(第二部 . 第五章 ) 設計者
朝の光は、薄い膜のように街の上へ張りついていた。
雨は夜のうちに上がっていた。
けれど、歩道の隅にはまだ水が残っている。電柱の根元、白線のくぼみ、閉じたシャッターの下。東京の朝は何もなかったような顔で動き出していたが、濡れたアスファルトだけが、昨夜のことを覚えていた。
晴人は駅前の歩道橋の上に立っていた。
手すりの向こうを、通勤の人波が流れていく。
誰も立ち止まらない。
誰も、昨日の商店街の軒下に落ちていた白い折り鶴のことを知らない。
台所じゃないよ。
その文字が、頭の中で何度も折り返される。
子どもの字だった。
少し丸くて、最後の「よ」だけが小さく右へ傾いていた。
結衣の字に似ていた。
似ている、ではなかった。
あれは、結衣の字だった。
晴人はコートのポケットに指を入れた。そこに折り鶴は入っていない。昨夜、彼は拾わなかった。拾えば、それを証拠として持ち帰ることになる。証拠として持ち帰れば、あの部屋も、結衣も、火事も、すべて現実として認めなければならない。
だから置いてきた。
濡れていない折り鶴を。
雨上がりの外にあるのに、乾いたままだった白い紙を。
けれど今、何も入っていないポケットの奥で、紙の角が指先を刺すような感覚がした。
「早いですね」
背後から声がした。
振り返ると、瀬奈が歩道橋の階段を上ってくるところだった。黒いショートコートの裾が、朝の風で少し揺れている。片手には薄いファイルケース。もう片方の手にはコンビニの紙袋を持っていた。
徹夜明けの顔だった。
目の下に薄い影がある。
それでも視線だけは、妙に冴えていた。
「眠ってないのか」
「水野さんもでしょう」
「質問に質問で返すな」
「寝てません」
瀬奈はあっさり言った。
紙袋から缶コーヒーを一本取り出し、晴人へ差し出す。
「温かいやつです」
「いらない」
「手、冷えてますよ」
晴人は自分の手を見た。
指先が白かった。
受け取るつもりはなかった。けれど瀬奈は缶を引っ込めない。結局、晴人は無言でそれを受け取った。
缶の熱が掌に広がる。
熱いはずなのに、うまく感じられなかった。
「昨日の文字、見ましたよね」
瀬奈が言った。
晴人は答えなかった。
「台所じゃないよ。あれが正しいなら、火元の記録は間違っています」
「ただの落書きだ」
「そう思いたいんですか」
晴人は缶のプルタブに親指をかけた。
開けない。
金属の小さな輪だけが、爪の下で冷たく鳴った。
「子どもの字だった」
「はい」
「十年前の子どもの字だ」
「はい」
「なのに、昨日の雨のあとで濡れていなかった」
「はい」
「それを普通は、証拠とは呼ばない」
瀬奈は少しだけ黙った。
歩道橋の下を、バスが重い音を立てて通り過ぎていく。
風が巻き上がり、晴人の足元に小さな水滴が跳ねた。
「じゃあ、こう呼びます」
瀬奈はファイルケースを胸の高さまで持ち上げた。
「入口です」
晴人は彼女を見た。
瀬奈の表情は硬かった。
怖がっていないわけではない。
怖がっているのに、目を逸らさない人間の顔だった。
「火災記録だけでは足りません。建物の設計段階まで遡ります」
「何を探す」
「台所じゃない場所です」
「そんなもの、記録に残っているとは限らない」
「残っていなくても、消された痕跡は残ります」
瀬奈は一歩近づいた。
人波の音が、その一歩だけ遠のいた気がした。
「それに、昨日から気になっていることがあります」
「何だ」
「火災記録に添付されていた平面図。あれ、事故後に作られたものじゃありません」
「どういう意味だ」
「元図を写したものです。線の癖が残っていました」
「線の癖?」
