六歳の悪役令嬢は、婚約破棄ごっこで国を傾ける
リゼリア・ヴェルグレイン公爵令嬢、六歳。
金糸のような髪を二つに結び、白いレースの手袋をはめ、王宮の庭園で真剣な顔をして砂糖菓子を並べていた。
「こちらが、でんかのおぶんですわ。こちらが、わたくしのおぶんです」
丸い卓の上には、小さな焼き菓子が六つ。
王太子エルヴィン、七歳は、それをじっと見つめてから言った。
「ぼくのほうが、ひとつすくない」
「でんかは、さきほどクッキーをふたつお召しあがりになりました」
「でも、あれは、まえのクッキーだ」
「お腹はひとつでございます」
「リゼリアは、けちだ」
「こうへいです」
リゼリアは胸を張った。
公爵家の娘として、何事も公平であるべきだと教わっている。たとえ相手が王太子殿下であっても、菓子を余分に取るのはよろしくない。
エルヴィンは口を尖らせた。
その横で、伯爵家や侯爵家の子どもたちがくすくす笑っている。
王宮の庭園では、貴族の子女を集めた小さなお茶会が開かれていた。大人たちは少し離れたところで話している。子どもたちだけの社交練習、という名目だった。
リゼリアとエルヴィンは婚約者同士である。
もちろん、本人たちはその意味をきちんとは分かっていない。
リゼリアにとって婚約者とは、「将来いっしょに王宮のお仕事をする相手」であり、「王太子殿下が菓子を余分に取らないよう見張る相手」であった。
エルヴィンにとって婚約者とは、「いつも横にいて、だめですわと言ってくる女の子」であった。
その日、エルヴィンは少し機嫌が悪かった。
午前の勉強で家庭教師に叱られた。剣術の稽古では転んだ。さらに、楽しみにしていた蜂蜜菓子を、リゼリアに公平に分けられてしまった。
「ねえ、でんか」
男爵令嬢ミリアが、ふわふわした薄桃色の髪を揺らして近づいた。
彼女は最近、王妃に可愛がられて王宮へ出入りするようになった少女である。リゼリアよりひとつ年上で、泣きそうな顔を作るのが上手だった。
「きのう、げきで見たの。おうじさまが、いじわるな令嬢に言うのよ」
「なんて?」
「おまえとのこんやくは、はきする、って」
その言葉に、子どもたちがわっと盛り上がった。
「しってる!」
「悪い令嬢が泣くやつ!」
「そのあと、かわいい子をえらぶんだよね!」
エルヴィンは目を輝かせた。
芝居の王子様。
自分も王子様。
それなら、きっと似合うに違いない。
彼は椅子から立ち上がり、まだ短い足で精いっぱい威厳を作った。
「リゼリア!」
「はい、でんか」
リゼリアは焼き菓子の皿を持ったまま振り返った。
「ぼくは、きみとのこんやくを、はきする!」
庭園に、子どもたちの笑い声が弾けた。
リゼリアは、ぱちぱちと瞬きをした。
「こんやくを、はき」
「そうだ! ぼくは、ミリアとけっこんする!」
ミリアが頬を染めて、きゃあと両手で顔を隠した。
「リゼリアは、いじわるだからな!」
「いじわる」
「いつも、だめですわって言う!」
「だめなことをなさるからですわ」
「ほら! そういうところだ!」
また、子どもたちが笑った。
少し離れた場所で見守っていた侍従の顔から、すうっと血の気が引いた。
王太子が、公爵令嬢に婚約破棄を告げた。
遊びである。
子どもの戯言である。
そう片づければ、それで終わるはずだった。
ただし、その場には隣国大使の娘もいた。王家に批判的な侯爵家の息子もいた。王妃派に近い貴族の子も、公爵家に近い貴族の子もいた。
そして何より、リゼリアは公爵家の娘だった。
彼女はしばらく考えた。
父の執務室で聞いた言葉。
母が夜会のあとに言っていた言葉。
家庭教師が黒板に書いた言葉。
婚約とは、家と家とのお約束です。
お約束を破ったほうには、責任がございます。
リゼリアは、にこりと笑った。
「かしこまりました、でんか」
子どもたちの笑い声が、少しだけ小さくなった。
リゼリアは丁寧に膝を折った。
「では、いやくきんをいただきますわ」
「い……?」
「それから、いしゃりょうもいただきます」
エルヴィンは首を傾げた。
「なにそれ」
「お約束を破ったほうが、はらうものです」
「いやだ」
「でも、でんかが破棄するとおっしゃいました」
「ごっこだぞ」
「はい。こんやくはきごっこですわ」
リゼリアは、可愛らしい声で続けた。
「ですから、わたくしも、こんやくはきされた令嬢ごっこをいたします」
ミリアがくすっと笑った。
「リゼリアさま、こわい」
「こわくございません。じゅんばんですわ」
「じゅんばん?」
「まず、でんかからいただいたものをお返しいたします。つぎに、公爵家から王家へ差し上げたものを返していただきます。それから、わたくしはもう、でんかの婚約者としてお茶会に出ません」
