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零号室  作者: 清忠
11/36

(第二部 . 第三章 ) 十年前の火事

灰の味がした。


 火はない。

 煙もない。

 事務所の窓は閉まっていて、外の雨音だけが薄く聞こえている。


 それなのに晴人の口の中には、十年前と同じ、乾いた灰の味が残っていた。


 床に膝をついたまま、彼は開いた折り鶴を見下ろしていた。

 焦げた紙は、ゆっくりと平らになっている。

 羽だった部分に黒い煤が残り、折り目の谷に細い影が溜まっていた。


 そこに、文字がある。


 お兄ちゃん。

 あの日、助けられたのは私じゃない。

 助けられたのは、お兄ちゃんだよ。


 鉛筆で書かれたような薄い線だった。

 だが、見間違いではなかった。


 瀬奈は何も言わなかった。

 彼女は晴人の隣にしゃがみ込み、焦げた紙に触れない距離で止まっている。顔色は悪い。けれど、目だけは逃げていなかった。


「……今のを」


 晴人は声を出した。

 自分でも、ずいぶん遠くから聞こえた。


「見たか」


「見ました」


 瀬奈の答えは短かった。


「文字が、勝手に出た」


「はい」


「俺の頭がおかしくなったわけじゃないんだな」


 瀬奈はすぐには頷かなかった。

 その沈黙が、かえって正直だった。


「おかしくなっていないとは、言い切れません」


 晴人は、笑おうとした。

 喉の奥が引きつっただけだった。


「でも」


 瀬奈は続けた。


「少なくとも、私も同じものを見ています」


 事務所の蛍光灯が一度だけ瞬いた。

 天井の白い光が、机、床、ノート、開いた鶴を順番に切り取る。


 晴人は手を伸ばそうとして、途中で止めた。

 触れたら、その文字まで消えてしまう気がした。


「結衣は死んだ」


 誰に向けた言葉でもなかった。


「十年前に。火事で」


「知っています」


「俺は、助けられなかった」


 そこだけは、何度も口にしてきた。

 声に出さなくても、頭の中で、毎日同じ言葉を繰り返していた。


 助けられなかった。

 間に合わなかった。

 見捨てた。


 その三つだけが、十年間、晴人の中で形を変えずに残っていた。


 瀬奈は、晴人の横顔を見た。


「本当に、そうですか」


 晴人は彼女を見返した。


「何が言いたい」


「水野さんが覚えている火事は、どこまで本当なんですか」


 その言葉は静かだった。

 責めてはいない。

 慰めてもいない。

 ただ、薄い刃のように真っすぐだった。


 晴人は息を吸った。

 胸の奥が痛んだ。


「覚えてる」


 彼は言った。


「ちゃんと覚えてる」


 だが、その瞬間。


 頭の中で、炎の色が少しだけ変わった。



 十年前の夏は、夜になっても暑かった。


 古い二階建てのアパート。

 階段の鉄骨は昼間の熱を残したまま、触れると指の腹がじんとした。

 近くの公園から、蝉の声がまだ聞こえていた。夜なのに、鳴き止むことを忘れたみたいに。


 水野家は二階の奥の部屋だった。

 六畳の和室が二つ。小さな台所。狭い風呂。玄関脇には父が買ってきた安物の傘立てが置いてあった。


 その日、母は遅番だった。

 父はまだ帰っていなかった。


 晴人は高校を卒業して、専門学校に通い始めたばかりだった。家にいる時間が少なくなり、結衣と話す時間も減っていた。


 結衣は十二歳。

 夏休みの宿題を、いつも最後まで残す子だった。


「お兄ちゃん」


 記憶の中で、結衣が呼ぶ。


 畳の上に腹ばいになって、白い折り紙を何枚も広げていた。

 扇風機の風で紙がずれ、そのたびに彼女は慌てて両手で押さえる。