「手で引いた線には、その人の癖が出ます。角の止め方。壁厚の書き込み。寸法線の逃がし方。古い図面ほど、それがはっきり残る」
瀬奈はファイルケースから一枚のコピーを取り出した。
透明なクリアファイル越しに、古い集合住宅の平面図が見える。
晴人はそれを見た瞬間、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。
線。
部屋。
扉。
描かれていない空間。
図面というものは、本来、建物のすべてを示すためにある。
そこに描かれていないものがあるなら、それは存在してはいけないものだ。
少なくとも、晴人はそう教わってきた。
「元の設計者を探します」
瀬奈は言った。
「名前は?」
「まだ確定ではありません。ただ、火災記録の図面の隅に、事務所名の印影が少しだけ残っていました」
瀬奈はコピーの右下を指した。
そこには黒く潰れた判子の跡がある。
ほとんど読めない。
けれど、確かに三文字ほどが残っていた。
橘。
晴人はその字を見た。
雨の残り香が、急に焦げた匂いへ変わった気がした。
*
役所の資料室は、古い紙の匂いがした。
新しい建物の中にあるはずなのに、そこだけ時間が遅れていた。低い天井。白い蛍光灯。壁際に並ぶ金属棚。ラベルの擦り切れた保存箱。窓は曇りガラスで、外の光は鈍く濾過されている。
晴人は閲覧席に座り、両手を膝の上で組んでいた。
目の前には、昭和の終わりから平成初期にかけて建てられた集合住宅の確認申請書類が積まれている。
紙は黄ばんでいた。
角が丸くなっている。
ページをめくるたびに、小さく乾いた音がした。
瀬奈は向かい側で資料を確認していた。
彼女の動きは速い。
だが雑ではなかった。
一枚一枚、図面の隅、押印、日付、修正跡を見ていく。その手つきには、慣れた人間の静けさがあった。
「記者って、こんなことまでするのか」
晴人が言うと、瀬奈は顔を上げずに答えた。
「します。必要なら」
「都市伝説の記事に?」
「人が消えているなら、都市伝説じゃありません」
晴人は何も言い返せなかった。
資料室の奥で、職員が台車を押している。
車輪が床の継ぎ目を越えるたび、かたん、と小さく鳴った。
その音が、病院の廊下の点滴台を思い出させた。
火事のあと。
母が入院していた病院。
白い廊下。
消毒液の匂い。
面会謝絶の紙。
父は何も言わなかった。
ただ、自動販売機の前で缶コーヒーを握りつぶしていた。
晴人はその横顔を覚えている。
怒っているのか、泣いているのか、わからない顔だった。
今、その父の顔は、写真の中でぼやけ始めている。
晴人は無意識に胸ポケットへ手をやった。
そこに入れているはずの家族写真。
昨夜は何度も確認した。
父の顔は相変わらず滲んでいた。
黒い水が紙の内側から広がるみたいに。
「水野さん」
瀬奈の声で、晴人は顔を上げた。
彼女は一枚の薄い青焼き図面を広げていた。
周囲の紙よりも古い。
インクの線は薄れているが、壁の位置や寸法はまだ読める。
「これ、見てください」
晴人は席を立ち、瀬奈の隣へ回った。
図面には、古い集合住宅の一室が描かれていた。
三部屋に、居間、食堂、台所。
玄関から伸びる廊下。
左手に洗面室と浴室。
右手に和室。
奥に台所と居間。
ありふれた間取りだった。
どこにでもある。
どこにでもあるからこそ、気持ちが悪かった。
晴人は図面の隅を見た。
設計者欄。
そこに、薄く名前が残っている。
橘建築設計事務所。
担当 橘礼司。
瀬奈は小さく息を吐いた。
「当たりです」
晴人は図面から目を離せなかった。
橘礼司。
知らない名前のはずだった。
けれど、その四文字を見た瞬間、胸の奥で何かが小さく引っかかった。
初めて見る名前ではない。
そう思った。
「この人が、あの建物を設計したのか」
