(第一部 . 第一章 ) : 三〇四号室
第一部
図面にない扉
第一章 三〇四号室
古い団地の庇に、雨が降っていた。
まるで、ずっと昔に鍵をかけられた扉を、誰かが爪で叩き続けているような音だった。
水野晴人は黒い傘の下から、目の前の建物を見上げた。
中町ハイツ。
入口の脇にかかった金属の銘板は、雨に打たれて色を失っていた。黒い塗料はところどころ剥がれ、読めるのは名前の前半だけだった。残りは暗い赤錆に沈み、何年も前に乾いた血の跡のように見えた。
四階建ての建物は、月極駐車場と、シャッターを下ろしたままのコインランドリーのあいだに挟まれていた。各階のベランダには鳥よけのネットがかかり、前の住人が残していった物干し竿が風に揺れている。そこにはもう洗濯物はなく、雨だけがぶら下がっていた。
晴人は傘を閉じた。
傘の縁から落ちた水滴が、タイルの床に小さく砕け、革靴のつま先の周りに散った。
こういう建物は好きではなかった。
古いからではない。
湿った匂いのせいでも、狭い階段のせいでも、風が吹くたびに手すりの金属がかすかに鳴るせいでもない。
解体を待つ部屋には、いつも多すぎるものが残っているからだ。
口紅の跡が残ったコップ。
下駄箱の下に片方だけ傾いている子どものサンダル。
誰かが数えるのをやめた日のまま、めくられなくなったカレンダー。
そういう小さなものには、法律上の価値などない。調査報告書にも書かれない。解体計画を変える力もない。
それでもそこにある。
埃より静かに。
コンクリートより重く。
晴人は書類袋のファスナーを開け、防水ケースに入れていた図面を取り出した。紙の縁は湿気でわずかに反っている。表紙には黒いインクで、こう印字されていた。
中町ハイツ 三〇四号室 解体前現況調査。
晴人は備考欄に目を走らせた。
面積、四十二・六平方メートル。
構造、鉄筋コンクリート造。
間取り、居間一室、和室一室、ミニキッチン、浴室、独立トイレ。
特記事項なし。
これから都市の中から消される場所にしては、あまりに清潔な文字だった。
「水野サーベイの方ですか」
声は管理室の方からした。
晴人が振り向くと、六十を少し過ぎたくらいの男が出てきた。黄ばんだ透明の雨合羽を着て、大きな鍵束を手にしている。歩くたびに、鍵が乾いた音を立てた。
「管理人の小林です」
「水野晴人です。よろしくお願いします」
晴人は短く頭を下げ、名刺を差し出した。
小林はそれを受け取ったが、すぐには見なかった。彼の視線は三階へ向いていた。黒い窓が、等間隔で並んでいる階だ。
「こんな天気でも、調査はやるんですね」
「解体の予定は変わりませんから」
「そうですね」小林は乾いた笑いを漏らした。「上の人たちは、建物が空になっていればそれでいい。雨だろうが晴れだろうが、中に何が残っていようが、誰も気にしません」
晴人は答えなかった。
小林はしばらく晴人を見ていた。何か反応を待っているようだった。けれど何も起きないとわかると、体を反転させ、入口のガラス戸を開けた。
湿った匂いが、内側から流れ出してきた。
強くはない。
ただ、晴人の喉をわずかに乾かす程度には、確かにそこにあった。
エントランスは外より暗かった。人感センサーが遅れて反応し、天井の照明が鈍い黄色を床に落とす。ひびの入ったタイルの壁には、可燃ごみの収集案内が貼られていた。紙の端はめくれ、文字は湿気でにじんでいる。
奥のエレベーターには、「使用停止」と書かれた紙が斜めに貼られていた。曇ったガラスの向こうで、晴人の影が細長く引き延ばされ、黒い染みのように歪んだ。
「階段でお願いします」小林が言った。「先月から止まってましてね。どうせ壊す建物ですから、直す意味もない」
晴人はうなずいた。
階段は狭く、鉄の手すりは冷たかった。一段上がるごとに足音が階のあいだの空間で響き、ゆっくりと消えていく。二階の踊り場には、黄色い子ども用の傘が一本残されていた。骨が一本折れ、鳥の骨のように外へ突き出している。