侍従が一歩、前へ出た。
「リゼリア様、その、これは子ども同士の遊びで――」
「はい。遊びですわ」
リゼリアは振り向いて、無邪気に笑った。
「でも、お約束の遊びは、最後までちゃんとしないといけません。そうでしょう?」
侍従は、何も言えなかった。
その日の夕方。
ヴェルグレイン公爵家の馬車に乗ったリゼリアは、家に帰るなり、自分の部屋から小さな箱をいくつも運び出した。
王家の紋章が入ったリボン。
エルヴィンから贈られた絵本。
王妃から贈られた人形。
王宮で分け与えられた菓子皿。
侍女たちは微笑ましそうに見守っていた。
「お嬢様、お片づけですか?」
「ちがいます。へんきゃくです」
「返却?」
「でんかが、こんやくをはきなさいました」
侍女の笑顔が固まった。
リゼリアは机に向かい、まだたどたどしい字で一枚ずつ手紙を書いた。
『こんやくはきされたので、おかえしします』
『でんかが、ミリアさまとけっこんするとおっしゃいました』
『リゼリアは、いじわるな令嬢なので、もうおうきゅうにはいきません』
そして最後に、王太子へ向けて短い手紙を書いた。
『こんやくはきごっこ、たのしかったです』
公爵がその手紙を見たのは、夜だった。
娘の遊びだと聞いていた。
しかし、リゼリアの話を一つ一つ聞いた公爵は、笑わなかった。
「殿下は、皆の前でそうおっしゃったのか」
「はい」
「ミリア嬢と結婚すると?」
「はい。ミリアさまは、かわいい子ですから」
「リゼリアは、どう思った」
「でんかは、やくそくを破るごっこがお上手だと思いました」
公爵はしばらく沈黙した。
それから、娘の頭を撫でた。
「そうか。リゼリアは、よく覚えていたな」
「お約束は大事ですもの」
「ああ。とても大事だ」
翌朝、ヴェルグレイン公爵家から王宮へ、正式な確認状が送られた。
内容は簡潔だった。
先日の王宮庭園における王太子殿下の発言は、ヴェルグレイン公爵家令嬢リゼリアとの婚約解消の意思表示であるか。
また、男爵令嬢ミリアを新たな婚約者とする王家の意向であるか。
王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
王は額を押さえた。
宰相は胃を押さえた。
王太子付きの侍従は青い顔で証言した。
「殿下は、確かにおっしゃいました。ですが、あれは芝居の真似で……」
「誰がその芝居を殿下に教えた」
「ミリア嬢が……」
「なぜ男爵家の娘が、王太子の婚約者を断罪する芝居を王宮で話題にしている」
沈黙が落ちた。
王妃は涼しい顔で言った。
「子どもの遊びでしょう。公爵も大人げないこと」
だが、公爵は王の前で静かに一礼した。
「もちろん、遊びであれば問題ございません。ただし、我が娘はその遊びに従い、王家からの贈答品を返却いたしました。では、王家もまた、我が家から差し上げた支援金、領地通行権、北部街道整備に関する優先権を、遊びとしてお返しくださるものと考えてよろしいでしょうか」
宰相が咳き込んだ。
王の顔色が変わった。
ヴェルグレイン公爵家は、王家の北部支配を支える大貴族である。王太子とリゼリアの婚約は、単なる子ども同士の約束ではない。軍事、物流、税、隣国との牽制、そのすべてが絡んでいた。
王妃は唇を噛んだ。
「そのような大げさな」
「大げさではございません。婚約は家と家との約定です。王太子殿下は、その約定を公衆の前で破棄するとおっしゃった。もし遊びであるなら、誰がそのような遊びを殿下に許したのか。もし本気であるなら、王家の正式な意向として承ります」
王は王妃を見た。
「ミリア嬢を王宮へ招いたのは、お前だったな」
王妃は答えなかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
さらに悪いことに、男爵夫人は空気を読むのが苦手だった。
彼女は呼び出された広間で、泣きながら叫んだ。
「だって、殿下はうちのミリアのほうがお好きなのです! リゼリア様はいつも正しくて、可愛げがなくて、殿下がお可哀想ですわ! 王妃様だって、ミリアのほうが王宮にふさわしいと――」
「黙りなさい!」
王妃の叱責は遅すぎた。
広間にいた全員が聞いた。
王妃が、公爵令嬢との婚約を軽んじ、男爵令嬢を王太子に近づけていたこと。
王太子がその空気を読み、婚約破棄ごっこをしたこと。
そして公爵家が、その侮辱を正面から受け取ったこと。
その日から、王宮の風向きは変わった。
王妃派の貴族たちは、次々と距離を取り始めた。
男爵家は王宮出入りを禁じられた。
王太子の教育係は全員交代となった。
王妃はしばらく離宮で静養することになった。
