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零号室  作者: 清忠
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(第一部 . 第四章) ぼやけた写真

写真の中で、父の顔だけが滲んでいた。


 最初は、硝子が曇っているのだと思った。


 晴人は袖で額縁を拭いた。濡れた跡も、埃も、指紋も取れた。けれど写真の中の父の顔は、少しも戻らなかった。


 古い夏祭りの写真だった。


 背景には、赤い提灯が並んでいる。夜店の灯り。人混み。水風船を持った結衣。母は浴衣の袖を片手で押さえ、少し困ったように笑っている。晴人は中学生の顔で、カメラを見ずに横を向いていた。


 父だけが、ぼやけていた。


 顔の輪郭は残っている。


 髪の形も、肩の線も、着ていた紺色のシャツも分かる。


 なのに目と鼻と口だけが、水に落ちたインクみたいに滲んでいる。


 そこだけ、記憶が乾く前に誰かが指でこすったようだった。


「……何だよ、これ」


 声は部屋に吸われた。


 晴人は写真立ての裏板を外した。古い紙の匂いがした。写真を取り出し、電灯の下にかざす。


 裏側には何もない。


 表面に傷もない。


 焼け焦げた跡もない。


 ただ、父の顔だけが消えかけている。


 晴人は本棚の前に座り込んだまま、しばらく動けなかった。


 テーブルの上の折り鶴は静かだった。


 さっきまで揺れていたのが嘘のように、焦げた羽を閉じたまま、じっとそこにある。


 晴人は写真を持ったまま立ち上がり、台所へ行った。


 水を出す。


 コップに注ぐ。


 飲む。


 喉を通る水が、異物のように冷たかった。


 写真を見る。


 変わらない。


 父の顔は戻らない。


 晴人はスマートフォンを取り出した。


 まず、写真を撮った。


 画面の中でも、父の顔はぼやけていた。


 次に、明るさを上げる。


 拡大する。


 輪郭補正をかける。


 画像が荒くなるだけで、顔は浮かび上がらない。


 まるで、そこに最初から顔の情報が存在していないようだった。


 晴人は唇を噛んだ。


 こういうことは、ある。


 古い写真の劣化。


 印刷時の失敗。


 湿気。


 黴。


 そんな言葉を頭の中に並べた。


 並べれば並べるほど、どれも薄っぺらく聞こえた。


 この写真は、昨日までこんなふうではなかった。


 正確に言えば、昨日見たわけではない。


 だが晴人は知っている。


 この写真の父は、確かに笑っていた。


 少し照れたように、口元だけで笑う人だった。


 写真を撮られるのが苦手で、いつも真正面を見なかった。


 この夏祭りの写真でも、父はカメラではなく、母と結衣の方を見ていた。


 それを覚えている。


 覚えているはずだった。


 晴人は目を閉じた。


 父の顔を思い浮かべようとした。


 輪郭。


 髪。


 声。


 大きな手。


 雨の日に傘を忘れて、駅まで迎えに来た背中。


 叱るときの低い声。


 結衣の折り紙を財布に入れていた横顔。


 そこまでは浮かぶ。


 顔だけが、霧の中に沈んでいく。


 晴人は目を開けた。


 息が浅くなっていた。


「落ち着け」


 自分に言った。


 声に出すと、少しだけ現実に戻れる気がした。


 晴人は木箱を引き寄せた。


 蓋を開ける。


 中には、火事のあとに残ったものがいくつか入っていた。


 焦げたキーホルダー。


 結衣が使っていた赤い髪留め。


 父の古い腕時計。


 母が病院で書いた書類のコピー。


 そして、数枚の写真。


 晴人は一枚ずつ取り出した。


 入学式。


 運動会。


 結衣の誕生日。


 家族で行った海。


 どの写真にも、父は写っていた。


 そして、どの写真でも、父の顔だけがぼやけていた。


 晴人の指先から血の気が引いた。


 一枚だけではない。


 全部だ。


 父の顔が写っている部分だけが、同じように滲んでいる。


 写真の紙質も、年代も、場所も違う。


 なのに消え方だけが同じだった。


 まるで誰かが、世界中の写真から父の顔だけを慎重に削り取っているみたいに。


 晴人は床に写真を並べた。


 薄い紙の上で、家族が何度も笑っている。


 母。


 結衣。


 自分。


 そして、顔のない父。


 部屋の蛍光灯が一度だけ点滅した。


 その瞬間、写真の中の提灯が、火の色に変わったように見えた。


 晴人は反射的に写真を伏せた。


 息を整える。


 それから、スマートフォンのアルバムを開いた。


 データなら違うはずだ。


 そう思いたかった。


 クラウドに保存してある古い家族写真を探す。母から以前送られてきた写真。親戚の集まりで共有された画像。亡くなった人の整理のためにスキャンしたもの。


 一枚目。


 父の顔はぼやけていた。


 二枚目。


 同じ。


 三枚目。


 同じ。


 晴人は画面を何度もスクロールした。


 指が滑る。


 画像が流れる。


 季節が変わる。


 場所が変わる。


 結衣が成長する。


 自分も少しずつ大人に近づいていく。


 父だけが、顔を失っていく。


 いや、失ったのではない。


 最初からなかったことにされている。


 晴人はスマートフォンをテーブルに置いた。


 折り鶴の隣に画面が光っている。


 画面の中の父の顔は、白く滲んでいた。


 その光が、折り鶴の黒い羽に反射する。


「お前がやったのか」


 晴人は折り鶴に向かって言った。


 返事はない。


 ただ、部屋のどこかで、水滴の落ちるような音がした。