「何」


 晴人は携帯電話を見ていた。

 友人からのメッセージ。明日の予定。アルバイト先からの連絡。

 今思えば、どれも取るに足りないものだった。


「これ、見て」


 結衣が小さな鶴を差し出す。

 首が少し曲がっていて、羽の片方だけ大きかった。


「また折ってるのか」


「うん」


「宿題は」


「あとでやる」


「絶対やらないだろ」


 そう言うと、結衣は頬を膨らませた。

 その顔を見て、晴人は少しだけ笑った。


 覚えている。


 そのはずだった。


 あの夜、確かに結衣は畳の上で鶴を折っていた。

 扇風機が回っていた。

 台所の窓が少し開いていて、遠くで電車の音がした。


 そして、焦げた匂いがした。


 最初は、誰かが外で花火をしているのだと思った。

 夏だったから。

 近所の子どもたちが、公園でロケット花火を飛ばして、よく大人に怒られていたから。


 でも、次の瞬間、台所の方から黒い煙が流れてきた。


 結衣が顔を上げる。


「お兄ちゃん?」


 晴人は立ち上がった。

 台所の電気はついていた。

 シンクの横。

 コンロのあたり。

 赤い光が揺れていた。


 火だ。


 そう思ったときには、もう火は小さくなかった。


 壁の油汚れに沿って炎が走り、古い換気扇の黒い羽が音を立てて溶けていた。焦げたプラスチックの匂いが喉に張り付く。


「結衣、外に出ろ!」


 晴人は叫んだ。


 ここまでは、覚えている。


 結衣が立ち上がる。

 白い折り紙が畳に散らばる。

 扇風機の風で、そのうちの一枚が火の方へ滑っていく。


 廊下はすでに煙で白かった。

 玄関は、すぐそこにある。

 手を伸ばせば届く。


 晴人は結衣の手を掴んだ。


 そう、掴んだはずだった。


 細い手首。

 汗ばんだ手のひら。

 怖がって震えている指。


 晴人はその手を引いて、玄関へ向かった。


 だが。


 そこで記憶は、いつも途切れる。


 炎。

 煙。

 誰かの咳。

 倒れる音。


 そして、結衣の声。


 お兄ちゃん。



「本当に、手を掴みましたか」


 瀬奈の声で、晴人は事務所へ戻った。


 雨音が少し強くなっていた。

 窓ガラスに水滴が斜めに走る。


 晴人は、床に置かれた折り鶴を見つめた。


「掴んだ」


「どちらの手ですか」


「……右手」


「結衣さんの右手ですか。水野さんの右手ですか」


 晴人は口を開いた。


 答えが出なかった。


 瀬奈は畳みかけなかった。

 ただ、静かに待った。


「右だ」


 晴人は言った。


「たぶん」


「たぶん」


「煙がひどかった。そんな細かいことまで」


「覚えていない」


 瀬奈が先に言った。


 晴人は黙った。


「水野さん」


 瀬奈は声を落とした。


「人は、耐えられない記憶を別の形に変えることがあります。自分を守るために」


「心理学の話か」


「取材で何度か聞きました」


「俺は取材対象じゃない」


「今は違います」


 瀬奈は真っすぐ晴人を見た。


「でも、あなたの記憶は、この部屋と繋がっています」


 晴人は返事をしなかった。


 繋がっている。

 その言葉が、妙に重かった。


 零号室。

 死んだ妹。

 消えかけた父の顔。

 戸籍のない男。

 外に現れた折り鶴。


 すべてが、ひとつの細い糸で結ばれている。

 その糸の先にあるのは、十年前の火事だ。


「家に」


 晴人は立ち上がった。

 膝が少し震えた。


「確認したいものがある」



 晴人の部屋は、駅から歩いて十五分の古いマンションにあった。

 外壁は灰色で、雨に濡れると色が一段暗くなる。エントランスの照明は片方だけ切れていて、郵便受けの並ぶ壁に斜めの影を作っていた。


