(第二部 . 第三章 ) 十年前の火事
灰の味がした。
火はない。
煙もない。
事務所の窓は閉まっていて、外の雨音だけが薄く聞こえている。
それなのに晴人の口の中には、十年前と同じ、乾いた灰の味が残っていた。
床に膝をついたまま、彼は開いた折り鶴を見下ろしていた。
焦げた紙は、ゆっくりと平らになっている。
羽だった部分に黒い煤が残り、折り目の谷に細い影が溜まっていた。
そこに、文字がある。
お兄ちゃん。
あの日、助けられたのは私じゃない。
助けられたのは、お兄ちゃんだよ。
鉛筆で書かれたような薄い線だった。
だが、見間違いではなかった。
瀬奈は何も言わなかった。
彼女は晴人の隣にしゃがみ込み、焦げた紙に触れない距離で止まっている。顔色は悪い。けれど、目だけは逃げていなかった。
「……今のを」
晴人は声を出した。
自分でも、ずいぶん遠くから聞こえた。
「見たか」
「見ました」
瀬奈の答えは短かった。
「文字が、勝手に出た」
「はい」
「俺の頭がおかしくなったわけじゃないんだな」
瀬奈はすぐには頷かなかった。
その沈黙が、かえって正直だった。
「おかしくなっていないとは、言い切れません」
晴人は、笑おうとした。
喉の奥が引きつっただけだった。
「でも」
瀬奈は続けた。
「少なくとも、私も同じものを見ています」
事務所の蛍光灯が一度だけ瞬いた。
天井の白い光が、机、床、ノート、開いた鶴を順番に切り取る。
晴人は手を伸ばそうとして、途中で止めた。
触れたら、その文字まで消えてしまう気がした。
「結衣は死んだ」
誰に向けた言葉でもなかった。
「十年前に。火事で」
「知っています」
「俺は、助けられなかった」
そこだけは、何度も口にしてきた。
声に出さなくても、頭の中で、毎日同じ言葉を繰り返していた。
助けられなかった。
間に合わなかった。
見捨てた。
その三つだけが、十年間、晴人の中で形を変えずに残っていた。
瀬奈は、晴人の横顔を見た。
「本当に、そうですか」
晴人は彼女を見返した。
「何が言いたい」
「水野さんが覚えている火事は、どこまで本当なんですか」
その言葉は静かだった。
責めてはいない。
慰めてもいない。
ただ、薄い刃のように真っすぐだった。
晴人は息を吸った。
胸の奥が痛んだ。
「覚えてる」
彼は言った。
「ちゃんと覚えてる」
だが、その瞬間。
頭の中で、炎の色が少しだけ変わった。
*
十年前の夏は、夜になっても暑かった。
古い二階建てのアパート。
階段の鉄骨は昼間の熱を残したまま、触れると指の腹がじんとした。
近くの公園から、蝉の声がまだ聞こえていた。夜なのに、鳴き止むことを忘れたみたいに。
水野家は二階の奥の部屋だった。
六畳の和室が二つ。小さな台所。狭い風呂。玄関脇には父が買ってきた安物の傘立てが置いてあった。
その日、母は遅番だった。
父はまだ帰っていなかった。
晴人は高校を卒業して、専門学校に通い始めたばかりだった。家にいる時間が少なくなり、結衣と話す時間も減っていた。
結衣は十二歳。
夏休みの宿題を、いつも最後まで残す子だった。
「お兄ちゃん」
記憶の中で、結衣が呼ぶ。
畳の上に腹ばいになって、白い折り紙を何枚も広げていた。
扇風機の風で紙がずれ、そのたびに彼女は慌てて両手で押さえる。
「何」
晴人は携帯電話を見ていた。
友人からのメッセージ。明日の予定。アルバイト先からの連絡。
今思えば、どれも取るに足りないものだった。
「これ、見て」
結衣が小さな鶴を差し出す。
首が少し曲がっていて、羽の片方だけ大きかった。
「また折ってるのか」
「うん」
「宿題は」
「あとでやる」
「絶対やらないだろ」
そう言うと、結衣は頬を膨らませた。
その顔を見て、晴人は少しだけ笑った。
覚えている。
そのはずだった。