「少なくとも、元図にはそう書かれています」
瀬奈は別の紙を重ねた。
火災記録に添付されていた平面図のコピー。
二枚の図面を透かすように重ねる。
壁の線がほとんど一致した。
台所の位置も。
和室も。
押し入れも。
ただ一か所だけ、線がずれていた。
和室の奥。
押し入れの裏側。
本来なら壁で塞がっているはずの部分に、元図では細い空白があった。
部屋ではない。
通路でもない。
寸法も書かれていない。
ただ、線と線のあいだに、不自然な空白が残っている。
晴人は指を伸ばしかけて、止めた。
触れたくなかった。
紙の上の空白なのに、そこだけ温度が違う気がした。
「ここは何だ」
「普通なら、配管スペースか、構造上の余白です」
「普通なら?」
「でも、この位置にそれは必要ありません。少なくとも、他の階の図面には同じ空白がない」
瀬奈は別の階の図面を並べた。
二階。
三階。
四階。
同じ間取り。
同じ寸法。
けれど、その空白だけが、一部の住戸にだけ現れていた。
ある部屋にはある。
別の部屋にはない。
規則性がない。
まるで、あとから誰かが、図面の中へ小さな沈黙を差し込んだみたいだった。
「橘礼司は、まだ生きているのか」
「調べました」
瀬奈はタブレットを取り出した。
画面には、古い建築関係の名簿と、現在の住所検索の結果が表示されている。
「事務所は二十年前に閉鎖。本人は表向き引退しています。ただ、連絡先は残っていました」
「どこだ」
「神保町です」
晴人は眉を動かした。
「近いな」
「近すぎるくらいです」
瀬奈の声が少し低くなった。
晴人はその変化に気づいた。
「何かあるのか」
「昨日、商店街で見た黒いコートの男」
瀬奈は画面をスクロールした。
古い雑誌記事の写真が出てきた。
建築家特集。
若い頃の男が写っている。
細いフレームの眼鏡。
整った髪。
感情を見せない口元。
その隣に、現在の写真が小さく載っていた。
白髪が増え、頬は痩せている。
それでも、目だけは変わっていなかった。
静かで、冷たい。
まるで、図面の線を人間の顔にしたような目。
「橘礼司」
瀬奈が言った。
晴人の背中を、何かがゆっくり下りていった。
昨日、商店街の奥に見えた黒いコート。
折り鶴。
台所じゃないよ。
そして、この名前。
バラバラだったものが、一つの細い線で結ばれていく。
その線の先に扉があるような気がした。
開けてはいけない扉が。
*
神保町の路地は、本の匂いがした。
古書店の棚が歩道へせり出し、日焼けした文庫本の背表紙が風に晒されている。店先に並ぶ段ボール箱には、建築、民俗、宗教、失踪事件といった文字が雑に貼られていた。
昼を過ぎているのに、路地には薄い影が残っていた。
ビルとビルの隙間から差し込む光が、細く切れて地面に落ちている。
晴人と瀬奈は、古い雑居ビルの前で足を止めた。
地上四階建て。
外壁のタイルはところどころ剥がれ、入口のガラス扉には細かな傷が走っている。
郵便受けの一つに、薄く剥げた文字が残っていた。
橘建築設計事務所の資料室。
事務所ではない。
資料室。
その言葉が、妙に引っかかった。
「本当に行くのか」
晴人が言うと、瀬奈は彼を見た。
「ここまで来て帰るんですか」
「帰りたいのは俺じゃない」
「じゃあ誰ですか」
晴人は答えなかった。
ビルの入口のガラスに、自分たちの姿が薄く映っていた。
その背後に、誰かが立っているように見えた。
晴人は振り返る。
路地には誰もいなかった。
ただ、古書店の軒下で、紙の束が風に揺れている。
白い紙が一枚、箱から少しだけはみ出していた。
折り紙に見えた。
晴人は目を逸らした。
「水野さん」
瀬奈の声が、扉の前で止まる。
