第8話:夜の追走劇と、交錯する意志
実家の荒れ果てた書斎。
懐中電灯の細い光が照らす中、カレンが手にした古い写真とメモを見つめ、署長は顔をしかめた。
「地方の古い教会……そこに両親の死の真相と、ファントムを止める鍵があるというのか」
「はい。父の残したメモと、署長の今の話で分かりました。行くしかないんです」
署長は苦渋の色をにじませた顔で、カレンを強く睨みつけた。
「正気か、カレン! お前が今やっていることは、暴走する猛獣の檻に自ら飛び込むようなものだ。謹慎中の身でありながら、これ以上の越権行為は……」
「署長!」カレンは強い決意を込めた瞳で、署長をまっすぐ見据えた。「あの夜、父と母があいつに殺されたとき、私は何もできなかった。なぜあいつが我が家に現れ、両親を惨殺したのか……その動機さえ分からないまま、未解決事件として闇に葬られようとしている。それが悔しいんです」
署長の巨体がわずかに揺らぐ。あの夜の惨劇の記憶と、無力感に打ちひしがれた当時の記憶が脳裏をよぎる。
署長自身、あの忌まわしい事件の夜に現場の指揮を執りながら、なぜファントムが桐生夫妻を襲ったのかその動機を解明できず、未解決のまま捜査を打ち切らざるを得なかったことを、ずっと最大の心残りとして抱え続けていたのだ。
だが、それでもなお、部下であるカレンを危険な目に合わせるわけにはいかないという葛藤が、署長の口を重くさせていた。
「……私には分かっているんです」カレンはさらに踏み込む。「父が遺した私を守るためのプログラムがある為、ファントムは私を殺せない。だからこそ、この手で奴を止めるためのキルスイッチにたどり着ける」
署長は鋭い眼光でカレンを見据えた。危険すぎる賭けであることは間違いない。だが、あの忌まわしい事件の夜から未解決のまま止まっていた時を動かすには、この娘の覚悟に賭けるしかなかった。
やがて、署長は深く息を吐き出し、自らの顔を乱暴に手で拭った。
保身を投げ捨てる、腹をくくった男の顔だった。
「……分かった」署長は低い声で言った。「お前一文無しで行かせたら、結局は犬死にだ。……行くぞ、カレン。私も同行する」
「署長……!」
「お前を一人で死なせたら、あの夜の責任が一生取れなくなるんでな。行くぞ、車を出せ」
二人は早足で書斎を後にし、実家の玄関から飛び出した。
カレンが運転席に滑り込み、署長が助手席に乗り込むと同時にエンジンが唸りを上げる。車は暗い住宅街を抜け、古い教会のある地方都市へと続く高速道路へと滑り出した。
車は深夜の高速道路を走り抜け、朝日が昇る頃、二人は雪深い地方都市の街外れに到着していた。
首都圏の喧騒とは違って、ピリリと張り詰めた朝の冷気が車内を包み込む。
車窓の先に現れたのは、白亜の壁と美しい三角屋根を持ち、手入れの行き届いた植え込みに囲まれた、厳かな佇まいの一軒の古い教会だった。地元の信者たちによって大切に守られてきたその場所は、10年の月日を経てもなお、神聖な静寂を保ったまま朝の光の中に佇んでいた。
「ここだな……」
カレンは教会の駐車場に車を止め、エンジンを切った。
正面の扉は施錠されていなかった。静かに押し開くと、朝の柔らかな光がステンドグラスを透過し、礼拝堂の祭壇を美しく照らし出している。埃ひとつない神聖な空間に、二人の足音が静かに響いた。
礼拝堂の奥、地下聖堂クリプトへ続く階段を二人は下りていった。
地下聖堂の中心には、厳かな石造りの祭壇が据えられている。
壁面や柱には、古代の神話にまつわる古くからのレリーフや宗教的な一節が刻み込まれていた。かつて父・桐生が生前、この場所に足繁く通って熱心に見入っていたのと同じ光景が、そこには変わらず存在している。
「これだ……」カレンは息を呑み、祭壇の前に歩み寄った。「父さんが遺したメモにある暗号の鍵は、もともとこの地下聖堂に刻まれていたこの古の伝承……」
カレンは壁面に刻まれた文字を指でなぞりながら、低い声でその一節を口ずさんだ。
"――By my covenant with God, I seal the boundary. Shed not the blood of the transgressor. The only passphrase to open the gates of the abyss is the Primeval Covenant..."
