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零号室  作者: 清忠
12/30

(第二部 . 第四章 ) 火災記録

雨は夜明けまで止まなかった。


 水野晴人は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。


 窓の外では、濡れた電線が鈍く光っていた。向かいのマンションの非常階段から、細い水滴が一定の間隔で落ちている。落ちるたびに、金属の手すりが小さく鳴った。


 それは遠い火災報知器の音に似ていた。


 晴人はベッドの端に腰を下ろしたまま、スマートフォンの画面を見ていた。


 昨夜、瀬奈から送られてきた画像。


 古い火災記録の一部。


 赤い丸で囲まれた一文。


 台所からの出火痕なし。


 文字は薄い。写真は荒い。書類の端は黒ずんでいて、ところどころ判読できない。


 けれど、その一文だけは消えていなかった。


 晴人は親指で画面を暗くした。


 部屋の中が、少しだけ深く沈む。


 十年前の火事。


 母はいつも言った。


 台所から火が出たのだと。


 古いコンロの火が消えきっていなかったのだと。


 誰のせいでもないのだと。


 父は何も言わなかった。


 葬儀のときも、警察の事情聴取のあとも、引っ越しの段ボールを黙って運んでいたときも、父はほとんど言葉を発しなかった。


 晴人が最後に見た父の背中は、細かった。


 煙を吸った肺よりも、何か別のものに削られているように見えた。


 晴人は立ち上がった。


 机の引き出しを開ける。


 奥に、古い封筒があった。


 茶色く変色した封筒。角が少し曲がっている。中には、家族写真が一枚入っていた。


 父、母、晴人、結衣。


 四人で写っていたはずの写真。


 晴人は封筒から写真を取り出した。


 指が止まる。


 父の顔は、まだぼやけていた。


 輪郭はある。肩も、ネクタイも、少し困ったように傾けた頭も写っている。


 けれど顔だけが、霧の中に置き去りにされたみたいに溶けていた。


 昨日より、薄くなっている気がした。


 晴人は写真を裏返した。


 裏には母の字で日付が書かれている。


 八月十五日。


 火事の二日前。


 インクの青だけは、今も妙にはっきり残っていた。


 その下に、父の字があった。


 家族四人で。


 短い言葉。


 それなのに晴人は、しばらく呼吸を忘れた。


 父の筆跡を見た瞬間、胸の奥に、知らない痛みが走った。


 忘れていたわけではない。


 忘れたつもりでいた。


 その違いが、今になって晴人を押し潰そうとしていた。


 スマートフォンが震えた。


 瀬奈からだった。


 午前九時。墨田区郷土資料館裏の喫茶店。

 火災記録を見せてくれる人に会えます。


 晴人は、しばらくその文章を見つめた。


 行けば、何かが変わる。


 行かなければ、何も変わらない。


 けれど何も変わらないことが、今は一番怖かった。


 晴人は写真を封筒に戻した。


 引き出しを閉める直前、封筒の中から白いものが少しだけ覗いた。


 折り鶴だった。


 小さな白い折り鶴。


 昨夜、入れた覚えはなかった。


 晴人はそれを見なかったことにした。


 引き出しを閉める音だけが、やけに大きく部屋に響いた。



 喫茶店は、古い商店街の外れにあった。


 看板の文字は日に焼けて薄くなり、入口横の鉢植えには雨水が溜まっていた。店内には客が三人だけ。奥の席で新聞を読む老人。カウンターで煙草を吸わずに灰皿だけを見つめている男。窓際に座る如月瀬奈。


