(第一部 . 第二章) 零号室
晴人は零号の扉の前に立ち続けた。
懐中電灯を握る手が、いつの間にか痺れていた。
そのあいだ、自分がどう息をしていたのか、彼は覚えていなかった。
背後の三〇四号室は、相変わらず沈黙していた。居間も、ミニキッチンも、窓も、ベランダも、死んだもののように暗闇の中に横たわっている。生きているように思えるのは、目の前の扉だけだった。
動いているからではない。
向こう側から、まだ紙の音が聞こえるからだ。
かさり。
折る。
指で押さえる。
また、折る。
その音は小さかった。それなのに、まっすぐ耳の奥へ入ってくる。
晴人は、遠い夕方を思い出した。
台所で母が皿を洗っていた。食卓には薄い水色のビニールクロスがかかっていた。隣には、唇を尖らせながら、羽のずれた折り鶴を一生懸命折っている小さな女の子がいた。
忘れたはずだった。
少なくとも、忘れたと思っていた。
晴人は一歩下がった。
畳が、乾いた藁を押しつぶす音を立てた。
扉は消えなかった。
彼はポケットから携帯を取り出し、小林に電話をかけた。暗闇の中で画面が白く光り、電波は三本立っている。管理室の番号を押した。
呼び出し音は鳴らなかった。
画面には発信中と表示されたまま、スピーカーから低いノイズだけが流れた。
やがて、その雑音の中に声が混じった。
小林ではない。
大人の声でもない。
「お兄ちゃん?」
晴人は携帯を落とした。
それは畳の上に裏返しに転がり、光を失った。
彼は拾おうとしなかった。
頭が否定するより先に、体がその声を覚えてしまっていた。
ありえない。
扉の向こうで、紙を折る音が止まった。
「外にいるんでしょ?」
晴人は口を開いた。
声は出なかった。
十年。
その数字は、書類にも墓石にも、葬儀のあとに小声で交わされる会話にも、簡単に収まる。
十年あれば、人は携帯を何度か買い替え、住む場所を変え、仕事を変え、スーパーの菓子売り場の前で立ち止まらない方法を覚える。
十年あれば、ひとつの声は現在のものではなくなる。
それでもその声は、聞こえた瞬間、胸の中の正確な場所を探し当て、そこに刺さった。
晴人は携帯を拾った。
画面は黒い。
電源が落ちたわけではない。ただ、死んだガラス片のように黒かった。
彼はそれをポケットに戻した。
「結衣?」
その名前は、ほとんど息のように口から落ちた。
言った直後、晴人は後悔した。
部屋の向こう側が答えたからだ。
「うん」
指先が冷たくなった。
晴人は扉を見た。
古い白い塗装の上で、無数の引っかき傷が絡み合っている。爪の跡のようなものもあれば、子どもの鉛筆線のようなものもあった。ノブの上の赤いクレヨンの0は、暗がりの中でほのかに光っているように見えた。
晴人は近づいた。
一歩。
そこで止まった。
そこに部屋はない。
そこに結衣はいない。
水野結衣は、十年前の火事で死んだ。
晴人は、遺品袋を見た。黒く焦げたウサギの髪留めも見た。仏壇の前で背中を丸め、線香の煙の中で「お母さんがあの日、残業に行かなければ」と何度も繰り返す母も見た。
すべて見た。
それでも自分は生きている。
ただ、そのことが正しいのかどうか、わからない日があるだけだ。
「入らないの?」
結衣の声が尋ねた。
責めてはいない。
ただ、優しかった。
まるで自分の部屋のドアの向こうに座って、塾帰りの兄を待っているように。
晴人はノブに手をかけた。
金属は冷たい。
雨よりも冷たい。
彼は回した。
扉は、音もなく開いた。
光があふれた。
古い部屋の青白い蛍光灯ではない。雨の東京の灰色の光でもない。
夏の夕方の、淡い金色の光だった。
太陽がカーテンの低い位置を通り、部屋の埃が重さを失った小さな粒のように漂っている。
晴人は敷居に立ち尽くした。
目の前にあったのは、パイプスペースではない。
コンクリートの壁でもない。
隣の部屋でもなかった。
水野家の、昔の居間だった。
部屋の真ん中に置かれた低いテーブル。
