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零号室  作者: 清忠
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(第一部 . 第二章) 零号室


晴人は零号の扉の前に立ち続けた。

 懐中電灯を握る手が、いつの間にか痺れていた。

 そのあいだ、自分がどう息をしていたのか、彼は覚えていなかった。

 背後の三〇四号室は、相変わらず沈黙していた。居間も、ミニキッチンも、窓も、ベランダも、死んだもののように暗闇の中に横たわっている。生きているように思えるのは、目の前の扉だけだった。

 動いているからではない。

 向こう側から、まだ紙の音が聞こえるからだ。

 かさり。

 折る。

 指で押さえる。

 また、折る。

 その音は小さかった。それなのに、まっすぐ耳の奥へ入ってくる。

 晴人は、遠い夕方を思い出した。

 台所で母が皿を洗っていた。食卓には薄い水色のビニールクロスがかかっていた。隣には、唇を尖らせながら、羽のずれた折り鶴を一生懸命折っている小さな女の子がいた。

 忘れたはずだった。

 少なくとも、忘れたと思っていた。

 晴人は一歩下がった。

 畳が、乾いた藁を押しつぶす音を立てた。

 扉は消えなかった。

 彼はポケットから携帯を取り出し、小林に電話をかけた。暗闇の中で画面が白く光り、電波は三本立っている。管理室の番号を押した。

 呼び出し音は鳴らなかった。

 画面には発信中と表示されたまま、スピーカーから低いノイズだけが流れた。

 やがて、その雑音の中に声が混じった。

 小林ではない。

 大人の声でもない。

「お兄ちゃん?」

 晴人は携帯を落とした。

 それは畳の上に裏返しに転がり、光を失った。

 彼は拾おうとしなかった。

 頭が否定するより先に、体がその声を覚えてしまっていた。

 ありえない。

 扉の向こうで、紙を折る音が止まった。

「外にいるんでしょ?」

 晴人は口を開いた。

 声は出なかった。

 十年。

 その数字は、書類にも墓石にも、葬儀のあとに小声で交わされる会話にも、簡単に収まる。

 十年あれば、人は携帯を何度か買い替え、住む場所を変え、仕事を変え、スーパーの菓子売り場の前で立ち止まらない方法を覚える。

 十年あれば、ひとつの声は現在のものではなくなる。

 それでもその声は、聞こえた瞬間、胸の中の正確な場所を探し当て、そこに刺さった。

 晴人は携帯を拾った。

 画面は黒い。

 電源が落ちたわけではない。ただ、死んだガラス片のように黒かった。

 彼はそれをポケットに戻した。

「結衣?」

 その名前は、ほとんど息のように口から落ちた。

 言った直後、晴人は後悔した。

 部屋の向こう側が答えたからだ。

「うん」

 指先が冷たくなった。

 晴人は扉を見た。

 古い白い塗装の上で、無数の引っかき傷が絡み合っている。爪の跡のようなものもあれば、子どもの鉛筆線のようなものもあった。ノブの上の赤いクレヨンの0は、暗がりの中でほのかに光っているように見えた。