 瀬奈は、何も言わずについてきた。


 エレベーターの中で、二人の影が銀色の扉に歪んで映る。

 晴人は自分の顔を見なかった。


 部屋の鍵を開ける。


 中は暗かった。

 いつも通りの部屋なのに、今日はどこか他人の部屋みたいに感じた。


 小さなテーブル。

 本棚。

 畳まれた作業着。

 壁にかけた時計。


 すべてが無言で晴人を見ているようだった。


「入ってください」


 晴人は言った。


 瀬奈は玄関で一度だけ靴を揃え、静かに上がった。


 晴人は押し入れの前に立った。

 指先が襖の取っ手に触れる。


 ほんの一瞬、別の押し入れを思い出した。


 中町ハイツ三〇四号室。

 奥にあった、ありえない扉。

 その向こうから聞こえた子どもの声。


 ここにも、扉があったらどうする。


 そう思った瞬間、背中に冷たい汗が流れた。


「水野さん」


 瀬奈が後ろで言った。


「大丈夫です」


 何を根拠に、と思った。

 けれど、その声で少しだけ指が動いた。


 襖を開ける。


 そこにあったのは、布団と、季節外れの上着と、段ボール箱だった。

 扉はない。

 畳の匂いもしない。


 晴人は奥から古い段ボールを引き出した。

 ガムテープは黄ばんでいた。

 側面に、母の字で書かれている。


 火事関係。

 開けないこと。


 瀬奈がその文字を見た。

 何か言いかけて、やめた。


 晴人はカッターを探すのも面倒で、指でガムテープを剥がした。

 古い粘着剤が、嫌な音を立てる。


 箱の中には、袋に分けられたものが入っていた。


 焦げた写真立て。

 変色した保険会社の書類。

 新聞の切り抜き。

 煤のついたキーホルダー。

 そして、小さな缶。


 赤い缶だった。

 もとは菓子の箱だったはずだ。

 表面の絵柄はほとんど剥がれ、端が黒く焦げている。


 晴人は缶を手に取った。


 軽かった。


 だが、指に触れた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


「これは?」


 瀬奈が聞く。


「結衣の」


 晴人は答えた。


「あいつが、折り鶴を入れてた缶だ」


 蓋は歪んでいた。

 何度か力を入れると、金属がきしむ音を立てて開いた。


 中には、黒くなった紙の欠片がいくつも入っていた。

 折り紙だったもの。

 鶴だったもの。

 白、赤、青、黄色。

 色はほとんど失われ、煤と熱で縮れている。


 晴人は息を止めた。


 缶の底に、一枚だけ、焦げていない紙があった。


 四つ折りにされたメモ。


 紙の端に、結衣の小さな字が見えた。


 晴人はそれを開いた。


 お兄ちゃんへ。


 そこまで読んで、指が止まった。


 十年前の文字。

 十二歳の結衣の字。

 少し丸くて、横線がいつも右上がりになる癖。


「読めますか」


 瀬奈の声が遠かった。


 晴人は目を落とした。


 お兄ちゃんへ。


 明日はちゃんと帰ってきてね。

 約束したでしょ。

 花火、一緒に見るって。


 あと、これを読んだら、怒らないでください。

 お兄ちゃんの机の下にある箱、少しだけ見ました。

 ごめんなさい。


 でも、私はお兄ちゃんがいなくなるのはいやです。


 最後の一行で、晴人の呼吸が止まった。


 いなくなる。


 何のことだ。


 晴人は紙を裏返した。

 裏には何もなかった。


 覚えていない。


 そんな約束も。

 机の下の箱も。

 結衣がこの手紙を書いたことも。


「水野さん」


 瀬奈が言った。


「その『箱』に心当たりは」


「ない」


 即答した。

