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零号室  作者: 清忠
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(第二部 . 第一章 ) 戸籍のない男

零号室

第二部 忘れられた人々


第一章 戸籍のない男


 白い鶴の首が、ゆっくりこちらを向いた。

 押し入れの奥。

 本来なら壁で塞がれているはずの場所に、畳の部屋が続いている。中町ハイツ三〇四号室の、あの零号室。薄暗い六畳間。古びた柱。低い天井。紙の匂い。

 そして闇の奥から、結衣の声がした。

「お兄ちゃん」

 晴人は、息を忘れた。

 足が一歩、勝手に前へ出る。

 行ってはいけない。

 頭では分かっていた。あそこにあるものは、部屋ではない。記憶だ。後悔だ。人の中に沈んだものを、手で掴める形にして見せる何かだ。

 それでも、その声を聞くと体が動いた。

 十年前、炎の中で一度失った声。

 もう二度と呼ばれないはずだった名前。

「晴人さん」

 背後から瀬奈が言った。

 声は低かった。

 けれど、その一言に刃のような硬さがあった。

「入らないでください」

 晴人は振り向かなかった。

 振り向けば、あの声が遠ざかる気がした。

 扉の向こうで、白い鶴が畳の上を滑る。

 誰も触れていない。

 風もない。

 それなのに、鶴は少しずつこちらへ近づいてくる。

「お兄ちゃん」

 結衣の声。

 近い。

 あのときよりも、ずっと近い。

「……結衣」

 晴人の唇が、名前を形にした。

 瀬奈の手が、彼の腕を掴んだ。

 強かった。

 細い指とは思えない力で、彼女は晴人を引き戻した。

 次の瞬間、押し入れの奥の扉が閉まった。

 音は、しなかった。

 ただ、畳の部屋が消えた。

 白い鶴も、子どもの声も、結衣の気配も、全部。

 残ったのは、かび臭い押し入れの壁だけだった。

 古いベニヤ板。

 黒ずんだ染み。

 剥がれかけた壁紙。

 どこをどう見ても、そこには扉などなかった。

 晴人はしばらく動けなかった。

 瀬奈の手が、まだ腕を掴んでいる。

 彼女の爪が、コートの布越しに食い込んでいた。

「……放してくれ」

「嫌です」

「もうない」

「なくてもです」

 瀬奈は言った。

「今のあなたは、呼ばれたら入ります」

 晴人は何も言い返せなかった。

 その通りだった。

 もし瀬奈が止めなければ、彼は入っていた。

 どこへ繋がっているのかも分からない場所へ。

 何を失うのかも知らないまま。

 野方団地二〇六号室の空気は冷えていた。

 部屋の中央では、山川真理が息子の灯を抱きしめている。けれど、その腕の中にいるはずの少年の姿は、もう誰の目にもはっきりとは見えなかった。

 半透明、という言葉では足りない。

 灯はそこにいる。

 確かに、泣いている。

 けれど目を離すたびに、輪郭が少しずつ人間から遠ざかっていく。

 紙に描かれた鉛筆線を、消しゴムで何度も撫でたように。

「お母さん」

 灯が言った。

「ぼく、もう帰ってきたの?」

 真理は答えられなかった。

 ただ、何度も首を振った。

 戻ってきた、とは言えなかった。

 戻ってきていない、とも言えなかった。

 瀬奈は晴人の腕を放し、鞄からスマートフォンを出した。

 画面を開き、録音アプリを確認する。

 波形は残っていた。

 だが再生ボタンを押すと、聞こえてきたのは雑音だけだった。

 ジジ、ジジジ、と古いラジオのような音。

 さっきまでこの部屋にいたはずの少年の声も、結衣の声も、何も入っていない。

 瀬奈は無言で再生を止めた。

「またですか」

 晴人は押し入れを見たまま言った。

「ええ」

「記録に残らない」

「残りたくないんでしょうね、あちら側が」

 瀬奈はスマートフォンをしまい、床に膝をついた。

 押し入れの前に、何かが落ちていた。

 小さな紙片だった。

 畳の埃にまみれ、端が少し焦げている。

 晴人が拾おうとすると、瀬奈が先に手を伸ばした。

「待って」

 彼女は紙片を指で摘まみ、裏返した。

 そこには、震えた字で名前が書かれていた。

 佐伯喜一。