 瀬奈は黒いジャケットを羽織っていた。


 テーブルの上には、ノート、録音機、透明なファイルケースが置かれている。


 晴人が店に入ると、彼女は顔を上げた。


「来ないかと思いました」


「俺もそう思ってた」


 瀬奈は何も言わず、向かいの席を指した。


 晴人は座った。


 店の中は珈琲の匂いが濃かった。古い木の壁に染み込んだような匂い。カップが皿に触れる小さな音。雨上がりの湿気。


 すべてが現実の音だった。


 それなのに、晴人の耳の奥では、昨夜からずっと別の音が鳴っていた。


 燃える音。


 何かが崩れる音。


 結衣の声。


 お兄ちゃん、早く。


 晴人は水の入ったグラスを取った。


 飲むつもりだった。


 けれど、指先が濡れただけで喉は動かなかった。


「資料を見せてくれる人は?」


「もうすぐ来ます」


「信用できるのか」


「少なくとも、資料を捏造するような人ではありません」


「それは信用とは違う」


 瀬奈は少しだけ笑った。


 笑ったように見えただけかもしれない。


「水野さんらしいですね」


「俺らしいって何だ」


「怖いものほど、先に疑う」


 晴人は答えなかった。


 瀬奈はファイルケースを指で押さえた。


「昨夜の画像ですが、あれは正式な公開記録ではありません」


「どういう意味だ」


「消防署に残っていた写しです。正式に区へ提出された報告書とは別に、現場隊員が内部用に残したメモがある。今回はその一部を見せてもらえることになりました」


「内部用?」


「災害記録の整理をしていた人が、廃棄寸前の箱から見つけたそうです」


 晴人は窓の外を見た。


 商店街の路面はまだ濡れている。


 自転車のタイヤが水たまりを切る音がした。


「そんなもの、今さら出てくるのか」


「出てくることはあります。誰かが隠そうとした資料ほど、整理されずに残る」


「隠そうとしたって、決まったわけじゃない」


「ええ」


 瀬奈は静かに頷いた。


「だから確かめます」


 そのとき、入口の鈴が鳴った。


 晴人は反射的に振り向いた。


 入ってきたのは、六十代半ばほどの男だった。


 灰色のレインコート。白髪の混じった短い髪。背筋は伸びているが、歩幅は小さい。右手に革の鞄を持っていた。


 男は店内を一度見回し、瀬奈を見つけると軽く頭を下げた。


「如月さん」


「安藤さん。今日はありがとうございます」


 瀬奈が立ち上がる。


 安藤と呼ばれた男は、晴人を見た。


 その目が、ほんの一瞬だけ止まった。


「こちらが」


「水野晴人です」


 晴人は名乗った。


 安藤の指が、鞄の持ち手を少し強く握った。


「……水野さん」


 その声には、驚きよりも、ためらいがあった。


「何か」


「いや」


 安藤は首を振った。


「失礼しました。安藤誠一です。以前、向島消防署におりました」


 彼はゆっくり席に着いた。


 注文を取りに来た店員に、瀬奈は珈琲を頼んだ。安藤は何もいらないと言ったが、結局、熱いほうじ茶を頼んだ。


 湯呑みが運ばれてくるまで、三人はほとんど話さなかった。


 沈黙の中で、晴人は安藤の手を見ていた。


 指が太い。


 爪の周りの皮膚が硬い。


 どこかに古い火傷の痕がある。


 その手は、火の中から何かを掴んだことがある手だった。


 ほうじ茶が置かれた。


 安藤は湯呑みに触れないまま、鞄を開けた。


 中から茶封筒を取り出す。


 厚い封筒だった。


 赤いゴムで留められている。


 表には、黒いペンで番号が書かれていた。


 平成二十六年八月十七日。


 墨田区東向島三丁目共同住宅火災。


 水野晴人の胸が、嫌な形で縮んだ。


「この資料を外に出すことは、本来ならできません」


 安藤は低い声で言った。


「コピーも、撮影も、ここではしないでください。見るだけです」


「わかっています」


 瀬奈が答える。


 安藤は晴人を見た。


「あなたにも、それでお願いしたい」


 晴人は頷いた。


 安藤は封筒を開けた。


 中から、何枚ものコピー用紙が出てきた。


 端が黄ばんでいる。


 紙の匂いが、古い煙に似ていた。


 晴人は無意識に背筋を伸ばした。


 安藤は最初の一枚をテーブルに置いた。


 火災出動報告書。


 日時、住所、出動車両、負傷者、死者。


 文字は事務的だった。


 人が死んだ場所のことを、紙は驚くほど静かに記録する。


 晴人は死者欄を見た。


 氏名、水野結衣。


 年齢、十二歳。


 性別、女。


 その三行だけで、世界の底が抜けるような感覚があった。


 瀬奈がそっと息を飲む。


 晴人は視線を動かした。


 負傷者欄。


 水野晴人、十九歳。


 煙吸入、右前腕熱傷。


 救急搬送。


 晴人は右腕を見た。


 袖の下に、今も薄い火傷の痕がある。


 普段は忘れている。


