その晩
「はぁ……っはぁ……!!」
畜生。呟いた自分の言葉に自嘲する。
こんなわかりやすい荒れた口調で悪態をつくなんて、自分はよほど追い詰められているらしい。自分の状態を俯瞰視点で自覚して笑いが漏れる。
うまくいっていたのに。又木として活動しつつ、善良な大熊守を演じる日々。
親子二代の又木一家を隠して平凡な庶民として暮らしていた。基礎学校を出て職に就いて、恋人だってできて。守り人の候補生という大型物件を何とか上手く又木の思想に誘導して仲間に引き込むつもりだった。
それがある日一気に瓦解した。くそ。守り人め。
父さんも母さんもある日『不幸な事故』で死んだ。絶対に仕組まれたものだ。俺たちを又木だと嗅ぎつけてきたんだ。
次は俺。そう言われている気がした。だから逃げ出した。怖かった。当たり前だ。死にたくない。
それなのにあいつらは。追われている俺を匿おうともしない。それどころか、役目を放棄した無責任な奴だと言って追放した。
行方をくらますために何もかも放棄した。仕事は無断欠勤だし恋人は唐突に突き放し、表の人間関係は音信不通。そんな失踪を遂げたら不審がられるし、そこから捜査の手が及んで芋づる式になるからと。
でもわかってほしい。いきなりこんなことになってみろ。焦燥感から何もかも捨てて逃げ出すはずだ。もっと上手い行方のくらまし方があったはずだなんて、当事者じゃないから何とでも言えるんだ。
こうなったのは俺のせいじゃない。なのに芋づる式になるからとか言って誰も匿ってくれない。
おかげで野宿続きだ。財布の中身も心もとない。貯金はあれど、出金手続きなんてしたらそこから足がつく。
「くそ…………どうしたら……」
ここから逆転する方法を探さないと。潜伏して身分を偽って、どうにか守り人から逃げきらないと。
そのためにはまず当面の衣食住を確保しないといけない。それを与えてくれそうな相手の心当たりは。
「最後に頼れそうな相手は……」
財布に入りっぱなしだった写真を握り締めた。
***
それでねぇ、と受話器から聞こえてくる世間話に溜息を吐いた。
クジウラさんの庭でのその後。家に帰って夕飯を食べて、それから団欒の時間になって。
その時に電話が鳴った。誰かと思えば、トウカの母だ。曰く、ご近所さんが採れたての野菜をお裾分けしてくれたが多すぎて食べきれないので受け取ってくれ、と。いつ来れるかと問うものだった。
まぁ明日にでも行くよと答え、ならば荷物持ちに私も随伴しますとエンジュが横槍を入れた。いい機会だから正式にご挨拶もしたいとか何とか。あれよあれよという間に話はまとまり、それじゃぁまた明日、と終わればよかったが終わらないのが主婦というもの。ごくごく自然に世間話が始まってしまった。それでねぇ、お隣さんの娘さんがどうたらこうたら、お向かいさんの息子がどうたらこうたら、裏の家のおじいさんがどうたらこうたら。
それでねぇ、とどんどん話が続いていく。最初は真面目に付き合っていたトウカも、もう飽き飽きしている。そっとハンズフリー設定にした受話器を置いて適当に相槌を打ちながら課題を始めた。エンジュだけが丁寧に相槌を打っている。
「あぁそうそう。昨日、ユキシロ君がうちに来てねぇ」
「え!?」
受話器から聞こえた言葉に思わず顔を上げた。勢いがよすぎて手が机にぶつかった。
「大丈夫ですか?」
「いたた……大丈夫。それよりお母さん、その話ほんと?」
手をさすってくれたエンジュに応じつつ、置きっぱなしにしていた受話器を改めて手に取る。
ユキシロが家に来ていたなんて。横で聞いていたエンジュの表情にも緊張が走る。
そんなこちらの事情など知らず、能天気な声が答える。
「そうなのよぉ。着の身着のままって感じでね……仕事が忙しかったのかしら……」
急に別れ話を切り出されて別れたということは娘から聞いている。それも含め、何やら事情がありそうな雰囲気だったが、入れてくれと言うので家に入れた。何日も風呂に入ってなさそうだったので風呂に入れてやり、着替えとして父の服を貸してやって、食事を用意して食べさせて。さて落ち着いただろうし事情を聞こうと場を用意しようと少し目を離した隙に、すみませんと一言書き置きを残して出ていってしまった。何の事情も聞き出せなかった。
「横から失礼。それ以外には? この後の行く宛だとか……」
「さぁねぇ。何も聞けずじまいさ」
「……そうですか。いえ、ありがとうございました」
そうなのよぉ、と能天気な声が続く。それでねぇ、と話題が翻る。包丁がいつの間にかひとつなくなっていたそうだ。普段使わないものだから錆びてしまって、大掃除の時に捨てたのを忘れてしまったのだろうか。いやねぇ物忘れしちゃって。どうたらこうたら。
どうやらまだ世間話は終わりそうにない。いますよねぇ、一度話し始めると長い人。そう言いたげなエンがのんびりと欠伸をした。




