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零号室  作者: 清忠
10/30

(第二部 . 第二章) 折り鶴

帰りの電車は、昼前だというのに空いていた。

 窓ガラスには雨の跡が細く残っている。

 外の街は、濡れた灰色の膜をかぶっていた。マンションの壁、電柱、傘を畳んで歩く人々。すべてが少しずつ遠く、少しずつ薄く見える。

 晴人は座席の端に座り、膝の上で茶封筒を見つめていた。

 中には、佐伯喜一が残したメモが入っている。

 消えた人間の名前。

 消えた住所。

 存在していたはずの証拠になり損ねた、紙の切れ端。

 その一枚に、晴人の知らない自分の名前があった。

 水野晴人。

 春の人。

 あり得ない。

 晴人は何度もそう思った。

 免許証も、保険証も、社員証も、卒業アルバムも、すべて水野晴人だ。晴れる、の晴。父が好きだった字だと母から聞かされたことがある。

 晴れた日に生まれたから。

 そんな単純な理由だった。

 それなのに、老人は言った。

 今は違う、と。

 あの部屋が一度開く前、と。

 電車が揺れた。

 茶封筒の中で、紙がかすかに擦れる。

 その音が、折り紙の音に似ていた。

 晴人は反射的に封筒を押さえた。

「大丈夫ですか」

 向かいの座席で、瀬奈が言った。

 彼女はコートの膝の上に母のノートを置いている。

 開いてはいない。

 ただ、片手を表紙に添えていた。

 母親の脈を確かめるように。

「大丈夫に見えますか」

「見えません」

「じゃあ、聞かないでください」

「確認です」

 瀬奈はそう言って、窓の外へ視線を向けた。

 しばらく二人とも黙っていた。

 線路の音だけが続いた。

 規則正しく、逃げ場のない音。

「佐伯さんは、嘘をついていると思いますか」

 瀬奈が聞いた。

「分かりません」

「嘘をつく理由はあります」

「例えば」

「あなたを零号室から遠ざけたい。あるいは、逆に近づけたい」

 晴人は封筒を握った。

「どっちですか」

「まだ分かりません」

 瀬奈の答えは、いつもそれだった。

 分からない。

 だが、分からないものを放置しない。

 そこが彼女の怖さだった。

「ただ」

 瀬奈は続けた。

「あの人は、記録から消えています。写真にも写らない。役所の人の記憶にも残りにくい。そこに関しては、嘘ではありません」

「俺の名前は?」

「それも調べます」

「調べて、もし本当だったら」

 晴人は言葉を切った。

 その先を口にしたくなかった。

 もし本当だったら、自分の人生のどこかがすでに書き換えられていることになる。

 自分が覚えている過去が、本当に自分のものではないかもしれない。

 結衣の死だけではない。

 自分の名前さえ。

「晴人さん」

 瀬奈が彼を見た。

「名前が変わっていても、あなたがあなたでなくなるわけではありません」

 晴人は小さく笑った。

「慰めですか」

「違います」

「じゃあ、何ですか」

「釘を刺しているんです」

 瀬奈の声は静かだった。

「名前や記録が揺らぐと、人はそこに縋ります。自分を証明するものを探し始める。戸籍、写真、誰かの記憶。でも、零号室はそこを壊してくる」

「経験者みたいに言いますね」

 瀬奈はすぐには答えなかった。

 電車が高架に差しかかり、車内に白い光が入った。

 その光で、彼女の横顔が一瞬だけ透明に見えた。

「母が消えたあと、私は母の写真を全部集めました」

 瀬奈は言った。

「アルバム、卒業写真、雑誌の切り抜き、取材先で撮ったスナップ。消えていないか、毎日確認していました」

「消えたんですか」

「少しずつ」

 晴人は息を止めた。

「顔がぼやけた?」