 いや、忘れたふりをしている。


 安藤が二枚目を出した。


 現場見取図。


 古い共同住宅の二階。


 水野家が住んでいた部屋の間取りが、簡単な線で描かれている。


 玄関。廊下。台所。浴室。六畳の和室。四畳半の子供部屋。


 晴人は、図を見ただけで体の中が冷えた。


 その部屋を、覚えている。


 畳の縁。


 結衣が貼った星のシール。


 台所の換気扇の音。


 父の本棚。


 母がいつも掛けていた白いエプロン。


 そして、火。


 安藤の指が、台所の部分を指した。


「これが、表に出た記録です。火元は台所付近とみられる、とされています」


「それが違うんですか」


 瀬奈が聞いた。


 安藤は、次の紙を重ねた。


 同じ見取図。


 だが、赤い鉛筆で別の印が書き込まれている。


 台所ではない。


 和室の奥。


 押し入れの背面。


 晴人は息を止めた。


 赤い丸は、図面上ではただの壁のはずだった。


「出火痕が最も強かった場所は、ここです」


 安藤の声は淡々としていた。


「台所ではない。押し入れの裏側。壁内、もしくは壁の向こう側」


「壁の向こう側?」


 瀬奈が眉を寄せる。


「そこには何があったんですか」


「何もないことになっていました」


 晴人は顔を上げた。


 安藤は続けた。


「建物の図面では、この奥は隣室との境界壁です。配管も電気系統もない。火が発生する要因は、通常ありません」


「でも、燃えた」


 晴人の声が乾いていた。


「ええ。燃えた」


 安藤は赤い丸を見つめた。


「それも、内側からではなく、まるで壁の中に火が置かれていたように」


 カウンターの向こうで、店員がカップを洗う音がした。


 水の音。


 陶器の音。


 普通の朝の音。


 晴人には、それが遠すぎた。



 安藤は資料を一枚ずつめくった。


 焼損状況写真。


 白黒の粗い写真が何枚も並んでいる。


 黒く崩れた畳。


 煤で覆われた天井。


 溶けたプラスチックの箱。


 曲がったスプーン。


 そして、押し入れの跡。


 晴人は、その写真から目を逸らせなかった。


 押し入れの木枠は、内側から爆ぜたように割れていた。


 普通の火災で木が燃えたというより、何かが中から強く押し開いたように見える。


 壁には、縦に細い焼け跡があった。


 扉の形に似ていた。


 晴人は唇を噛んだ。


 第四章で見た写真。


 三〇四号室の壁。


 図面にない扉。


 あの暗い和室の奥。


 結衣が座っていた畳。


 すべてが、線で結ばれていく。


 結ばれてほしくない線で。


「この焼け方は、当時も問題になりました」


 安藤が言った。


「出火場所が台所でないなら、火災原因を再調査する必要がある。少なくとも、事故としてすぐに処理できるものではありません」


「なのに、事故になった」


 瀬奈の声は低かった。


 安藤は答えるまでに少し間を置いた。


「上から、そういう判断が下りました」


「上?」


「当時の署長、区の担当、警察の火災担当。それ以上は、私は知りません」


「本当に知らないんですか」


 瀬奈の問いは鋭かった。


 安藤は彼女を見た。


 怒るでもなく、目を逸らすでもなく、ただ疲れたように見返した。


「知らないふりをした。そう言ったほうが正しいかもしれません」


 晴人は安藤を見た。


 男の顔に深い皺があった。


 年齢のせいだけではない。


 何かを見過ごした人間の皺だった。


「あなたは、現場にいたんですか」


 晴人が聞いた。


 安藤の指が止まった。


「はい」


「俺を運んだのも」


「違います。あなたを最初に見つけたのは、別の隊員です」


「じゃあ、結衣は」


 名前を口にした瞬間、喉が痛んだ。


 安藤は視線を落とした。


「私は、奥の和室に入りました」


 晴人の手が膝の上で握られる。


「結衣を見つけたんですか」


「……はい」


 小さな返事だった。


 瀬奈が何かを言いかけて、やめた。


 安藤は資料から一枚の写真を外し、裏返したままテーブルの端に置いた。


「これは見せません」


 晴人はその写真を見た。


 裏側だけ。


 薄い紙。


 角に番号。


 そこに何が写っているのか、わかってしまう気がした。


「見せてください」


 声が出た。


 自分の声なのに、知らない人間のようだった。


「水野さん」


 瀬奈が止めるように呼んだ。


「見せてください」


 安藤は首を横に振った。


「これは、ご遺族に見せるべきものではありません」


「俺は家族です」


「だからです」


 安藤の声が少しだけ強くなった。


 晴人は言葉を失った。


 その強さは、拒絶ではなかった。


 守ろうとしている声だった。


 だが、何から守ろうとしているのかが、晴人にはわからなかった。