 だが、声は震えていた。


 ないはずだ。


 十年前の自分が、何を机の下に隠していたのか。

 考えようとしただけで、頭の奥に白い靄がかかる。


 忘れている。


 忘れたのではない。


 何かが、そこだけを切り取っている。



 母に電話をかけたのは、それから十分後だった。


 晴人はテーブルの前に座り、スマートフォンを置いたまま画面を見ていた。

 発信ボタンを押すだけなのに、指が動かない。


 瀬奈は向かい側に座っている。

 彼女は急かさなかった。


 雨はまだ降っていた。

 窓の外で、車のタイヤが濡れた道路を裂く音がする。


 晴人は発信した。


 呼び出し音が三回。


「晴人?」


 母の声だった。


 いつもより少し眠そうで、少し不安そうだった。


「こんな時間にどうしたの」


「母さん」


「何かあった?」


 晴人は、テーブルの上の手紙を見た。


「十年前の火事のことで聞きたい」


 電話の向こうが、静かになった。


 母の息遣いも聞こえない。


「……どうして、今」


「確認したいことがある」


「もう、いいじゃない」


 母の声は小さかった。


「晴人は生きてる。それでいいじゃない」


 その言葉が、妙に胸に引っかかった。


 晴人はゆっくり口を開いた。


「結衣は、どこで見つかった」


 また沈黙。


 今度は長かった。


「母さん」


「覚えていないの?」


 母が言った。


 晴人は眉をひそめた。


「何を」


「あなた、本当に覚えていないの」


 声が震えていた。

 怒りではない。

 恐怖に近かった。


「俺は、結衣を助けようとして」


「違う」


 母の声が遮った。


 晴人は息を止めた。


「違うって、何が」


 電話の向こうで、何かが擦れる音がした。

 母が座り直したのか、あるいは口元を押さえたのか。


「ごめんなさい」


「母さん」


「その話は、したくない」


「結衣はどこで見つかった」


「晴人」


「答えてくれ」


 自分の声が大きくなった。

 瀬奈が顔を上げる。


 母は泣いているようだった。

 それでも、声を押し殺して言った。


「結衣は」


 短い呼吸。


「玄関の近くまで、来ていたの」


 晴人の中で、何かが落ちた。


 音はしなかった。

 だが、足元の床が一段抜けたような感覚があった。


「玄関……?」


「そう」


「じゃあ、なんで」


 なぜ死んだ。


 言葉にできなかった。


 母は答えなかった。


「俺は、結衣の手を引いて」


「晴人」


 母の声が、低くなった。


「あなたは、手を引かれていたの」


 部屋の音が消えた。


 雨音も。

 時計の針も。

 瀬奈の息遣いも。


 すべて遠ざかった。


「……誰に」


 晴人は聞いた。


 母は答えなかった。


「誰に、手を引かれてたんだ」


 沈黙。


 そして、母は小さく言った。


「もう思い出さないで」


 通話が切れた。



 スマートフォンの画面が暗くなっても、晴人はしばらく動かなかった。


 瀬奈も何も言わなかった。


 テーブルの上には、結衣の手紙がある。

 その横に、焦げた折り鶴。

 さらにその横に、古い新聞の切り抜き。


 晴人は新聞に手を伸ばした。


 紙は黄ばんでいた。

 端が脆くなっていて、少し力を入れただけで破れそうだった。


 見出しは短い。


 木造アパート火災、十二歳女児死亡


 その下に、小さな記事が続いている。


 東京都内の木造アパートで発生した火災により、住人の少女一名が死亡、兄とみられる少年一名が病院へ搬送された。火元は台所付近とみられ、警視庁と消防が詳しい原因を調べている。