その下の薄茶色のラグ。
濃い木目のテレビ台。
その上には、母が駅前の商店街で買ってきた招き猫の置時計がある。
クリーム色のカーテン。
部屋の隅では古い扇風機がゆっくり首を振っていて、左へ向くたびに、小さくかちりと鳴った。
全部あった。
ありえなかった。
その家はもうない。火事のあと、残った部分も取り壊された。土地は売られた。今は月極駐車場になっている。白い線がまっすぐ引かれたコンクリートの地面は、あまりにきれいで、残酷だった。
それなのに、目の前の部屋には家の匂いがあった。
炊きたての米の匂い。
通学鞄に入った新しい紙の匂い。
妹の髪に残る子ども用シャンプーの匂い。
晴人は中へ入れなかった。
片足はまだ三〇四号室にあり、もう片方の足は過去へ踏み出せずにいた。
居間の低いテーブルの前に、ひとりの少女が座っていた。
胸に小さな熊の絵が入った白いTシャツ。肩で切りそろえた黒い髪。前髪の片側だけが少し不揃いなのは、自分で切って失敗したからだ。横には白い正方形の紙が重ねて置かれている。テーブルの上には、すでに三羽の折り鶴が並んでいた。どれも同じように歪んでいる。
少女はうつむき、爪の先で折り目を強く押さえていた。
それから顔を上げた。
その目。
晴人は息ができなくなった。
「おかえり」
結衣が笑った。
小さく、少し照れた笑い方だった。失敗したのに褒められたいときの、あの顔だった。
晴人は扉の枠をつかんだ。
背後の枠は冷たく湿っている。目の前には十年前の夏がある。二つの世界の境目は、一歩分の薄さしかなかった。
「お前……」
それ以上、声が続かなかった。
結衣は首をかしげた。
「またアイス買うの忘れたの?」
その問いは、どんな叫び声よりも強く晴人を打った。
思い出した。
あの日だ。
火事の前。
結衣は、コンビニでメロン味のアイスを買ってきてほしいと頼んだ。晴人は「あとで」と言った。それから友人に会いに行った。雨がひどくなった。母からのメッセージが来た。
そして煙。
あまりにも多い煙。
走った。
けれど、間に合わなかった。
「結衣」
「なに?」
「俺が誰かわかるか」
結衣は瞬きをした。あまりに変なことを聞かれたみたいに。
「晴人お兄ちゃんでしょ」
「お前、何歳だ」
「十二歳」
「今日は何月何日だ」
結衣は頬を膨らませた。
「またテストしてるの? 覚えてるよ。八月十七日」
晴人は目を閉じた。
八月十七日。
火事が起きた日。
目を開けても、部屋は消えなかった。結衣も消えなかった。彼が信じることを拒んだだけでは、世界のどの部分も消えてくれなかった。
晴人は足を踏み入れた。
靴下の裏がラグに触れた瞬間、背後の扉が閉まった。
強くではない。
ただ、静かに閉じただけだ。
それなのに、晴人は反射的に振り返った。
零号の扉は消えていた。
そこにあるのは、昔の居間の壁だった。壁には、上野公園で撮った家族写真が飾られている。
父。
母。
十九歳の晴人。
十二歳の結衣。ポップコーンの袋を両腕で抱え、目がなくなるほど笑っている。
普通の写真だった。
あまりにも普通だった。
晴人は壁に手を当てた。
壁紙は乾いていて、温かく、指先にざらりとした感触を残した。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
結衣が言った。
振り向くと、彼女はまだ折っていない白い紙を手にして晴人を見ていた。怖がっていない。疑ってもいない。結衣にとって彼は、ただ遅く帰ってきて、変なことを言う兄にすぎない。
「何でもない」
声は掠れていた。
結衣は向かい側の座布団を指さした。
「座って。今、鶴を折ってるの。先生がね、千羽折ったら願いが叶うって言ってた」
「何を願うんだ」
結衣は紙に目を落とした。
「秘密」
「昔も、教えてくれなかったな」
「昔?」
晴人の体が固まった。
結衣が彼を見る。
「変なこと言うね」