ヴェルグレイン公爵家は、婚約継続について再考を申し入れた。
王家は継続を望んだ。
公爵家は、返答を保留した。
その間、リゼリアは自室で人形遊びをしていた。
「こちらが、こんやくはきされた令嬢です。こちらが、やくそくを破った王子さまです」
人形の王子は、積み木で作った小さな塔の上に置かれている。
「王子さまは、まず、ごめんなさいをします」
リゼリアは王子の人形をぺこりと頭を下げさせた。
「それから、なぜ悪かったかを言います」
侍女たちは顔を見合わせた。
「お嬢様、それはどなたに教わったのですか?」
「お父さまです」
「公爵様が」
「はい。ごめんなさいだけでは、たりないそうですわ」
数日後。
王宮から使者が来た。
王太子エルヴィンが、リゼリアに謝罪したいという。
リゼリアは父に連れられ、王宮の小広間へ向かった。
エルヴィンは目を赤くしていた。
王太子用の立派な服を着ているのに、背中は小さく丸まっていた。
「リゼリア」
「はい、でんか」
「ごめん」
リゼリアは首を傾げた。
エルヴィンは隣に立つ新しい教育係に促され、震える声で続けた。
「ぼくは、みんなの前で、きみとのこんやくをはきすると言いました。でも、こんやくは、ぼくひとりのものではありません。王家と公爵家の、大事な約束でした。ぼくは、それを分からずに、遊びにしました。ごめんなさい」
リゼリアはじっと聞いていた。
エルヴィンはさらに言った。
「ミリアとけっこんするって言ったのも、だめでした。きみを、いじわるだと言ったのも、だめでした」
「はい」
「だから、もう一回……」
エルヴィンは顔を上げた。
「もう一回、婚約者ごっこをしてくれる?」
広間の空気が止まった。
王も、宰相も、公爵も、侍従も、誰も何も言わなかった。
リゼリアは少し考えた。
それから、にっこり笑った。
「いやですわ」
エルヴィンの顔がくしゃりと歪んだ。
「どうして」
「でんかは、約束を破るごっこがお上手ですもの」
「もうしない!」
「本当に?」
「本当だ!」
「王子殿下のお言葉ですね?」
エルヴィンは口を開きかけて、止まった。
新しい教育係が、満足そうに小さく頷いた。
リゼリアは父の手を握った。
「わたくし、まだ六歳ですから、むずかしいことは分かりません」
誰もが、そうだろうと思った。
だが、次の言葉で全員の背筋が冷えた。
「でも、約束を破る人と、国を守るお約束はできないと思います」
王が目を伏せた。
宰相は静かに息を吐いた。
公爵は娘の手を握り返した。
リゼリアは、最後にエルヴィンを見た。
「でんか」
「なに」
「次は、王様ごっこでもなさる?」
エルヴィンには意味が分からなかった。
けれど、大人たちには分かった。
王太子が王の真似事で約束を軽んじれば、その先にあるのは国の失墜である。
たった六歳の公爵令嬢が、無邪気な声でそれを言った。
その日、ヴェルグレイン公爵家は王太子との婚約を白紙に戻した。
王家は北部政策の見直しを迫られた。
王妃派は力を失い、王太子は厳しい再教育を受けることになった。
貴族たちは噂した。
あの公爵令嬢は恐ろしい。
六歳にして、王宮を震え上がらせた。
あれは将来、とんでもない悪役令嬢になるに違いない。
当のリゼリアは、そんな噂を知らない。
今日も部屋で人形を並べている。
「こちらが、やくそくを守る王子さまです」
王子の人形は、きちんと椅子に座らされていた。
「こちらが、やくそくを破った王子さまです」
もう一体の王子は、箱の中にしまわれた。
侍女が尋ねた。
「お嬢様、その王子様はもう出さないのですか?」
「はい」
「なぜです?」
リゼリアは当然のように答えた。
「破棄されましたもの」
そして、砂糖菓子をひとつ口に入れた。
甘くて、ほろほろ崩れる菓子だった。
リゼリアは満足そうに頷く。
「お約束を守る子には、ひとつ多くあげてもよろしいですわね」
窓の外では、王宮からの使者を乗せた馬車が、今日もまた公爵家の門前で待たされていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
六歳の子どもたちの「ごっこ遊び」から始まる、婚約破棄のお話でした。
本人たちはただ芝居の真似をしているだけ。
けれど、婚約も、王太子の言葉も、公爵家との約束も、大人たちの世界では決して軽くありません。
リゼリアは賢いですが、悪意があるわけではありません。
教わったことをそのまま守り、「約束を破ったなら責任を取るもの」と考えただけです。
その無邪気さが、結果として一番容赦のない断罪になりました。
可愛い悪役令嬢ちゃんの婚約破棄ごっこ、お楽しみいただけましたら幸いです。




