1. 七百二十輪目
夜明けの鐘が鳴る前に、花は来ている。
わたくしはそれを知っている。知っていて、鐘で目を覚ましてからしばらく天井を見ているのが、いつのまにか習いになっている。急いで降りていっても、置いた人はもういない。二年のあいだに覚えたのは、そのくらいのことである。
寝台を出て、北の窓へ寄る。
窓の桟は奥行きが指六本ぶんしかない。そこに小さな水差しがひとつ載っている。母の嫁入り道具の余りで、口が欠けていて、欠けているから誰も使わない。だからわたくしの部屋にある。
その水差しに、今朝の一輪が挿してあった。
矢車菊である。
青が濃い。蕾がひとつ、まだ固く閉じている。茎は指四本ぶんに切ってあって、水差しの口から、花だけがちょうど顔を出す。棘はない。葉は二枚だけ残してある。
指で茎に触れると、まだ冷たい。厩のほうで、馬を出す音がしはじめている。
窓の硝子は夜のあいだに曇って、下のほうだけ水になって垂れていた。その筋の向こうに、庭の楡が黒く立っている。空はまだ灰色で、東のふちだけが薄い。
机の抽斗から帖を出し、羽根を取る。
七百二十輪 第五の月十日 矢車菊 丈、指四本 棘なし 葉二枚 蕾ひとつ 夜明けの鐘の前
一行は、朝のうちに書く。押し花にするのと、下へ一言を添えるのは、その日の夜と決めている。花を一日水に挿してからでないと、うまく押せないからである。
二年になる。婚約した日の朝から、たった一日を除いて、毎朝一輪ずつ届いている。わたくしはそれを押し花にして、帖に貼り、一行ずつ書いてきた。厚みが指二本ぶんになっている。
扉が細く開く。
「お嬢様。もうお起きでいらっしゃいますか?」
「ええ」
「まだ朝の鐘も鳴りませんのに」
「花を見ていたの」
「毎朝ご覧になっておいでですよ」
ミレナは呆れた顔をしない。二年、毎朝この時刻に呆れずにいてくれる人である。
「今朝はどちらへ?」
「北の窓。ちょうど入るのよ、丈が」
「さようでございますか?」
ミレナが水差しを覗きこむ。息が硝子にかかって、白い丸ができて、すぐに消える。
「ねえミレナ。この水差し、口が欠けているでしょう?」
「欠けておりますね」
「欠けているところに、いつも茎が来ないの。向こう側へ寄せて挿してあるのよ、必ず」
言ってから、口を閉じた。
こういうことを言うと、たいてい話はそこで終わる。相手が困った顔をして、それで終わる。わたくしは六つのころからそれを繰り返して、二十になっている。
「……お嬢様は、よくお気づきになりますこと」
「ごめんなさい。今のは忘れて」
「忘れませんよ」
「ミレナ」
「二年ぶん、ようございました。わたくしは覚えておりますとも」
ミレナは水差しを持ち上げ、水を替えて、また同じ場所へ戻す。欠けたところを、向こう側へ回して。
◇
朝の鐘が鳴る。
昼までに、わたくしは三度、北の窓へ戻った。蕾は固いままでいる。開いていない花は、見ているあいだに開くかもしれないと思えるので、わたくしは蕾のほうが好きである。
「ユーディット!」
クラウス様の声は、玄関から二階まで届く。昔からそうで、悪気があってそうなのではない。
降りていくと、廊下いっぱいに紅い色がある。
「二年だ。今日で二年になる」
「はい」
「覚えていたぞ、私は」
「ありがとうございます」
「花だ。今朝は特別に、私が選んだ」
抱えていらしたのは、薔薇だった。
濃い紅が腕からあふれている。クローネン侯爵家の紋は薔薇で、あの家の温室は薔薇で知られていて、婚約の花に薔薇を贈るのはこの国の習わしでもある。何ひとつ間違っていない。
「どうだ?」
「……ご立派ですね」
「店でいちばんよいものを、と言えば済む。それだけのことだがね」
クラウス様は笑って、束をこちらへ押し出す。
わたくしは、両手を出していた。