晴人は彼女の向かいに腰を下ろした。
膝の下のラグは、記憶より柔らかかった。低いテーブルの右端には小さなへこみがある。子どものころ、晴人がグラスを落として作った傷だ。母は半日ほど彼を叱った。結衣はあとから、熊の絵の絆創膏をそこへ貼り、「机も痛いから」と言った。
その絆創膏が、まだ貼ってあった。
黄ばんでいる。
晴人は長いあいだ、それを見つめた。
「また怖い顔してる」結衣が言った。
「そうか」
「うん。お父さんに数学のテストの点を聞かれたときみたい」
晴人は笑った。
その音は不意に出て、乾いて、短かった。結衣のことを思い出して笑ったのは、いつ以来だろう。葬式の前だったのかもしれない。彼女の名前が、家族の誰も踏まない空白になる前だったのかもしれない。
結衣が一羽の折り鶴を晴人の前に置いた。
「はい、あげる」
片方の羽がずれている。
彼女の折り鶴は、いつもそうだった。
晴人はすぐに受け取らなかった。
「相変わらず下手だな」
結衣は眉を寄せた。
「じゃあお兄ちゃんが折ってよ」
「俺は知らない」
「うそ。お兄ちゃんは何でも知ってるもん」
違う。
晴人は何も知らなかった。
死んだはずの人間が目の前に座り、息をし、笑い、紙に触れ、自分を呼ぶとき、どうすればいいのか。
何を最初に聞けばいいのか。
痛かったか。
俺を恨んでいるか。
十年間、どこにいた。
なぜあの部屋は、俺をここへ連れてきた。
なぜ今なんだ。
なぜ、十二歳のままなんだ。
けれどそのすべては、歯の奥で止まった。
聞いてしまえば、結衣が死んだことを認めなければならない。
この部屋の中で、結衣は生きているのに。
結衣はうつむき、紙を折り続けた。小さな指が、ゆっくりと、不器用に動く。失敗するたびに紙を開き、最初から折り直す。頑固なほど辛抱強かった。
晴人はその手を見ていた。
十年前の遺品袋の中で、その手はもう完全ではなかった。
彼は膝の上で拳を強く握った。
「痛いの?」結衣が聞いた。
「え?」
「手」
見ると、晴人の爪が自分の掌に食い込み、白くなっていた。
彼は力を抜いた。
「痛くない」
結衣は信じていなさそうだったが、それ以上は聞かなかった。
昔からそうだった。ずっと子どもなのに、ときどき大人より正しい沈黙を知っていた。
テレビ台の上の招き猫時計が、ちくたくと鳴っていた。
晴人はそちらを見た。
短針は四。
長針は十七分を指している。
火事が始まったのは、たしか夕方六時ごろだった。
もしこれが本当に八月十七日なら。
もしこの部屋が、あの日の記憶を再現しているのなら。
まだ時間がある。
その考えは、とても静かに現れた。
そして、すぐに根を張った。
まだ時間がある。
結衣を火が出る前に外へ出せる。
母に電話できる。
ブレーカーを落とせる。
キッチンのコンセントを確認できる。
やり直せる。
晴人は立ち上がった。
結衣が驚いて顔を上げる。
「お兄ちゃん?」
「外へ行くぞ」
「今?」
「ああ。今すぐだ」
結衣はテーブルの上の紙を見た。
「でも、まだ折り終わってない」
「あとでいい」
「変なの」
晴人は結衣の手を取った。
彼の指先がその手首に触れた瞬間、部屋の温度が落ちた。
冷房の冷たさではない。
灰の冷たさだった。
結衣は顔を上げ、晴人を見た。
笑顔が消えていた。
「思い出したの?」
晴人は動きを止めた。
声は、十二歳の妹のものだった。けれど、その問いの中には子どものものではない何かが混じっていた。
疲れ。
何度も折りたたまれた悲しみ。
「何を」
結衣は、晴人がつかんでいる自分の手首を見た。
「あの日のこと」
部屋の隅の扇風機が止まった。
時計のちくたくも止まった。
一秒前まで夏の光に満ちていた部屋は、次の瞬間、遠くの空が燃えているような濃い橙色に染まった。
晴人は結衣の手を放した。
「お前、これから何が起きるか知っているのか」
結衣はうつむいた。
テーブルの上の白い折り鶴たちが、風もないのにわずかに羽を震わせた。