晴人の視線が、そこに半秒だけ止まった。
それから、また階段を上がった。
「三〇四には、ずいぶん長く住んでいた人がいましてね」小林が前を歩きながら言った。「ひとり暮らしのお婆さんでした。亡くなったあと、息子さんが少しだけ片づけに来たんですが、途中でやめてしまって。あとは業者任せです」
「部屋で亡くなったんですか」
「いいえ。病院です」
小林の返事は、少し早すぎた。
晴人はその背中を見た。
「三〇四号室に、何か問題でも」
「問題?」
「今、安心させるみたいに言いました」
小林の足が、階段の途中で一瞬止まった。手の中の鍵束が手すりに当たり、短く鳴った。
「何もありませんよ」
「そうですか」
晴人はそれ以上聞かなかった。
彼の仕事は、構造の状態、劣化、配管、危険物の有無、古い資料との相違点を確認することだ。管理人の不安を調べることではない。
それでも三階に着いたとき、晴人はその廊下の静けさが普通ではないことに気づいた。
外ではまだ雨が降っている。道路を走る車の音も、途切れながら届いている。だが三階の廊下だけが、薄い膜に包まれているようだった。ここへ届いた音はすべて遅くなり、歪み、それから沈んでいく。
人感センサーの照明は、すぐには点かなかった。
小林が階段脇のスイッチを強く叩いた。
天井の蛍光灯が瞬いた。
点いた。
消えた。
また、点いた。
青白い光が廊下を細く伸び、同じ形の扉を照らし出す。
三〇一。
三〇二。
三〇三。
三〇四。
三〇四号室は、廊下の一番奥、右側にあった。
灰色の扉には、黄ばんだプラスチックの号室札が貼られている。ドアノブの下には、小さな引っかき傷がいくつも残っていた。誰かが硬いもので無理に開けようとしたような傷だった。
小林が鍵を差し込んだ。
錠が、乾いた音を立てた。
「おひとりで大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「私は下の管理室にいます。終わったら呼んでください」
晴人は小林を見た。
「入らないんですか」
小林は笑った。
薄い笑いだった。
「年ですからね。何度も上り下りするのはきついんです」
そう言って、彼は鍵を晴人に渡した。手袋越しのはずなのに、小林の指先は妙に冷たかった。
晴人は鍵を受け取った。
小林は背を向けた。足音が階段の方へ遠ざかり、鍵束の音も一つずつ小さくなっていく。それが消えると、廊下には頭上の蛍光灯のかすかな唸りだけが残った。
晴人は三〇四号室の前に立った。
しばらく。
それから、扉を開けた。
中の空気は、廊下よりも冷たかった。
部屋は暗い。居間のカーテンは閉め切られていて、ベランダ側から薄い灰色の光がいくつか差し込んでいるだけだった。古い木材と、湿った畳と、剥がれかけた壁紙の匂いが混ざり合い、長いあいだここで待っていた何かのように空気の中で動かなかった。
晴人は靴を脱ぎ、玄関にきちんと揃えた。
癖だった。
たとえこの部屋が、もうすぐ壊されるとしても。
たとえ、床を汚して嫌がる人が、ここにはもう誰もいないとしても。
彼は壁のスイッチを押した。
明かりは点かなかった。
もう一度押す。
居間の電球が一瞬だけ瞬き、そのまま消えた。
晴人は息を吐き、工具袋から懐中電灯を取り出した。丸い光が下駄箱、左の壁、床をなぞり、玄関脇に掛けられた小さなキーホルダーで止まった。
折り鶴だった。
白い紙で折られている。時間が経って、少し黄ばんでいた。片方の羽に、子どもの落書きのような薄い鉛筆の線が残っている。晴人は触れようと手を伸ばしかけ、途中で止めた。
一秒だけ、それを見た。
それからメモに書いた。
「残置物。紙製キーホルダー。玄関」
それだけだった。
居間は図面通りだった。
