幕間小話 縫い止められたその瞬間
それはこの任務が始まる少し前のこと。エンを伴い、アンラと一緒に学校への視察をした日のことだった。
大熊杜の教育制度は2層ある。文字の読み書きや四則演算、その他の基礎教育を教えるための基礎学校。基礎学校を卒業すれば成人とし、一人前と認められる。そして基礎学校を卒業した後、本人の希望や周囲の勧めで守り人となるための学校へと進学する。素質があれば守り人へ、素質がなくても杜守庁の職員のポストが待っている。
その日、視察したのは後者だった。素質ありそうな生徒に目星をつけるべく、エンジュの目の力を利用して審査するために。
これもまた4課の仕事。又木の摘発の他に、将来を見据えたヘッドハンティングも役目のうちだ。4課の『人狩り』とはそういった意味も含まれる。
4課のヘッドハンティング。それは将来の同僚を増やすこと。守り人になりそうな者を探し、目星をつけておくこと。
つまりそれは、熊神が目覚めた時に喰らう餌を見繕うということだ。守り人の素質は学力でも身体能力でもない、熊神の餌として美味いかどうかだ。
そしてエンジュはそれを判定できる目を持っていた。守り人の素質を見抜くといえば聞こえはいいが、実際のところは餌の質を見分けるだけ。ご馳走に見えるか、腐った残飯に見えるか。人間をそんなふうに変換して見てしまう目だ。
守り人、つまり目覚めた時の贄にふさわしければご馳走に見え、大熊守の思想に反する又木は餌としてふさわしくないので不味く見える。それが4課の仕事に役立っているだけである。
暴けばなんとつまらない力だろう。エンジュは自らの異能の力をそう評している。自分の仕事を補助するために遣わされたエンだって似た能力を持っている。エンは目で見分けるのではなく鼻で嗅ぎ分ける。結局、自分に求められているのは餌判定機としての役割だ。
さて。仕事をしなければ。自嘲を引っ込め、気を取り直してエンジュは校内を見渡す。校内のいたるところで、まだ学生気分が抜けない半人前たちが守り人となるべく研鑽を積んでいた。自分もかつてはそうだったなぁと思いながら、座学に勤しむ教室を何気なく覗き込んだ。
「っ……!!」
その時、世界が変わったように思えた。
それくらい鮮烈な衝撃があった。この世にこんなものが存在していいのかと疑うほどだった。
今までの世界はなんと色褪せていたのだろう。『それ』を見た時、世界は色鮮やかに息づいた。まるで天地開闢かのよう。
灰色の世界は拓かれ、極彩色の奔流が流れ込む。暗闇に差す光だってこんなに眩しくない。呼吸を忘れるほどに、鼓動さえ置き去りにするほどに、その存在はあまりにも圧倒的だった。
「彼女の……名は……?」
なんと、なんと――美味しそうなのだろう、と。
あれを熊神に捧げねばいけない。熊神の眷属としての本能が痛烈に訴えてくる。
ご馳走なんてものじゃない。そんな言葉では足りないほどに上等だ。これを表現できる語彙が世界に存在しないほど。今までの『ご馳走』が腐った残飯に思える。
素質ある候補生に目星をつけ、それとなく出世を誘導して守り人の中でも高い地位につける。そうすることで熊神に優先的に食べられるようにする。そんな工作がまどろっこしい。もう、今すぐにでも確保して熊神に捧げなければ。
あぁ、どうして熊神は呑気に寝ているのだ。叩き起こしてでも見せてやりたい。こんなに美味なものを放っておいて冬眠などしていられないだろう。
なぜ誰も気付かない。なぜ平気でいられる。狂うくらいにそう思った。誰もがエンジュと同じ目を持っていたら、きっと同じように煩悶していたに違いない。
それほどに、トウカは『美味しそう』だった。
一瞥したエンジュが一瞬で魂に焼き付けられるほど、鮮烈に。エンが飛びつくのを押さえていなければならなかったからこそ正気を保てていられた。そうでなければ、今すぐ彼女を力ずくで攫って、熊神を不躾にも叩き起こして捧げに行っていた。
何をしているのだと、アンラに怒鳴りそうになった。それを抑えて理性を総動員する。ようやく絞り出せたのは彼女の名前を問うことだった。
「あぁ、あの候補生ですか。いたって平均的で……守り人になる素質はあまりないように思いますが……」
案内をする教師がそう言う。何を言う、あれが見えないのかとエンジュは叫びたかった。目を持っていないばかりに気付かない。エンジュやエン以外にはただの凡百な候補生に見えるという現実がただただ口惜しい。
あれを確保しなければ。眷属の本能がそう言う。だが、同時に愚かな欲深さも顔を覗かせる。
その質に気付いているのは自分だけ。わざわざそれを明かせば他人に横取りされるかもしれない。黙っておけば誰も気付かない。だったら、このまま黙っておいて、手元に囲い込んでおいて、いざ熊神が目覚めた時に捧げれば。きっと熊神は褒めてくれるだろう。そして、極上の餌をほんの少しでも分けてくれるかもしれない。
否、どうして『分けてくれる』だけで満足できようか。上位者にさえ譲りたくない。この餌を丸ごと欲しい。幸いにも、熊神は呑気に冬眠の最中、そしてトウカの秘めたる『味』に誰も気付いていていない。ならばこっそり、自分が独占したって。
彼女が欲しい。彼女が欲しい。彼女が欲しい。あの子を手元に置いておきたい。手放したくない。逃したくない。そのためなら何だってしてみせるし、どんな屁理屈だって通してみせよう。
眷属の本能、承認欲求、ご馳走への執着。すべてがねじれて縺れる。愛ではない、だが愛に近い。この狂った感情をどう言えば適切なのだろう。何もわからない。わかるのはただ、トウカを渡したくないという執着だけだ。
「私には貴女が必要なのです」