「いつも同じだから」
「いつも?」
結衣は答えなかった。
キッチンの方で、何かが落ちた。
がしゃん。
コップの割れる音。
晴人は弾かれたように振り向いた。
昔の家のキッチンは、引き戸の向こうにある。晴人の記憶では、火元はそこだった。過負荷になったコンセント。小さな火花。カーテンに移った火。廊下へ流れた煙。
彼は駆け寄った。
キッチンの戸は開かなかった。
強く引く。
動かない。
「結衣、離れてろ」
「開かないよ」
背後で結衣が言った。
晴人はもう一度引いた。
木の戸が手の下で熱を帯びはじめた。
「結衣!」
「晴人お兄ちゃん」
「玄関へ行け。早く」
「玄関はないよ」
晴人は振り返った。
玄関があるはずの場所には、ただ壁があった。その壁には、家族写真が飾られている。写真の中で、みんなが笑っていた。
結衣以外は。
彼女の顔だけが、ぼやけていた。
晴人の血の気が引いた。
「何なんだ、これは」
結衣は写真を見なかった。
「零号室」
「違う」晴人は首を振った。「ここは俺たちの家だ」
「お兄ちゃんの記憶だよ」
その言葉は、とても静かに落ちた。
だがその周りで、部屋がひび割れた気がした。
キッチンの戸の下から、黒い煙が這い出してきた。最初は細い一本だけだった。すぐにもう一本増えた。煙は床を這い、テーブルの脚に絡み、白い紙の束に絡み、晴人の膝にまとわりついた。
焦げた匂いが鼻を刺す。
本物だった。
あまりにも本物だった。
晴人は咳き込み、手で口を覆った。
「結衣、聞け。ここが何であっても、出るぞ」
「お兄ちゃん、いつもそう言う」
「いつも?」
結衣は一羽の折り鶴を拾い上げた。
煙で羽の端が灰色に汚れている。
「いつも、わたしを助けようとする」
晴人は近づいた。
「助けられなかったからだ」
結衣は彼を見た。
瞳は赤くなっていたが、涙はなかった。
「違うよ」
キッチンの向こうで火が音を立てた。
戸の隙間から橙色の光が漏れ、結衣の顔を照らす。その一瞬、十二歳の少女は、生きているようで、同時に遠く見えた。古い写真に火の色で着色したようだった。
「お前は火事で死んだ」晴人は言った。一語一語が喉を削った。「俺は知ってる」
結衣は首を振った。
「知らないよ」
キッチンの戸が大きく震えた。
木の表面に黒い亀裂が縦に走る。
晴人には、もう理解する時間がなかった。
彼は再び結衣の手をつかみ、かつて玄関があったはずの壁へ引っ張った。もしこれが記憶なら。もし零号室が昔の家を再現しているのなら。どこかに出口が残っているはずだった。玄関が完全に消えるはずはない。
だが結衣は動かなかった。
その体はあまりに軽く、少し引けばついてくると思えた。それなのに、彼女の足は床に打ち込まれたみたいに動かない。
「行け!」
ほとんど怒鳴り声だった。
結衣は晴人の手を見た。
それから、彼の顔を見上げた。
「怖いの?」
晴人は固まった。
煙で目が痛む。
「当たり前だろ」
「火が、じゃない」
晴人は答えられなかった。
結衣は小さく言った。
「思い出すのが怖いんでしょ」
その言葉で、晴人の手が離れた。
次の瞬間、部屋が歪んだ。
壁が水面のように揺れた。テレビ台も、低いテーブルも、招き猫の時計も、カーテンも、遠ざかったかと思うとまた近づいた。三〇四号室の雨音が一瞬だけ混じり、すぐに消防車のサイレンに呑まれた。
晴人は、別の映像が部屋の上に重なるのを見た。
煙で満ちた廊下。
開かない寝室の扉。
扉の向こうで泣く結衣の声。
自分の荒い息。
そして十九歳の自分の手が、ドアノブから離れた。
たった一秒。
一秒だけ。
だが記憶の中で、その一秒は十年続いた。
晴人は後ずさった。
「違う……」
結衣は煙の中で、折り鶴を胸に抱いていた。
「お兄ちゃんは戻ってきたよ」
「間に合わなかった」
「戻ってきた」
「でも、お前は死んだ」
結衣は微笑んだ。
その笑みは、最初に見た少女のものではなかった。もっと寂しく、もっと多くを知っていて、遠かった。
