(第一部 . 第五章) 幽霊屋敷を書く女
朝になると、折り鶴はただの紙に戻っていた。
テーブルの上。
夏祭りの写真の隣。
焦げた羽を持つそれは、夜の間に首を上げたことなど一度もなかったみたいに、斜めに潰れていた。
晴人はしばらく、その紙を見ていた。
窓の外では雨が上がっていた。だが空はまだ低く、隣のマンションの壁を灰色に濡らしている。室内には昨日の湿気が残っていた。カーテンの裾がわずかに揺れるたび、冷たい空気が床の上を這った。
眠れなかった。
横になっても、目を閉じるたびに三〇四号室の畳が見えた。
図面にない扉。
折り紙をする小さな背中。
そして、あの声。
お兄ちゃん。
晴人は手を伸ばし、焦げた折り鶴に触れた。
軽かった。
ただの紙だった。
それなのに指先に、わずかな熱の名残があるような気がした。火傷するほどではない。ただ、昨日まで燃えていたものに触れたときの、説明しにくい違和感。
彼は折り鶴を小さな透明袋に入れた。
本来なら、証拠品のように扱うべきではない。そもそも、何の証拠なのかも分からない。
だが捨てることはできなかった。
捨てた瞬間、もっと大きなものまで失う気がした。
テーブルの上には写真が並んでいた。
父の顔は、さらに薄くなっていた。
昨夜はまだ、輪郭らしいものが残っていた。今は白い靄が広がり、顔の中心だけを丁寧に拭き取ったようになっている。肩も、手も、浴衣の柄も、背景の提灯も残っている。
ただ、顔だけがない。
晴人はスマートフォンを開いた。
母からのメッセージは、まだそこにあった。
お父さんって、どんな顔だったかしら。
その文字を読むたび、胃の奥が冷たく縮む。
彼は母に電話をかけようとした。
親指が通話ボタンの上で止まる。
聞くべきことは一つしかなかった。
父を覚えているか。
だが、もしその答えが昨日より悪くなっていたら。
もし母が、父の名前まで失い始めていたら。
晴人はスマートフォンを伏せた。
部屋が静かになった。
冷蔵庫の低い唸り。上階の住人が椅子を引く音。遠くで鳴る救急車のサイレン。
すべてが日常の音だった。
けれど、そのどれもが薄い膜の向こうから聞こえているようだった。
晴人は仕事用の鞄を開け、昨日の調査書類を取り出した。
中町ハイツ三〇四号室。
図面は何度見ても同じだった。
玄関。
ミニキッチン。
居間。
和室。
浴室。
トイレ。
そして、どこにもない部屋。
晴人は赤ペンを持った。
図面の端に、昨日見た場所を描き込もうとした。
だが、手が止まった。
どこに描けばいいのか分からなかった。
あの扉は、和室の奥にあった。
押し入れの隣。
いや、違う。
畳の配置から考えれば、あの壁の向こうには外壁があるはずだった。隣室はない。共用廊下でもない。構造上、そこに部屋が続く余地はない。
なのに、扉はあった。
晴人は赤ペンのキャップを閉めた。
その音が、ひどく大きく響いた。
午前九時過ぎ、会社から電話が入った。
上司の声はいつもより硬かった。
「水野、昨日の報告書なんだが」
「はい」
「一部、記載が抜けている。三〇四号室の室内写真が足りない」
晴人は目を細めた。
「送ったはずです」
「玄関とキッチン、浴室、居間はある。和室の奥だけない」
和室の奥。
晴人は机の上の写真を見た。
父の顔が白い。
「確認します」
「あと、管理会社から連絡があった。昨日、管理人の小林さんが少し変なことを言っていてな」
「変なこと?」
「君が部屋で倒れたとか、壁を叩いていたとか。大丈夫なのか」
晴人は黙った。
昨日の自分を、他人の言葉で聞かされると、急に距離ができた。
壁を叩いていた。
倒れかけていた。
誰もいない部屋で、死んだ妹の名前を呼んでいた。
それは調査員の行動ではなかった。
危険人物の説明に近かった。
「少し体調が悪くて」
「なら今日は休め」
「いえ、追加確認に行きます」
「水野」
上司の声が低くなった。
「中町ハイツの件は、いったん別の者に回す。君は今日は来なくていい」
通話が切れたあと、晴人はしばらく画面を見ていた。
来なくていい。
現場に戻るな、という意味だった。
だが戻らなければ、何も分からない。
