(第一部 . 第三章) 遅すぎたよ
幼い声は、空室の奥から聞こえた。
誰もいないはずの、三〇四号室の奥から。
晴人は息を止めた。
雨音だけが、窓の外で細かく跳ねている。ベランダの排水口にたまった水が、ときどき喉を鳴らすような音を立てた。懐中電灯の光は畳の上に落ち、焦げた羽を持つ折り鶴を白く照らしていた。
今の声を、聞き間違えるはずがなかった。
十年前に失った声だった。
「結衣」
呼んだ瞬間、部屋の空気が少しだけ冷えた。
晴人は立ち上がろうとして、膝に力が入らず、畳に手をついた。古い畳の目が掌に食い込む。指先が震えていた。自分の指なのに、まるで誰か別の人間のものみたいだった。
「いるのか」
答えはなかった。
代わりに、押し入れの戸が、かすかに鳴った。
ぎい、と。
晴人は懐中電灯を向けた。光の円が押し入れの板戸をなぞる。そこには何もなかった。さっきまで扉があったはずの壁も、普通の壁に戻っている。古く、薄汚れ、ところどころに水染みが浮いた、ただの壁だった。
零号室など、最初から存在しなかったみたいに。
晴人は壁に近づいた。
手を伸ばす。
冷たい。
硬い。
その向こうに、何かがある気配はない。
それなのに、掌の奥で、確かに感じた。
薄い膜の向こう側で、誰かが同じ場所に手を置いているような感触。
「結衣」
声が裏返った。
「もう一度だけ、出てきてくれ」
壁は黙っていた。
晴人は拳で叩いた。
一度。
二度。
三度。
乾いた音が空室に響いた。隣の部屋があれば苦情が来るほどの音だった。だがこの建物には、もう誰も住んでいない。誰かが止めに来ることもない。
それが、ひどく怖かった。
自分がどれだけ取り乱しても、この部屋はただ黙って受け止めるだけだった。
「返事をしろよ」
拳が痛んだ。
「何なんだよ、これは」
壁に額をつける。
黴の匂い。
古い木の匂い。
その奥に、わずかに焦げた匂いが混じっていた。
晴人は目を閉じた。
炎の音が、耳の奥で蘇る。
ぱちぱち、と何かが燃える音。
誰かが咳き込む音。
そして、結衣の声。
お兄ちゃん。
晴人は目を開けた。
背後で、玄関の方から靴音が聞こえた。
「水野さん?」
小林の声だった。
晴人は振り返った。
玄関の薄暗い光の中に、小林が立っていた。作業用の雨合羽の肩が濡れている。手には懐中電灯を持ち、表情はいつものように曖昧だった。
「大丈夫ですか。電話、急に切れたので」
小林は和室の入口で足を止めた。
床に落ちた図面。
散らばった懐中電灯。
壁際に立ち尽くす晴人。
そして晴人の右手に握られた、焦げた折り鶴。
小林の視線がそこに一瞬だけ落ちた。
ほんの一瞬だった。
だが晴人は見逃さなかった。
「小林さん」
「はい」
「この部屋に、もう一つ扉がありました」
言った途端、言葉が部屋の中で浮いてしまった。
馬鹿げている。
自分でもそう思った。
だが、言わずにはいられなかった。
「押し入れの横です。図面にはない扉があった。そこに入ったら、部屋があって……」
結衣がいた。
その言葉だけが、どうしても出てこなかった。
小林は壁を見た。
近づいて、懐中電灯で照らす。壁紙の剥がれ、古い釘穴、薄い水染み。どこを照らしても、ただの壁だった。
「ここですか」
「そうです」
「扉はありませんね」
「今は、ないんです」
小林は黙った。
その沈黙が、晴人の胸をゆっくり押し潰した。
「信じてませんよね」
「いえ」
小林は首を横に振った。
けれどその目は、壁ではなく晴人の顔を見ていた。
「ただ、水野さんはかなり顔色が悪い。今日はもう中止にした方がいいです」
「違う。体調の話じゃありません」
「分かっています」
小林の声が、少し低くなった。
「だからこそ、今日は中止です」
晴人は言い返そうとした。
けれど言葉が続かなかった。
折り鶴を握る手に、微かな温かさが残っている。
あり得ない。
あり得ないはずなのに。
この温度だけが、彼を現実に繋ぎ止めていた。
小林は床の図面を拾い、軽く埃を払った。