「最初は、目元だけでした。次に口元。最後は、誰かの影みたいになりました。でも、全部ではありません。一枚だけ、今も残っています」

「なぜ」

「分かりません」

 瀬奈は母のノートを撫でた。

「だから追っています。母が完全に消える前に、どうしてその一枚だけ残ったのか知りたい」

 晴人は何も言えなかった。

 瀬奈は自分のために調べている。

 最初からそう言っていた。

 それでも晴人は、彼女をどこか外側の人間だと思っていた。

 零号室の謎を追う、冷静な観察者。

 けれど違った。

 彼女もまた、消えかけた誰かの前で立ち尽くした人間だった。

 電車が次の駅に滑り込んだ。

 ドアが開く。

 数人の乗客が降りた。

 誰かの傘の雫が床に落ちる。

 そのときだった。

 晴人の足元に、白いものがあった。

 折り鶴だった。

 小さな、白い鶴。

 座席の下から、まるでさっきまでそこに隠れていたように、こちらを向いている。

 晴人は動けなかった。

 瀬奈も気づいた。

 彼女の目が細くなる。

「触らないで」

 低い声だった。

 晴人は手を止めた。

 折り鶴は、床の上に静かに乗っている。

 電車が揺れても、動かない。

 他の乗客は誰も見ていない。

 いや、見えていないのかもしれない。

 若い会社員の靴が、そのすぐ横を通った。

 靴底は鶴に触れるはずだった。

 だが、何も起きなかった。

 鶴は踏まれず、靴だけがその上を通り抜けたように見えた。

 晴人の背筋に冷たいものが走った。

「見えているのは」

「たぶん、私たちだけです」

 瀬奈は鞄から透明袋を出した。

 それからハンカチ越しに折り鶴を拾い上げる。

 その瞬間、車内の照明が一度だけ点滅した。

 チカ。

 白い光が消え、戻る。

 戻ったとき、折り鶴の羽に黒い染みが浮かんでいた。

 焦げ跡のような、煤の色。

 晴人はそれを見た。

 見てしまった。

 十年前の焦げた部屋の匂いが、突然鼻の奥に蘇った。

 熱。

 煙。

 暗い廊下。

 誰かの咳き込む音。

 結衣の声。

 お兄ちゃん。

 晴人は目を閉じた。

 閉じても、消えなかった。

 炎の赤が、まぶたの裏に残っている。

「降りましょう」

 瀬奈の声で、晴人は現実に戻った。

 二人は次の駅で降りた。

 ホームは雨上がりの湿った空気で満ちていた。

 電車が去ると、風が一気に流れ込んでくる。

 瀬奈はベンチに座り、透明袋の中の折り鶴を見た。

「素材が違います」

「素材?」

「普通の折り紙じゃない」

 彼女は袋越しに鶴を傾けた。

 羽の裏に、細かい文字が見える。

 晴人は目を凝らした。

 新聞のようだった。

 白い紙ではない。

 何か印刷された紙を、裏返して折っている。

「開きますか」

 晴人が聞いた。

「今ここでは危険です」

「危険でも、見ないと」

 瀬奈は晴人を見た。

「また呼ばれたいんですか」

 その一言で、晴人は黙った。

 呼ばれたい。

 心のどこかで、そう思っている。

 結衣がそこにいるなら。

 もう一度声が聞けるなら。

 危険だと分かっていても、近づきたい。

 その感情を、瀬奈は見抜いている。

 だから彼女の言葉は痛かった。

「すみません」

 晴人は言った。

「謝る相手は私じゃありません」

「じゃあ誰ですか」

「今のあなたを覚えている人たちです」

 瀬奈はそう言って立ち上がった。

「事務所へ行きましょう。母のノートと照合します」

 如月瀬奈の事務所は、昼でも暗かった。

 ビルの三階。

 窓の外には隣の建物の壁しか見えない。

 蛍光灯をつけると、部屋の隅に積まれた資料の影が長く伸びた。

 壁には古い間取り図が貼られている。

 赤い糸で繋がれた住所。

 丸で囲まれた日付。

 失踪者の名前。

 その中に、晴人は昨夜までなかった紙を見つけた。