 晴人は近づいた。

 一歩。

 そこで止まった。

 そこに部屋はない。

 そこに結衣はいない。

 水野結衣は、十年前の火事で死んだ。

 晴人は、遺品袋を見た。黒く焦げたウサギの髪留めも見た。仏壇の前で背中を丸め、線香の煙の中で「お母さんがあの日、残業に行かなければ」と何度も繰り返す母も見た。

 すべて見た。

 それでも自分は生きている。

 ただ、そのことが正しいのかどうか、わからない日があるだけだ。

「入らないの?」

 結衣の声が尋ねた。

 責めてはいない。

 ただ、優しかった。

 まるで自分の部屋のドアの向こうに座って、塾帰りの兄を待っているように。

 晴人はノブに手をかけた。

 金属は冷たい。

 雨よりも冷たい。

 彼は回した。

 扉は、音もなく開いた。

 光があふれた。

 古い部屋の青白い蛍光灯ではない。雨の東京の灰色の光でもない。

 夏の夕方の、淡い金色の光だった。

 太陽がカーテンの低い位置を通り、部屋の埃が重さを失った小さな粒のように漂っている。

 晴人は敷居に立ち尽くした。

 目の前にあったのは、パイプスペースではない。

 コンクリートの壁でもない。

 隣の部屋でもなかった。

 水野家の、昔の居間だった。

 部屋の真ん中に置かれた低いテーブル。

 その下の薄茶色のラグ。

 濃い木目のテレビ台。

 その上には、母が駅前の商店街で買ってきた招き猫の置時計がある。

 クリーム色のカーテン。

 部屋の隅では古い扇風機がゆっくり首を振っていて、左へ向くたびに、小さくかちりと鳴った。

 全部あった。

 ありえなかった。

 その家はもうない。火事のあと、残った部分も取り壊された。土地は売られた。今は月極駐車場になっている。白い線がまっすぐ引かれたコンクリートの地面は、あまりにきれいで、残酷だった。

 それなのに、目の前の部屋には家の匂いがあった。

 炊きたての米の匂い。

 通学鞄に入った新しい紙の匂い。

 妹の髪に残る子ども用シャンプーの匂い。

 晴人は中へ入れなかった。

 片足はまだ三〇四号室にあり、もう片方の足は過去へ踏み出せずにいた。

 居間の低いテーブルの前に、ひとりの少女が座っていた。

 胸に小さな熊の絵が入った白いTシャツ。肩で切りそろえた黒い髪。前髪の片側だけが少し不揃いなのは、自分で切って失敗したからだ。横には白い正方形の紙が重ねて置かれている。テーブルの上には、すでに三羽の折り鶴が並んでいた。どれも同じように歪んでいる。

 少女はうつむき、爪の先で折り目を強く押さえていた。

 それから顔を上げた。

 その目。

 晴人は息ができなくなった。

「おかえり」

 結衣が笑った。

 小さく、少し照れた笑い方だった。失敗したのに褒められたいときの、あの顔だった。

 晴人は扉の枠をつかんだ。

 背後の枠は冷たく湿っている。目の前には十年前の夏がある。二つの世界の境目は、一歩分の薄さしかなかった。

「お前……」

 それ以上、声が続かなかった。

 結衣は首をかしげた。

「またアイス買うの忘れたの?」

 その問いは、どんな叫び声よりも強く晴人を打った。

 思い出した。

 あの日だ。

 火事の前。

 結衣は、コンビニでメロン味のアイスを買ってきてほしいと頼んだ。晴人は「あとで」と言った。それから友人に会いに行った。雨がひどくなった。母からのメッセージが来た。

 そして煙。

 あまりにも多い煙。

 走った。

 けれど、間に合わなかった。

「結衣」

「なに?」

「俺が誰かわかるか」

 結衣は瞬きをした。あまりに変なことを聞かれたみたいに。

「晴人お兄ちゃんでしょ」

「お前、何歳だ」

「十二歳」

「今日は何月何日だ」

 結衣は頬を膨らませた。

「またテストしてるの? 覚えてるよ。八月十七日」

 晴人は目を閉じた。

 八月十七日。

 火事が起きた日。

 目を開けても、部屋は消えなかった。結衣も消えなかった。彼が信じることを拒んだだけでは、世界のどの部分も消えてくれなかった。

 晴人は足を踏み入れた。

 靴下の裏がラグに触れた瞬間、背後の扉が閉まった。

 強くではない。

 ただ、静かに閉じただけだ。

 それなのに、晴人は反射的に振り返った。

 零号の扉は消えていた。

 そこにあるのは、昔の居間の壁だった。壁には、上野公園で撮った家族写真が飾られている。

 父。

 母。

 十九歳の晴人。

 十二歳の結衣。ポップコーンの袋を両腕で抱え、目がなくなるほど笑っている。

 普通の写真だった。

 あまりにも普通だった。

 晴人は壁に手を当てた。

 壁紙は乾いていて、温かく、指先にざらりとした感触を残した。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 結衣が言った。

