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零号室  作者: 清忠
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(第一部 . 第八章 ) 押し入れの奥の扉

 画用紙の文字は、子どもの字だった。


 歪んでいて、何度も書き直した跡がある。赤いクレヨンの線は強すぎて、紙の裏側まで凹んでいた。


 つぎは、おじさんのばんだよ。


 晴人はその一文を見つめた。


 おじさん。


 誰のことだ。


 考えるまでもなかった。


 自分だ。


 この団地に来るまで、山川灯という子どものことを晴人は知らなかった。会ったこともない。声を聞いたのも、たった今が初めてだった。


 それなのに、その子は晴人を知っている。


 あるいは、部屋が知っている。


 瀬奈は画用紙を写真に撮ろうとした。


 だが、スマートフォンの画面に映った紙には、やはり文字がなかった。


 絵だけが残っている。


 女の人。


 男の子。


 黒い部屋。


 そして、一番重要な言葉だけが消えていた。


「記録できない」


 瀬奈は呟いた。


「この絵も、零号室に触れている」


「触れている?」


「母はそう書いていました。部屋の中の出来事だけじゃない。部屋に関わった記憶や物も、普通の記録から外れることがある」


 晴人は画用紙を畳み直した。


 ポケットに入れようとして、手が止まる。


 持ち出した者は、部屋に呼ばれやすくなる。


 焦げた折り鶴の感触が、鞄の中から蘇る。


 これ以上、持ってはいけない。


 そう思った。


 だが、廊下の床に置いたままにすることもできなかった。


 この紙は、誰かがいた証拠だった。


 忘れられた子どもが、自分の存在を残すために書いたものだった。


 晴人は画用紙を鞄に入れた。


 瀬奈はそれを止めなかった。


「戻りますか」


 晴人が聞くと、瀬奈は二〇五号室の扉を見た。


 閉じた扉の向こうからは、何も聞こえない。


 だが静かすぎた。


 人がいる部屋の静けさではなかった。


 耳を塞いでいる部屋の静けさだった。


「今戻れば、山川さんは私たちを入れません」


「じゃあ」


「別の入口を探します」


 瀬奈は団地の外階段へ向かった。


 晴人は一瞬だけ扉を見た。


 そのとき、表札の下の剥がし跡が目に入った。


 四角い跡。


 よく見ると、端に白いテープの残りが付いていた。


 晴人は指でそっと触れた。


 薄い紙片が剥がれる。


 そこには、子どもの字で小さく「あかり」と書かれていた。


 油性ペンの文字だった。


 だが次の瞬間、その文字は滲んだ。


 黒い線が水に溶けるように崩れ、ただの汚れになった。


 晴人は指を離した。


 指先に、黒いインクがついていた。


 階段下で、瀬奈が振り返る。


「水野さん」


「今行きます」


 晴人は指先をハンカチで拭いた。


 インクはなかなか落ちなかった。


 団地の裏側に回ると、二〇五号室の窓が見えた。


 古い網戸。曇ったガラス。内側には薄いカーテンが引かれている。


 その下に、非常用の鉄製はしごがあった。錆びていて、実際に使えるかどうか怪しい。


 瀬奈は建物の構造を見上げた。


「二〇五号室の和室は、こちら側です」


「押し入れは?」


「廊下側ではなく、この外壁側に接しているはずです」


「外壁側?」


 晴人は窓を見る。


 押し入れの奥に何かがあるとしたら、その向こうは外だ。


 部屋などあるはずがない。


 中町ハイツ三〇四号室と同じだった。


 構造上、そこに空間は存在しない。


 存在しない場所に、扉が現れる。


 晴人は背中に冷たいものを感じた。


「管理人室に行きましょう」


 瀬奈が言った。


 団地の管理人室は、一棟目の一階にあった。


 小さな窓口の奥で、白髪の管理人が古い新聞を読んでいた。瀬奈が身分を説明し、建物の古い図面を見せてほしいと頼むと、管理人は面倒そうに眉を上げた。


「図面ねえ。そんな立派なもん、あるかな」


 そう言いながらも、彼は奥の棚から黄ばんだファイルを取り出した。


 団地の平面図。


 各室の間取り。


 古い紙は端が丸まり、折り目のところで破れかけている。