狭い空間の左側にミニキッチンがつながっている。ステンレスの流しはくすみ、棚には底に少しだけ残った食器用洗剤のボトルが置かれていた。ラベルは半分剥がれている。キッチン脇の壁にはコンセント周辺に軽い焦げ跡があったが、危険度は高くない。
晴人は写真を撮り、メモを取り、壁の湿度を測った。
仕事をしていると、気持ちが静まった。
数字は記憶より扱いやすい。
壁の厚さ、天井のたわみ、配管の錆びた位置。すべては印をつけ、撮影し、報告書に入れることができる。
人間は、そうはいかない。
晴人は和室へ向かった。
引き戸を開けると、擦れた音がした。中には六枚の畳が敷かれていて、どれも薄い茶色に変色している。窓際の畳の縁には黒い黴が出ていた。押し入れが向かいの壁のほとんどを占めている。天井には水染みが広がり、名前のない島の地図のようだった。
晴人は膝をつき、畳の角を確かめた。
床の沈み込みはない。
立ち上がり、押し入れの襖を引いた。
中は空だった。
埃と、数本の白髪と、奥に置かれた古いブリキの菓子缶だけがあった。
晴人は懐中電灯を向けた。
缶の蓋には、色あせた桜の絵が印刷されている。彼は手袋をした指先で蓋を開けた。
中に菓子はなかった。
折り鶴だけが入っていた。
たくさん。
十数羽、いや二十羽以上あるかもしれない。すべて白い紙で折られていた。色紙は一枚もない。きれいに折られたものも一つもない。羽がずれたもの。頭の向きが間違っているもの。途中まで折って、そのまま諦められたもの。
缶の底に、小さな紙切れがあった。
晴人はそれを裏返した。
震える老人の字だった。
「番号のない部屋を開けるな」
晴人はその文字を見つめた。
手の中の懐中電灯は動かなかった。
窓の外では、雨がベランダを叩いている。
彼はもう一度、その一文を読んだ。
番号のない部屋を開けるな。
晴人は紙切れを缶に戻し、蓋を閉めた。写真を撮った。
反応する必要はなかった。
ひとり暮らしの老人は、ときどき妙な言葉を残す。覚え書きのこともある。迷信のこともある。ただ、自分がまだ家を支配しているのだと思うために、恐れを文字にしただけのこともある。
晴人はもっと奇妙なものを見てきた。
板橋のある部屋では、四十七個の時計がすべて二時十三分で止まっていた。
荒川の倉庫では、同じ少女の写真が、すべての棚の内側に貼られていた。
北区の古いワンルームでは、前の住人が壁一面に自分の名前を書きつけていた。まるで誰かに忘れられるのを恐れていたかのように。
東京には、あらゆる種類の孤独が入るだけの余白がある。
晴人は押し入れを閉めた。
襖が静かに重なった。
そのとき、振り向いた晴人の手から、図面が床へ落ちた。
彼は拾おうとかがんだ。
部屋の中に風はない。
玄関の扉は閉まっている。窓も施錠されている。壁の古いエアコンは動いていない。
図面は畳の上に裏返しで落ち、紙の端だけが、誰かの息に触れたみたいに微かに震えていた。
晴人はそれを拾い上げた。
そして気づいた。
三〇四号室の平面図。その和室の奥の線が、にじんでいる。
眉を寄せる。
もともとの図面は鮮明だった。耐力壁、引き戸、押し入れ、ベランダまですべて正確に描かれている。だが押し入れの横、本来なら一枚のコンクリート壁であるはずの場所に、細い線が現れていた。
ごく細い。
切れ目のような線。
晴人は図面を懐中電灯に近づけた。
その切れ目は、小さな長方形を作っていた。
扉だ。
晴人は黙った。
それから書類袋から予備のコピーを取り出した。
そこには何もなかった。
二枚目の図面では、和室の奥の壁は途切れず、実際の構造通りに描かれている。
晴人は二枚の図面を畳の上に並べた。
一枚には扉がある。
一枚にはない。
彼はしばらく、それらを見下ろしていた。
外の雨音が、ふいに小さくなった。
雨がやんだわけではない。
この部屋が、もう一枚、見えない扉を閉めたようだった。
晴人は立ち上がり、押し入れの横の壁へ近づいた。
