(第一部 . 第七章) 記憶を奪う部屋
インクは、乾かなかった。
見開きの右側。
水野結衣。
十二歳。
中町ハイツ三〇四号室。
零号室、接触済み。
その文字は、まるで今この瞬間にも紙の中から滲み出しているようだった。黒い線の縁がかすかに光り、ノートの罫線を濡らしている。晴人は目を逸らせなかった。
瀬奈も同じだった。
彼女は指先をページの端に置いたまま、動かなかった。触れれば字が消えると分かっているみたいに。あるいは、触れた瞬間、母親の指先までそこに現れると信じているみたいに。
事務所の蛍光灯が小さく鳴った。
ジジ、と乾いた音がして、壁にかかった時計の針が一秒だけ遅れて進む。
「……母の字です」
瀬奈は言った。
声は落ち着いていた。けれど、喉の奥だけが少し震えていた。
「間違いありません」
「十五年前から、誰も書き足していないはずなんですよね」
「はい」
「じゃあ、これは誰が」
晴人の言葉は途中で止まった。
聞いても意味がない。
この数日、意味のある答えなど一つも返ってきていない。
図面にない扉。
死んだ妹。
ぼやけた父の顔。
そして、十五年前のノートに現れた新しい名前。
現実は、もう晴人の知っている形をしていなかった。
瀬奈はスマートフォンを取り出し、ノートのページを撮影した。
シャッター音が、狭い部屋にやけに大きく響いた。
彼女は画面を確認する。
顔色が変わった。
「撮れていない」
「え?」
晴人は身を乗り出した。
スマートフォンの画面には、ノートの見開きが写っていた。古い紙の色も、罫線も、瀬奈の指も、机の傷も写っている。
だが、文字だけがなかった。
白い。
そこだけ、最初から何も書かれていなかったように。
瀬奈はもう一度撮った。
同じだった。
三度目も。
文字は、画面の中だけ消えていた。
晴人は自分のスマートフォンを出し、撮影した。
結果は同じだった。
水野結衣という名前は、肉眼で見ればそこにある。だが機械を通すと消える。
存在しているのに、記録できない。
晴人は、父の顔が消えた写真を思い出した。
あれは逆だった。
写真の中から、存在が消え始めていた。
「零号室に関わるものは、記録に残らないことがある」
瀬奈は低く言った。
「母のノートにも、そう書いてありました。ただ、全部ではありません。残るものと、残らないものがある」
「基準は?」
「分かりません」
その答えには、もう苛立たなかった。
分からないものの中に、二人は立っている。
晴人はノートを見下ろした。
名前の下には、まだ空白があった。
だが、その空白を見ていると、いつか別の文字が現れるような気がした。
自分の名前。
瀬奈の名前。
あるいは、母の名前。
「このノートに、似た記録はありますか」
晴人が聞くと、瀬奈はページを戻した。
後半の数ページに、母親の字でいくつかの事例が並んでいた。
住所。
日付。
建物の名前。
そして、短いメモ。
忘却の発生。
対象者、確認不能。
家族写真に欠落。
戸籍記録、一部変化。
どの言葉も、事務的だった。
だがその事務的な文字の裏に、誰かが壊れていく音があった。
瀬奈の指が、一つの項目で止まった。
野方団地 二〇五号室。
山川真理。
山川灯。
母、子を認識せず。
晴人はその文字を読んだ。
胸の奥が、ゆっくり冷えていった。
「子を認識せず」
瀬奈が読み上げる。
「母親が、自分の子どもを忘れた記録です」
「その人は、今も?」
「分かりません。ただ、住所はまだ存在しています。古い団地ですが、取り壊し予定には入っていない」
瀬奈はノートを閉じた。
その音は、ひどく重かった。
「行きましょう」
晴人は彼女を見た。
「今からですか」
「今からです」
「危険だとは思わないんですか」
「思います」
瀬奈は鞄にノートを入れた。
「でも、危険だから見ないで済むなら、私は十五年前に母を探すのをやめています」
それ以上、晴人は何も言えなかった。
事務所を出ると、昼の街は普通だった。
駅前の横断歩道には人が流れ、コンビニの自動ドアが何度も開き、雨上がりのアスファルトにビルの影が薄く伸びている。
誰も知らない。
この街のどこかに、図面にない部屋があることを。
誰かが誰かを忘れ始めていることを。
電車の中で、瀬奈はほとんど話さなかった。
窓際に立ち、外を流れる建物を見ている。
晴人は向かいのドアガラスに映る彼女の横顔を見た。
強く見える。
だが、強い人間の顔ではなかった。
折れないように、折れた部分をずっと押さえている人間の顔だった。
晴人は鞄の中に手を入れた。
透明袋の中の折り鶴が、指先に触れる。
持ち出した者は、部屋に呼ばれやすくなる。
瀬奈の母の言葉が、耳の奥に残っていた。
電車が地下へ入る。