あの夜、確かに結衣は畳の上で鶴を折っていた。
扇風機が回っていた。
台所の窓が少し開いていて、遠くで電車の音がした。
そして、焦げた匂いがした。
最初は、誰かが外で花火をしているのだと思った。
夏だったから。
近所の子どもたちが、公園でロケット花火を飛ばして、よく大人に怒られていたから。
でも、次の瞬間、台所の方から黒い煙が流れてきた。
結衣が顔を上げる。
「お兄ちゃん?」
晴人は立ち上がった。
台所の電気はついていた。
シンクの横。
コンロのあたり。
赤い光が揺れていた。
火だ。
そう思ったときには、もう火は小さくなかった。
壁の油汚れに沿って炎が走り、古い換気扇の黒い羽が音を立てて溶けていた。焦げたプラスチックの匂いが喉に張り付く。
「結衣、外に出ろ!」
晴人は叫んだ。
ここまでは、覚えている。
結衣が立ち上がる。
白い折り紙が畳に散らばる。
扇風機の風で、そのうちの一枚が火の方へ滑っていく。
廊下はすでに煙で白かった。
玄関は、すぐそこにある。
手を伸ばせば届く。
晴人は結衣の手を掴んだ。
そう、掴んだはずだった。
細い手首。
汗ばんだ手のひら。
怖がって震えている指。
晴人はその手を引いて、玄関へ向かった。
だが。
そこで記憶は、いつも途切れる。
炎。
煙。
誰かの咳。
倒れる音。
そして、結衣の声。
お兄ちゃん。
*
「本当に、手を掴みましたか」
瀬奈の声で、晴人は事務所へ戻った。
雨音が少し強くなっていた。
窓ガラスに水滴が斜めに走る。
晴人は、床に置かれた折り鶴を見つめた。
「掴んだ」
「どちらの手ですか」
「……右手」
「結衣さんの右手ですか。水野さんの右手ですか」
晴人は口を開いた。
答えが出なかった。
瀬奈は畳みかけなかった。
ただ、静かに待った。
「右だ」
晴人は言った。
「たぶん」
「たぶん」
「煙がひどかった。そんな細かいことまで」
「覚えていない」
瀬奈が先に言った。
晴人は黙った。
「水野さん」
瀬奈は声を落とした。
「人は、耐えられない記憶を別の形に変えることがあります。自分を守るために」
「心理学の話か」
「取材で何度か聞きました」
「俺は取材対象じゃない」
「今は違います」
瀬奈は真っすぐ晴人を見た。
「でも、あなたの記憶は、この部屋と繋がっています」
晴人は返事をしなかった。
繋がっている。
その言葉が、妙に重かった。
零号室。
死んだ妹。
消えかけた父の顔。
戸籍のない男。
外に現れた折り鶴。
すべてが、ひとつの細い糸で結ばれている。
その糸の先にあるのは、十年前の火事だ。
「家に」
晴人は立ち上がった。
膝が少し震えた。
「確認したいものがある」
*
晴人の部屋は、駅から歩いて十五分の古いマンションにあった。
外壁は灰色で、雨に濡れると色が一段暗くなる。エントランスの照明は片方だけ切れていて、郵便受けの並ぶ壁に斜めの影を作っていた。
瀬奈は、何も言わずについてきた。
エレベーターの中で、二人の影が銀色の扉に歪んで映る。
晴人は自分の顔を見なかった。
部屋の鍵を開ける。
中は暗かった。
いつも通りの部屋なのに、今日はどこか他人の部屋みたいに感じた。
小さなテーブル。
本棚。
畳まれた作業着。
壁にかけた時計。
すべてが無言で晴人を見ているようだった。
「入ってください」
晴人は言った。
瀬奈は玄関で一度だけ靴を揃え、静かに上がった。
晴人は押し入れの前に立った。
指先が襖の取っ手に触れる。
ほんの一瞬、別の押し入れを思い出した。
中町ハイツ三〇四号室。
奥にあった、ありえない扉。
その向こうから聞こえた子どもの声。
ここにも、扉があったらどうする。
そう思った瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