「結衣さんは、押し入れの前で見つかりました」


 安藤は写真を封筒に戻しながら言った。


「逃げ遅れたというより、そこに戻ったように見えた」


「戻った?」


「はい」


 安藤は目を閉じた。


「子どもが火の中で戻るときは、たいてい理由があります。家族を呼ぶため。大事なものを取りに行くため。誰かを助けるため」


 晴人の心臓が、一度強く打った。


 誰かを助けるため。


 瀬奈がゆっくりと晴人を見た。


 晴人は見返せなかった。


「俺は……」


 言いかけて、言葉が消えた。


 自分はどこにいたのか。


 火事のとき、自分は何をしていたのか。


 結衣を助けようとしたのか。


 逃げたのか。


 記憶は、いつも同じ場所で途切れる。


 煙。


 熱。


 崩れる音。


 結衣の声。


 お兄ちゃん、早く。


 そのあとが、ない。


 そこだけが焼け落ちている。


 紙の記録のように。



 瀬奈は資料を慎重にめくっていた。


 彼女の目は、ひとつひとつの文字を拾っている。


 記者の目。


 母の行方を追い続けてきた目。


 そして今、晴人の過去を無理やりこじ開けようとしている目。


 晴人はそれを責められなかった。


 自分ひとりでは、絶対に見ようとしなかったものだからだ。


「安藤さん」


 瀬奈が言った。


「この欄、修正されていますね」


 彼女が指したのは、火災原因欄だった。


 紙の上に、細い黒線が引かれている。


 その上から別の文字がタイプされていた。


 原因不明。


 さらにその横に、手書きで小さく、事故扱い、と書かれている。


「元の文字は読めますか」


 安藤は黙って資料を見た。


「薄いですが」


 瀬奈はバッグから小さなライトを取り出した。


 スマートフォンのライトではなく、細長い検査用のライトだった。


 紙を斜めから照らす。


 黒線の下に、かすかな文字の凹みが浮かび上がった。


 晴人も身を乗り出した。


 瀬奈がゆっくり読んだ。


「……人為的……加熱……の可能性」


 沈黙が落ちた。


 喫茶店の中の音が、全部遠くなる。


 人為的加熱。


 それは、自然に火が出たという意味ではなかった。


 誰かが、火をつけた可能性。


 誰かが、あの日の夜、あの部屋に火を持ち込んだ可能性。


 晴人はテーブルの端を掴んだ。


「……放火、ってことですか」


 声が震えていた。


 安藤はすぐには答えなかった。


「正式には、そう書かれませんでした」


「俺が聞いてるのは正式じゃない」


 晴人の声が少し大きくなった。


 奥の席の老人が新聞から顔を上げた。


 瀬奈が静かに言った。


「水野さん」


 晴人は息を吐いた。


 手が震えている。


 怒りなのか、恐怖なのか、自分でもわからない。


「……すみません」


 安藤は首を振った。


「謝る必要はありません」


 それから、彼は続けた。


「現場の焼け方だけを見れば、事故と断定するには不自然でした。台所に強い出火痕はない。コンロ周辺の焼損も、二次的なものに見える。最初に燃えたのは和室奥、押し入れ背面。その周辺に、通常あるはずのない熱変形があった」


「通常あるはずのない?」


「壁の内側に金属の焼け痕がありました」


 晴人は眉を寄せた。


「金属?」


「蝶番のようなものです」


 瀬奈の手が止まった。


 晴人の胃の奥が、ゆっくり沈んだ。


 蝶番。


 壁の中。


 何もないはずの場所。


 それは、扉に使われるものだった。


「でも、壁に扉なんてなかった」


 晴人は呟いた。


「水野家の図面にも、消防の建物台帳にも、そんな構造はありません」


 安藤は言った。


「だから、記録から消された」


「誰が」


 瀬奈が聞く。


 安藤は答えなかった。


 その代わり、資料の束から別の紙を取り出した。


 写真ではない。


 短い手書きのメモだった。


 罫線の入ったメモ用紙。


 右上に、現場補足、と書かれている。


 安藤はそれをテーブルの中央に置いた。


「当時、私が書いたものです」


 瀬奈が息を止めた。


 晴人はメモを見た。


 字は少し乱れている。


 急いで書いたのだろう。


 だが、一文だけがはっきり読めた。


 押入背面に開口痕。室内側より閉鎖された形跡。


 晴人は意味を理解するまでに時間がかかった。


 瀬奈が小さく呟いた。


「内側から、閉じられていた……?」


「そう見えました」


 安藤が答える。


「火災で崩れたため確定はできません。けれど、あの場所には開口部があった。扉のようなものがあった。そして、それは事故後に初めて現れたものではない。火災前から、そこに存在していた可能性があります」


 晴人は、椅子の背に体を預けた。


 肺がうまく動かない。


 十年前の家。


 結衣の部屋。


 押し入れ。


 そこに、扉があった?


