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零号室  作者: 清忠
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(第一部 . 第六章 ) 母のノート

雑居ビルの階段は、昼間でも薄暗かった。


 西新宿の大通りから一本入っただけで、街の音は急に遠くなる。看板の古い居酒屋。昼でも閉まったままのスナック。壁に貼られた求人広告は雨に濡れたあと乾き、紙の端が反り返っていた。


 晴人は名刺に書かれた住所を見上げた。


 四階建ての細いビルだった。


 一階には使われていない鍵屋の看板が残っている。シャッターは下ろされ、郵便受けにはチラシが詰まっていた。入口のガラス戸には、誰かが剥がし忘れた古いステッカーが何枚も重なっている。


 如月瀬奈。


 名刺の裏に書かれた住所は、このビルの三階を示していた。


 来るべきではない。


 晴人は何度もそう思った。


 オカルト記事を書く女。


 失踪した母を追うフリーライター。


 図面にない部屋を探している人間。


 そのどれも、彼の仕事とも人生とも関係がないはずだった。


 だが家に戻っても、写真は変わらなかった。


 父の顔は白いまま。


 母からの新しい連絡はない。


 透明袋の中の折り鶴は、机の上で静かにこちらを向いていた。


 晴人は階段を上がった。


 一段ごとに、鉄製の段が低く鳴る。


 三階の踊り場には、植物の枯れた鉢が二つ置かれていた。土だけになった鉢。根の形が、何かの指のように乾いている。


 廊下の奥に、小さな表札があった。


 如月事務所。


 文字の下に、手書きで小さく「資料室」と書かれている。


 晴人がノックする前に、扉が開いた。


「来ると思っていました」


 瀬奈が立っていた。


 午前中と同じ黒い服だったが、コートは脱いでいる。白いシャツの袖を肘までまくり、片手にはマグカップを持っていた。髪の先が少し濡れている。どこかで顔を洗ったのかもしれない。


「待っていたんですか」


「半分くらいは」


「残りの半分は」


「来ないでほしかった」


 瀬奈はそう言って、晴人を中へ入れた。


 部屋は狭かった。


 事務所というより、資料に埋もれた倉庫だった。壁一面にスチール棚が並び、古い住宅地図、新聞の切り抜き、写真ファイル、段ボール箱がぎっしり詰まっている。窓際の机にはノートパソコンが開かれ、画面にはどこかのマンションの平面図が映っていた。


 天井の蛍光灯は一本だけ切れかけていた。


 点く。


 消えかける。


 また、点く。


 晴人は無意識にその光を見上げた。


 三〇四号室の廊下を思い出したからだ。


「座ってください」


 瀬奈が折りたたみ椅子を引いた。


 晴人は座らなかった。


「すぐに帰ります」


「なら、立ったままでいいです」


 瀬奈は机の上から紙の束をどかし、古いノートを一冊取り出した。


 黒い布表紙。


 角は擦り切れ、背の部分には細かなひびが入っている。ゴムバンドで閉じられていたが、伸び切っていて、もう役目を果たしていなかった。


 そのノートを見た瞬間、部屋の空気が少し重くなった気がした。


 晴人は思わず一歩下がった。


「それが、母親のノートですか」


「はい」


 瀬奈はノートを両手で持った。


 まるで壊れ物を扱うように。


「母は、如月亜紀といいます。地方紙の記者でした。大きな事件を追う人ではなくて、古い町の変化とか、取り壊される建物とか、そういうものを丁寧に拾う人でした」


 瀬奈は表紙を撫でた。


「十五年前、母はある団地の取材に行きました。老朽化で取り壊される予定の建物でした。そこで何かを見た。帰ってきた母は、三日間ほとんど眠らずに、このノートを書き続けました」


「それから失踪した」


「はい」


 瀬奈の指が、ノートの端で止まった。


「朝、目が覚めたらいませんでした。財布も携帯も家にあった。靴も一足しか減っていない。玄関の鍵は内側からかかっていた。窓も閉まっていた。部屋には母が淹れたコーヒーがそのまま残っていました」