 その下に、住所らしきもの。

 中町二丁目。

 だが番地の部分は黒く焼けて読めなかった。

 紙の端には、役所で押されるような受付印が半分だけ残っている。

 日付は、十七年前。

 瀬奈の目が細くなった。

「この名前、母のノートにありました」

「零号室の関係者?」

「おそらく」

 瀬奈は紙片を透明の袋に入れた。

 慣れた手つきだった。

 こういうものを何度も拾ってきた人間の動きだった。

「調べます」

「今から?」

「明日の朝です。役所が開いてから」

 晴人はもう一度、押し入れの奥を見た。

 ただの壁。

 けれど、その向こうに結衣がいる気がした。

 声だけではない。

 視線が残っている。

 今も、壁の向こうからこちらを見ている。

 お兄ちゃん。

 そう呼ばれた胸の奥が、まだ痛んでいる。

 瀬奈が立ち上がった。

「晴人さん」

「何ですか」

「もしまた呼ばれても、返事をしないでください」

 晴人は笑わなかった。

「妹に呼ばれて、黙っていられる人間がいると思いますか」

 瀬奈は少しだけ目を伏せた。

「いないと思います」

 そして、静かに続けた。

「だから危ないんです」

 翌朝、雨が降っていた。

 細い雨だった。

 傘の布を叩く音が弱く、街の輪郭だけをゆっくり滲ませるような雨。

 晴人は区役所前の歩道で瀬奈を待っていた。

 午前九時を過ぎたばかりなのに、窓口にはもう人が並んでいる。住民票、保険、年金、子どもの手当、死亡届。

 生きている人間と、死んだ人間を、紙の上で分ける場所。

 その建物の前で、晴人は昨夜拾った紙片の名前を何度も思い出していた。

 佐伯喜一。

 知らない名前だ。

 それなのに、どこか引っかかる。

 舌の奥に小さな骨が刺さっているような感覚。

「お待たせしました」

 瀬奈が傘を畳みながら歩いてきた。

 黒いコートの肩に、雨粒がいくつも乗っている。

 手には古いノートと、昨夜の紙片を入れた封筒。

「入れるんですか」

「正面からは無理です」

 瀬奈は区役所を一瞥した。

「個人情報ですから。戸籍も住民票も、第三者が簡単に見られるものではありません」

「じゃあ、どうするんです」

「会いに行きます」

「誰に」

「昔、母に協力していた人です」

 区役所の裏手にある喫煙所の前で、二人は一人の男と会った。

 五十代半ばくらいの男だった。

 髪には白いものが混じり、ネクタイは少し緩んでいる。市販の缶コーヒーを手に持ち、周囲を気にするように何度も目を動かしていた。

 瀬奈を見ると、男は困った顔をした。

「如月さんの娘さん、君は本当に母親に似てきたな」

「似ていないと言われたいです」

「そういうところが似ている」

 男は苦笑した。

 瀬奈は感情を見せずに封筒を差し出した。

「佐伯喜一という名前を調べています」

 男の表情が変わった。

 缶コーヒーを持つ指が止まる。

「どこでそれを」

「零号室の近くで」

 男は小さく舌打ちした。

「その言葉をここで出すな」

「母はあなたに、何を頼んでいたんですか」

「昔の話だ」

「母は十五年前に消えました」

 瀬奈の声は冷えていた。

「私には、今の話です」

 男は視線を逸らした。

 雨が喫煙所の屋根を細かく叩いている。

 晴人は黙って二人を見ていた。

 瀬奈が誰かに頼るところを、初めて見た気がした。

 頼っている、というより、隠していた扉を無理やり開けているようだった。

 男は缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。

 ほとんど飲んでいなかった。

「佐伯喜一は、戸籍にいない」

「死亡扱いですか」

「違う」

 男は声を落とした。

「最初からいないことになっている」

 瀬奈の目がわずかに動いた。

「住民票は」

「ない」

「出生記録は」

「ない」

「婚姻歴は」

「ない」

「納税記録は」

「消えている」

 男は晴人を見た。

「だが、俺は会ったことがある」

 晴人の背筋が冷えた。

「どこでですか」

「中町二丁目の古いアパートだ。もう取り壊された。十五、六年前だったと思う」

「その人は、今も生きているんですか」

「分からない」