 そんなはずがない。


 あの部屋で何年も暮らしていた。


 押し入れには布団が入っていた。結衣のぬいぐるみもあった。母が季節外れの服をしまっていた。


 扉なんて、なかった。


 なかったはずだ。


 だが、三〇四号室のときも同じだった。


 図面になかった。


 見えるはずがなかった。


 それでも、あった。


「水野さん」


 瀬奈が静かに呼んだ。


「十年前、あなたはその押し入れの奥を見たことがありますか」


 晴人は答えようとした。


 ない、と。


 だが、口が動かなかった。


 頭の奥で、何かが引っかかった。


 暗い押し入れ。


 布団の匂い。


 結衣の小さな懐中電灯。


 笑い声。


 お兄ちゃん、ここ、開くよ。


 晴人は立ち上がりかけた。


 椅子が床を擦る音がした。


「どうしました」


 瀬奈が言う。


 晴人はこめかみを押さえた。


「……今、何か」


「思い出しましたか」


「違う。たぶん、違う」


 だが、声は否定になっていなかった。


 記憶ではない。


 でも、完全な想像でもない。


 薄い膜の向こうから、誰かが指で叩いているような感覚。


 そこにあるのに、触れない。


 触れたら、壊れる。


 そんな感覚だった。



 安藤は封筒の中から、最後の束を取り出した。


「ここから先は、見せるかどうか迷いました」


 瀬奈の表情が固くなる。


「なぜですか」


「あなたの母親の名前が出てくるからです」


 瀬奈の指が止まった。


 晴人は彼女を見た。


 瀬奈は表情を変えなかった。


 ただ、視線だけが一瞬、紙から離れた。


「母の?」


「如月亜紀さん」


 安藤はその名前を慎重に発音した。


 瀬奈の喉が動いた。


「ご存じだったんですか」


「当時、現場の近くで見かけました」


「母を?」


「ええ」


 瀬奈の手が、ノートの端を強く押さえた。


「いつですか」


「火災の前日です」


 晴人の背筋に冷たいものが走った。


 火災の前日。


 瀬奈の母。


 零号室を調べていた女。


 水野結衣の名前をノートに書いていた女。


「母は、何をしていたんですか」


 瀬奈の声は、抑えられていた。


 だからこそ危うく聞こえた。


「建物の管理会社の人間と話していました。現場で見たのは、それだけです」


「管理会社?」


「正式な調査ではありませんでした。私も詳しくは知りません」


「名前は」


 瀬奈が聞いた。


「その管理会社の人間の名前はわかりますか」


 安藤は紙をめくった。


「記録には残っていません。ただ、聞き取りメモに名字だけありました」


 彼は一枚の紙を瀬奈の前に置いた。


 小さな欄外メモ。


 字は薄く、ほとんど読めない。


 けれど瀬奈はライトを当てた。


 浮かび上がった文字は、二文字だった。


 橘。


 晴人はその文字を見た。


 知らない名字のはずだった。


 だが、胸の奥がかすかに揺れた。


 どこかで見たことがある。


 どこかで聞いたことがある。


 瀬奈はその字から目を離さなかった。


「橘……」


 彼女の声が低くなる。


「母のノートにもありました」


「名前が?」


「姓だけです。『橘に会うな』と書かれていました」


 晴人は瀬奈を見た。


 瀬奈の顔から血の気が引いている。


 それでも目は逸らさない。


 むしろ、何かに引き寄せられているように紙を見つめていた。


「安藤さん」


 瀬奈が言った。


「この橘という人物は、建築関係者ですか」


 安藤は眉を寄せた。


「なぜそう思うんです」


「母のノートに、建築図面の写しがありました。零号室と関係がある建物には、同じ記号が出てくる。設計者か、改修に関わった人物だと思います」


 安藤はしばらく黙った。


 その沈黙だけで、答えはほとんどわかった。


「私が知っているのは名字だけです」


「それでもいいです」


「当時、その共同住宅の改修相談に関わっていた建築士がいたと聞きました」


 瀬奈が身を乗り出す。


「名前は」


 安藤は低く言った。


「橘礼司」


 その名前がテーブルの上に落ちた瞬間、店内の空気がわずかに変わった気がした。


 晴人は窓を見た。


 外の商店街を、黒いコートの男が一人歩いていた。