「密室みたいな話ですね」


「警察にもそう言われました。けれど事件にはなりませんでした。大人が自分の意思で消えた。それで終わりです」


「あなたは信じなかった」


「信じたかったです」


 瀬奈は小さく笑った。


 笑いというより、息が少し漏れただけだった。


「母が自分の意思で私を捨てたのなら、憎めば済む。でも、このノートを読んだら、憎むこともできなくなった」


 晴人は黙っていた。


 瀬奈はノートを開いた。


 最初の数ページには、建物の名前が並んでいた。


 団地。


 木造アパート。


 古い社宅。


 閉鎖された寮。


 どれも取り壊し前の建物らしい。


 住所の横には、小さな印が付けられている。


 丸。


 線。


 そして、ゼロ。


 瀬奈はあるページで手を止めた。


 そこには平面図のような線が描かれていた。


 廊下。


 階段。


 四つの部屋。


 その一番奥に、鉛筆で薄く四角い空間が足されている。


 空間の中には、ただ一文字。


 0。


 晴人の手が冷えた。


「これは」


「母が描いたものです。正式な図面ではありません。現地で見たものを、その場で描き取ったスケッチだと思います」


「実際に、こんな部屋があったんですか」


「分かりません」


「分からない?」


「翌日、同じ建物に行った人の話では、そんな部屋はなかったそうです」


 晴人は三〇四号室の壁を思い出した。


 冷たい壁。


 硬い壁。


 その向こうに、確かに誰かがいた感触。


「母のノートには、この表現が何度も出てきます」


 瀬奈はページの端を指差した。


 そこには細い字で、こう書かれていた。


 部屋ではない。


 扉でもない。


 記憶が形を取ったもの。


 晴人は眉を寄せた。


「比喩ですか」


「母は、比喩を書くときにはもっと分かりやすく書きます」


「なら、何だと」


「分かりません」


 瀬奈は正直に言った。


「だから、ずっと調べています」


 晴人は机の上に視線を落とした。


 そこには何十枚もの写真が散らばっていた。


 古い廊下。


 空き部屋の畳。


 割れた姿見。


 押し入れの奥。


 どの写真にも、人の気配が残っている。


 けれど、人そのものは写っていない。


「なぜ僕に話すんですか」


「あなたが戻ってきたからです」


「戻ってきた?」


「零号室を見た人は、だいたい二種類に分かれます」


 瀬奈はノートを閉じずに言った。


「何も覚えていない人。あるいは、戻ってこない人」


 晴人は喉の奥が詰まるのを感じた。


「あなたは違う。覚えている。少なくとも、何かを見たことを覚えている」


「だから、利用できると?」


「はい」


 瀬奈は迷わず答えた。


 晴人は少しだけ目を見開いた。


「正直ですね」


「嘘をついても、あなたは逃げるだけです」


「本当のことを言われても、逃げます」


「それでも、少しは止まった」


 その通りだった。


 晴人はまだ部屋を出ていない。


 出ようと思えばすぐに出られる。


 なのに足が動かない。


 ノートの中に、昨日の部屋へ戻る道があるような気がした。


 それは危険な感覚だった。


 分かっている。


 それでも、目を離せない。


「写真を見せてください」


 瀬奈が言った。


「写真?」


「顔がぼやけた写真です」


 晴人はすぐには動かなかった。


 スマートフォンはポケットの中にある。


 そこには昨夜、母から届いた画像が保存されている。


 見せたくなかった。


 父の顔が消えかけている写真を、他人に見せたくなかった。


 それは家族の遺影よりも、もっと私的な傷だった。


「無理にとは言いません」


 瀬奈は言った。


「でも、同じ現象を私は一度だけ見たことがあります」


「誰の写真ですか」


「母の写真です」


 晴人は瀬奈を見た。


 瀬奈の表情は変わらない。


 だがマグカップを持つ指に、わずかに力が入っていた。


「母が消えたあと、家にあったアルバムの何枚かで、母の顔だけがぼやけました」


「全部ではなく?」


「最初は数枚。次にデータ。それから、母を知っていた人たちの記憶です」


 晴人の背中に冷たいものが落ちた。


「記憶?」


「祖母は最後まで覚えていました。けれど、親戚や近所の人は、少しずつ母のことを別の人と間違えるようになった。名前を忘れ、声を忘れ、最後には、母がいたこと自体を曖昧にした」


