(第二部 . 第二章) 折り鶴
帰りの電車は、昼前だというのに空いていた。
窓ガラスには雨の跡が細く残っている。
外の街は、濡れた灰色の膜をかぶっていた。マンションの壁、電柱、傘を畳んで歩く人々。すべてが少しずつ遠く、少しずつ薄く見える。
晴人は座席の端に座り、膝の上で茶封筒を見つめていた。
中には、佐伯喜一が残したメモが入っている。
消えた人間の名前。
消えた住所。
存在していたはずの証拠になり損ねた、紙の切れ端。
その一枚に、晴人の知らない自分の名前があった。
水野晴人。
春の人。
あり得ない。
晴人は何度もそう思った。
免許証も、保険証も、社員証も、卒業アルバムも、すべて水野晴人だ。晴れる、の晴。父が好きだった字だと母から聞かされたことがある。
晴れた日に生まれたから。
そんな単純な理由だった。
それなのに、老人は言った。
今は違う、と。
あの部屋が一度開く前、と。
電車が揺れた。
茶封筒の中で、紙がかすかに擦れる。
その音が、折り紙の音に似ていた。
晴人は反射的に封筒を押さえた。
「大丈夫ですか」
向かいの座席で、瀬奈が言った。
彼女はコートの膝の上に母のノートを置いている。
開いてはいない。
ただ、片手を表紙に添えていた。
母親の脈を確かめるように。
「大丈夫に見えますか」
「見えません」
「じゃあ、聞かないでください」
「確認です」
瀬奈はそう言って、窓の外へ視線を向けた。
しばらく二人とも黙っていた。
線路の音だけが続いた。
規則正しく、逃げ場のない音。
「佐伯さんは、嘘をついていると思いますか」
瀬奈が聞いた。
「分かりません」
「嘘をつく理由はあります」
「例えば」
「あなたを零号室から遠ざけたい。あるいは、逆に近づけたい」
晴人は封筒を握った。
「どっちですか」
「まだ分かりません」
瀬奈の答えは、いつもそれだった。
分からない。
だが、分からないものを放置しない。
そこが彼女の怖さだった。
「ただ」
瀬奈は続けた。
「あの人は、記録から消えています。写真にも写らない。役所の人の記憶にも残りにくい。そこに関しては、嘘ではありません」
「俺の名前は?」
「それも調べます」
「調べて、もし本当だったら」
晴人は言葉を切った。
その先を口にしたくなかった。
もし本当だったら、自分の人生のどこかがすでに書き換えられていることになる。
自分が覚えている過去が、本当に自分のものではないかもしれない。
結衣の死だけではない。
自分の名前さえ。
「晴人さん」
瀬奈が彼を見た。
「名前が変わっていても、あなたがあなたでなくなるわけではありません」
晴人は小さく笑った。
「慰めですか」
「違います」
「じゃあ、何ですか」
「釘を刺しているんです」
瀬奈の声は静かだった。
「名前や記録が揺らぐと、人はそこに縋ります。自分を証明するものを探し始める。戸籍、写真、誰かの記憶。でも、零号室はそこを壊してくる」
「経験者みたいに言いますね」
瀬奈はすぐには答えなかった。
電車が高架に差しかかり、車内に白い光が入った。
その光で、彼女の横顔が一瞬だけ透明に見えた。
「母が消えたあと、私は母の写真を全部集めました」
瀬奈は言った。
「アルバム、卒業写真、雑誌の切り抜き、取材先で撮ったスナップ。消えていないか、毎日確認していました」
「消えたんですか」
「少しずつ」
晴人は息を止めた。
「顔がぼやけた?」
「最初は、目元だけでした。次に口元。最後は、誰かの影みたいになりました。でも、全部ではありません。一枚だけ、今も残っています」
「なぜ」
「分かりません」
瀬奈は母のノートを撫でた。
「だから追っています。母が完全に消える前に、どうしてその一枚だけ残ったのか知りたい」
晴人は何も言えなかった。
瀬奈は自分のために調べている。
最初からそう言っていた。
それでも晴人は、彼女をどこか外側の人間だと思っていた。
零号室の謎を追う、冷静な観察者。
けれど違った。
彼女もまた、消えかけた誰かの前で立ち尽くした人間だった。
電車が次の駅に滑り込んだ。
ドアが開く。
数人の乗客が降りた。
誰かの傘の雫が床に落ちる。
そのときだった。
晴人の足元に、白いものがあった。
折り鶴だった。
小さな、白い鶴。
座席の下から、まるでさっきまでそこに隠れていたように、こちらを向いている。
晴人は動けなかった。
瀬奈も気づいた。
彼女の目が細くなる。
「触らないで」
低い声だった。
晴人は手を止めた。
折り鶴は、床の上に静かに乗っている。
電車が揺れても、動かない。
他の乗客は誰も見ていない。