呟きながら、カレンはその一節こそが、キルスイッチを起動するためのマスターキーワードであると確信した。
「――これが、キルコードだわ」
静まり返った地下聖堂に、カレンの呟きと、それを警戒する署長の足音だけが響いていた。
――その時。
背後の暗がりから、わずかに空気が揺らぐ気配がした。
音はない。気配もない。だが、人間の本能が警告を発する。
「……っ!」
署長が反射的に振り返り、拳銃を構えた。
地下聖堂の柱の陰、その静寂の中に黒いロングコートの影が佇む。冷たい青色のセンサーアイがギロリと光を放っていた。
ファントムだった。
音もなく侵入し、カレンたちがキルコードとなるマスターキーワードを見出す瞬間を、暗がりからただ静かに、冷徹に監視していたのだ。
ファントムはカレンを一瞥したが、システムに組み込まれた「カレン保護プログラム」が作動し、彼女に直接手を下すことはできない。しかし、その冷酷なセンサーは傍らに立つ署長を「排除すべき最大の障害」として捉え、無音のまま一歩を踏み出した。
「くっ……!」
署長が銃口を向けるが、ファントムの腕が凄まじい速度で迫る。
これまで圧倒的な力で人々をねじ伏せてきたその凶弾のような一撃が署長を直撃しようとしたその瞬間――。
「署長っ……!」
反射的に、カレンは「私には保護プログラムがある」という絶対の確信を胸に、自らの体を投げ出して署長の前に立ちはだかった。
直撃の瞬間、ファントムの内部回路で「カレン保護プログラム」が強制介入し、その腕の軌道と出力が急激に相殺される。肉体を破壊するような衝撃は遮断されたものの、発生した凄まじい風圧と余波がカレンの体をわずかに押し返した。
――だが、その膠着を破るように、シオンが凄まじい運動エネルギーを伴って飛び出した。
外部へのアナウンスなど一切ない。ただ完全無音のまま、シオンのコア出力が限界突破し、ファントムの圧倒的な物理的膂力に対して重力制御と運動エネルギーの力場が正面から激突する。
(――間に合った……! もうお前を一人にはさせない!)
ガァァァァンッ……!!!!
石造りの地下聖堂が揺れ、火花が激しく飛び散る。
これまで圧倒的な力で人々をねじ伏せてきたファントムの腕が、シオンの介入によってぴたりと止められ、逆に力比べで押し返されていく。かつての圧倒的な力の差を、二人の絆が鮮やかに塗り替えた瞬間だった。
(よし……! カレンに掠り傷一つつけさせなかった……っ!)
内部の冷却ファンが激しく唸りを上げる中、ユウキは確かな手応えを噛み締める。
自慢の膂力を押し負かされたファントムは、システムに致命的な負荷を避けるため、音もなく闇の奥へと身を引いていった。
冷たい静寂が戻った地下聖堂で、無事を確認したカレンと署長は荒い息を整える。
だが、安心する間もなく、カレンは厳しい表情で端末を見つめた。
「ダメね……ファントムは完全にネットワークから切り離された自立型よ。外から無線でキルコードを飛ばしても、奴のコアプロテクトに弾かれるだけだわ」
「じゃあ、どうするんだ?」
「……直接、奴の機体に私の端末を繋ぐしかないわ。隙を突いてあの懐に飛び込んで――!」
Target : KAREN KIRYU / Hostility : 92%
(また一人で全部背負い込んで……! そんな無茶な真似、絶対にさせない。君が危ない橋を渡るなら、僕が全力でその盾になってみせる……っ!)




