第7話:忌まわしき実家と、契約の痕跡
深夜の静寂に包まれた住宅街。街灯の光がまばらに差し込む中、一台の車が古びた二階建ての一軒家の前で静かにブレーキを踏んだ。
カレンはエンジンを切り、ハンドルを握ったまま、目の前にそびえる我が家を見上げた。
両親がファントムに惨殺され、血塗られた惨劇の舞台となって以来、彼女はこの場所に一度も足を踏み入れていない。鍵を回すことさえ、心の奥底で拒絶し続けてきた。
車を降りたカレンの足取りは、わずかに重かった。
門扉の蝶番が錆びた金属音を立てて開く。庭の雑草は伸び放題になり、かつて母親が手入れしていた花壇は見る影もなく荒れ果てていた。
玄関の前に立ち、鍵をシリンダーに差し込む。
カチリ、と冷たい音が夜気に響いた。
扉を開けると、そこに広がっていたのは「時間が凍りついた空間」だった。
警察の現場検証が終わった後、そのまま放置されたリビング。家具の配置はあの日のままだが、どこか埃っぽく、冷え切った空気が肌を刺す。床の隅にわずかに残る鑑識の粉末の痕跡を見た瞬間、あの夜の生々しい記憶が脳裏に蘇り、カレンの呼吸が荒くなった。
(……しっかりしなさい、私……!)
両親の死以来、あの凄惨な記憶に蓋をし、ファントムに奪われた過去の思い出を振り返ることなど避けて生きてきた。アルバムを開くこともなく、語り合う家族もいない彼女の中で、幼い頃の記憶はひどく曖昧に霞んでいた。
自分を鼓舞するように小さく首を振ると、カレンは足音を殺して廊下の奥へと進んだ。
目指すは、父・桐生の聖域だった「書斎」だ。
書斎の扉は開いていた。
足を踏み入れると、壁一面を埋め尽くす本棚には、膨大な数の物理書籍、技術書、そして父が自ら製本した手書きの研究ノートが隙間なく並んでいる。
「神話の解説……そして、神との約束の証……」
カレンはデスクの前に立ち、暗がりの中で懐中電灯の光を本棚へと向けた。
膨大な蔵書の中から、父が好んで読んでいた古代神話や歴史宗教学、古文書の類を片っ端から引き抜いていく。
「これじゃない……これも違う……」
床に次々と本が積み重なっていく。焦燥感と疲労がじわりと額ににじむ。
ファントムが自分に危害を加えないことは分かっていても、あの自律兵器がこの場所にたどり着く前に、目的の情報を探し出さなければならないというタイムリミットの焦りが、背筋を冷たく撫で上げていた。
その時、神話の成立過程や古代の宗教儀礼を記した一冊の分厚い古い専門書を引っ張り出した拍子に、そのページの間から、パラリと一枚の古いメモ用紙が床へと滑り落ちた。
「……っ!」
カレンは息を呑み、しゃがみ込んでその用紙を拾い上げた。
そこには、父の達筆な文字でこう書き記されていた。
――『【神との聖なる契約の証】について』
震える手でメモを読み進めるカレンの瞳に、父の直筆の言葉が飛び込んでくる。
『神話の大洪水から世界を救ったのは、ただの箱舟ではない。神との間に交わされた「聖なる契約」――それを証明する物理的なマスターキーの存在だ。もし我が研究が暴走した時、キルスイッチを起動するための真のコードは、その「契約の証」が隠された場所にある。……その在処は、我が愛娘と共にある思い出の場所に眠る』
「思い出の場所……?」
メモの最後には、一枚の古い家族写真が挟まれていた。
そこに写る教会の窓枠の意匠や景色に、かすかな既視感を覚える。だが、過去の記憶を封印してきたカレンの脳裏では霧がかかったようにモヤがかかり、それが具体的にどこであるのか、名前まではどうしても思い出せなかった。
――その時、書斎の入り口から、重苦しい足音が響いた。