いや、見えていないのかもしれない。
若い会社員の靴が、そのすぐ横を通った。
靴底は鶴に触れるはずだった。
だが、何も起きなかった。
鶴は踏まれず、靴だけがその上を通り抜けたように見えた。
晴人の背筋に冷たいものが走った。
「見えているのは」
「たぶん、私たちだけです」
瀬奈は鞄から透明袋を出した。
それからハンカチ越しに折り鶴を拾い上げる。
その瞬間、車内の照明が一度だけ点滅した。
チカ。
白い光が消え、戻る。
戻ったとき、折り鶴の羽に黒い染みが浮かんでいた。
焦げ跡のような、煤の色。
晴人はそれを見た。
見てしまった。
十年前の焦げた部屋の匂いが、突然鼻の奥に蘇った。
熱。
煙。
暗い廊下。
誰かの咳き込む音。
結衣の声。
お兄ちゃん。
晴人は目を閉じた。
閉じても、消えなかった。
炎の赤が、まぶたの裏に残っている。
「降りましょう」
瀬奈の声で、晴人は現実に戻った。
二人は次の駅で降りた。
ホームは雨上がりの湿った空気で満ちていた。
電車が去ると、風が一気に流れ込んでくる。
瀬奈はベンチに座り、透明袋の中の折り鶴を見た。
「素材が違います」
「素材?」
「普通の折り紙じゃない」
彼女は袋越しに鶴を傾けた。
羽の裏に、細かい文字が見える。
晴人は目を凝らした。
新聞のようだった。
白い紙ではない。
何か印刷された紙を、裏返して折っている。
「開きますか」
晴人が聞いた。
「今ここでは危険です」
「危険でも、見ないと」
瀬奈は晴人を見た。
「また呼ばれたいんですか」
その一言で、晴人は黙った。
呼ばれたい。
心のどこかで、そう思っている。
結衣がそこにいるなら。
もう一度声が聞けるなら。
危険だと分かっていても、近づきたい。
その感情を、瀬奈は見抜いている。
だから彼女の言葉は痛かった。
「すみません」
晴人は言った。
「謝る相手は私じゃありません」
「じゃあ誰ですか」
「今のあなたを覚えている人たちです」
瀬奈はそう言って立ち上がった。
「事務所へ行きましょう。母のノートと照合します」
如月瀬奈の事務所は、昼でも暗かった。
ビルの三階。
窓の外には隣の建物の壁しか見えない。
蛍光灯をつけると、部屋の隅に積まれた資料の影が長く伸びた。
壁には古い間取り図が貼られている。
赤い糸で繋がれた住所。
丸で囲まれた日付。
失踪者の名前。
その中に、晴人は昨夜までなかった紙を見つけた。
中町二丁目。
佐伯喜一。
すでに貼られている。
「いつ貼ったんですか」
晴人が聞いた。
瀬奈は壁を見た。
眉がわずかに動く。
「貼っていません」
部屋の空気が冷えた。
紙は新しかった。
だが、押しピンだけは古く錆びている。
まるで何年も前からそこにあったように。
瀬奈は無言で壁に近づき、紙を確認した。
そこには、手書きで名前が書かれていた。
佐伯喜一。
その下に、細い文字。
交換済み。
「交換済み……」
晴人が呟いた。
「母のノートにも似た表現があります」
瀬奈は棚からノートを取り出した。
十五年前のもの。
ページをめくる手が速い。
やがて彼女は一枚のページで止めた。
そこにはいくつもの名前が並んでいた。
生還。
喪失。
交換。
未確認。
短い言葉だけが、罫線の上に置かれている。
瀬奈は折り鶴を透明袋から取り出した。
素手では触らない。
ピンセットを使い、慎重に羽を開いていく。
折り目がほどけるたび、紙の中から煤の匂いが濃くなった。
晴人は胸の奥が悪くなるのを感じた。
その匂いを、体が覚えている。
忘れたと思っていたのに。
忘れたことにしていただけだった。
鶴は少しずつ、一枚の紙へ戻っていった。
完全に開くと、それが古い新聞の切り抜きだと分かった。
紙面の端。
小さな地方欄。
日付は十年前。
見出しは半分だけ読めた。
中町ハイツ火災――。
晴人の喉が締まった。
瀬奈は息を殺して紙を押さえた。
記事の本文はところどころ煤で黒くなっている。
だが、いくつかの文字は残っていた。
未明。
三〇四号室。
十二歳女児。
兄。
搬送。
晴人は後ろへ下がった。
椅子の脚にぶつかる。
乾いた音が部屋に響いた。
「これは」
声が出ない。
自分の名前は載っていない。
だが、分かる。
これは結衣が死んだ火事の記事だ。
十年前、どこかの新聞に載った小さな記事。
母がすべて捨てたはずの記録。
見ないようにしてきた過去。
それが今、折り鶴になって戻ってきた。
瀬奈は記事の下部を見た。
そこに、新聞ではない文字が書かれていた。
鉛筆。
小さく、丸い字。
子どもの字だった。
お兄ちゃん。