 中町二丁目。

 佐伯喜一。

 すでに貼られている。

「いつ貼ったんですか」

 晴人が聞いた。

 瀬奈は壁を見た。

 眉がわずかに動く。

「貼っていません」

 部屋の空気が冷えた。

 紙は新しかった。

 だが、押しピンだけは古く錆びている。

 まるで何年も前からそこにあったように。

 瀬奈は無言で壁に近づき、紙を確認した。

 そこには、手書きで名前が書かれていた。

 佐伯喜一。

 その下に、細い文字。

 交換済み。

「交換済み……」

 晴人が呟いた。

「母のノートにも似た表現があります」

 瀬奈は棚からノートを取り出した。

 十五年前のもの。

 ページをめくる手が速い。

 やがて彼女は一枚のページで止めた。

 そこにはいくつもの名前が並んでいた。

 生還。

 喪失。

 交換。

 未確認。

 短い言葉だけが、罫線の上に置かれている。

 瀬奈は折り鶴を透明袋から取り出した。

 素手では触らない。

 ピンセットを使い、慎重に羽を開いていく。

 折り目がほどけるたび、紙の中から煤の匂いが濃くなった。

 晴人は胸の奥が悪くなるのを感じた。

 その匂いを、体が覚えている。

 忘れたと思っていたのに。

 忘れたことにしていただけだった。

 鶴は少しずつ、一枚の紙へ戻っていった。

 完全に開くと、それが古い新聞の切り抜きだと分かった。

 紙面の端。

 小さな地方欄。

 日付は十年前。

 見出しは半分だけ読めた。

 中町ハイツ火災――。

 晴人の喉が締まった。

 瀬奈は息を殺して紙を押さえた。

 記事の本文はところどころ煤で黒くなっている。

 だが、いくつかの文字は残っていた。

 未明。

 三〇四号室。

 十二歳女児。

 兄。

 搬送。

 晴人は後ろへ下がった。

 椅子の脚にぶつかる。

 乾いた音が部屋に響いた。

「これは」

 声が出ない。

 自分の名前は載っていない。

 だが、分かる。

 これは結衣が死んだ火事の記事だ。

 十年前、どこかの新聞に載った小さな記事。

 母がすべて捨てたはずの記録。

 見ないようにしてきた過去。

 それが今、折り鶴になって戻ってきた。

 瀬奈は記事の下部を見た。

 そこに、新聞ではない文字が書かれていた。

 鉛筆。

 小さく、丸い字。

 子どもの字だった。

 お兄ちゃん。

 そこまで読んだ瞬間、部屋の蛍光灯が鳴った。

 ジジ。

 瀬奈の事務所の壁に貼られた間取り図が、一斉に揺れた。

 窓は閉まっている。

 風はない。

 それでも、赤い糸が細かく震えている。

 晴人は記事に視線を戻した。

 続きの文字が、いつの間にか増えていた。

 鉛筆の線が紙の上に滲み出るように、ゆっくり現れてくる。

 お兄ちゃん。

 あの日のことを、まだ思い出さないで。

 晴人の耳の奥で、火の音がした。

 ぱち、ぱち、と何かが燃える音。

 違う。

 ここは事務所だ。

 火などない。

 ないはずなのに、焦げた匂いが強くなる。

 瀬奈が窓を見た。

「晴人さん」

 彼女の声が緊張していた。

 窓ガラスに、白いものが映っている。

 振り返る。

 事務所の床に、折り鶴が落ちていた。

 一羽ではなかった。

 二羽。

 三羽。

 棚の下。

 椅子の脚元。

 入口の前。

 いつの間にか、部屋のあちこちに白い折り鶴が置かれている。

 どれも、こちらを向いていた。

 晴人は動けなかった。

 瀬奈は壁際に下がり、周囲を確認する。

「触らないでください」

「分かっています」

「本当に?」

「分かっています」

 だが、指先は勝手に震えていた。

 折り鶴の一つが、わずかに動いた。

 羽が開く。

 紙の内側に、黒い文字が見えた。

 火。

 また一羽、羽を開く。