「わたしも、戻ったから」
晴人には意味がわからなかった。
キッチンの戸が破裂した。
炎があふれた。
本物の火のように乱れて燃えるのではなく、橙と赤の壁のように広がり、結衣の背後を覆いつくした。熱が晴人の顔を叩く。腕で目をかばっても、炎の前に立つ結衣の姿だけは見えた。
「結衣!」
晴人は飛び出した。
二人の距離が、突然伸びた。
低いテーブルが遠ざかる。ラグが長く引き延ばされる。床に散っていた折り鶴が舞い上がり、行き場を失った白い鳥の群れのように晴人の周りを旋回した。
彼は走った。
近づけない。
結衣は果てしなく長くなっていく部屋の奥に立ち、炎の中で小さくなっていく。
「行くな!」晴人は叫んだ。
声が割れた。
それは二十九歳の男の声ではなかった。あの日、燃える廊下の前に立ち、恐怖と後悔のあいだで震え、生きたいと思いながら、自分が生きることを許せなかった十九歳の声だった。
結衣は折り鶴を抱いた。
「お兄ちゃんは、まだわたしを覚えてる」
「忘れたことなんかない」
「それでいいよ」
「よくない!」
晴人は転んだ。
膝が床に打ちつけられる。だが下にあったのは居間のラグではなかった。冷たく、硬く、湿っている。
畳だ。
彼は二つの場所の境目にいた。
背後には暗い三〇四号室。
前方には、炎に沈む昔の居間。
零号室の扉が、二つの世界のあいだに裂け目のように口を開けている。
結衣はその裂け目の中に立っていた。
今度は、とても近かった。
手を伸ばせば、彼女の指についた小さなインクの跡も、片側だけ焦げた前髪も、手の中の折り鶴がもう白くないことも見えた。
その羽には、黒い筋が一本走っていた。
晴人は手をついて立ち上がった。
「連れて帰る」
結衣は首を振った。
「だめ」
「お前の許可は聞いてない」
「いつもそう言う」
「だったら、今度こそやる」
結衣は長いあいだ彼を見た。
その瞳には炎が映っていた。さらに奥には、哀れみに似たものがあった。
「晴人お兄ちゃん」
その呼び方に、晴人の胸が締めつけられた。
「そんな目で見ないで」
「じゃあ、どんな目で見ればいい」
答えられなかった。
結衣が一歩近づいた。
背後の炎は服に触れない。煙は彼女を咳き込ませない。この部屋は結衣を、自分の一部のように扱っていた。
「お兄ちゃんは、あの日とずっと一緒に生きてきたんだね」
「お前はどうなんだ」
結衣は目を伏せた。
「わたしは、その中にいた」
「中って、どこだ」
すぐには答えなかった。
天井から灰が降りはじめた。だがその灰は、折り紙の形をしていた。黒い鶴が、一羽ずつ空中で羽を失って落ちてくる。
「お兄ちゃんが、思い出せなかったあいだ」
すべての音が消えたように感じた。
その言葉は、責める言葉ではなかった。
責めていないからこそ、痛かった。
晴人は、妹を見た。
あるいは、妹の形を借りた何かを見た。
図面に存在しない部屋の中で、十年間閉じ込めてきた記憶の真ん中で、彼は初めて理解した。
いちばん恐ろしいのは、結衣が戻ってきたことではない。
自分の中のどこかが、この瞬間を待っていたことだ。
扉が開くのを待っていた。
あの日へ戻る機会を待っていた。
罰を受けることを。
あるいは、許されることを。
結衣は折り鶴を差し出した。
「持って」
晴人はそれを見た。
「これは何だ」
「帰り道」
彼は受け取らなかった。
「受け取ったら、どうなる」
「外に出られる」
「お前は」
結衣は手の中の折り鶴を見た。
「わたしは、ここにいる」
「だめだ」
晴人は踏み出した。だが足元の床がまた伸びた。彼と結衣のあいだを、黒い亀裂が横切る。亀裂の底から、たくさんの人のささやき声が同時に聞こえた。
言葉はわからない。
ただ、無数の記憶が握りつぶされているような気配だけがした。
結衣は下を見なかった。
「長くいちゃだめ」
「どうして」
「外が、忘れはじめるから」
「何を」
結衣は晴人を見た。
