鹿里にでも引っ越して遠くに行ったとか、真実を伏せるための嘘を被せる余地などない。その末路について予想がついてしまっていて、しかも確信してしまっている。彼は死刑に処される。
ユキシロが又木だってことすらまだ心の整理がつききっていないのに、その末路がさらに追い打ちをかける。
その上、エンジュが刺された。元恋人と現婚約者の修羅場というには深々と。繰り返すが、包丁の柄までぐっさりと。
単なる血を見た衝撃だけじゃない。加害者も被害者もどちらも知り合いで深い仲であるという動揺がトウカの心を乱す。
エンジュは大丈夫なんだろうか。あんなにも深く。心臓や急所じゃないから即死ではない。騒ぎを聞きつけた警備員やアンラに連れて行かれるその寸前まで、血の海にうずくまっていたエンジュはしっかりと呼吸をしていた。大丈夫ですと告げるその声ははっきりしていた。でも。
ぐるぐると思考が回る中、さらに時間が経過する。夕飯時を過ぎてもなお家の中は沈黙に包まれていた。
がちゃん。
玄関の鍵が開く音がした。ソファの背もたれを止まり木にしたまま微動だにしなかった鳥がようやく飛び上がった。鳥が飛行するには狭い室内を羽毛ひとつ落とさず飛び、玄関の方へ。それと入れ違いにして黒くてもふもふした毛玉が飛び込んできた。わん。
「エン! ……ってことは……」
わん。私ですよと愛嬌のある鳴き声をひとつ放ったエンが来た方向を見る。
「エンジュ!」
「ただいま戻りました」
しっかりとした足取りでエンジュが現れた。