 振り向くと、彼女はまだ折っていない白い紙を手にして晴人を見ていた。怖がっていない。疑ってもいない。結衣にとって彼は、ただ遅く帰ってきて、変なことを言う兄にすぎない。

「何でもない」

 声は掠れていた。

 結衣は向かい側の座布団を指さした。

「座って。今、鶴を折ってるの。先生がね、千羽折ったら願いが叶うって言ってた」

「何を願うんだ」

 結衣は紙に目を落とした。

「秘密」

「昔も、教えてくれなかったな」

「昔?」

 晴人の体が固まった。

 結衣が彼を見る。

「変なこと言うね」

 晴人は彼女の向かいに腰を下ろした。

 膝の下のラグは、記憶より柔らかかった。低いテーブルの右端には小さなへこみがある。子どものころ、晴人がグラスを落として作った傷だ。母は半日ほど彼を叱った。結衣はあとから、熊の絵の絆創膏をそこへ貼り、「机も痛いから」と言った。

 その絆創膏が、まだ貼ってあった。

 黄ばんでいる。

 晴人は長いあいだ、それを見つめた。

「また怖い顔してる」結衣が言った。

「そうか」

「うん。お父さんに数学のテストの点を聞かれたときみたい」

 晴人は笑った。

 その音は不意に出て、乾いて、短かった。結衣のことを思い出して笑ったのは、いつ以来だろう。葬式の前だったのかもしれない。彼女の名前が、家族の誰も踏まない空白になる前だったのかもしれない。