出してしまってから、自分でも驚いている。断る言葉ならいくらでもあったのに、そのどれも喉から出てこない。婚約者が、自分で選んだと言っている。二年で初めてのことである。
嬉しかったのだと思う。
束は重い。茎が太く、棘は落としてない。手のひらに、ざらりとしたものが残る。
「王都は雨続きでね。三日、馬車が出せなかった」
「お疲れさまでございました」
「祝いの席も手配はしてある。来月だ。母上が仕切る」
「はい」
「ユーディットは薔薇が好きだったろう?」
喉の奥が乾く。
束のどこかで棘が動いて、親指の付け根を撫でていく。
「違ったか?」
「……いいえ」
いいえ、と言った。
訂正して通じたことが、わたくしの二十年に一度もないからである。
「よかった。母上も薔薇だ。あの家は皆そうだよ」
「そうですね」
「では、また来る。来月までに仕立てを決めておきなさい」
クラウス様は本当に嬉しそうで、それが、いちばんつらかった。
◇
夕の鐘のころには、右手の甲が赤くなっている。
「お嬢様! お手が」
「ええ」
「どうしてお持ちになったのですか? あれほど――」
「持ってしまったの」
ミレナが息を詰めるのが分かる。叱る言葉を選んでいて、選びきれずにいる。
「薬をお持ちします。冷やす布も」
「ミレナ」
「はい」
「怒らないで」
ミレナは何も言わずに出ていき、水を張った桶と、布と、軟膏を持って戻ってきた。指のあいだが腫れて、曲げると皮が張る。夜の鐘が鳴るころには、親指がもう曲がらない。
「痛みますか?」
「あまり」
「嘘をおっしゃい」
「……少し」
布を替える手つきが、だんだん乱暴になっていく。ミレナは怒ると口数が減る人で、いまは軟膏の蓋を三度も落としている。
「あの薔薇は、下げてまいります」
「いいえ。広間に置いておいて」
桶の水が揺れて、天井の灯りが細かく割れる。
「お嬢様」
「あの方が、初めてご自分で選んだものだもの」
◇
夜。
帖を開いた。
羽根が持てない。
押し花にする紙も、重しの板も、いつもの場所に出してある。矢車菊は水差しに挿したままで、蕾はまだ開いていない。挟むことも、下に一言を添えることも、今夜はできない。
わたくしは長いこと、朝に書いた一行の下の、白いままの余白を見ていた。
七百二十輪を書いてきて、添え書きのない夜は初めてである。
書けない手を見ているうちに、数のほうがひとりでに動きはじめる。
矢車菊。都忘れ。苧環。鈴蘭。金雀枝。白丁花。露草。思い出せるかぎり並べてみても、そのなかに薔薇が一輪もない。
一輪も、ない。
この国でいちばん贈られる花で、あの方の家の紋で、あの方の家の温室が咲かせている花である。それが七百二十輪のうちに一輪もないというのは、もう偶然ではありえない。
毎朝、誰かが、選り分けている。
わたくしが薔薇に触れられないことを、この家の者は誰でも知っている。厨房の女中も、厩番も、庭の掃除に来る少年も知っている。
知らないのは。
声が、口から出ていた。
「婚約者からと、毎朝届く花を選んでいたのは、あなたではありませんね」
扉のところで、ミレナが息を吸う音がする。
わたくしは振り返らなかった。
明日の朝も、鐘の前に花が来る。七百二十一輪目が、北の窓の桟に置かれる。丈は指四本か、指三本か。棘は落としてあるに決まっている。
それを切っている人が誰なのかを、わたくしは二年、一度も訊いていない。
◇
七二〇 五ノ一〇 矢車菊 指四本 棘ナシ 葉二 蕾一 鐘前 北ノ窓
門ニ掲示。侯爵家ノ馬車、昼ニ入ル由。人ノ来ル日ハ、開イタノヨリ蕾ノホウガモツ。
水差シノ口、欠ケタママ。二年、取リ替エル気配ナシ。欠ケハ向コウ側ヘ回シテ挿ス。
厩、鐘ノ前ニ動ク。灯リハ北ノ窓ガ先。
次ノ便、都忘レ。指三本。
薔薇ハ入レナイ。二年、一輪モ。理由ハ訊カレテイナイ。
薔薇ノ束ヲ抱エラレタラ、三日カ四日ハ手ガキカナクナル。




