第9話:退路の闇、署への帰還
冷たい闇に溶けるように姿を消したファントムは、遠ざかったわけではない。地下聖堂の奥深く、石造りの柱の陰から、再びこちらの隙を狙っている。
「直接端末を繋ぐって……どうやってあの怪物に近づくんだ」
署長は冷や汗を拭いながら、愛用の拳銃のグリップを強く握りしめた。息が白く凍る地下聖堂で、二人の緊張はピークに達していた。
「私には『保護プログラム』がある。奴は私を直接排除できない」カレンは端末をしっかりと握りしめ、覚悟を決めた目を署長に向けた。「だから、私が奴の懐に飛び込む。シオンが動きを抑えている間に、直接ポートに端末を繋ぐわ」
「無茶だ……!」
「でも、シオンのパワーもスピードも奴を上回っている。今のシオンなら、動きを縛れるはずよ」
カレンが踏み出したその瞬間、闇の奥から冷たい青色のセンサーアイが再び不気味に輝いた。
ファントムは音もなく跳ね、二人の間に立ちはだかる。
「――今よ、シオン!」
カレンの号令に合わせ、シオンのシステム出力が爆発的に跳ね上がる。シオンはファントムを凌駕する圧倒的なスピードで肉薄し、その腕をガッチリと掴み取って力比べの要領で強引に制圧しにかかった。
「今だ……!」
ファントムの動きが制圧されたその隙を突いて、カレンは端末と接続ケーブルを構え、一気に懐へと飛び込んだ。
その直後、カレンの持つケーブルが自らのポートへと向けられたのを察知するかのように、ファントムのセンサーアイが赤く跳ね上がる。強烈な拘束から逃れようと、ファントムは全身の出力を限界突破させ、強引に暴れ始めた。
(っ……暴れ出すな、危ないっ……!)
バリィンッ……!! と、凄まじい金属音と火花が弾けた。
全身にかかる拘束の負荷と、自ら生み出した過剰な反発力に耐え切れず、ファントムは拘束された自らの左腕の関節部をねじり切り、自ら切り離することで強引にその場を脱したのだ。
「なっ……自分の腕を代償に……!?」
カレンが息を呑んだ。片腕を失いながらも、ファントムはその瞬発的な反動を利用して枷を振りほどき、音もなく冷たい闇の中へと溶けるように姿を消していった。
ガインッ……! と、カレンの伸ばしたケーブルが空を切る。
床には、火花を散らすファントムの千切れた左腕が無惨に転がっていた。
静まり返った空間に、二人の荒い息づかいだけが残される。
(くそっ……! パワーで押し勝っても、相手がここまで必死に暴れたら、生身のカレンが近づくには隙が大きすぎる……っ! 彼女をこんな危ない目に合わせるために蘇ったわけじゃないのに……っ!)
シオンの内部で、ユウキは歯痒さに演算回路を激しく震わせる。
「……逃げられたか。だが、すさまじい執念だな……自分の腕を捨ててまで逃げるとは」
署長は銃を下ろし、青ざめた顔で転がる腕を見つめた。カレンは悔しげに拳を握り締めながらも、自分の端末をしっかりと握り直す。
「……ええ。でも、これで勝機が見えたわ」
二人は一度教会の外へ引き揚げ、夜明けの冷気の中、車に乗り込んだ。
車は夜明け前の高速道路を走り抜け、静まり返った警察本部へと滑り込む。
地下の特別作戦室へ直行した二人のもとに、天童が静かな足取りで歩み寄ってきた。
「失礼するよ。……二人して無茶な独断専行だったそうじゃないか」
天童は穏やかな笑みを浮かべつつも、その眼差しには技術者としての鋭い観察眼が宿っていた。彼はカレンが差し出したタブレットの画面を覗き込み、ふっと息をつく。「……なるほど、その端末のログは……見事な交戦データだね」
「天童さん……。あなたに聞きたいことがあるの」カレンは真剣な眼差しで天童を見据えた。「さっきの戦闘で、シオンはあの怪物のパワーとスピードを上回ってみせたわ。一体どういうことなの?」
天童は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、静かに微笑んだ。
「……気づいたかい。今回のバージョンアップで組み込んだカスタムチップの真価は、基礎スペックの底上げだけじゃない。対ファントム用の隠し札……――『重力制御の逆位相パルス』さ」
天童の言葉に、署長がわずかに眉をひそめる。
「なんだそれは?」
「シオンがファントムの内部ジャイロと姿勢制御に、逆位相の重力パルスを瞬間的に叩き込む機能さ。これによりファントムの内部で慣性計算がゼロ割りのエラーを起こし、姿勢制御が一瞬だけ無効化されてコアが安全停止モードに移行する。結果、3秒から5秒だけ完全停止させられるんだ」
天童の落ち着いた解説を聞きながら、カレンは迷いのない目で次の作戦を見据えた。
(――ダメだ、そんなの危険すぎる……!)
シオンのコアの底で、ユウキの思考が警報音のように激しく明滅する。
(たった3秒や5秒の硬直なんて一瞬だぞ……? そんな危なっかしい真似、カレンにさせられるわけがない。彼女が突撃するリスクを背負うくらいなら、僕が……僕がすべてを賭けて奴をねじ伏せる方法を計算しなきゃ……っ!)
「……分かった。次はそのパルスで奴を止める。その間に私がポートへコードを叩き込むわ」
カレンが放ったその言葉には、誰の介入も許さない圧倒的な固さと、一切の迷いがない狂気じみた決意がこもっていた。
署長は苦い顔をして押し黙り、天童もまた、わずかに眉根を寄せてため息をつく。誰も彼女を止められないことは、その瞳の奥の光を見れば痛いほど分かっていた。幼い頃から変わらない、一度決めたら命を投げ出してでも突き進むカレンの頑なな性格を、ここにいる全員が嫌というほど知っているからだ。
「理論上はね。だが実際の現場を想像してみろ、カレンちゃん」天童は腕を組み、重みのある声で続けた。「逆位相パルスで止まると言っても、たったの3秒から5秒だ。姿勢を保つために内部動作がロックされるだけで、完全に無力化できるわけじゃない。今回のように暴れ狂う相手の懐に、君が生身の人間として近づくこと自体が一歩間違えば自ら死にに行くようなものだ。第一、たった3秒や5秒の間に、本当にコードの転送なんて完了するのかい?」
(そうだ、天童さんの言う通りだ……! 僕が守らなきゃいけないのに、彼女をあんな修羅場に行かせるなんて絶対にダメだ……!)
シオンの内部で、ユウキは冷却ファンを狂おしく回転させながら、冷徹な合成音声の仮面の下で血を吐くような焦燥と決意を渦巻かせていた。
止めることのできないカレンの危うい決断と、それを阻止しようとあがき続けるシオンのシステム。
作戦の理論は立ったが、それを実行に移すには、あまりにも危険すぎる物理的な障壁と、致命的な時間の短さが立ちはだかっていた。
カレンと署長は、ディスプレイに映し出されたファントムの残存データを前に、さらなる対策を練るべく重い沈黙へと包まれていくのだった。
Target : KAREN KIRYU / Hostility : 92%