懐中電灯の光が、灰色にくすんだクリーム色の壁紙を照らす。取っ手はない。隙間もない。蝶番もない。黴と古い接着剤の跡が点々と残る、ただの平らな壁だった。
晴人は軽く叩いた。
こつ。
コンクリートの詰まった音。
左側を叩く。
こつ。
右側。
こつ。
彼は手を下ろした。
ありえない。
この壁は住戸の端にあり、裏はパイプスペースと三〇三号室側だ。さらに部屋を作れる空間はない。構造図にも、そんな空洞は存在しない。
晴人は居間へ戻り、手順通りに部屋全体を確認し直した。
浴室。タイルに亀裂。シャワーの水漏れ。
トイレ。配管の老朽化。交換推奨。
ベランダ。手すりの錆び。溶接部の剥離リスク。
キッチン。コンセント周りに軽い焦げ。
すべてが、古い部屋としては普通だった。
だが和室へ戻ったとき、最初の図面はさらに変わっていた。
長方形の切れ目は、もう細くなかった。
はっきりしている。
その長方形の中央に、小さな数字があった。
0。
晴人はそれを凝視した。
インクは滲んでいない。あとからペンで書き込まれた跡もない。その数字は、最初から図面の中にあったかのように、そこに収まっていた。ただ、さっきまで自分が見ていなかっただけのように。
晴人は携帯を取り出し、写真を撮った。
画面には、ピントが合わないという表示が出た。
もう一度撮る。
画像は普通に保存された。
けれど撮った写真の中で、壁は空白だった。
切れ目もない。
0もない。
晴人は画面を見た。
それから図面を見た。
紙の上には、扉がまだあった。
手首が冷たくなった。
晴人は幽霊を信じていない。
正確には、信じることを自分に許していなかった。
説明のつかないものには、必ず代償がある。存在を認めてしまえば、人はそれと一緒に埋めたはずのものまで認めなければならなくなる。
晴人は図面を畳んだ。
調査を早めに切り上げ、小林を呼び、原本と会社の控えを照合する。それでいい。図面の一箇所の誤りのために、電気もつかない雨の日の空室で、ひとり立ち続ける理由はない。
だが居間へ出ようとしたとき、玄関の扉が視界から遠ざかった。
消えたわけではない。
確かにそこにはある。
ただ、室内の廊下が長くなっていた。
本来、居間から玄関まで五、六歩ほどしかない。今、懐中電灯の光の先で、その通路は暗いトンネルのように伸びていた。下駄箱は、ずっと奥へ押しやられたみたいに小さく見える。
晴人は立ち止まった。
自分の心臓の音が聞こえた。
一回。
二回。
その背後、和室の中で、小さな音がした。
かちり。
まるで、鍵が内側から外された音だった。
晴人は振り返った。
押し入れの横の壁は、もう壁ではなかった。
そこに扉が立っていた。
幅の狭い、古びた白い扉。普通の室内扉より少し低い。表面には細かな傷が無数に刻まれている。部屋番号の札はない。新しい取っ手もない。ただ、黒ずんだ真鍮の丸いノブだけがついていた。
そのノブの上に、赤いクレヨンで数字が書かれている。
0。
晴人はすぐには近づかなかった。
手の中の図面を見た。
図面の中で、扉はそこにあった。
現実でも、そこにある。
おかしいのは一つだけだった。
その壁の向こうには、部屋などあるはずがない。
廊下の蛍光灯の唸りは消えていた。ベランダの雨音も聞こえない。三〇四号室は、分厚い沈黙に沈み、晴人には図面の紙が指に擦れる音まで聞こえた。
零号の扉の向こうから、何かの音がした。
かさり。
とても小さい。
紙を折る音だった。
一度。
そして、もう一度。
晴人は懐中電灯を握りしめた。
ここから出るべきだとわかっていた。
はっきりと。
それでも足は後ろへ下がらなかった。
白い扉は懐中電灯の光の中にじっと立っていた。小さく、理屈に合わず、世界の図面に落ちたインクの誤りのように。
その内側で、また音がした。
かさり。
まるで、暗闇の中で誰かが折り鶴を折っているような音だった。