 結衣が一羽の折り鶴を晴人の前に置いた。

「はい、あげる」

 片方の羽がずれている。

 彼女の折り鶴は、いつもそうだった。

 晴人はすぐに受け取らなかった。

「相変わらず下手だな」

 結衣は眉を寄せた。

「じゃあお兄ちゃんが折ってよ」

「俺は知らない」

「うそ。お兄ちゃんは何でも知ってるもん」

 違う。

 晴人は何も知らなかった。

 死んだはずの人間が目の前に座り、息をし、笑い、紙に触れ、自分を呼ぶとき、どうすればいいのか。

 何を最初に聞けばいいのか。

 痛かったか。

 俺を恨んでいるか。

 十年間、どこにいた。

 なぜあの部屋は、俺をここへ連れてきた。

 なぜ今なんだ。

 なぜ、十二歳のままなんだ。

 けれどそのすべては、歯の奥で止まった。

 聞いてしまえば、結衣が死んだことを認めなければならない。

 この部屋の中で、結衣は生きているのに。

 結衣はうつむき、紙を折り続けた。小さな指が、ゆっくりと、不器用に動く。失敗するたびに紙を開き、最初から折り直す。頑固なほど辛抱強かった。

 晴人はその手を見ていた。

 十年前の遺品袋の中で、その手はもう完全ではなかった。

 彼は膝の上で拳を強く握った。

「痛いの?」結衣が聞いた。

「え?」

「手」

 見ると、晴人の爪が自分の掌に食い込み、白くなっていた。

 彼は力を抜いた。

「痛くない」

 結衣は信じていなさそうだったが、それ以上は聞かなかった。

 昔からそうだった。ずっと子どもなのに、ときどき大人より正しい沈黙を知っていた。

 テレビ台の上の招き猫時計が、ちくたくと鳴っていた。

 晴人はそちらを見た。

 短針は四。

 長針は十七分を指している。

 火事が始まったのは、たしか夕方六時ごろだった。

 もしこれが本当に八月十七日なら。

 もしこの部屋が、あの日の記憶を再現しているのなら。

 まだ時間がある。

 その考えは、とても静かに現れた。

 そして、すぐに根を張った。

 まだ時間がある。

 結衣を火が出る前に外へ出せる。

 母に電話できる。

 ブレーカーを落とせる。

 キッチンのコンセントを確認できる。

 やり直せる。

 晴人は立ち上がった。

 結衣が驚いて顔を上げる。

「お兄ちゃん?」

「外へ行くぞ」

「今?」

「ああ。今すぐだ」

 結衣はテーブルの上の紙を見た。

「でも、まだ折り終わってない」

「あとでいい」

「変なの」

 晴人は結衣の手を取った。

 彼の指先がその手首に触れた瞬間、部屋の温度が落ちた。

 冷房の冷たさではない。

 灰の冷たさだった。

 結衣は顔を上げ、晴人を見た。

 笑顔が消えていた。

「思い出したの?」

 晴人は動きを止めた。

 声は、十二歳の妹のものだった。けれど、その問いの中には子どものものではない何かが混じっていた。

 疲れ。

 何度も折りたたまれた悲しみ。

「何を」

 結衣は、晴人がつかんでいる自分の手首を見た。

「あの日のこと」

 部屋の隅の扇風機が止まった。

 時計のちくたくも止まった。

 一秒前まで夏の光に満ちていた部屋は、次の瞬間、遠くの空が燃えているような濃い橙色に染まった。

 晴人は結衣の手を放した。

「お前、これから何が起きるか知っているのか」

 結衣はうつむいた。

 テーブルの上の白い折り鶴たちが、風もないのにわずかに羽を震わせた。

「いつも同じだから」

「いつも?」

 結衣は答えなかった。

 キッチンの方で、何かが落ちた。

 がしゃん。

 コップの割れる音。

 晴人は弾かれたように振り向いた。

 昔の家のキッチンは、引き戸の向こうにある。晴人の記憶では、火元はそこだった。過負荷になったコンセント。小さな火花。カーテンに移った火。廊下へ流れた煙。

 彼は駆け寄った。

 キッチンの戸は開かなかった。

 強く引く。

 動かない。

「結衣、離れてろ」

「開かないよ」

 背後で結衣が言った。

 晴人はもう一度引いた。

 木の戸が手の下で熱を帯びはじめた。

「結衣!」

「晴人お兄ちゃん」

「玄関へ行け。早く」

「玄関はないよ」

 晴人は振り返った。

 玄関があるはずの場所には、ただ壁があった。その壁には、家族写真が飾られている。写真の中で、みんなが笑っていた。

 結衣以外は。

 彼女の顔だけが、ぼやけていた。

 晴人の血の気が引いた。

「何なんだ、これは」

 結衣は写真を見なかった。

「零号室」

「違う」晴人は首を振った。「ここは俺たちの家だ」

「お兄ちゃんの記憶だよ」

 その言葉は、とても静かに落ちた。

 だがその周りで、部屋がひび割れた気がした。

 キッチンの戸の下から、黒い煙が這い出してきた。最初は細い一本だけだった。すぐにもう一本増えた。煙は床を這い、テーブルの脚に絡み、白い紙の束に絡み、晴人の膝にまとわりついた。