 ぽたん。


 台所の蛇口は閉まっている。


 浴室にも水はない。


 もう一度、音がした。


 ぽたん。


 晴人は耳を澄ませた。


 音は、写真の中から聞こえているようだった。


 夏祭りの写真。


 赤い提灯。


 水風船。


 父のぼやけた顔。


 そこに、小さな黒い染みが一つ増えていた。


 写真の端。


 背景に写った人混みの向こう。


 古い団地のような建物の影がある。


 記憶の中の夏祭りに、そんな建物はなかった。


 晴人は写真を近づけた。


 暗い影の中に、細い廊下がある。


 その奥に、扉が一つ。


 番号札は見えない。


 けれど扉の下に、白いものが落ちていた。


 折り鶴。


 晴人は写真をテーブルに置いた。


 偶然だ。


 印刷の汚れだ。


 そう言い聞かせる。


 しかし言葉はもう、力を持っていなかった。


 スマートフォンが鳴った。


 晴人は肩を震わせた。


 画面には「母」と表示されている。


 電話が鳴り続ける。


 出るべきではない気がした。


 だが出なければ、もっと悪いことが起きる気もした。


 晴人は通話ボタンを押した。


「もしもし」


「あ、晴人?」


 母の声だった。


 少し掠れているが、いつもの声だ。


 そのことに、晴人は自分でも驚くほど安心した。


「うん」


「ごめんね、こんな時間に。今、大丈夫?」


「大丈夫」


 大丈夫ではなかった。


 でも、他に答え方を知らなかった。


 母は少し黙った。


 電話の向こうで、テレビの小さな音が聞こえる。天気予報の声。食器が触れる音。母の暮らす家の気配。


 それはあまりに普通で、晴人の部屋だけが現実から外れているようだった。


「今日ね、変なことがあって」


 晴人の指が、写真の上で止まった。


「変なこと?」


「押し入れを整理していたの。古いアルバムが出てきてね」


 晴人は喉の奥が乾くのを感じた。


「それで?」


「写真が、少しおかしいの」


 母の声は、まだ穏やかだった。


 けれどその穏やかさが、かえって怖かった。


「どうおかしいの」


「お父さんの顔だけ、ぼやけているのよ」


 晴人は目を閉じた。


 聞きたくなかった言葉が、はっきり耳に入ってきた。


「母さんのところも?」


「晴人のところも?」


 母がすぐに聞き返した。


 その声には、驚きよりも不安があった。


 晴人はすぐには答えられなかった。


 テーブルの上に並んだ写真を見た。


 何枚もの父が、顔だけを失っている。


「うん」


 短く答えると、電話の向こうで母が息を呑んだ。


「古い写真だから、劣化したのかもしれない」


 母はそう言った。


 晴人にではなく、自分に言い聞かせるように。


「全部?」


「……そうね」


「データも?」


 母は黙った。


 その沈黙で、答えは分かった。


「母さん」


「何?」


「父さんの顔、思い出せる?」


 電話の向こうで、テレビの音が少し大きくなった。


 母がリモコンを探しているのか、何かがテーブルに当たる音がした。


 やがてテレビの音が消えた。


 静かになった。


 母は答えなかった。


「母さん」


「思い出せるわよ」


 その声は、少し強すぎた。


「もちろん。忘れるはずないじゃない」


「じゃあ、どんな顔だった?」


 母は笑おうとした。


 失敗した笑い方だった。


「変なことを聞くのね」


「答えて」


「お父さんは……」


 そこで言葉が止まった。


 晴人はスマートフォンを耳に押し当てた。


 自分の心臓の音が邪魔だった。


「背が高くて」


「うん」


「手が大きくて」


「うん」


「無口で」


「顔は?」


 母は黙った。


 長い沈黙だった。


 その沈黙の中で、晴人は母が必死に何かを探しているのが分かった。


 アルバムの中から。


 古い家の中から。


 記憶の奥から。


 けれど、それは見つからない。


「晴人」


 母の声が、小さくなった。


「私、少し疲れているのかもしれない」


「母さん」


「今日はもう寝るわ」


「待って」


「また明日、話しましょう」


 通話は切れた。


 晴人はスマートフォンを耳に当てたまま、しばらく動けなかった。


 画面が暗くなる。


 部屋の中に、自分の呼吸だけが残る。


 写真の中の父は、誰もいない場所を見ていた。


 いや、見ているのかどうかさえ分からなかった。


 目がないからだ。


 晴人はもう一度、夏祭りの写真を手に取った。


 父の顔の滲みが、さっきより広がっている気がした。


 母の顔は変わらない。


 結衣の顔も変わらない。


 水風船を胸に抱え、少し得意そうに笑っている。


 その笑顔を見るだけで、胸の奥が痛んだ。


 結衣は死んだ。


 父は消えかけている。


 では次は、誰だ。


 晴人は写真を持つ手に力を込めた。


 そのとき、スマートフォンが短く震えた。


 母からのメッセージだった。


 画像が一枚添付されている。


 晴人は画面を開いた。


 母の家にある古いアルバムの写真だった。


 同じ夏祭り。


 同じ赤い提灯。


 同じ四人家族。


 父の顔だけが、こちらの写真よりもさらに白くぼやけていた。


 その下に、母の短い文章があった。


 晴人は、しばらくその文字を読めなかった。


 何度も瞬きをした。


 それでも、文字は変わらなかった。


 ――お父さんって、どんな顔だったかしら。


 テーブルの上で、焦げた折り鶴がゆっくりと首を上げた。


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