紙面を見た瞬間、晴人は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
三〇四号室の平面図。
玄関。台所。和室。洋室。浴室。
それだけだった。
零号室の文字はない。
赤鉛筆で囲まれていたはずの番号も、消えている。
白紙のようにきれいに。
最初から、何も書かれていなかったみたいに。
「この図面」
晴人は奪うように受け取った。
紙を裏返す。
光に透かす。
折り目を開く。
どこにも、0はなかった。
「さっきはありました」
「何がですか」
「0です。部屋番号の。ここに」
晴人は紙の余白を指で押さえた。
強く押しすぎて、爪の跡が残った。
小林はその指先を見ていた。
「水野さん」
「ありました」
「分かりました」
「分かってない」
声が荒くなった。
空室に反響して、自分の声が自分を責めるみたいだった。
小林は表情を変えなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「降りましょう」
それ以上、何も言わなかった。
晴人は壁を見た。
もし本当に向こう側に結衣がいるなら、自分はここから離れていいのか。
十年前も、同じだった。
熱くて。
煙くて。
怖くて。
彼は一度、手を離した。
その一度が、すべてを決めた。
今また、同じことをしようとしている。
晴人は壁に手を伸ばした。
そのとき、壁の内側から、こつん、と小さな音がした。
紙を折る音ではない。
指の関節で、向こうから壁を叩いたような音。
晴人の背中が強張った。
小林も、わずかに顔を上げた。
「今の」
晴人が言う前に、音は止まった。
部屋はまた静かになった。
雨の音だけが戻ってくる。
小林は何も聞かなかったふりをした。
「行きましょう」
それは頼みではなく、命令に近かった。
晴人は折り鶴を上着のポケットに入れた。
壁から視線を外す。
それだけのことに、ひどく時間がかかった。
玄関を出ると、廊下の空気は湿って冷たかった。
人感センサーの明かりが一つずつ点き、二人の前だけを白く照らした。背後の三〇四号室はすぐに暗くなった。扉が閉まる音が、思ったより大きく響いた。
晴人は反射的に振り返った。
三〇四。
古い金属の数字が、扉に貼られている。
その下に、ほんの一瞬だけ、黒い影のようなものが見えた。
0。
晴人が瞬きをすると、それはただの錆に戻っていた。
「水野さん」
小林がエレベーターの前で呼んだ。
晴人は返事をしなかった。
足だけが動いた。
エレベーターは四階に止まっていた。扉の隙間から冷たい光が漏れている。古い機械音を立てながら、扉が開いた。
二人は中に入った。
狭い箱だった。
壁のステンレスは曇っていて、鏡のようにぼんやりと人影を映す。天井の蛍光灯が切れかけているのか、一定の間隔で明るさが揺れた。
小林が一階のボタンを押す。
扉が閉まる。
下降が始まった。
数字が、4から3へ変わる。
晴人はステンレスの壁に映る自分を見た。
青ざめた顔。
濡れた前髪。
固く結ばれた口元。
その後ろに、誰かが立っていた。
小さな影。
水色のワンピース。
晴人の心臓が止まりかけた。
振り返る。
誰もいない。
小林だけが、無言で階数表示を見ていた。
晴人はもう一度、壁の反射を見た。
そこには、いた。
結衣が。
晴人の背後に立ち、首を少しだけ傾けている。
顔ははっきり見えない。
でも、目だけがこちらを見ていた。
「お兄ちゃん」
声は、耳元ではなく、胸の内側から聞こえた。
晴人は唇を動かした。
結衣。
声にならなかった。
「遅すぎたよ」
エレベーターが止まった。
階数表示は2を示していた。
一階ではない。
扉が開く。
そこにあるはずの二階の廊下ではなかった。
黒く焼けた廊下が、口を開けていた。
壁は煤で覆われ、天井から垂れ下がった配線が赤く光っている。床には水が溜まり、そこに火の色が揺れていた。
熱はない。
匂いだけがあった。