 焦げた匂いが鼻を刺す。

 本物だった。

 あまりにも本物だった。

 晴人は咳き込み、手で口を覆った。

「結衣、聞け。ここが何であっても、出るぞ」

「お兄ちゃん、いつもそう言う」

「いつも?」

 結衣は一羽の折り鶴を拾い上げた。

 煙で羽の端が灰色に汚れている。

「いつも、わたしを助けようとする」

 晴人は近づいた。

「助けられなかったからだ」

 結衣は彼を見た。

 瞳は赤くなっていたが、涙はなかった。

「違うよ」

 キッチンの向こうで火が音を立てた。

 戸の隙間から橙色の光が漏れ、結衣の顔を照らす。その一瞬、十二歳の少女は、生きているようで、同時に遠く見えた。古い写真に火の色で着色したようだった。

「お前は火事で死んだ」晴人は言った。一語一語が喉を削った。「俺は知ってる」

 結衣は首を振った。

「知らないよ」

 キッチンの戸が大きく震えた。

 木の表面に黒い亀裂が縦に走る。

 晴人には、もう理解する時間がなかった。

 彼は再び結衣の手をつかみ、かつて玄関があったはずの壁へ引っ張った。もしこれが記憶なら。もし零号室が昔の家を再現しているのなら。どこかに出口が残っているはずだった。玄関が完全に消えるはずはない。

 だが結衣は動かなかった。

 その体はあまりに軽く、少し引けばついてくると思えた。それなのに、彼女の足は床に打ち込まれたみたいに動かない。

「行け!」

 ほとんど怒鳴り声だった。

 結衣は晴人の手を見た。

 それから、彼の顔を見上げた。

「怖いの?」

 晴人は固まった。

 煙で目が痛む。

「当たり前だろ」

「火が、じゃない」

 晴人は答えられなかった。

 結衣は小さく言った。

「思い出すのが怖いんでしょ」

 その言葉で、晴人の手が離れた。

 次の瞬間、部屋が歪んだ。

 壁が水面のように揺れた。テレビ台も、低いテーブルも、招き猫の時計も、カーテンも、遠ざかったかと思うとまた近づいた。三〇四号室の雨音が一瞬だけ混じり、すぐに消防車のサイレンに呑まれた。

 晴人は、別の映像が部屋の上に重なるのを見た。

 煙で満ちた廊下。

 開かない寝室の扉。

 扉の向こうで泣く結衣の声。

 自分の荒い息。

 そして十九歳の自分の手が、ドアノブから離れた。

 たった一秒。

 一秒だけ。

 だが記憶の中で、その一秒は十年続いた。

 晴人は後ずさった。

「違う……」

 結衣は煙の中で、折り鶴を胸に抱いていた。

「お兄ちゃんは戻ってきたよ」

「間に合わなかった」

「戻ってきた」

「でも、お前は死んだ」

 結衣は微笑んだ。

 その笑みは、最初に見た少女のものではなかった。もっと寂しく、もっと多くを知っていて、遠かった。

「わたしも、戻ったから」

 晴人には意味がわからなかった。

 キッチンの戸が破裂した。

 炎があふれた。

 本物の火のように乱れて燃えるのではなく、橙と赤の壁のように広がり、結衣の背後を覆いつくした。熱が晴人の顔を叩く。腕で目をかばっても、炎の前に立つ結衣の姿だけは見えた。

「結衣!」

 晴人は飛び出した。

 二人の距離が、突然伸びた。

 低いテーブルが遠ざかる。ラグが長く引き延ばされる。床に散っていた折り鶴が舞い上がり、行き場を失った白い鳥の群れのように晴人の周りを旋回した。

 彼は走った。

 近づけない。

 結衣は果てしなく長くなっていく部屋の奥に立ち、炎の中で小さくなっていく。

「行くな!」晴人は叫んだ。

 声が割れた。

 それは二十九歳の男の声ではなかった。あの日、燃える廊下の前に立ち、恐怖と後悔のあいだで震え、生きたいと思いながら、自分が生きることを許せなかった十九歳の声だった。