「無理なら、私だけ行きます」
「やめろ」
「なぜですか」
「お前は、部外者だ」
瀬奈は少し笑った。
笑った、というより、口元だけが動いた。
「その言い方、便利ですね」
「何がだ」
「自分を守るときにも、人を遠ざけるときにも使える」
晴人は瀬奈を睨んだ。
瀬奈は目を逸らさない。
「私は部外者かもしれません。でも、私の母も同じものを追って消えました」
声は静かだった。
静かすぎて、路地の音が少し遅れて聞こえた。
「水野さんだけの話じゃありません」
晴人は何も言えなかった。
瀬奈はガラス扉を押した。
古いベルが鳴った。
りん、と澄んだ音。
その音が、妙に長く続いた気がした。
階段は狭かった。
壁には古い掲示物の跡がいくつも残っている。剥がされた紙の四隅だけが、黄色く浮いていた。蛍光灯は一段おきにしか点いておらず、階段の途中に浅い闇が溜まっている。
二階。
三階。
四階へ上がる手前で、瀬奈が止まった。
踊り場の壁に、小さな額が掛けられていた。
古い集合住宅の立面図。
細い線で描かれた窓。
均等に並ぶベランダ。
その一つだけ、黒く塗りつぶされている。
「これ……」
瀬奈が近づく。
晴人も見た。
額の中の図面は、どこかで見たことがあった。
完全に同じではない。
けれど、三〇四号室の建物と似ている。
似すぎている。
黒く塗りつぶされた窓は、三階の端にあった。
晴人は喉の奥が乾くのを感じた。
三〇四号室。
ありえない。
偶然だ。
そう思おうとした。
けれど、額のガラスに反射した自分の顔が、それを信じていなかった。
四階の扉には、銀色のプレートが貼られていた。
橘建築設計事務所の資料室。
下に、小さくこう書かれている。
関係者以外立入禁止。
瀬奈がインターホンを押した。
音は聞こえなかった。
数秒後、扉の向こうで鍵が回る音がした。
かちり。
乾いた音。
扉が内側へ開いた。
黒いコートの男が立っていた。
写真よりも、ずっと痩せていた。
白髪は後ろへ丁寧に撫でつけられ、細い眼鏡の奥の目は、濁っていない。年齢を重ねた人間の目ではなく、長いあいだ同じ一点だけを見続けてきた人間の目だった。
男は瀬奈を見た。
次に晴人を見た。
そして、ほんの少しだけ眉を下げた。
驚いた顔ではなかった。
待っていた顔だった。
「遅かったですね」
男は言った。
晴人の背中が固まった。
その声を、どこかで聞いた気がした。
いや、聞いたことはない。
けれど、知っている。
図面の余白から聞こえてくるような声だった。
「橘礼司さんですか」
瀬奈が尋ねた。
男は静かに頷いた。
「如月瀬奈さん」
瀬奈の目が細くなる。
「私の名前を」
「お母様に、よく似ていらっしゃる」
空気が一瞬で薄くなった。
晴人は瀬奈を見た。
彼女の表情が消えていた。
怒りでも、驚きでもない。
もっと奥のものが、顔から抜け落ちたようだった。
「母を知っているんですか」
橘は答えなかった。
代わりに、扉を少し広く開けた。
「中へどうぞ。廊下で話す内容ではありません」
晴人は動かなかった。
橘の視線が、今度は晴人に向く。
「水野晴人さん」
名前を呼ばれた。
初対面のはずの男に。
晴人の掌が、ゆっくり握られた。
「なぜ俺の名前を知っている」
橘は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「あなたが来ることは、前から知っていました」
「誰に聞いた」
「誰にも」
「ふざけるな」
晴人の声が低くなる。
階段の蛍光灯が一度だけ瞬いた。
橘は怯えなかった。
ただ、晴人の目をまっすぐ見た。
「図面は、人より先に知らせてくれることがあります」
晴人は一歩踏み出した。
「意味のわからないことを言うな」