 煙。

 次の一羽。

 階段。

 晴人の呼吸が荒くなった。

 単語が、ばらばらに散らばっている。

 火。

 煙。

 階段。

 鍵。

 声。

 扉。

 それらはすべて、十年前の夜に繋がっている。

 繋がっているのに、晴人の記憶の中では形にならない。

 何かが抜け落ちている。

 大事な部分だけが、焼け焦げた写真のように黒く潰れている。

「瀬奈さん」

 晴人は低く言った。

「俺は、あの日のことを覚えていると思っていました」

「今は?」

「分からない」

 瀬奈は何も言わなかった。

 彼女は新聞記事を透明な板で押さえ、写真を撮った。

 画面を確認する。

 今度は、文字が写っていた。

 だが、鉛筆の文字だけが消えている。

 お兄ちゃん。

 あの日のことを、まだ思い出さないで。

 その二行だけが、写真の中にはなかった。

「やはり」

 瀬奈が呟いた。

「零号室が直接残したものは、記録できない」

 晴人は床の鶴を見た。

 白い折り鶴の群れ。

 その真ん中に、一羽だけ焦げた鶴があった。

 黒い羽。

 潰れた首。

 十年前、焼け跡で見つけた鶴に似ている。

 いや。

 同じだった。

 晴人は膝をついた。

「触らないで」

 瀬奈が言った。

 だが晴人は止まれなかった。

 焦げた鶴に手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、視界が暗くなった。

 事務所の床が消える。

 雨の匂いが消える。

 代わりに、熱が来た。

 息ができないほど濃い煙。

 廊下。

 赤い光。

 裸足で走る足音。

 小さな手が、晴人の袖を掴んでいる。

 違う。

 これは、誰の記憶だ。

 晴人は炎の中で立っていた。

 前方に玄関が見える。

 開いている。

 外へ出られる。

 背後から、結衣の声がした。

 お兄ちゃん、行って。

 晴人は振り返ろうとした。

 けれど体が動かない。

 炎の向こうに、十二歳の結衣が立っている。

 白い寝間着。

 すすで黒くなった頬。

 手には、折り鶴。

 結衣は泣いていなかった。

 むしろ、何かを決めたような顔をしていた。

 その顔を、晴人は知らない。

 自分の記憶の中の結衣は、もっと怯えていたはずだ。

 泣いて、助けを求めていたはずだ。

 なのに、目の前の結衣は違う。

 彼女は晴人を見て、静かに首を振った。

 思い出しちゃだめ。

 次の瞬間、誰かが晴人の名前を呼んだ。

 だがそれは、結衣の声ではなかった。

 男の声だった。

 低く、切羽詰まった声。

 春人。

 晴人は目を開けた。

 事務所の床に倒れていた。

 瀬奈が肩を掴んでいる。

 彼女の顔が近い。

 額にかかった髪が乱れていた。

「晴人さん、聞こえますか」

 晴人は咳き込んだ。

 喉が焼けるように痛い。

 部屋に火はない。

 煙もない。

 それなのに、口の中に灰の味がした。

「今、何を見ました」

 瀬奈が聞いた。

 晴人は答えようとした。

 だが、言葉にならなかった。

 結衣。

 玄関。

 炎。

 男の声。

 春人。

 断片だけが頭の中を回っている。

 瀬奈は晴人の手から焦げた鶴を取ろうとした。

 そのとき、鶴がひとりでに開いた。

 黒く焦げた紙が、ゆっくり平らになる。

 中に、文字があった。

 焼け残った鉛筆の線。

 今度は、はっきり読めた。

 お兄ちゃん。

 あの日、助けられたのは私じゃない。

 晴人はその文字を見つめた。

 息ができなかった。

 紙の最後に、もう一行だけ浮かび上がる。

 助けられたのは、お兄ちゃんだよ。



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