 結衣は折り鶴を抱いた。

「お兄ちゃんは、まだわたしを覚えてる」

「忘れたことなんかない」

「それでいいよ」

「よくない!」

 晴人は転んだ。

 膝が床に打ちつけられる。だが下にあったのは居間のラグではなかった。冷たく、硬く、湿っている。

 畳だ。

 彼は二つの場所の境目にいた。

 背後には暗い三〇四号室。

 前方には、炎に沈む昔の居間。

 零号室の扉が、二つの世界のあいだに裂け目のように口を開けている。

 結衣はその裂け目の中に立っていた。

 今度は、とても近かった。

 手を伸ばせば、彼女の指についた小さなインクの跡も、片側だけ焦げた前髪も、手の中の折り鶴がもう白くないことも見えた。

 その羽には、黒い筋が一本走っていた。

 晴人は手をついて立ち上がった。

「連れて帰る」

 結衣は首を振った。

「だめ」

「お前の許可は聞いてない」

「いつもそう言う」

「だったら、今度こそやる」

 結衣は長いあいだ彼を見た。

 その瞳には炎が映っていた。さらに奥には、哀れみに似たものがあった。

「晴人お兄ちゃん」

 その呼び方に、晴人の胸が締めつけられた。

「そんな目で見ないで」

「じゃあ、どんな目で見ればいい」

 答えられなかった。

 結衣が一歩近づいた。

 背後の炎は服に触れない。煙は彼女を咳き込ませない。この部屋は結衣を、自分の一部のように扱っていた。

「お兄ちゃんは、あの日とずっと一緒に生きてきたんだね」

「お前はどうなんだ」

 結衣は目を伏せた。

「わたしは、その中にいた」

「中って、どこだ」

 すぐには答えなかった。

 天井から灰が降りはじめた。だがその灰は、折り紙の形をしていた。黒い鶴が、一羽ずつ空中で羽を失って落ちてくる。

「お兄ちゃんが、思い出せなかったあいだ」

 すべての音が消えたように感じた。

 その言葉は、責める言葉ではなかった。

 責めていないからこそ、痛かった。

 晴人は、妹を見た。

 あるいは、妹の形を借りた何かを見た。

 図面に存在しない部屋の中で、十年間閉じ込めてきた記憶の真ん中で、彼は初めて理解した。

 いちばん恐ろしいのは、結衣が戻ってきたことではない。

 自分の中のどこかが、この瞬間を待っていたことだ。

 扉が開くのを待っていた。

 あの日へ戻る機会を待っていた。

 罰を受けることを。

 あるいは、許されることを。

 結衣は折り鶴を差し出した。

「持って」

 晴人はそれを見た。

「これは何だ」

「帰り道」

 彼は受け取らなかった。

「受け取ったら、どうなる」

「外に出られる」

「お前は」

 結衣は手の中の折り鶴を見た。

「わたしは、ここにいる」

「だめだ」

 晴人は踏み出した。だが足元の床がまた伸びた。彼と結衣のあいだを、黒い亀裂が横切る。亀裂の底から、たくさんの人のささやき声が同時に聞こえた。

 言葉はわからない。

 ただ、無数の記憶が握りつぶされているような気配だけがした。

 結衣は下を見なかった。

「長くいちゃだめ」

「どうして」

「外が、忘れはじめるから」

「何を」

 結衣は晴人を見た。

 今度は答えなかった。

 どこかで携帯の着信音が鳴った。

 晴人は振り向いた。

 音は背後の三〇四号室からだった。携帯が畳の上にあり、画面が再び点いている。そこには小林からの着信が表示されていた。

 晴人はそれを見た。

 それから結衣を見た。

 彼が一瞬だけ気を取られたそのあいだに、結衣の背後の炎が退いた。昔の居間が薄れていく。水に浸された写真のように輪郭がにじんだ。招き猫の時計も、低いテーブルも、ラグも、家族写真も、すべてが闇へ溶けはじめた。