「そんなこと、あり得ない」


「私もそう思います」


 瀬奈は静かに言った。


「でも、あり得ないことは、起きたあとでしか否定できません」


 晴人はスマートフォンを取り出した。


 指紋認証が一度失敗した。


 手が汗ばんでいた。


 二度目で開く。


 彼は母から送られた画像を表示し、瀬奈に見せた。


 瀬奈は受け取らず、画面を覗き込んだ。


 同じ夏祭り。


 同じ家族。


 父の顔だけが、白く消えかけている。


 瀬奈の瞳が少しだけ揺れた。


「いつからですか」


「昨日の夜」


「零号室に入ったあと?」


 晴人は答えなかった。


 沈黙が答えになった。


 瀬奈は机の上のファイルを一つ開いた。


 古いコピー用紙が何枚も挟まっている。


「現象が始まる順番は、だいたい同じです。まず写真。次に記録。最後に記憶」


「記録?」


「戸籍、学校の名簿、新聞記事。紙の上にあるはずの名前が薄くなることがあります」


「人が、消えるってことですか」


「正確には」


 瀬奈は少しだけ言葉を選んだ。


「人がいた証拠から、消えていく」


 晴人は息を吸った。


 空気がうまく入らなかった。


 父の顔。


 母の記憶。


 そして、結衣。


 もしこれが同じ現象なら。


 昨日、零号室に入ったことで、何かが始まったのなら。


「どうすれば止められる」


 晴人は聞いた。


 その声には、自分でも分かるほど焦りが混じっていた。


 瀬奈は答えなかった。


 答えられない顔だった。


「知らないんですか」


「完全には」


「十五年も調べていて?」


「十五年調べても、分からないことがあります」


「そんな話を聞かせて、何がしたい」


「あなたに一人で戻ってほしくない」


「僕が戻ると決めているみたいに言いますね」


「戻らないんですか」


 晴人は返事ができなかった。


 戻る。


 その言葉が、すでに胸のどこかにあった。


 結衣に会いたい。


 もう一度だけ。


 なぜあそこにいたのか聞きたい。


 父の顔が消え始めた理由を知りたい。


 そして本当は、それだけではない。


 もし結衣を救えるのなら。


 その考えを、晴人はまだ言葉にしてはいけないと思った。


 口に出した瞬間、自分が取り返しのつかない場所へ踏み込む気がした。


 瀬奈はノートのページをさらにめくった。


「母は、零号室の中で見えるものを『最も強い後悔の記憶』と書いています」


 晴人の目がノートに落ちた。


 そこには細かな文字がびっしりと並んでいた。


 最も戻りたい日。


 最もやり直したい言葉。


 最も救いたかった人。


 それらが、部屋になる。


 晴人は読みながら、指先が震えるのを感じた。


 救いたかった人。


 結衣。


 あの部屋にいたのは、幽霊ではないのかもしれない。


 記憶なのかもしれない。


 それとも、記憶の姿をした何かなのか。


「水野さん」


 瀬奈の声で、晴人は顔を上げた。


「あなたは、誰に会いましたか」


 さっきと同じ質問だった。


 だが今回は、晴人の中で逃げ道が少なかった。


 彼は黙ったまま、透明袋を鞄から出した。


 焦げた折り鶴。


 瀬奈の表情が初めて崩れた。


「それ……」


「部屋にありました」


「触ったんですか」


「持って帰りました」


「持って帰った?」


 瀬奈の声が鋭くなった。


「零号室の中の物を、外に出したんですか」


「悪いんですか」


「分かりません」


「また分からない」


「でも母のノートには、持ち出した記録がほとんどない。あるとしても、その人は――」


 瀬奈は言葉を切った。


 晴人は顔を上げた。


「その人は?」


 瀬奈はノートの後半をめくった。


 紙の音が、狭い部屋に重なっていく。


 あるページで、彼女の指が止まった。


 そこには、いくつかの名前が書かれていた。


 横線で消された名前。


 薄く滲んだ名前。


 読めないほど擦れた名前。


 その下に、母親の字で短く書かれている。


 持ち出した者は、部屋に呼ばれやすくなる。


 晴人は透明袋を握った。


 袋の中の折り鶴が、かさりと鳴った。


「つまり、これを持っている限り、僕はまたあの部屋に近づく」


「あるいは、向こうがあなたに近づく」


 そのとき、部屋の蛍光灯が一度消えた。


 完全な暗闇ではなかった。


 窓から曇った昼の光が入っている。


 それでも、狭い事務所の空気が急に濃くなった。


 資料棚の影が伸びる。


 机の上の写真が、黒く沈む。


 晴人は折り鶴を見た。


 透明袋の中で、紙の首がほんの少し曲がったように見えた。


 蛍光灯が点いた。


 何も動いていなかった。


 瀬奈は息を整えるように、一度だけ目を閉じた。


「ノートを続けます」


 彼女はそう言って、さらにページをめくった。


 だが次の瞬間、その手が止まった。


「……おかしい」


「何が」


「このページ」


 瀬奈はページの端に指を置いた。


「昨日までは、白紙でした」


 晴人はノートを覗き込んだ。


 見開きの右側。


 そこには、薄い罫線だけのページがある。


 白紙ではなかった。


 文字があった。


 細く、まだ湿っているような黒いインク。


 最初は読めなかった。


 目が拒んでいた。


 それでも、文字はそこにあった。


 水野結衣。


 晴人の呼吸が止まった。


 その下に、さらに小さな字が続いている。


 十二歳。


 中町ハイツ三〇四号室。


 零号室、接触済み。


 晴人はノートから目を離せなかった。


 瀬奈も動かなかった。


 窓の外で、遠くの工事音が小さく響いた。


 街は普通に動いている。


 人は歩き、信号は変わり、昼の光はビルの壁を滑っている。


 それなのに、この部屋だけが別の時間に沈んでいた。


 瀬奈が、掠れた声で言った。


「このノートは、母が消えた日に警察から返されたものです」


 晴人はゆっくり顔を上げた。


「十五年前から、誰も書き足していないはずです」


 ノートの上で、インクがまだ光っていた。


 乾いていなかった。


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