3. 置く場所を、うかがってもよろしいですか
夜明けの鐘の前に起きるのは、二十年で初めてである。
ミレナには言わずに部屋を出た。廊下は暗い。灯りを持たずに下りると、段の数が思っていたのと違って、二度つまずいた。
通用口の内側で、鉄の取っ手に左手をかける。
右手には、まだ布が巻いてある。
外は霧だった。石の段は濡れて黒く、雨水の桶に薄い膜が張っている。空は上のほうがようやく灰色になりかけたところで、坂の下はまだ何も見えない。
寒い。羽織ってきた肩掛けが、すぐに湿って重くなる。
わたくしはそこに立って、待つ。
街のほうから、犬の声が一度だけ届いた。それきり、何の音もしない。
しばらくして、坂の下から足音がした。
規則正しくて、急いでいない足音である。霧のなかから、まず籠の輪郭が出てきて、それから人が出てくる。
背は高いほうだと思う。外套の肩が露で光っている。手が大きくて、指の節が太い。
その人は、段の下で足を止めた。
「おはようございます」
低い声である。驚いた様子もない。
「……おはようございます」
わたくしの声のほうが、よほど揺れている。
「今朝は、ミレナさんは?」
「まだ、寝ております」
嘘をついた。とっさに、そう言ってしまう。
その人はうなずいて、籠の布をめくり、一輪だけ抜き出した。
苧環である。
紫に白の混じった花が、うつむいて咲いている。丈は指四本ぶん。葉は三枚。切り口から水がひとしずく落ちて、石に丸い跡をつくる。
「どうぞ」
差し出された花を、わたくしは左手で受け取った。
右手が出せないからである。
その人の目が、布の巻いてある手のほうへ、一度だけ動く。それきり何も言わない。
◇
行ってしまう、と思う。
背を向けかけたその人に向かって、わたくしは、気づいたことを、気づかせた本人へ正面から訊いた。
二十年で、初めてである。
「どうして、丈が短いのですか?」
足音が止まる。
その人は振り返り、少しのあいだ黙って、それから、ごく当たり前のことのように答えた。
「北の窓の、奥行きが指六本ぶんの桟に置かれるでしょう。あそこの器は口が狭いので、丈を出すと倒れます」
息が、うまく吸えなくなる。
「……よくご存じですね?」
「二年、置いておりますので」
「昨日のは、指三本でした」
「昨日は開いたのを切りました。開いたのは首が重くなりますから、その分だけ短くします」
「今朝は、うつむいている花なのに、昨日より長い」
その人が、初めてこちらを正面から見る。
霧のせいで顔はよく見えない。ただ、目のあたりが少し動いたのは分かる。
「よくご覧になる」
「……ええ」
「うつむいて咲きますので、桟の高さだと、上から見ることになります。少し出しておかないと、花の顔が見えません」
わたくしは、手のなかの苧環を見た。
たしかに、下を向いている花の顔が、こちらを向いている。
二年、毎朝そうだったのだと思う。うつむく花の日は、いつも少しだけ長かった。
訊きたいことが、次から次に出てくる。
二十年、一度も外に出さなかったものが、堰を切ったように出てくる。
「棘は、いつも落としてありますね?」
「落とします」
「毎朝?」
「毎朝です」
その人の指の腹が、暗いなかでも荒れているのが分かる。
「面倒ではありませんか?」
「慣れました」
「都忘れには、棘などありませんのに、下のほうだけ払ってありました」
「持つところですので。細かい毛が刺さることがあります」
霧が、肩掛けの上で細かい粒になっている。
「雨の日は、包んでこられますか?」
「濡らした布で包みます。乾いた紙だと、途中で紙のほうが水を吸いますので」
「三日もつように切る日と、その日だけの日があります」
その人が、また黙った。
今度の黙り方は、さっきまでと違っている。何をどう答えるか迷っているのではない。何かを、初めて考えている顔である。
「……どうして、それをご存じなのですか?」
「数えておりますので」
「数える?」
「昨日までの七百二十一輪は、全部書いてございます。今朝のが、七百二十二輪目です」
霧のなかで、鐘が鳴った。
夜明けの鐘である。丘の下の街から、遅れてもうひとつ届く。その二つが重なって、石の段の上でしばらく鳴っている。
「どうして、そんなに何でも答えてくださるの?」
わたくしは訊いた。
二年である。二年間、この人は毎朝ここに立ち、一度も何も言わずに帰っていった。それがいま、訊いたそばから全部答えている。
「訊かれましたので」
「訊かなければ?」
「選んだ理由は、こちらからは言わない。うちの決まりです」
「決まり?」
籠の縁を、その人の指がひとつ叩いた。癖なのだろうと思う。
「祖父の代からの。母に叩きこまれました」
「お母さまが、お決めになったの?」
「決めたのは祖父です。母は、守っただけで」
霧の向こうで、荷車が坂を上がっていく音がする。
「今は、お母さまは?」
「残念ながら四年前に……」
「……存じませんでした」
その人は籠を持ち直し、少しだけ首を下げる。
「メルツと申します。丘の北で温室をやっております。エーリク・メルツ」
名前を、初めて聞いたことにした。
昨日ミレナから聞いていると言えば、なぜ昨日まで知らなかったのかを、説明しなければならなくなる。
「明日の便のことですが」
「はい」
「置く場所を、うかがってもよろしいですか?」
◇
その一言が、なぜあれほど堪えたのかを、わたくしはあとになっても、うまく言葉にできない。
置く場所を訊かれたことが、二十年で一度もなかったからだと思う。
どこに置くのか。どの高さで、どちらを向いて、誰の目に入るのか。それを先に訊いてから切る人が、この世にいる。
しかも、二年前からいた。
喉の奥が熱くなって、わたくしは苧環を持ち直す。左手だけでは頼りなくて、右手を添えそうになり、布に触れて、やめる。
「……北の窓のままで、けっこうです」
「承知しました」
「あの、メルツさん」
「はい」
言おうとして、言葉が三つばかり喉でつかえる。
訊けば終わる。訊かなければ、明日もこの人は何も言わずに坂を下りていく。二年、そうだった。
「どうして、わたくしの部屋をご存じなの?」
霧が、坂の下から白く上がってくる。
その人は、たったいま自分が誰と話していたのかを、そこで知ったらしい。
籠を持つ手が、動かなくなった。
◇
部屋へ戻って、帖を開く。
七百二十二輪の一行を書く。丈、指四本。葉三枚。うつむき。夜明けの鐘の前。
それから、その行の脇の余白へ、二年で初めて、花以外のことを書き写した。
――置く場所を、うかがってもよろしいですか
人の言った言葉を、この帖へ入れたのは初めてである。
◇
七二二 五ノ一二 苧環 指四本 葉三 ウツムキ 鐘前 北ノ窓
少シ長メニ切ル。桟ノ高サデハ上カラ見ルコトニナル。
通用口ニ人。ミレナサンデハナカッタ。
右手ニ布。二年、一度モナカッタ。
水ヲ替エタ跡ガアル。左手デ。
次ノ便、未定。
訊カレタ。丈ノコト、棘ノコト、雨ノ日ノ包ミ。全部答エタ。
二年デ初メテ。掟ノ三ツ目ハ、訊カレレバ答エルトイウ意味デモアル。
明日ノ置ク場所ヲ訊イタ。北ノ窓ノママ。