「待て」

 晴人は走った。

 結衣はそこにいる。

 しかし、遠い。

「結衣!」

 彼女は微笑んだ。

「お兄ちゃん、遅すぎたよ」

 その言葉が晴人を貫いた。

 彼は動きを止めた。

「何だって」

 結衣は最初と同じように首をかしげた。けれど、その目はもう、何も知らない子どもの目ではなかった。

「いつも、そう」

 部屋が震えた。

 晴人の背後で零号室の扉が大きく開き、三〇四号室の冷たい空気を引き込んだ。床の折り鶴が扉へ吸い寄せられ、彼の肩の横を一羽ずつ飛んでいく。

 晴人は手を伸ばした。

「待ってくれ!」

 結衣も手を伸ばした。

 けれど二つの手のあいだには、透明で、冷たく、分厚い壁があった。

 指先は触れ合わない。

「お兄ちゃん」

 声が小さくなった。

 着信音にほとんど呑み込まれそうだった。

「今度は……」

 晴人は見えない壁を叩いた。

「結衣!」

 結衣はまっすぐ彼を見た。

「わたしを助けないで」

 炎が、ふっと消えた。

 部屋全体が闇へ崩れ落ちた。

 晴人の体が強く後ろへ引かれた。

 背中が三〇四号室の畳に叩きつけられる。湿った黴の匂いが肺に入り、彼は激しく咳き込んだ。懐中電灯が横で転がり、光が天井、押し入れ、古い壁を一回転して照らした。

 水野家の居間はなかった。

 火もなかった。

 結衣もいなかった。

 ただ、目の前で零号室の扉が閉まりかけていた。

 晴人は肘をついて起き上がり、飛びついた。

 だが扉は消えた。

 押し入れの横の壁は、元通りだった。平らで、灰色で、黴びていて、隙間一つない。

 彼は両手を壁に押し当てた。

 冷たい。

 硬い。

 詰まっている。

 向こうには何もない。

 携帯はまだ鳴っていた。

 晴人は振り返り、震える手でそれを拾った。

 画面には、小林の名前が出ている。

 通話ボタンを押した。

「もしもし」

 相手は数秒、黙っていた。

 それから小林の声が聞こえた。遠く、細く、井戸の底から届くみたいな声だった。

「水野さん、まだ三〇四にいますか」

 晴人はすぐには答えられなかった。

 壁を見た。

 その足元、畳の上に、小さな白いものが落ちている。

 折り鶴だった。

 左の羽が黒く焦げていた。

「水野さん?」

 晴人はそれを拾った。

 紙は乾いて脆かった。

 それでも、まだ温かかった。

 彼は掌の中で握りしめた。

「小林さん」

「はい」

「この部屋……」

 声が詰まった。

 扉について聞こうとした。

 零号室について。

 ここに住んでいた老婆について。

 菓子缶の中の紙片について。

 自分が狂っていないと証明できるものなら、何でもよかった。

 けれど畳の上の図面を見た瞬間、彼は言葉を失った。

 0が消えていた。

 三〇四号室の平面図は、また三部屋だけに戻っている。

 清潔で。

 普通で。

 残酷だった。

「何でもありません」晴人は言った。

 電話の向こうで、小林が息を吐いた。聞こえないほど小さな音だった。

「では、降りてきてください。もう暗くなります」

 通話は切れた。

 晴人は、まだ和室に膝をついていた。

 外の雨は強くなっていた。水がベランダを何度も叩き、窓ガラスを微かに震わせている。廊下の人感センサーの明かりが点いて、すぐに消え、玄関扉の隙間から短い白い光が差し込んだ。

 晴人は掌を開いた。

 折り鶴がそこにあった。

 片方の羽は白い。

 もう片方は黒い。

 晴人はそれを長いあいだ見つめた。

 そのとき、誰もいないはずの空室の奥で、幼い声が静かに響いた。

「お兄ちゃんは、まだ全部思い出してないよ」

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― 新着の感想 ―
これは本当に第一話を書いた人物が書いた第二話なのだろうか、と思いました。 開示する情報が多すぎて、追い付けない。第一話で強調されていた折り紙の印象が活用出来ていない。やりたいことは分かるが、伝えたい事…
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