 晴人は目で文字を追った。


 何度も読んだはずの記事だった。

 事故のあと、母が箱にしまった。晴人は一度だけ見て、それからずっと触れなかった。


 だが、今は違う。


 記事の下に、手書きの線が引かれていた。

 母の字ではない。

 父の字だった。


 救出時、兄は室内奥で倒れていた。


 晴人の指が止まった。


 室内奥。


 彼の記憶では、玄関へ向かっていた。

 結衣の手を引いて。

 煙の中を、外へ。


 だが、母は言った。


 結衣は玄関の近くまで来ていた。

 晴人は手を引かれていた。


 そして記事には、兄は室内奥で倒れていた、とある。


「おかしい」


 晴人は呟いた。


 瀬奈が新聞を覗き込む。


「この線、誰が」


「父さんだと思う」


 晴人は言った。


 父の顔は、写真の中でぼやけていた。

 名前も、声も、最近はひどく曖昧になっている。

 けれど、その字だけは覚えていた。


 几帳面で、少し右に傾く字。


 父の字だ。


 新聞の裏側にも、何か書かれていた。


 晴人は紙を裏返した。


 そこには、一文だけあった。


 あの子は一度、外へ出ていた。


 瀬奈が小さく息を呑んだ。


 晴人は文字を見つめた。


 あの子。


 結衣。


 一度、外へ出ていた。


 頭の中で、火事の記憶が軋む。


 畳の上の折り紙。

 台所の火。

 白い煙。

 玄関の光。


 結衣の手。


 いや。


 あれは本当に、結衣の手だったのか。


 晴人は自分の右手を見た。

 指先が震えている。


 十年前、彼は確かに誰かの手を握っていた。


 だが、握っていたのではない。


 引かれていた。


 外へ、ではなく。


 奥へ。



 その瞬間、記憶の中で煙が割れた。


 熱い。


 息ができない。


 床に膝をついている。

 手のひらが畳に触れて、熱でじりじりと痛む。


 誰かが泣いている。


 自分か。

 結衣か。


 分からない。


「お兄ちゃん、だめ」


 声がした。


 結衣の声。


 近い。

 すぐそばにいる。


 晴人は顔を上げる。

 煙の向こうに、小さな影が見える。


 結衣が立っている。

 玄関の方ではない。

 部屋の奥でもない。


 廊下の途中。


 彼女は泣いていなかった。


 白い折り紙を一枚、胸に抱えていた。


「こっちじゃない」


 彼女が言う。


「お兄ちゃん、そっちに行っちゃだめ」


 晴人は何かを言おうとした。

 だが、煙で声が出ない。


 そのとき、別の声が聞こえた。


 低い男の声。


 春人。


 晴人は振り返る。


 煙の奥に、誰かが立っている。


 父か。


 違う。


 もっと遠い。

 もっと古い。

 知らないはずなのに、懐かしい声。


 その男が、晴人を呼んでいる。


 春人。


 晴人ではない。


 春人。


 文字が違う。

 音は同じなのに、まったく別の名前。


 誰だ。


 そう思った瞬間、結衣が叫んだ。


「お兄ちゃん!」


 小さな手が、晴人の手首を掴む。


 強かった。


 十二歳の子どもの力ではなかった。


 そして、その手が晴人を引いた。


 外へ。


 光の方へ。


 いや。


 違う。


 晴人は、その手を振りほどこうとしていた。


 奥へ行こうとしていた。


 火の中へ。


 誰かの声のする方へ。



「水野さん!」


 瀬奈の声で、晴人は我に返った。


 テーブルの端を掴んでいた。

 爪が白くなるほど力を込めている。


 息が荒い。

 背中に汗が流れていた。


「今、また見ましたね」


 瀬奈が言った。


 晴人は頷こうとして、できなかった。


「俺は」


 声が震えた。


「俺は、結衣を連れて逃げようとしてたんじゃない」


 言葉にした瞬間、胸の奥にあった何かが割れた。


「たぶん、逆だ」


 瀬奈は黙っていた。


 晴人は、新聞の裏に書かれた父の字を見つめた。


 あの子は一度、外へ出ていた。


 もしそれが本当なら。


 結衣は逃げられた。


 それなのに戻った。


 誰のために。


 答えは、もう目の前にあった。


 お兄ちゃん。

 あの日、助けられたのは私じゃない。

 助けられたのは、お兄ちゃんだよ。


 晴人は両手で顔を覆った。


 泣き声は出なかった。

 涙も出なかった。


 ただ、十年間信じていた自分の罪が、別の形に変わっていくのを感じた。


 軽くなるのではない。


 もっと重くなる。


 もっと深く、逃げ場のないものになる。


 瀬奈が新聞を手に取った。


「この火事の資料を、調べます」


 晴人は顔を上げた。


「今さら何を調べるんだ」


「原因です」


「台所の火だろ」


「記事には『火元は台所付近とみられる』としか書いてありません」


 瀬奈は新聞の文字を指でなぞった。


「断定していない」


「でも、事故だった」


「本当に?」


 晴人は言葉を失った。


 瀬奈の目は、もう記者の目になっていた。

 静かで、冷たくて、何かを追う人間の目。


「私の母のノートにも、同じ住所がありました。水野結衣さんの名前もあった。零号室に接触済み、と」


 瀬奈は続けた。


「ただの事故なら、なぜ母はこの火事を記録していたんでしょう」


 晴人は答えられなかった。


 外で、雨が強くなった。

 窓ガラスを叩く音が、まるで誰かが部屋の外から指先で合図しているように聞こえた。


 瀬奈のスマートフォンが震えた。


 一度。

 短く。


 彼女は画面を見た。

 眉がわずかに動く。


「誰からだ」


 晴人が聞いた。


「以前、火災関係の資料を調べたときに知り合った人です。元消防の方で、退職後に古い災害記録の整理をしている」


 瀬奈は画面を晴人に向けた。


 そこには、一枚の画像が送られていた。


 古い火災現場の記録。

 印字は薄く、写真は粗い。


 だが、赤い丸で囲まれた一文だけは読めた。


 台所からの出火痕なし。


 晴人は画面を見つめた。


 喉の奥が、ゆっくり冷えていく。


 瀬奈は低い声で言った。


「水野さん」


 雨音の向こうで、どこか遠くの非常ベルが鳴っている気がした。


「十年前の火事は、あなたが覚えているものと違います」


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