 二〇五号室は、三〇四号室と似た構造だった。


 玄関。


 居間。


 和室。


 押し入れ。


 その奥は、外壁。


 何もない。


 晴人は図面を指でなぞった。


 何もない場所。


 そこに、誰かの声がある。


 管理人が新聞を畳んだ。


「山川さんとこ、また何かあったんですか」


 瀬奈が顔を上げる。


「また?」


「いや、独り言が多いって苦情がね。夜中に子どもと話してるみたいだって」


「子ども?」


 管理人はそこで首をひねった。


「いや、子どもはいないんだったか」


 彼の目が曇る。


 さっきまで確かに持っていた記憶が、手の中で崩れていくのを見ているようだった。


「変だな。いたような気もするんだけどね」


「名前は覚えていますか」


「名前……」


 管理人は額に手を当てた。


「明るい子だったよ。よく挨拶してくれて。ええと、名前は……」


 口が動く。


 音が出ない。


 何度も何度も、同じ形を作っているのに、言葉にならない。


 管理人の顔色が悪くなった。


「すみません。急に、思い出せなくなった」


 瀬奈は小さく息を呑んだ。


 忘却は、山川真理だけではない。


 周囲にも広がっている。


 それでも完全ではなかった。


 名前だけが抜け落ち、輪郭だけが残っている。


 まるで写真の中の父の顔のように。


 晴人は図面から目を離した。


「この団地で、図面にない部屋の話を聞いたことはありますか」


 管理人は笑った。


「怖い話ですか」


「ええ」


「古い建物だから、いろいろありますよ。隣の部屋から足音がするとか、空室の押し入れから子どもが泣く声がするとか」


 瀬奈の指が、ファイルの端を握った。


「空室の押し入れ?」


「ああ。昔ね、二〇五の隣が空いていたころ、そういう苦情があって」


「今、隣は?」


「空室です」


 管理人は平然と言った。


「二〇六号室。鍵ならありますよ」


 瀬奈と晴人は目を合わせた。


 鍵を借りるまでに、時間はかからなかった。


 二〇六号室の扉は、二〇五号室のすぐ隣にあった。


 表札はない。


 郵便受けには古いチラシが何枚か挟まっていた。誰も住んでいない部屋特有の、乾いた匂いが扉の隙間から漏れている。


 瀬奈が鍵を差し込む。


 金属の回る音が、廊下に響いた。


 扉を開けると、冷たい空気が出てきた。


 空室の匂い。


 畳。


 埃。


 そして、わずかに甘い匂い。


 子どもの菓子のような、人工的な甘さ。


 晴人は靴を脱いで中に入った。


 二〇六号室は、二〇五号室と左右対称の間取りだった。居間には何もない。壁紙は一部剥がれ、窓の下に雨染みが広がっている。


 和室の襖は閉まっていた。


 瀬奈がゆっくり開ける。


 畳の上には、何もなかった。


 ただ、押し入れの襖だけが少し開いている。


 幅にして、指二本分ほど。


 そこから、暗い隙間が見えた。


 晴人は息を止めた。


 あの音。


 とん。


 小さな手で木を叩く音が、押し入れの奥から聞こえた。


 瀬奈が懐中電灯をつける。


 白い光が畳を滑り、押し入れの襖に届く。


「開けます」


 彼女はそう言った。


 晴人は頷いた。


 瀬奈が襖に手をかける。


 古い木が軋む。


 押し入れの中には、何も入っていなかった。


 上段。


 下段。


 埃。


 蜘蛛の巣。


 奥の板壁。


 それだけだった。


 瀬奈は光を奥へ向けた。


「何もありませんね」


 晴人は答えなかった。


 彼には見えていた。


 奥の板壁の中央。


 そこに、細い縦の線があった。


 扉の隙間のような線。


 古い木目に紛れて、ほとんど見えない。


 だが確かにある。


 取っ手はない。


 鍵穴もない。


 ただ、板壁の中に長方形の輪郭が沈んでいる。


「瀬奈さん」


「はい」


「見えませんか」


「何がですか」


 晴人は押し入れの奥を指差した。


「扉です」


 瀬奈は光を向け直した。


 目を細める。


 だが、彼女の表情は変わらなかった。


「私には、ただの板に見えます」


 晴人は喉の奥が乾くのを感じた。


 中町ハイツのときもそうだった。