「水野さん」
瀬奈が後ろで言った。
「大丈夫です」
何を根拠に、と思った。
けれど、その声で少しだけ指が動いた。
襖を開ける。
そこにあったのは、布団と、季節外れの上着と、段ボール箱だった。
扉はない。
畳の匂いもしない。
晴人は奥から古い段ボールを引き出した。
ガムテープは黄ばんでいた。
側面に、母の字で書かれている。
火事関係。
開けないこと。
瀬奈がその文字を見た。
何か言いかけて、やめた。
晴人はカッターを探すのも面倒で、指でガムテープを剥がした。
古い粘着剤が、嫌な音を立てる。
箱の中には、袋に分けられたものが入っていた。
焦げた写真立て。
変色した保険会社の書類。
新聞の切り抜き。
煤のついたキーホルダー。
そして、小さな缶。
赤い缶だった。
もとは菓子の箱だったはずだ。
表面の絵柄はほとんど剥がれ、端が黒く焦げている。
晴人は缶を手に取った。
軽かった。
だが、指に触れた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
「これは?」
瀬奈が聞く。
「結衣の」
晴人は答えた。
「あいつが、折り鶴を入れてた缶だ」
蓋は歪んでいた。
何度か力を入れると、金属がきしむ音を立てて開いた。
中には、黒くなった紙の欠片がいくつも入っていた。
折り紙だったもの。
鶴だったもの。
白、赤、青、黄色。
色はほとんど失われ、煤と熱で縮れている。
晴人は息を止めた。
缶の底に、一枚だけ、焦げていない紙があった。
四つ折りにされたメモ。
紙の端に、結衣の小さな字が見えた。
晴人はそれを開いた。
お兄ちゃんへ。
そこまで読んで、指が止まった。
十年前の文字。
十二歳の結衣の字。
少し丸くて、横線がいつも右上がりになる癖。
「読めますか」
瀬奈の声が遠かった。
晴人は目を落とした。
お兄ちゃんへ。
明日はちゃんと帰ってきてね。
約束したでしょ。
花火、一緒に見るって。
あと、これを読んだら、怒らないでください。
お兄ちゃんの机の下にある箱、少しだけ見ました。
ごめんなさい。
でも、私はお兄ちゃんがいなくなるのはいやです。
最後の一行で、晴人の呼吸が止まった。
いなくなる。
何のことだ。
晴人は紙を裏返した。
裏には何もなかった。
覚えていない。
そんな約束も。
机の下の箱も。
結衣がこの手紙を書いたことも。
「水野さん」
瀬奈が言った。
「その『箱』に心当たりは」
「ない」
即答した。
だが、声は震えていた。
ないはずだ。
十年前の自分が、何を机の下に隠していたのか。
考えようとしただけで、頭の奥に白い靄がかかる。
忘れている。
忘れたのではない。
何かが、そこだけを切り取っている。
*
母に電話をかけたのは、それから十分後だった。
晴人はテーブルの前に座り、スマートフォンを置いたまま画面を見ていた。
発信ボタンを押すだけなのに、指が動かない。
瀬奈は向かい側に座っている。
彼女は急かさなかった。
雨はまだ降っていた。
窓の外で、車のタイヤが濡れた道路を裂く音がする。
晴人は発信した。
呼び出し音が三回。
「晴人?」
母の声だった。
いつもより少し眠そうで、少し不安そうだった。
「こんな時間にどうしたの」
「母さん」
「何かあった?」
晴人は、テーブルの上の手紙を見た。
「十年前の火事のことで聞きたい」
電話の向こうが、静かになった。
母の息遣いも聞こえない。
「……どうして、今」
「確認したいことがある」
「もう、いいじゃない」
母の声は小さかった。
「晴人は生きてる。それでいいじゃない」
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
晴人はゆっくり口を開いた。
「結衣は、どこで見つかった」
また沈黙。