 男はそう言いかけ、唇を結んだ。

 そして小さく首を振った。

「いや。生きているか死んでいるか、という言い方がもう違うのかもしれない」

 瀬奈が封筒を戻した。

「住所を教えてください」

「やめておけ」

「教えてください」

「あれに近づくと、名前から消える」

 男の声がわずかに震えた。

「人間は死ねば記録に残る。死亡届、火葬許可、墓、保険、新聞の訃報。だが、あれに取られた人間は違う。死んだことにすらならない。最初からいなかったことになる」

 瀬奈は動かなかった。

「それでも、母は追ったんですね」

 男は答えなかった。

 その沈黙が、答えだった。

 中町二丁目は、かつて古い木造アパートが密集していた地区だった。

 今は再開発の途中で、空き地と新築マンションが不自然に混ざっている。

 雨に濡れたコンクリートの匂い。

 白い仮囲い。

 工事現場の看板。

 その隅に、取り残されたような二階建てのアパートが一棟だけ残っていた。

 サカエ荘。

 看板の字はほとんど剥げている。

 外階段の手すりには赤茶けた錆が浮き、郵便受けの半分は口を開けたまま壊れていた。

「ここですか」

「区役所の人が言っていた場所とは少し違います」

 瀬奈はスマートフォンの地図を見た。

「でも、母のノートに似た名前がありました。サエキではなく、サカエ荘。母はよく地名と人名を並べて書いていたので」

「住んでいるんですか」

「分かりません」

 階段の下で、年配の女性が植木鉢に水をやっていた。

 髪を後ろで一つにまとめ、灰色のカーディガンを着ている。

 瀬奈が近づき、丁寧に頭を下げた。

「すみません。佐伯喜一さんという方を探しているんですが」

 女性は首を傾げた。

「佐伯?」

「はい」

「このアパートに、そんな人はいませんよ」

「昔もですか」

「さあ、私はここに二十年以上いますけど」

 女性は植木鉢の土を見ながら言った。

「聞いたことないですね」

 晴人は郵便受けを見た。

 一〇一号室、田辺。

 一〇二号室、空欄。

 一〇三号室、松井。

 二〇一号室、空欄。

 二〇二号室、佐伯。

 そこにあった。

 古いテープで貼られた、手書きの名札。

 佐伯。

 晴人は女性を見た。

「二〇二号室に佐伯さんの名前があります」

 女性は郵便受けを見た。

 目を細める。

 そして不思議そうに笑った。

「あら、本当だ。いつからあったのかしら」

「住んでいる人は」

「いませんよ」

「でも、名前が」

「古い名札が残っているだけじゃないですか」

 女性はそう言うと、もう興味を失ったように水やりに戻った。

 晴人は瀬奈と顔を見合わせた。

 二階へ上がる階段は濡れて滑りやすかった。

 踏むたびに、金属板がきしむ。

 二〇二号室の前には、古い傘が一本立てかけられていた。

 黒い布のところどころに小さな穴が空いている。

 ドアの新聞受けから、白い紙が半分だけ覗いていた。

 瀬奈が取り出す。

 水道料金の督促状。

 宛名は、空白だった。

 住所だけが印字されている。

 氏名の欄には何もない。

「……名前がない」

 晴人が言った。

 瀬奈は無言で封筒を折り畳んだ。

 そのとき、ドアの内側で音がした。

 こつん。

 木の杖が床を叩くような音。

 瀬奈が一歩下がった。

 晴人はドアを見る。

 中から、誰かの気配がする。

 確かにいる。

 けれどインターホンの横にある名前欄は、空白だった。

「佐伯さん」

 瀬奈が呼んだ。

 返事はない。

「佐伯喜一さん。お話を聞かせてください」

 沈黙。

 雨音だけが外階段の向こうから聞こえてくる。

 やがて、内側から錠が外れる音がした。

 ドアが細く開いた。

 そこに立っていたのは、痩せた老人だった。

 白い髪。

 深い皺。

 黄色く濁った目。

 着ているシャツは清潔だったが、袖口だけが擦り切れている。

 老人はまず瀬奈を見た。

 次に晴人を見た。

 その瞬間、老人の表情が変わった。

 驚き。

 恐怖。

 そして、ひどく懐かしいものを見つけたような、痛みに似た安堵。

「……来たのか」

 老人が言った。

 声は掠れていた。

「あなたが佐伯喜一さんですか」

 瀬奈が聞いた。