父が消えかけている理由も。
結衣があの部屋にいた理由も。
折り鶴が、なぜここにあるのかも。
晴人は鞄に図面と透明袋を入れた。
会社の許可はなかった。
それでも、足は玄関へ向いていた。
中町ハイツに着いたのは、昼前だった。
雨は完全に止んでいたが、建物の庇からはまだ水滴が落ちていた。地面には細い水たまりが残り、灰色の空を小さく映している。シャッターを下ろしたコインランドリーの前に、濡れた新聞紙が一枚貼りついていた。
晴人は建物を見上げた。
三階の窓は、どれも黒かった。
三〇四号室の窓も、他と同じように閉じている。
ただの空き部屋。
そう見える。
そう見えなければ困る。
入口には新しい黄色いテープが張られていた。
関係者以外立入禁止。
昨日はなかったものだ。
晴人がテープを見ていると、背後でカメラのシャッター音がした。
小さく、乾いた音。
彼は振り返った。
歩道の端に、女が立っていた。
黒いショートコート。肩にかかった小さなショルダーバッグ。片手には一眼レフではなく、使い込まれたミラーレスカメラ。髪は顎の少し下で切りそろえられ、風に揺れるたび、耳元の銀色のピアスが光った。
年は二十代後半くらい。
目が鋭かった。
ただ観光で古い建物を撮っている人間の目ではなかった。
女はカメラを下ろした。
「水野晴人さんですね」
晴人はすぐには答えなかった。
「どちら様ですか」
「如月瀬奈です」
女はポケットから名刺を出した。
白い紙に、黒い文字。
フリーライター 如月瀬奈。
その下に、いくつかの媒体名とメールアドレスが並んでいた。
「都市伝承とか、古い建物の噂とか、そういう記事を書いています」
「取材なら、管理会社を通してください」
「管理会社は、何も答えてくれません」
「なら、僕も答えません」
晴人は名刺を受け取らなかった。
瀬奈は気にした様子もなく、名刺を引っ込めた。
その指先には、薄くインクの跡があった。ペンを握り慣れている人間の手だった。
「昨日、三〇四号室に入りましたよね」
「仕事です」
「そのあと、管理人さんが救急車を呼ぼうとした」
「呼ばれていません」
「呼ぶ前にあなたが断ったから」
晴人の表情がわずかに動いた。
瀬奈はそれを見逃さなかった。
「顔色が悪いです」
「あなたには関係ない」
「あります」
短い言葉だった。
風が駐車場の方から吹き、建物の脇に溜まった雨水を揺らした。古い自転車置き場の屋根が、ぎし、と鳴る。
晴人は女を見た。
「何が関係あるんですか」
「私は、図面にない部屋を探しています」
晴人の呼吸が止まった。
瀬奈はまっすぐこちらを見ていた。
冗談を言っている顔ではない。
怪談を売りたいだけの人間の顔でもない。
「……何の話ですか」
「知らないふりをするのが下手ですね」
「帰ります」
晴人は背を向けた。
その瞬間、瀬奈が言った。
「扉は、押し入れの近くにありましたか」
足が止まった。
晴人は振り返らなかった。
背中に、瀬奈の視線が刺さる。
「古い団地では、よく押し入れの裏に出るんです。図面上は外壁。構造上は空間がない。なのに、そこに扉がある」
「怪談の読みすぎです」
「怪談なら、どれだけよかったか分かりません」
その声に、かすかな疲れがあった。
晴人は振り返った。
瀬奈は建物を見上げていた。
三階。
三〇四号室の窓。
「あなたは、幽霊屋敷を書く人なんでしょう」
「そう見えますか」
「違うんですか」
「違うと思いたいです」
瀬奈は笑わなかった。
「私は、消えた人間を追っています」
晴人は何も言えなかった。
消えた人間。
その言葉だけが、体のどこかにひっかかった。
「十年前からです」瀬奈は続けた。「正確には、母が消えた十五年前から」
「お母さんが?」
「はい。古いマンションの取材に行ったきり、帰ってきませんでした」
彼女の声は平らだった。
何度も説明してきた話のようでもあり、誰にも説明したくなかった話のようでもあった。
「警察は失踪として処理しました。事件性は低い。家庭の事情。本人の意思。便利な言葉はいくらでもあります。でも、母は私を置いて消えるような人じゃなかった」
瀬奈はカメラをバッグにしまった。
