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2. 一度も、お訊きになりませんでしたので

 朝の鐘の前に目が覚めて、右手が自分のものでないみたいに重い。


 寝台の上で指を一本ずつ曲げてみる。親指がいちばん言うことをきかない。皮が張って、内側から押されているような具合である。


 それでも、北の窓へは行く。


 七百二十一輪目は、都忘れだった。


 薄い紫が、もう開ききっている。丈は指三本ぶん。昨日より短い。葉は一枚しか付いていない。棘の出る花ではないのに、茎の下のほう――ちょうど指がかかるあたりだけが、きれいに払ってある。


 窓の外は霧で、楡の梢が半分溶けている。厩の音はまだしない。


 わたくしは帖と羽根を出し、左手に持ち替えた。


 線が震える。字が跳ねる。書き終えた一行は、二年ぶんのどの行とも似ていない。


 七百二十一輪 第五の月十一日 都忘れ 丈、指三本 葉一枚 開き 夜明けの鐘の前


「お嬢様。お手で書かれたのですか?」


「左で」


「わたくしがお書きしますのに」


「これは、わたくしの帖だもの」


 ミレナが桶を置き、覗きこむ。曲がった行を、しばらく黙って見ている。


「ひどい字でしょう?」


「今日のぶんだと、あとで分かります」


「そうね。そういう帖だものね?」


「さようでございます」


       ◇


 軟膏を塗り替えてもらいながら、広間のことを訊いた。


「あの薔薇は?」


「花瓶に三つに分けて、広間へ」


「開いた?」


「昨日より、ずいぶん」


 軟膏の匂いが立って、指の付け根がひやりとする。ミレナは布を巻き直しながら、こちらを見ずに続ける。


「棘は、そのままにしてございます。抜きますと花のもちが変わりますので」


「そういうものなの?」


「花屋の方はそうおっしゃいます」


「見にいくわ」


「お手をお出しになりませんように」


 広間の薔薇は、たしかに開いている。


 濃い紅が、朝の光のなかでは思ったより黒く見える。棘は落としていないままで、茎に触れずに運べるよう、ミレナが根元へ布を巻いてくれていた。


 美しい花である。わたくしはそれを、部屋の入口から見ている。


 近づけば匂いは届くけれど、それだけのことで、手を伸ばすことはできない。


 二年のあいだ、この家の花はいつも手の届くところにあった。北の窓の桟の、腕を伸ばせば触れる場所に。毎朝、素手で持ち上げて、水を替えて、紙に挟んできた。


 そのことを、今朝まで一度も、不思議に思っていない。


 部屋へ戻り、ミレナに桶を持ってきてもらった。


「ミレナ」


「はい」


「これは、誰が持ってくるの?」


 布を絞る手が止まる。


 水の落ちる音が、二度、三度。


「……北の温室の方でございます」


「北の温室?」


「丘を越えて、少し行ったところの。花を作っておいでの家です」


 ミレナは布を桶のふちに掛け、両手を膝の上でそろえた。この人がそうするときは、長い話になる。


「その家の方が、届けにいらっしゃるの?」


「若い旦那さまが、ご自分でお持ちになります」


「毎朝?」


 布の端から、水が一滴落ちる。


「毎朝でございます」


「二年、毎朝?」


 喉の奥が、うまく動かない。


「二年、毎朝でございます」


「雨の日も?」


「雨の日も、まいります」


「雪の日も?」


 ミレナは少しだけ考える顔をして、それから言い直した。


「雪の日は、鐘のあとにずれます。坂が凍りますので」


「わたくしが受け取っております。通用口で。夜明けの鐘が鳴る前に、あちらから坂を上がっていらして、籠から一輪だけ出して、こちらへ渡して、それでお帰りになります」


「中へは?」


「一度もお入りになりません」


「お茶も?」


 ミレナが首を振る。


「お出ししようとしたことはございます。二年で四度ほど。四度とも、水だけいただいて帰られました」


「名乗られたことは?」


「初めの朝に一度きりです」


 わたくしは、自分の膝を見ていた。


 二年である。七百二十一の朝、この家の通用口に、人が立っていたのだ。


「どうして言わなかったの?」


 ミレナが顔を上げる。


 責める気持ちで訊いたのではないのに、そう聞こえたのだろうと思う。この人は言い訳をしない。だからいつも、いちばん短い答えを返してくる。


「一度も、お訊きになりませんでしたので」


       ◇


 その言葉は、ずいぶん長いこと部屋に残っていた。


 わたくしは毎朝、花のことを訊いている。今朝はどの花か。丈はどれくらいか。もう開いていたか。ミレナはそのたびに答えてくれた。二年、一度も面倒がらずに。


 届けた人のことだけ、一度も訊いていない。


 花は空から降ってくるものではない。誰かが選び、切り、水を含ませて、坂を上がってくる。当たり前のことである。当たり前すぎて、言葉にする必要がないと、わたくしはどこかで決めていた。


 いいえ。


 決めていたのではない。


 訊けなかったのだと思う。


 六つのとき、母の薬の減り方を数えて、父に言った。あのとき父が何と言ったかは、まだ覚えている。それから、わたくしは気づいたことを口に出さなくなり、そのうちに、訊くこともしなくなった。


 訊くというのは、相手に「あなたは知っているか」と踏みこむことである。


 わたくしはずっと、踏みこまずに数えるほうを選んできた。


「お嬢様。お顔の色が」


「ミレナ、わたくしは」


「はい」


「二年、数えていただけなのね?」


 ミレナは答えない。


 答えないことが、この人のいちばん優しい答え方である。


 通用口まで下りてみた。


 石の段が三つ。鉄の取っ手。段の脇に、雨水を受ける桶が置いてある。何もない場所である。二十年この家に住んで、わたくしはここに立ったことが数えるほどしかない。


 段の上に、乾いた葉の切れはしがひとつ落ちていた。


 拾おうとして、手が動かないのを思い出す。


       ◇


 帖をもう一度開く。


 左手で書いた曲がった一行の、その下に余白がある。日付を書く欄と、花を書く欄と、丈を書く欄。


 名前を書く欄が、どこにもない。


 二年前にこの帖の形を決めたのはわたくしで、そのときわたくしは、そこに人が要ることを一度も考えていない。


 羽根を置き、ミレナを見る。


「その方のお名前は?」


 ミレナは少し驚いた顔をして、それから、初めて笑った。


「北の温室の、メルツさんです」


「メルツ?」


「エーリク・メルツさま。――お会いになりますか?」


       ◇


 七二一 五ノ一一 都忘レ 指三本 葉一 開キ 鐘前 北ノ窓


 昨日ノ矢車菊ガ、マダ挿サッタママ。夜ノウチニ抜イテ押スハズノモノ。二年デ初メテ。


 広間ニ紅。硝子越シニ見エタ。棘、落トシテナイ。


 今日ハ一日、家ニオラレルハズ。開キヲ置ク。


 次ノ便、苧環。指四本。


 水差シノ位置、指一本ブン右ヘ寄ッテイル。誰カガ持チ上ゲタ跡。


 通用口ノ段ニ、葉ノ切レハシガ落チタママ。昨日ハ掃カレテイナイ。


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