そこまで読んだ瞬間、部屋の蛍光灯が鳴った。
ジジ。
瀬奈の事務所の壁に貼られた間取り図が、一斉に揺れた。
窓は閉まっている。
風はない。
それでも、赤い糸が細かく震えている。
晴人は記事に視線を戻した。
続きの文字が、いつの間にか増えていた。
鉛筆の線が紙の上に滲み出るように、ゆっくり現れてくる。
お兄ちゃん。
あの日のことを、まだ思い出さないで。
晴人の耳の奥で、火の音がした。
ぱち、ぱち、と何かが燃える音。
違う。
ここは事務所だ。
火などない。
ないはずなのに、焦げた匂いが強くなる。
瀬奈が窓を見た。
「晴人さん」
彼女の声が緊張していた。
窓ガラスに、白いものが映っている。
振り返る。
事務所の床に、折り鶴が落ちていた。
一羽ではなかった。
二羽。
三羽。
棚の下。
椅子の脚元。
入口の前。
いつの間にか、部屋のあちこちに白い折り鶴が置かれている。
どれも、こちらを向いていた。
晴人は動けなかった。
瀬奈は壁際に下がり、周囲を確認する。
「触らないでください」
「分かっています」
「本当に?」
「分かっています」
だが、指先は勝手に震えていた。
折り鶴の一つが、わずかに動いた。
羽が開く。
紙の内側に、黒い文字が見えた。
火。
また一羽、羽を開く。
煙。
次の一羽。
階段。
晴人の呼吸が荒くなった。
単語が、ばらばらに散らばっている。
火。
煙。
階段。
鍵。
声。
扉。
それらはすべて、十年前の夜に繋がっている。
繋がっているのに、晴人の記憶の中では形にならない。
何かが抜け落ちている。
大事な部分だけが、焼け焦げた写真のように黒く潰れている。
「瀬奈さん」
晴人は低く言った。
「俺は、あの日のことを覚えていると思っていました」
「今は?」
「分からない」
瀬奈は何も言わなかった。
彼女は新聞記事を透明な板で押さえ、写真を撮った。
画面を確認する。
今度は、文字が写っていた。
だが、鉛筆の文字だけが消えている。
お兄ちゃん。
あの日のことを、まだ思い出さないで。
その二行だけが、写真の中にはなかった。
「やはり」
瀬奈が呟いた。
「零号室が直接残したものは、記録できない」
晴人は床の鶴を見た。
白い折り鶴の群れ。
その真ん中に、一羽だけ焦げた鶴があった。
黒い羽。
潰れた首。
十年前、焼け跡で見つけた鶴に似ている。
いや。
同じだった。
晴人は膝をついた。
「触らないで」
瀬奈が言った。
だが晴人は止まれなかった。
焦げた鶴に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、視界が暗くなった。
事務所の床が消える。
雨の匂いが消える。
代わりに、熱が来た。
息ができないほど濃い煙。
廊下。
赤い光。
裸足で走る足音。
小さな手が、晴人の袖を掴んでいる。
違う。
これは、誰の記憶だ。
晴人は炎の中で立っていた。
前方に玄関が見える。
開いている。
外へ出られる。
背後から、結衣の声がした。
お兄ちゃん、行って。
晴人は振り返ろうとした。
けれど体が動かない。
炎の向こうに、十二歳の結衣が立っている。
白い寝間着。
すすで黒くなった頬。
手には、折り鶴。
結衣は泣いていなかった。
むしろ、何かを決めたような顔をしていた。
その顔を、晴人は知らない。
自分の記憶の中の結衣は、もっと怯えていたはずだ。
泣いて、助けを求めていたはずだ。
なのに、目の前の結衣は違う。
彼女は晴人を見て、静かに首を振った。
思い出しちゃだめ。
次の瞬間、誰かが晴人の名前を呼んだ。
だがそれは、結衣の声ではなかった。
男の声だった。
低く、切羽詰まった声。
春人。
晴人は目を開けた。
事務所の床に倒れていた。
瀬奈が肩を掴んでいる。
彼女の顔が近い。
額にかかった髪が乱れていた。
「晴人さん、聞こえますか」
晴人は咳き込んだ。
喉が焼けるように痛い。
部屋に火はない。
煙もない。
それなのに、口の中に灰の味がした。
「今、何を見ました」
瀬奈が聞いた。
晴人は答えようとした。
だが、言葉にならなかった。
結衣。
玄関。
炎。
男の声。
春人。
断片だけが頭の中を回っている。
瀬奈は晴人の手から焦げた鶴を取ろうとした。
そのとき、鶴がひとりでに開いた。
黒く焦げた紙が、ゆっくり平らになる。
中に、文字があった。
焼け残った鉛筆の線。
今度は、はっきり読めた。
お兄ちゃん。
あの日、助けられたのは私じゃない。
晴人はその文字を見つめた。
息ができなかった。
紙の最後に、もう一行だけ浮かび上がる。
助けられたのは、お兄ちゃんだよ。