懐中電灯の細い光が揺れ、そこに立っていた人物の姿が浮かび上がった。
「……誰だ」
カレンが反射的に身構えたが、影の主がハッとしたように息を呑んだのを見て、その手を下ろした。
そこにいたのは、署長だった。汗を拭いながら、苛立ちと疲労の色が濃い顔でカレンを睨みつけている。
「署長……どうしてここに……」
「お前の部下から連絡があったんだ。『謹慎中のカレンが勝手に車で飛び出し、向かった先が実家らしい』とな。……慌てて後を追ってきたのさ、バカ者め!」
署長は足音を立てて書斎に入り、荒れた部屋を一瞥してから、カレンが手にしている古いメモと写真に視線を落とした。
「署長、ここは……」
「お前が両親をあんな形で失ったこの場所に、よりによって謹慎中の身でノコノコと……。万が一、あのファントムにでも遭遇したらどうするつもりだ」
署長の声には、単なる上司としての叱責以上のものが含まれていた。それも無理はない。あの忌まわしい事件の夜、署長は現場の責任者として最初に駆けつけ、この事件の捜査を指揮した張本人だった。
「……忘れたわけじゃないだろ、カレン。当時、俺がこの事件の担当者でありながら、なぜファントムが両親を惨殺したのか、その動機すら解明できなかった。未解決のまま捜査を打ち切らざるを得なかったことが、今でも俺の拭い難い悔恨なんだ。お前をこれ以上、危険な目に合わせるわけにはいかないんだよ」
署長の切実な言葉に、カレンは歯を噛み締めながら、手元のメモと写真を差し出した。
「ここに来たのは、父の遺品からこれを見つけたからです。ファントムを止めるための『キルスイッチ』の手がかりが、ここに隠されている……」
署長は眉をひそめ、カレンが差し出した古い家族写真を受け取った。懐中電灯の光の下でそれをじっと見つめ、鼻を鳴らす。
「写真……? 一見しただけじゃ、ただの記念写真だな。こんなものが何になる」
「私にも分かりません。ただ、父が遺したメモには『思い出の場所』にそれが眠っていると……。だけど、思い出そうとしても、記憶の糸が引っかかって……」
カレンが歯がゆそうにこめかみを押さえたその時、写真を覗き込んでいた署長の口から、ふいに呟きが漏れた。
「……待てよ。そういえば、当時の捜査資料や近所への聞き込みでこんな話があったな」
「……聞き込み?」
「あぁ。お前の両親は、年に一度の長期休暇の折に、決まって地方の特定の観光地へ車を走らせていたらしい。当時、我々は事件との関連を洗うためにその街外れまで足も伸ばしたが、結局そこには両親の足跡を示すものは何も見つからず、ファントムの動機も含めて、捜査は行き詰まったままだ。……俺の心残りだったよ」
署長のその言葉を聞いた瞬間、カレンの中で閉ざされていた記憶のダムが決壊した。
遠ざけていた過去の風景が、鮮烈な色彩を取り戻して脳裏に雪崩れ込んでくる。
(そうだ……あの地方の街外れ……! 父さんと母さんがよく私を連れて行ってくれた、あの古い教会の地下聖堂……っ!)
「教会です……!」カレンの瞳に強い光が宿る。「あの人たちが度々訪れていた、街外れの古い教会……! きっと、そこに『聖なる契約の証』がある!」
「教会だと……?」署長は怪訝な顔をした。「だが、それがどこにあるのか、お前には分かるのか」
「私には分かる……! 署長の言葉で思い出しました。家族の記憶が、そこを指し示している」
手元の写真とメモを強く握りしめ、カレンは決意に満ちた目を署長に向けた。
未解決のまま闇に葬られかけた両親の死の真相と、暴走するファントムを止めるための唯一の鍵が、今、その場所に眠っている。