「意味は、もう見ているはずです」
橘は静かに言った。
「存在しない部屋を」
瀬奈の呼吸が止まったのがわかった。
晴人も、言葉を失った。
橘の口元は動かない。
笑っていない。
それなのに、部屋の奥から薄い冷気が流れてくる。
晴人はその冷気を知っていた。
三〇四号室の、あの扉の向こう。
畳の匂い。
紙の匂い。
焦げた匂い。
「あなたは」
晴人は声を絞り出した。
「あの部屋を知っているのか」
橘はしばらく答えなかった。
階段の下から、人の笑い声がかすかに聞こえた。
普通の街の音。
その音が遠すぎた。
「知っています」
橘は言った。
「ただし、あれは部屋ではありません」
*
橘建築設計事務所の資料室の中は、古い図面で埋まっていた。
壁一面の棚。
筒状に丸められた青焼き図面。
背表紙の剥がれたファイル。
建築模型の欠片。
床には段ボール箱がいくつも積まれ、箱の側面には年月と建物名が細い字で書かれている。
窓は一つだけあった。
だが厚いカーテンで半分以上が塞がれ、昼の光はほとんど入ってこない。部屋の中央に置かれた古い製図台の上だけ、デスクライトの白い円が落ちていた。
その光の中に、黒い万年筆が一本置かれている。
晴人はそれを見た。
万年筆のキャップには、小さな傷がいくつもついていた。
長く使われた道具の傷だった。
橘は製図台の前の椅子に座った。
瀬奈と晴人には、向かいの古いソファを示す。
晴人は座らなかった。
瀬奈も座らない。
橘だけが、静かに腰を下ろした。
「お茶は」
「いりません」
瀬奈がすぐに言った。
「母のことを話してください」
橘は彼女を見た。
「あなたのお母様は、強い人でした」
「そういう話を聞きに来たんじゃありません」
「わかっています」
「なら、どこで会ったんですか」
瀬奈の声は落ち着いていた。
けれど、指先がわずかに震えている。
晴人はそれに気づいた。
瀬奈は自分の震えに気づかれないよう、ファイルケースを強く握っていた。
「十五年前です」
橘は言った。
「彼女は、ある建物のことで私を訪ねてきました」
「ある建物?」
「図面にない部屋がある、と」
瀬奈の顔が、わずかに白くなる。
晴人の胸の奥でも、何かが沈んだ。
十五年前。
瀬奈の母が消えた時期。
そして今、自分たちが追っているもの。
それは別々の線ではなかった。
同じ図面の上に引かれた、一本の線だった。
「母は、その部屋に入ったんですか」
橘は目を伏せた。
「おそらく」
「おそらく?」
「私は見ていません」
「でも知っていた」
「知っていたからといって、止められるとは限りません」
瀬奈が一歩踏み出した。
「止める気がなかったんじゃないですか」
橘は黙った。
その沈黙が、返事のようだった。
晴人は部屋の奥の棚を見た。
並んだ図面筒のうち、いくつかだけ赤い紐で縛られている。
紐の結び目が、妙に丁寧だった。
封印のように見えた。
「橘さん」
晴人は言った。
「三〇四号室の図面を描いたのは、あなたですか」
橘はゆっくり顔を上げた。
「元図は、私が描きました」
「じゃあ、あの扉も」
「違います」
即答だった。
あまりに早い答えだった。
晴人は目を細めた。
「違う?」
「あれは私が描いたものではありません」
「でも図面に空白があった」
「空白を残したのは私です」
「同じことだろ」
「同じではありません」
橘の声が、初めて少しだけ強くなった。
部屋の中の空気が揺れた。
棚の上の紙が、風もないのに一枚だけ震えた。
晴人はそれを見た。
瀬奈も見た。
橘だけが見なかった。
あるいは、見ないふりをした。
「私は部屋を作っていない。ただ、現れる場所を塞がなかった」
「何を言っている」
「建物には、人が考えている以上に記憶が残ります」