今度は長かった。
「母さん」
「覚えていないの?」
母が言った。
晴人は眉をひそめた。
「何を」
「あなた、本当に覚えていないの」
声が震えていた。
怒りではない。
恐怖に近かった。
「俺は、結衣を助けようとして」
「違う」
母の声が遮った。
晴人は息を止めた。
「違うって、何が」
電話の向こうで、何かが擦れる音がした。
母が座り直したのか、あるいは口元を押さえたのか。
「ごめんなさい」
「母さん」
「その話は、したくない」
「結衣はどこで見つかった」
「晴人」
「答えてくれ」
自分の声が大きくなった。
瀬奈が顔を上げる。
母は泣いているようだった。
それでも、声を押し殺して言った。
「結衣は」
短い呼吸。
「玄関の近くまで、来ていたの」
晴人の中で、何かが落ちた。
音はしなかった。
だが、足元の床が一段抜けたような感覚があった。
「玄関……?」
「そう」
「じゃあ、なんで」
なぜ死んだ。
言葉にできなかった。
母は答えなかった。
「俺は、結衣の手を引いて」
「晴人」
母の声が、低くなった。
「あなたは、手を引かれていたの」
部屋の音が消えた。
雨音も。
時計の針も。
瀬奈の息遣いも。
すべて遠ざかった。
「……誰に」
晴人は聞いた。
母は答えなかった。
「誰に、手を引かれてたんだ」
沈黙。
そして、母は小さく言った。
「もう思い出さないで」
通話が切れた。
*
スマートフォンの画面が暗くなっても、晴人はしばらく動かなかった。
瀬奈も何も言わなかった。
テーブルの上には、結衣の手紙がある。
その横に、焦げた折り鶴。
さらにその横に、古い新聞の切り抜き。
晴人は新聞に手を伸ばした。
紙は黄ばんでいた。
端が脆くなっていて、少し力を入れただけで破れそうだった。
見出しは短い。
木造アパート火災、十二歳女児死亡
その下に、小さな記事が続いている。
東京都内の木造アパートで発生した火災により、住人の少女一名が死亡、兄とみられる少年一名が病院へ搬送された。火元は台所付近とみられ、警視庁と消防が詳しい原因を調べている。
晴人は目で文字を追った。
何度も読んだはずの記事だった。
事故のあと、母が箱にしまった。晴人は一度だけ見て、それからずっと触れなかった。
だが、今は違う。
記事の下に、手書きの線が引かれていた。
母の字ではない。
父の字だった。
救出時、兄は室内奥で倒れていた。
晴人の指が止まった。
室内奥。
彼の記憶では、玄関へ向かっていた。
結衣の手を引いて。
煙の中を、外へ。
だが、母は言った。
結衣は玄関の近くまで来ていた。
晴人は手を引かれていた。
そして記事には、兄は室内奥で倒れていた、とある。
「おかしい」
晴人は呟いた。
瀬奈が新聞を覗き込む。
「この線、誰が」
「父さんだと思う」
晴人は言った。
父の顔は、写真の中でぼやけていた。
名前も、声も、最近はひどく曖昧になっている。
けれど、その字だけは覚えていた。
几帳面で、少し右に傾く字。
父の字だ。
新聞の裏側にも、何か書かれていた。
晴人は紙を裏返した。
そこには、一文だけあった。
あの子は一度、外へ出ていた。
瀬奈が小さく息を呑んだ。
晴人は文字を見つめた。
あの子。
結衣。
一度、外へ出ていた。
頭の中で、火事の記憶が軋む。
畳の上の折り紙。
台所の火。
白い煙。
玄関の光。
結衣の手。
いや。
あれは本当に、結衣の手だったのか。
晴人は自分の右手を見た。
指先が震えている。
十年前、彼は確かに誰かの手を握っていた。
だが、握っていたのではない。
引かれていた。
外へ、ではなく。
奥へ。
*
その瞬間、記憶の中で煙が割れた。
熱い。
息ができない。
床に膝をついている。
手のひらが畳に触れて、熱でじりじりと痛む。
誰かが泣いている。
自分か。
結衣か。