十年前の匂い。
晴人は一歩も動けなかった。
その廊下の奥から、小さな手が伸びている。
白い指先。
炎の影に揺れる手。
助けて、と言っているのか。
来ないで、と言っているのか。
分からなかった。
「水野さん?」
小林の声で、現実が戻った。
目の前には、普通の二階の廊下があった。灰色の床。非常灯。剥がれた掲示板。焼けた跡など、どこにもない。
晴人は息を吸った。
胃の奥が反転しそうになった。
「降ります」
そう言って、二階でエレベーターを飛び出した。
「水野さん、待ってください」
小林の声を背中で聞きながら、晴人は非常階段へ向かった。
足音が階段室に響く。
一段飛ばしで降りた。
三階。
二階。
一階。
踊り場の窓に雨が叩きつけられている。外の街灯が水滴に砕け、壁に揺れる光を作っていた。
晴人は階段を駆け下りながら、自分が逃げていることを理解していた。
十年前と同じだ。
また逃げている。
でも足は止まらなかった。
一階の鉄扉を押し開けると、湿った外気が顔にぶつかった。
雨はさらに強くなっていた。解体を待つ団地の中庭は水浸しで、古い滑り台の下に黒い水たまりができている。黄色い立入禁止のテープが風で震え、街灯の光の中で生き物のように揺れていた。
晴人は屋根のない場所まで出て、初めて立ち止まった。
雨が髪を濡らす。
上着に染み込む。
靴の中まで冷たくなる。
それでも、部屋の中よりましだった。
小林が少し遅れて出てきた。
傘を差す余裕もなかったのか、肩が濡れている。
「大丈夫ですか」
晴人は答えなかった。
ポケットの中の折り鶴を握った。
紙はまだ温かかった。
雨に濡れた指先とは、まったく違う温度だった。
「小林さん」
「はい」
「三〇四号室に住んでいた人は、どういう人でしたか」
小林は一瞬だけ、団地の上階を見上げた。
四階の三〇四号室の窓は暗い。
その闇が、こちらを見下ろしているようだった。
「高齢の女性です。一人暮らしでした」
「家族は」
「いなかったと聞いています」
「亡くなったんですよね」
「ええ。発見が少し遅れました」
小林の声は事務的だった。
しかしその事務的な響きが、かえって何かを隠しているように聞こえた。
「その人は、折り紙をしていましたか」
小林の表情が、ほんのわずかに動いた。
「どうして、それを」
「部屋にありました」
嘘ではなかった。
全てではないだけだ。
小林は視線を落とした。
「近所の方の話では、よく折っていたそうです。鶴ばかり。誰かを待っているようだった、と」
「誰を」
「そこまでは」
雨が強くなった。
小林の声が雨音に紛れそうになる。
「ただ、最後に見つかったメモがあります」
「メモ?」
「部屋の菓子缶の中に。意味は分かりませんでしたが」
晴人の脳裏に、赤鉛筆の0が浮かんだ。
「何と書いてありました」
小林は少し迷った。
言うべきかどうかを考えているようだった。
そして、諦めたように息を吐いた。
「“間に合わなかった”と」
晴人の掌の中で、折り鶴がかすかに軋んだ。
それは風の音ではなかった。
紙が、内側から動いたような音だった。
晴人は反射的にポケットから手を離した。
「水野さん?」
「何でもありません」
同じ言葉を、今日何度目に口にしたか分からなかった。
何でもないはずがない。
でも、何かあると言っても、誰にも説明できない。
晴人は団地を見上げた。
三〇四号室の窓。
暗いガラスの奥に、白いものが一瞬だけ浮かんだ。
手。
小さな手が、窓ガラスの内側に触れている。
晴人が目を凝らすと、それはカーテンの破れ目に戻っていた。
小林は何も見ていない。
「今日は帰ります」
晴人は言った。
「報告書は明日出します」
「それで構いません」
小林は頷いた。
けれど、その声には安堵が混じっていた。
まるで、晴人がこれ以上あの部屋に近づかないことを望んでいるみたいに。
晴人は鞄を肩に掛け直し、団地の敷地を出た。
背後で、四階のどこかの窓が鳴った。
風だ。