 最初に扉を見たのは、自分だけだった。


 関係のある者にしか見えない。


 だったら、なぜ自分はこの扉を見ている。


 山川灯とは関係がない。


 この団地とも関係がない。


 だが、鞄の中には焦げた折り鶴がある。


 持ち出した者は、部屋に呼ばれやすくなる。


 晴人はゆっくり押し入れの中に膝をついた。


 埃が舞い、鼻の奥を刺した。


 奥の板壁に手を伸ばす。


 指先が、縦の線に触れた。


 冷たかった。


 木ではない。


 金属でもない。


 人の皮膚に近い温度だった。


 瀬奈が後ろで息を呑む。


「今、見えました」


 彼女の声が変わった。


「扉が……あります」


 晴人は振り返らなかった。


 振り返ると、消える気がした。


 奥の扉に、ゆっくりと文字が浮かび上がった。


 白い木目の中に、黒い線が滲む。


 0。


 数字のゼロだった。


 中町ハイツで見たものと同じ。


 いや、もっと古い。


 傷のように刻まれ、何度も上から塗り潰された跡がある。


 扉の向こうから、声がした。


「おかあさん」


 小さな男の子の声。


 晴人の背筋が凍った。


 瀬奈が一歩近づく。


「灯くん?」


 返事はない。


 代わりに、扉の向こうで何かが擦れた。


 紙の音。


 クレヨンが床を転がる音。


 そして、また声。


「おかあさん、まだそこにいる?」


 晴人は手を引こうとした。


 だが、指が扉から離れなかった。


 吸い付いている。


 扉の向こうの空気が、指先から体の中へ入ってくるようだった。


 冷たい。


 懐かしい。


 嫌になるほど、懐かしい。


 視界の端に、赤い光が揺れた。


 火だ。


 燃えるカーテン。


 煙。


 階段を駆け下りる足音。


 誰かの叫び声。


 結衣の手。


 晴人は歯を食いしばった。


「水野さん!」


 瀬奈の声で、意識が戻った。


 彼女が晴人の肩を掴んでいた。


 扉から指が離れる。


 その瞬間、押し入れの中の空気が一気に重くなった。


 扉の向こうで、子どもが泣きそうな声を出した。


「いかないで」


 晴人は息を乱した。


 汗がこめかみを伝う。


 まだ開けていない。


 開けていないのに、もう中が見えた気がした。


 そこは部屋ではない。


 記憶だ。


 誰かが戻りたいと願った場所。


 誰かが戻ってはいけなかった場所。


 瀬奈は懐中電灯を握り直した。


「開けますか」


 その質問は、軽くなかった。


 扉を開ければ、何かが変わる。


 中町ハイツでそうだった。


 結衣に会ったあと、父の顔が消え始めた。


 次は誰だ。


 山川真理か。


 山川灯か。


 瀬奈か。


 それとも、自分か。


 晴人は鞄の中から焦げた折り鶴を取り出した。


 透明袋の中で、紙の羽がかすかに震えている。


 気のせいではなかった。


 羽が、一度だけ動いた。


 扉の向こうから、男の子の声がした。


「それ、持ってるんだ」


 晴人の手が止まる。


「知っているのか」


「女の子が、持ってた」


 瀬奈の顔が強張った。


 晴人は扉を見た。


「女の子?」


「白い紙を、ずっと折ってた」


 晴人の喉が音を立てた。


 押し入れの奥の扉は、少しだけ開いた。


 隙間から、黒い闇が見える。


 その奥に、畳があった。


 中町ハイツ三〇四号室の畳。


 あり得ない。


 ここは野方団地の二〇六号室だ。


 構造も、場所も、時間も違う。


 それなのに、扉の奥にはあの部屋が続いていた。


 晴人は一歩も動けなかった。


 闇の中で、何かが白く揺れる。


 折り紙だった。


 一羽の鶴。


 焦げていない、真っ白な鶴。


 それが畳の上に置かれている。


 そして、そのさらに奥から、小さな声がした。


「ここにいるのは、ぼくだけじゃないよ」


 男の子の声。


 次の瞬間、別の声が重なった。


 もっと柔らかく、もっと近くて、晴人の胸の一番深い場所を正確に刺す声。


「お兄ちゃん」


 晴人は扉の奥を見つめた。


 暗闇の中で、白い鶴の首がゆっくりこちらを向いた。


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