 老人は答えなかった。

 彼の目は晴人に固定されている。

「大きくなったな」

 晴人は眉をひそめた。

「会ったことがありますか」

 老人はゆっくり頷いた。

「覚えていないか」

「すみません。俺は」

「無理もない」

 老人はドアを少しだけ広げた。

「忘れるように、できている」

 部屋の中は薄暗かった。

 家具は少ない。

 小さな卓袱台。

 湯呑み。

 古いラジオ。

 壁際に積まれた段ボール。

 冷蔵庫の上には、乾いた花が一本だけ瓶に挿してある。

 人が暮らしている匂いはした。

 味噌汁の残り香。

 洗剤。

 湿った畳。

 けれど、生活の痕跡はどこか薄い。

 誰かが毎日ここにいるのに、部屋そのものがその人を覚えようとしていない。

 晴人はそう感じた。

「写真を撮ってもいいですか」

 瀬奈が聞いた。

 老人は小さく笑った。

「撮ってみなさい」

 瀬奈はスマートフォンを向けた。

 シャッター音がする。

 画面を見る。

 老人はいなかった。

 部屋だけが写っている。

 卓袱台。

 湯呑み。

 段ボール。

 だが、老人の座っている場所だけが不自然に空いている。

 瀬奈はもう一枚撮った。

 同じだった。

「やっぱり」

 老人は言った。

「私はもう、記録に乗らない」

 晴人は無意識に拳を握った。

「どういうことですか」

「名前がなくなった」

 老人は卓袱台の前に座った。

「戸籍も、住民票も、保険証も、銀行口座も。妻の記憶からも、息子の記憶からも。少しずつ、削られた」

「家族がいるんですか」

「いた」

 老人は湯呑みを両手で包んだ。

 中身はもう冷めているようだった。

「今も、近くに住んでいる。駅前のマンションだ。たまに見に行く。妻はベランダで洗濯物を干している。息子は日曜に孫を連れてくる」

「会わないんですか」

「会ったよ」

 老人は笑った。

 笑ったのに、目は一つも笑っていなかった。

「妻は言った。どなたですか、と」

 瀬奈の指が、ノートの端を押さえた。

「零号室に入ったんですね」

 老人は否定しなかった。

「妻が死ぬはずだった夜があった」

 雨が窓を叩いた。

 老人の声は、部屋の湿気に沈むように低くなった。

「二十年前だ。古いマンションの階段から落ちて、頭を打った。私は何度も思った。あのとき、あと五分早く帰っていればと。傘を忘れていなければ。駅前で煙草を買わなければ。そんな小さなことばかり、毎日、毎日」

 晴人は黙って聞いていた。

 その「もしも」は、彼にも分かった。

 もしも、あの日。

 もしも、自分がもっと早く。

 もしも、結衣の声に気づいていたら。

「ある日、部屋が現れた」

 老人は続けた。

「住んでいたマンションの廊下だ。図面にはない部屋だった。ドアノブを握った瞬間、中から妻の声がした。私は開けた。開けてしまった」

「そこで過去を変えた」

 瀬奈が言った。

「階段で妻を止めた。傘を渡した。手を握って、一緒に部屋へ戻った。目が覚めると、妻は生きていた」

「なら」

 晴人は言いかけて、止まった。

 なら、よかったじゃないか。

 そう言いそうになった。

 老人は、その言葉を待っていたように晴人を見た。

「よかったと思うか」

 晴人は答えられなかった。

「妻は生きていた。だが私の名前を忘れていた。最初は、冗談かと思った。次の日、息子も私を知らなかった。会社へ行くと、社員証が反応しなかった。家の鍵は開かなかった。役所には、私の戸籍がなかった」

 老人は湯呑みを置いた。

 乾いた音がした。

「妻を救った代わりに、私は妻の人生から消えた」

 部屋の中に、雨音だけが残った。

 瀬奈は何かを書き留めようとして、やめた。

 ペン先がノートに触れる直前で止まる。

 この言葉は、記録できるのか。

 たぶん、彼女もそれを考えたのだ。

「佐伯さん」

 晴人は言った。

「そのあと、あなたはどうやって生活を」

「見えない人間は、案外生きられる」

 老人は窓の外を見た。

「空き部屋に住み、捨てられたものを拾い、誰かの余った弁当をもらう。金は少しだけ残っていた。銀行には入れないが、現金なら使える。店員は私を客としては扱う。だが、次の日には忘れる」