窓の外が黒くなった。
その黒いガラスに、晴人の顔が映る。
少し遅れて、その隣に小さな影が映った。
肩の高さほどの、少女の影。
晴人は振り向いた。
そこには誰もいなかった。
車内には、眠る会社員、スマートフォンを見る学生、ベビーカーを押す母親がいるだけだった。
瀬奈が彼を見る。
「どうしました」
「いえ」
晴人は首を振った。
言えば、現実になる気がした。
野方団地は、駅から十五分ほど歩いた場所にあった。
古い五階建ての棟が、同じ形でいくつも並んでいる。外壁は雨水で黒ずみ、階段室の窓には錆びた格子がはまっていた。敷地の中央には小さな公園があり、砂場には水たまりができている。
ブランコが、風もないのに少しだけ揺れていた。
晴人は足を止めた。
鎖が軋む。
一度。
二度。
誰も乗っていない。
瀬奈も気づいていたが、何も言わなかった。
二〇五号室は、二棟目の二階にあった。
階段を上がると、廊下の蛍光灯が昼なのに点いていた。白い光が弱く、足元の灰色の床をぼんやり照らしている。
表札には、山川とだけ書かれていた。
古いプラスチックの表札。
その下に、小さな跡があった。
何かを剥がしたような、四角い跡。
瀬奈がインターホンを押した。
中で、細い電子音が鳴る。
しばらくして、足音が近づいてきた。
扉が少しだけ開いた。
チェーン越しに、一人の女性が顔を覗かせる。
四十代半ばくらいだろうか。髪は後ろで乱雑に結ばれ、顔色は悪い。目の下に薄い影があり、寝不足の人間特有の乾いた瞬き方をした。
「どちらさま」
警戒した声だった。
瀬奈は名刺を差し出した。
「如月と申します。以前、都市伝承に関する取材でご連絡をいただいたことがあります」
女性は名刺を見た。
しばらく考えるように眉を寄せる。
「取材?」
「はい。三日前に、お電話をいただきました」
「私が?」
「息子さんのことで」
その瞬間、女性の顔から表情が消えた。
怒ったのではなかった。
怯えたのでもない。
ただ、言葉の意味だけが彼女の中を通り抜けていったようだった。
「息子?」
女性は小さく笑った。
「うちに子どもはいませんよ」
廊下の蛍光灯が、ジジ、と鳴った。
瀬奈は表情を変えなかった。
「山川灯さん、というお名前に覚えはありませんか」
「ありません」
即答だった。
早すぎた。
「失礼ですけど、どなたかと間違えていませんか。私は一人暮らしです」
「そうですか」
「はい」
女性は扉を閉めようとした。
そのとき、部屋の奥で何かが落ちる音がした。
軽い音。
プラスチックのコップが床に転がるような音。
女性の肩が跳ねた。
晴人は扉の隙間から中を見た。
玄関のたたきに、小さな靴があった。
青いスニーカー。
片方だけ。
サイズは、子ども用だった。
「……それ」
晴人が言うと、女性は彼の視線を追った。
靴を見た。
見ているはずだった。
だが、彼女の目はそこを通り過ぎた。
「何か?」
「靴です」
「靴?」
「玄関に」
女性は困ったように笑った。
「私の靴しかありませんよ」
晴人は何も言えなくなった。
青いスニーカーは、そこにあった。
濡れていた。
つま先に泥がつき、靴紐がほどけている。
そこにあるのに、彼女には見えていない。
瀬奈が静かに言った。
「少しだけ、お話を聞かせていただけませんか」
女性は迷った。
だが奥の部屋でもう一度、何かが小さく鳴った。
女性は唇を結び、チェーンを外した。
「……少しだけなら」
部屋の中は、ひどく整っていた。
整いすぎていた。
六畳の居間には、低いテーブル、古いテレビ、小さな食器棚。壁際に本棚があり、雑誌と料理本がきれいに並んでいる。床には埃がない。洗濯物も出ていない。
だが、ところどころに、生活の中から抜き忘れたものが落ちていた。
テーブルの下に、赤いクレヨン。
テレビの横に、子ども向け番組の録画一覧。
食器棚の下段に、小さな茶碗。
茶碗には、ひらがなで「あかり」と書かれていた。
山川真理は、それらのどれにも反応しなかった。
彼女は客用の湯呑みを二つ出した。
その横に、無意識のようにもう一つ、小さなプラスチックのコップを置いた。
黄色いコップ。
側面に、動物の絵が描いてある。
置いたあと、彼女はそのコップを見て首をかしげた。
「何かしら、これ」
彼女は笑った。
「変ね。こんなもの、うちにあったかしら」
笑い方が、壊れそうだった。
瀬奈は湯呑みに手をつけなかった。
「三日前の夜、私に電話をしました」
「覚えていません」
「『息子が帰ってこない』と言っていました」
「息子はいません」
「では、このコップは?」
「さあ。前の住人のものかもしれません」
「この部屋には、何年住んでいますか」
「十八年です」
瀬奈の質問に、真理はすぐ答えた。