「母の手帳に、同じ言葉が何度も出てきました」
「同じ言葉?」
「零号室」
晴人の胸の奥で、何かがゆっくりと沈んだ。
それは、昨日から何度も聞いているはずの言葉ではない。
結衣の声でもない。
だが確かに、その部屋に名前が与えられた瞬間だった。
名前がついたものは、存在してしまう。
「どこで、その言葉を」
「母のノートです」
「他にも知っている人がいるんですか」
「います。少ないですが」
「会ったんですか」
「会えた人と、会えなくなった人がいます」
晴人は唇を噛んだ。
聞いてはいけない。
そう思った。
聞けば、昨日の出来事が夢ではなくなる。
父の写真も、母の言葉も、折り鶴も、すべて同じ線で結ばれてしまう。
それでも、口は勝手に動いた。
「零号室って、何なんですか」
瀬奈はすぐには答えなかった。
建物の入口に張られた黄色いテープが、風に揺れて小さく鳴った。
「ここでは話せません」
「僕はあなたを信用していない」
「それでいいです。私もあなたを信用していません」
瀬奈は鞄から一枚の写真を取り出した。
古い写真だった。
端が少し焼けている。
そこには別のマンションの廊下が写っていた。薄暗い廊下の奥に、扉が一つある。
その扉だけ、号室札がなかった。
「でも、これを見てもらえれば、少なくとも私がただのオカルト記事を書きたいだけの人間じゃないことは分かると思います」
晴人は写真を受け取った。
紙の表面は少しざらついていた。
廊下の壁。
非常灯。
床に落ちた水の跡。
そして、号室のない扉。
写真の裏には、鉛筆で短い文字が書かれていた。
零号室。接触不可。戻った者、記憶欠落。
晴人は写真を瀬奈に返そうとした。
だが、手が止まった。
扉の下。
床の端に、小さな白いものが落ちていた。
紙だった。
折り鶴に見えた。
晴人の指先が冷えた。
「これ、いつの写真ですか」
「十五年前です」
「誰が撮った」
「母です」
晴人は写真から目を離せなかった。
十五年前。
結衣が死ぬよりも前。
中町ハイツに行くよりも前。
それなのに、そこに折り鶴がある。
偶然だ。
そう思おうとした。
紙の鶴なんて、どこにでもある。
子どもがいれば、誰でも折る。
病院にも、学校にも、古い家にも。
でも、その鶴は片方の羽が黒く焦げているように見えた。
晴人は透明袋に入れた折り鶴を思い出した。
鞄の中で、音もなく眠っている紙の重さ。
「あなたは昨日、誰に会いましたか」
瀬奈が静かに聞いた。
晴人は答えなかった。
「生きている人ですか」
「やめてください」
「死んでいる人ですか」
「やめろ」
声が低く出た。
自分でも驚くほど、鋭かった。
瀬奈は黙った。
だが引かなかった。
その目には、恐怖よりも切迫したものがあった。
彼女もまた、何かを失いかけている。
晴人はそう感じた。
その感覚が、余計に腹立たしかった。
「あなたに話すことは何もありません」
「あります」
「ない」
「あなたの家の写真、変わっていませんか」
晴人の体が固まった。
瀬奈は一歩だけ近づいた。
「誰かの顔が、ぼやけていませんか」
風が止んだ。
水たまりの表面も、動かなくなった。
晴人は、ようやく理解した。
この女は知っている。
図面にない扉のことだけではない。
それを開けた後に起こることまで。
「なぜ」
声が掠れた。
「なぜ、それを知っている」
瀬奈は答えなかった。
代わりに、もう一度名刺を差し出した。
今度は裏面だった。
そこには、ボールペンで住所が書かれていた。
西新宿の古い雑居ビル。
「来るかどうかは、あなたが決めてください」
「行かなかったら?」
「たぶん、あなたは一人で確かめることになります」
「それの何が悪い」
「零号室に、一人で近づいた人は、大抵戻り方を忘れます」
瀬奈は名刺を晴人の手に押し込んだ。
その手は冷たかった。
昨日、小林から鍵を受け取ったときの冷たさに似ていた。
「水野さん」
瀬奈は初めて、少しだけ声を落とした。
「あなた、零号室に入ったんですね」
晴人は名刺を握った。
紙の角が掌に食い込む。
瀬奈は続けた。
「生きて戻った人に会うのは、これが初めてです」