今度は答えなかった。
どこかで携帯の着信音が鳴った。
晴人は振り向いた。
音は背後の三〇四号室からだった。携帯が畳の上にあり、画面が再び点いている。そこには小林からの着信が表示されていた。
晴人はそれを見た。
それから結衣を見た。
彼が一瞬だけ気を取られたそのあいだに、結衣の背後の炎が退いた。昔の居間が薄れていく。水に浸された写真のように輪郭がにじんだ。招き猫の時計も、低いテーブルも、ラグも、家族写真も、すべてが闇へ溶けはじめた。
「待て」
晴人は走った。
結衣はそこにいる。
しかし、遠い。
「結衣!」
彼女は微笑んだ。
「お兄ちゃん、遅すぎたよ」
その言葉が晴人を貫いた。
彼は動きを止めた。
「何だって」
結衣は最初と同じように首をかしげた。けれど、その目はもう、何も知らない子どもの目ではなかった。
「いつも、そう」
部屋が震えた。
晴人の背後で零号室の扉が大きく開き、三〇四号室の冷たい空気を引き込んだ。床の折り鶴が扉へ吸い寄せられ、彼の肩の横を一羽ずつ飛んでいく。
晴人は手を伸ばした。
「待ってくれ!」
結衣も手を伸ばした。
けれど二つの手のあいだには、透明で、冷たく、分厚い壁があった。
指先は触れ合わない。
「お兄ちゃん」
声が小さくなった。
着信音にほとんど呑み込まれそうだった。
「今度は……」
晴人は見えない壁を叩いた。
「結衣!」
結衣はまっすぐ彼を見た。
「わたしを助けないで」
炎が、ふっと消えた。
部屋全体が闇へ崩れ落ちた。
晴人の体が強く後ろへ引かれた。
背中が三〇四号室の畳に叩きつけられる。湿った黴の匂いが肺に入り、彼は激しく咳き込んだ。懐中電灯が横で転がり、光が天井、押し入れ、古い壁を一回転して照らした。
水野家の居間はなかった。
火もなかった。
結衣もいなかった。
ただ、目の前で零号室の扉が閉まりかけていた。
晴人は肘をついて起き上がり、飛びついた。
だが扉は消えた。
押し入れの横の壁は、元通りだった。平らで、灰色で、黴びていて、隙間一つない。
彼は両手を壁に押し当てた。
冷たい。
硬い。
詰まっている。
向こうには何もない。
携帯はまだ鳴っていた。
晴人は振り返り、震える手でそれを拾った。
画面には、小林の名前が出ている。
通話ボタンを押した。
「もしもし」
相手は数秒、黙っていた。
それから小林の声が聞こえた。遠く、細く、井戸の底から届くみたいな声だった。
「水野さん、まだ三〇四にいますか」
晴人はすぐには答えられなかった。
壁を見た。
その足元、畳の上に、小さな白いものが落ちている。
折り鶴だった。
左の羽が黒く焦げていた。
「水野さん?」
晴人はそれを拾った。
紙は乾いて脆かった。
それでも、まだ温かかった。
彼は掌の中で握りしめた。
「小林さん」
「はい」
「この部屋……」
声が詰まった。
扉について聞こうとした。
零号室について。
ここに住んでいた老婆について。
菓子缶の中の紙片について。
自分が狂っていないと証明できるものなら、何でもよかった。
けれど畳の上の図面を見た瞬間、彼は言葉を失った。
0が消えていた。
三〇四号室の平面図は、また三部屋だけに戻っている。
清潔で。
普通で。
残酷だった。
「何でもありません」晴人は言った。
電話の向こうで、小林が息を吐いた。聞こえないほど小さな音だった。
「では、降りてきてください。もう暗くなります」
通話は切れた。
晴人は、まだ和室に膝をついていた。
外の雨は強くなっていた。水がベランダを何度も叩き、窓ガラスを微かに震わせている。廊下の人感センサーの明かりが点いて、すぐに消え、玄関扉の隙間から短い白い光が差し込んだ。
晴人は掌を開いた。
折り鶴がそこにあった。
片方の羽は白い。
もう片方は黒い。
晴人はそれを長いあいだ見つめた。
そのとき、誰もいないはずの空室の奥で、幼い声が静かに響いた。
「お兄ちゃんは、まだ全部思い出してないよ」