そして自分の答えに、少しだけ顔を曇らせた。
十八年。
その間に、子ども用のコップだけが前の住人のものとして残っているはずがない。
「山川灯さん」
瀬奈はもう一度、その名前を口にした。
真理の指が、湯呑みの縁で止まった。
「覚えはありませんか」
「ありません」
「本当に?」
「ありません」
強い声だった。
だが、否定している相手は瀬奈ではなかった。
自分自身に言い聞かせているようだった。
晴人は壁際に目を向けた。
柱の端に、鉛筆の跡がいくつもあった。
床から高さを測るように、短い線が並んでいる。
その横に、日付。
そして名前。
あかり 四さい。
あかり 五さい。
あかり 六さい。
一番上の線だけ、途中で途切れていた。
七さい、と書きかけて、その後がない。
晴人はそこから目を離せなかった。
火事のあと、実家の壁にも似た跡が残っていた。
結衣の身長を測った線。
母はそれを消せなかった。
父も消せなかった。
晴人も、触れられなかった。
人が生きていた証拠は、ときどき本体よりも長く残る。
だがこの部屋では、証拠だけが残り、本体の記憶が消えていた。
「この線は?」
晴人が聞いた。
真理は柱を見た。
眉をひそめる。
「傷ですね。古い部屋だから」
「字が書いてあります」
「字?」
「見えませんか」
真理はしばらく柱を見つめた。
そして、目を細めた。
「……何も」
その声は、さっきより小さかった。
晴人はそれ以上聞けなかった。
見えないのではない。
見たくないのでもない。
見えるはずの場所に、彼女の中では何も存在していない。
記憶が奪われるということは、空白にされることではなかった。
空白を空白だと気づけなくなることだった。
玄関の方で、かすかな音がした。
靴紐が床を擦るような音。
晴人は振り向いた。
青いスニーカーが、さっきより少しだけ奥へ動いていた。
片方だけだったはずの靴の隣に、もう片方があった。
泥のついたつま先が、部屋の中を向いている。
瀬奈もそれを見た。
真理だけが見ていなかった。
「山川さん」
瀬奈の声が低くなる。
「この部屋で、何か変なことは起きていませんか」
「変なこと?」
「知らない物が増える。誰かの声が聞こえる。入った覚えのない部屋がある」
真理の顔から血の気が引いた。
初めて、彼女が反応した。
「ありません」
さっきと同じ否定。
だが今度は、速さではなく恐怖があった。
「ありません。そんなもの、ありません」
「本当に?」
「やめてください」
真理は立ち上がった。
膝がテーブルに当たり、湯呑みの水面が揺れる。
「もう帰ってください。私には関係ありません」
そのとき、奥の部屋から音がした。
とん。
小さな手で、木を叩くような音。
真理の体が固まった。
瀬奈は奥の和室を見る。
襖が閉まっていた。
古い団地によくある六畳の和室。押し入れのある部屋だろう。
音は、その奥から聞こえた。
とん。
もう一度。
今度は、少し強く。
「山川さん」
晴人は言った。
「今の音は?」
「……隣です」
「隣は空室ですよね」
瀬奈が静かに言った。
真理は彼女を睨んだ。
「どうしてそんなことを知っているんですか」
「管理会社に確認しました」
「帰って」
真理の声が震えた。
「帰ってください」
瀬奈は何か言おうとした。
だが、晴人が先に立ち上がった。
「分かりました」
瀬奈が彼を見る。
晴人は小さく首を振った。
今ここで無理に踏み込めば、真理は壊れる。
それが分かった。
玄関へ向かう途中、晴人はもう一度和室を見た。
襖の向こうは静かだった。
何も聞こえない。
だが、襖の下の隙間から、赤いクレヨンが一本転がって出てきた。
ゆっくり。
まるで誰かが内側から押したように。
真理は見なかった。
いや、見えなかった。
廊下に出ると、湿った空気が頬に触れた。
扉が閉まる直前、晴人は部屋の中から声を聞いた。
小さな声だった。
子どもの声。
「おかあさん」
晴人は振り向いた。
扉は、もう閉まっていた。
チェーンのかかる音がした。
瀬奈は黙ったまま、ドアの前に立っていた。
「聞こえましたか」
晴人が聞くと、瀬奈は唇を噛んだ。
「はい」
廊下の蛍光灯が、また鳴った。
足元に、何かが落ちていた。
晴人は屈み込む。
画用紙だった。
四つ折りにされ、端が湿っている。
彼はそれを開いた。
赤と青のクレヨンで、三人の人間が描かれていた。
女の人。
小さな男の子。
そして、黒い四角い部屋。
部屋の上には、子どもの字でこう書かれていた。
ゼロのへやからかえったら、
おかあさんが、ぼくをしらなかった。
晴人は画用紙を持つ手に力を入れた。
紙が震える。
その下に、もう一行あった。
つぎは、おじさんのばんだよ。