 傘を持っていない。


 雨はもう止んでいるのに、その男の肩だけが濡れているように見えた。


 男は店の前を通り過ぎる直前、こちらを見た。


 一瞬だけ。


 顔はよく見えなかった。


 だが、晴人はなぜか目を逸らせなかった。


 男はそのまま歩いていった。


 瀬奈は気づいていない。


 安藤も、資料に視線を落としたままだった。


 晴人だけが、その背中を見送った。



 資料の最後に、薄い紙が一枚挟まっていた。


 安藤もそれに気づいていなかったのか、封筒の底から滑り落ちたとき、少し驚いた顔をした。


「これは……」


 彼は紙を拾い上げた。


 複写式の控え。


 ほとんど文字が消えている。


 だが、瀬奈がライトを当てると、細い線が浮かび上がった。


 それは現場の簡略図だった。


 水野家の間取り。


 和室。


 押し入れ。


 その奥に、鉛筆で小さな長方形が描き足されている。


 扉の記号だった。


 晴人の喉が鳴った。


「そんなもの、なかった」


 自分でも驚くほど小さな声だった。


 瀬奈は紙を見つめたまま言った。


「消防の見取図に、あとから描かれたものです」


 安藤は顔を険しくした。


「私の字ではありません」


「誰の字ですか」


「わかりません」


 だが、その声は本当にわからない人間のものではなかった。


 知っている。


 けれど言えない。


 そんな声だった。


 晴人は紙の端を見た。


 そこに、赤い判子が押されていた。


 事故処理済。


 その下に、鉛筆で小さく走り書きがある。


 瀬奈がライトを近づけた。


 文字が、ゆっくり浮かび上がる。


 台所失火ではない。


 晴人は、その一文を見つめた。


 目を逸らせなかった。


 耳の奥で、またあの音が鳴った。


 折り紙を折る音。


 紙が擦れる、小さな音。


 そして、結衣の声。


 お兄ちゃん。


 晴人の視界が揺れた。


 喫茶店の壁が遠のく。


 テーブルの木目が、焦げ跡のように見えた。


 煙の匂いがした。


 あるはずのない匂い。


 晴人は立ち上がった。


「水野さん」


 瀬奈の声。


 聞こえている。


 けれど返事ができない。


 晴人は入口へ向かった。


 店を出ると、空気が湿っていた。


 雨上がりの商店街。


 シャッターの閉まった店。


 濡れたアスファルト。


 遠くで子どもの笑い声がした。


 晴人は歩道の端で立ち止まった。


 呼吸が浅い。


 胸の奥が熱い。


 その熱が、十年前の火に似ていることが怖かった。


 背後で扉の鈴が鳴った。


 瀬奈が追ってきた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫に見えるか」


「見えません」


「なら聞くな」


 瀬奈は黙った。


 晴人は濡れた路面を見下ろした。


 小さな水たまりに、自分の顔が歪んで映っている。


 その後ろに、誰かが立っているように見えた。


 晴人は振り返った。


 誰もいない。


 ただ、店の軒下に白いものが落ちていた。


 折り鶴だった。


 濡れていない。


 雨上がりの外にあるのに、羽は乾いていた。


 晴人はゆっくり近づいた。


 瀬奈もそれを見た。


「また……」


 晴人は折り鶴を拾わなかった。


 拾えば、何かを認めることになる気がした。


 代わりに、その場にしゃがみ込んだ。


 折り鶴の羽の内側に、薄く文字が見えた。


 紙の裏に書かれた文字。


 晴人は息を止めた。


 そこには、子どもの字でこう書かれていた。


 台所じゃないよ。


 瀬奈が隣で小さく息を呑んだ。


 晴人は、折り鶴から目を離せなかった。


 空は晴れかけているのに、商店街の奥だけが暗かった。


 そこに、さっきの黒いコートの男の姿が見えた気がした。


 次の瞬間には、もういなかった。


 瀬奈の声が、雨の残り香の中で低く響いた。


「十年前の火事は、事故じゃありません」


 晴人は答えなかった。


 折り鶴の羽が、風もないのに少しだけ震えた。


 その白い影が、まるで小さな扉のように見えた。


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