分からない。
「お兄ちゃん、だめ」
声がした。
結衣の声。
近い。
すぐそばにいる。
晴人は顔を上げる。
煙の向こうに、小さな影が見える。
結衣が立っている。
玄関の方ではない。
部屋の奥でもない。
廊下の途中。
彼女は泣いていなかった。
白い折り紙を一枚、胸に抱えていた。
「こっちじゃない」
彼女が言う。
「お兄ちゃん、そっちに行っちゃだめ」
晴人は何かを言おうとした。
だが、煙で声が出ない。
そのとき、別の声が聞こえた。
低い男の声。
春人。
晴人は振り返る。
煙の奥に、誰かが立っている。
父か。
違う。
もっと遠い。
もっと古い。
知らないはずなのに、懐かしい声。
その男が、晴人を呼んでいる。
春人。
晴人ではない。
春人。
文字が違う。
音は同じなのに、まったく別の名前。
誰だ。
そう思った瞬間、結衣が叫んだ。
「お兄ちゃん!」
小さな手が、晴人の手首を掴む。
強かった。
十二歳の子どもの力ではなかった。
そして、その手が晴人を引いた。
外へ。
光の方へ。
いや。
違う。
晴人は、その手を振りほどこうとしていた。
奥へ行こうとしていた。
火の中へ。
誰かの声のする方へ。
*
「水野さん!」
瀬奈の声で、晴人は我に返った。
テーブルの端を掴んでいた。
爪が白くなるほど力を込めている。
息が荒い。
背中に汗が流れていた。
「今、また見ましたね」
瀬奈が言った。
晴人は頷こうとして、できなかった。
「俺は」
声が震えた。
「俺は、結衣を連れて逃げようとしてたんじゃない」
言葉にした瞬間、胸の奥にあった何かが割れた。
「たぶん、逆だ」
瀬奈は黙っていた。
晴人は、新聞の裏に書かれた父の字を見つめた。
あの子は一度、外へ出ていた。
もしそれが本当なら。
結衣は逃げられた。
それなのに戻った。
誰のために。
答えは、もう目の前にあった。
お兄ちゃん。
あの日、助けられたのは私じゃない。
助けられたのは、お兄ちゃんだよ。
晴人は両手で顔を覆った。
泣き声は出なかった。
涙も出なかった。
ただ、十年間信じていた自分の罪が、別の形に変わっていくのを感じた。
軽くなるのではない。
もっと重くなる。
もっと深く、逃げ場のないものになる。
瀬奈が新聞を手に取った。
「この火事の資料を、調べます」
晴人は顔を上げた。
「今さら何を調べるんだ」
「原因です」
「台所の火だろ」
「記事には『火元は台所付近とみられる』としか書いてありません」
瀬奈は新聞の文字を指でなぞった。
「断定していない」
「でも、事故だった」
「本当に?」
晴人は言葉を失った。
瀬奈の目は、もう記者の目になっていた。
静かで、冷たくて、何かを追う人間の目。
「私の母のノートにも、同じ住所がありました。水野結衣さんの名前もあった。零号室に接触済み、と」
瀬奈は続けた。
「ただの事故なら、なぜ母はこの火事を記録していたんでしょう」
晴人は答えられなかった。
外で、雨が強くなった。
窓ガラスを叩く音が、まるで誰かが部屋の外から指先で合図しているように聞こえた。
瀬奈のスマートフォンが震えた。
一度。
短く。
彼女は画面を見た。
眉がわずかに動く。
「誰からだ」
晴人が聞いた。
「以前、火災関係の資料を調べたときに知り合った人です。元消防の方で、退職後に古い災害記録の整理をしている」
瀬奈は画面を晴人に向けた。
そこには、一枚の画像が送られていた。
古い火災現場の記録。
印字は薄く、写真は粗い。
だが、赤い丸で囲まれた一文だけは読めた。
台所からの出火痕なし。
晴人は画面を見つめた。
喉の奥が、ゆっくり冷えていく。
瀬奈は低い声で言った。
「水野さん」
雨音の向こうで、どこか遠くの非常ベルが鳴っている気がした。
「十年前の火事は、あなたが覚えているものと違います」