「誰も覚えていない?」

「短い間なら覚えている。数分、数時間。長くて一日。それ以上は無理だ」

 老人は瀬奈を見た。

「君の母親も、私を調べに来た」

 瀬奈の肩がわずかに揺れた。

「母を知っているんですか」

「ああ。如月亜紀。怖い女だった」

 瀬奈は息を止めた。

 母の名を、他人の口から聞く。

 それだけで、彼女の中の何かが崩れそうになっているのが晴人にも分かった。

「母は、何を知ったんですか」

「零号室は、人を生き返らせない」

 老人は言った。

「位置を変えるだけだ」

「位置?」

「失うものの場所だ。過去で失った人間を現在へ寄せる。その代わり、現在にいる誰かを、世界の外へ押し出す」

 晴人の胸が重くなった。

 父の顔がぼやけた写真。

 真理の腕の中で薄れていた灯。

 結衣の声。

 すべてが一つの線で繋がり始めていた。

「俺が結衣に会ったせいで、誰かが消えるんですか」

 老人は晴人を見た。

 その目は、ひどく疲れていた。

「会っただけなら、まだ戻れる」

「変えたら?」

「誰かが忘れる」

「誰が」

「部屋が選ぶ」

 老人はそう言った。

「あるいは、君の一番近くにいる者から」

 晴人の喉が詰まった。

 母。

 瀬奈。

 仕事先の人間。

 そして、父。

 父の顔はもう写真の中でぼやけ始めている。

 あれは、ただの警告なのか。

 それとも、すでに始まっているのか。

「君はまだ、何も選んでいない顔をしている」

 老人は言った。

「だが、部屋は一度開いた相手を忘れない」

 瀬奈が静かに聞いた。

「逃げる方法は」

 老人は笑った。

「逃げられるなら、私はここにいない」

 その笑いには、諦めが乾いて張りついていた。

 晴人は膝の上の手を見た。

 指がかすかに震えている。

 結衣に会いたい。

 それは嘘ではない。

 もう一度話したい。

 謝りたい。

 何があったのか知りたい。

 だが、そのたびに誰かがこの老人のようになるのだとしたら。

 生きているのに、誰にも生きていたと覚えられない。

 それは死よりも静かな消滅だった。

「晴人さん」

 瀬奈が声をかけた。

 晴人は顔を上げる。

「帰りましょう」

 老人はそれを聞いて、ゆっくり立ち上がった。

「待ちなさい」

 彼は部屋の奥へ行き、段ボールの中を探った。

 出てきたのは、小さな茶封筒だった。

 色褪せ、角が丸くなっている。

 老人はそれを晴人に渡した。

「私は、如月亜紀に頼まれて記録を残していた。写真には写らない。役所には残らない。だから、手で書いた」

 封筒の中には、古いメモが数枚入っていた。

 名前。

 住所。

 日付。

 消えた人間たちの断片。

 その中の一枚を見た瞬間、晴人の呼吸が止まった。

 水野晴人。

 そう書かれていた。

 春。

 晴れる、の晴ではない。

 春の人。

 読みは同じ、はると。

 だが、字が違う。

「これは何ですか」

 晴人の声は硬かった。

 老人はまっすぐ彼を見た。

「君の名前だ」

「違います」

「今は違う」

 老人は静かに言った。

「だが、あの部屋が一度開く前、君はその字だった」

 晴人はメモを握りしめた。

 紙が小さく鳴った。

「何を言っているんですか」

「覚えていないなら、その方がいい」

 老人はドアの方を向いた。

 話は終わりだというように。

 瀬奈がもう一度聞いた。

「佐伯さん。あなたは晴人さんに、以前会ったんですね」

 老人は答えなかった。

 ただ、ドアを開ける前に一度だけ振り返った。

「春人くん」

 その呼び方に、晴人の背中が冷たくなった。

「君は、二度目だ」

 雨音が止まった。

 その一瞬だけ、世界が息を潜めたように静かになった。




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