そう思おうとした。
だが、雨の中に混じって、かすかな声が聞こえた。
お兄ちゃん。
晴人は振り返らなかった。
振り返れば、戻ってしまう気がした。
駅へ向かう道は、濡れたアスファルトが街灯を映していた。車が通るたびに、水しぶきが歩道の端まで跳ねる。傘を持たない晴人を、何人かが怪訝そうに見た。
彼はその視線を感じながら歩き続けた。
ポケットの中の折り鶴は、雨に濡れていない。
温かいままだった。
電車に乗っても、その温度は消えなかった。
車内は夕方の混雑を過ぎていた。座席には疲れた会社員が数人、スマートフォンを見る学生、買い物袋を抱えた老人。誰も晴人を見ていない。
窓に映る自分の顔だけが、こちらを見ていた。
その背後に、もう結衣はいなかった。
いないはずだった。
それでも晴人は、窓から目を逸らせなかった。
電車がトンネルに入った。
外が真っ暗になり、窓が完全な鏡に変わる。
その瞬間、晴人の隣の空席に、小さな影が座っているのが映った。
水色のワンピース。
膝の上で折り紙を持つ手。
晴人は息を呑み、隣を見た。
空席だった。
窓を見る。
そこにも、もう何も映っていなかった。
トンネルを抜ける。
街の光が戻る。
晴人は目を閉じた。
けれど暗闇の中で、結衣の声だけが残った。
遅すぎたよ。
何に。
何が。
十年前の火事にか。
今日あの部屋に入ったことにか。
それとも、もっと前から、自分は何かに遅れていたのか。
最寄り駅に着いたとき、雨は小降りになっていた。
晴人はコンビニにも寄らず、まっすぐ自宅へ向かった。古い賃貸マンションの三階。ドアの前に立ったとき、鍵を差し込む手がまだ震えていることに気づいた。
部屋の中は暗かった。
狭い玄関。
台所。
小さな居間。
いつもと同じ部屋。
いつもと同じはずなのに、どこか知らない場所みたいだった。
晴人は電気をつけた。
蛍光灯が二度点滅してから、白く点いた。
濡れた上着を脱ぎ、鞄を床に置く。ポケットから折り鶴を取り出そうとして、手を止めた。
もし取り出したとき、それがただの濡れた紙になっていたら。
もし何もなかったら。
自分は安心するのか。
それとも、もっと壊れるのか。
晴人はゆっくり折り鶴を取り出した。
白い羽。
黒く焦げた羽。
形は崩れていなかった。
雨に濡れてもいなかった。
そして、まだ温かかった。
晴人はそれをテーブルの上に置いた。
部屋の時計が、午後七時を少し過ぎたところを指している。
針の音が、やけに大きく聞こえた。
着替えることも忘れ、彼は椅子に座った。
折り鶴を見つめる。
十年前、火事のあと、母は何も言わなくなった。
父は家に帰らなくなった。
結衣の部屋は片づけられ、燃え残ったものは透明な袋に入れられた。
晴人は何度も聞かれた。
最後に結衣を見たのはいつか。
どこにいたのか。
なぜ一人で外に出たのか。
そのたびに、彼は同じ答えをした。
覚えていません。
嘘ではなかった。
本当に、途中から何も覚えていなかった。
煙。
熱。
誰かの手。
そこから先が、いつも白く抜け落ちる。
けれど今日、結衣は言った。
まだ全部思い出してないよ。
晴人は両手で顔を覆った。
指の隙間から、冷たい息が漏れた。
「何を忘れてるんだよ」
答える者はいない。
そのとき、居間の奥で、小さな音がした。
ことん。
何かが倒れた音。
晴人は顔を上げた。
本棚の下。
普段は触らない古い木箱の前に、写真立てが落ちていた。
それは、引き出しの奥にしまってあったはずのものだった。
十年前から、ずっと。
晴人は立ち上がった。
近づく。
写真立ては、床に伏せられていた。
額縁の裏板が少し開き、古い紙の端が覗いている。
誰かが、そこに置いたみたいだった。
晴人は膝をついた。
指先が、また震えた。
写真立てに触れる。
裏返す直前、背後のテーブルで、折り鶴が小さく揺れた。
羽が一度だけ、開くように震えた。
晴人は振り向かなかった。
息を止めたまま、写真立てを裏返した。