橘は製図台の上の万年筆を指で撫でた。
その指は細く、骨ばっていた。
「住んだ人間の声。泣き声。怒鳴り声。戻れなかった夜。言えなかった言葉。そういうものが、壁の中に溜まっていく」
「怪談を聞きに来たんじゃない」
「怪談ではありません」
橘は晴人を見た。
「後悔です」
その言葉だけが、やけに重く落ちた。
晴人は反射的に視線を逸らしそうになった。
後悔。
その二文字は、彼の胸の中にある最も暗い場所へ真っすぐ届いた。
結衣の声。
火の中の階段。
煙。
掴めなかった手。
遅すぎたよ。
晴人は奥歯を噛んだ。
「知ったような口を利くな」
橘は何も言い返さなかった。
それが余計に腹立たしかった。
「あなたは入ったんですか」
瀬奈が尋ねた。
「その部屋に」
橘の指が止まった。
万年筆の黒い軸に、デスクライトの光が細く反射する。
答えるまでに、長い沈黙があった。
「一度だけ」
橘は言った。
瀬奈の喉が小さく動いた。
「中で、何を見たんですか」
橘は答えない。
代わりに、製図台の引き出しを開けた。
中から古い封筒を取り出す。
茶色い紙。
端が擦り切れている。
封筒の表には、何も書かれていなかった。
橘はそれを開け、中から一枚の写真を出した。
白黒に近いほど色褪せた写真だった。
小さな女の子が写っている。
五歳くらい。
髪を二つに結び、手には紙の飛行機を持っている。
その隣に、若い橘が立っていた。
今よりずっと細く、背筋がまっすぐで、目だけが同じだった。
写真の裏側に、小さな字が見えた。
栞、五歳。
写真の栞は、五歳のころのものだった。
瀬奈は写真を見て、少しだけ息を呑んだ。
「娘さんですか」
橘は頷いた。
「八歳のときに亡くなりました。三十年以上前です」
晴人は写真から目を離せなかった。
結衣とは違う。
違うのに、どこか似ていた。
子どもの笑顔というものは、失われた瞬間から、見る者の胸に同じ形の穴を開けるのかもしれない。
橘は写真を伏せた。
その動作は丁寧だった。
壊れ物を扱うように。
「私は、娘に謝りたかった」
声は平らだった。
けれど、平らすぎた。
何度も同じ言葉を心の中で繰り返し、感情の表面だけを削り落とした人間の声だった。
「ただ、それだけでした」
「それで入った」
「はい」
「戻ってきたんですか」
瀬奈の問いに、橘は少しだけ笑った。
笑った、というより、痛みが口元を動かした。
「戻ってきたように見えますか」
瀬奈は答えなかった。
晴人も答えられなかった。
橘はここにいる。
生きている。
言葉も話している。
それでも、彼の半分はどこか別の場所に置き忘れられているように見えた。
製図台の上の写真。
赤い紐で縛られた図面。
閉じたカーテン。
すべてが、戻ってこなかったものの形をしていた。
「水野さん」
橘が呼んだ。
晴人は顔を上げた。
「あなたは、誰に会いましたか」
晴人の呼吸が止まる。
瀬奈も彼を見る。
晴人は答えなかった。
答えなくても、橘にはわかっているようだった。
「十二歳くらいの女の子ですか」
晴人の手が震えた。
「なぜ知っている」
「その部屋は、あなたが最も戻りたい時間を見せます」
「違う」
晴人はすぐに言った。
否定しなければ、立っていられなかった。
「あれは結衣だった」
「ええ」
「記憶じゃない」
「そう思いたい」
晴人は橘の胸ぐらを掴みそうになった。
だが、瀬奈の手がその前に彼の袖を掴んだ。
強くはない。
止めるというより、落ちる人間の袖を掴むような力だった。
晴人は動けなかった。
「水野さん」
瀬奈が低く言った。
「聞きましょう」
晴人は瀬奈を見た。
彼女の顔もまた、血の気を失っていた。
それでも視線は折れていない。
母のことを聞きたいはずだった。
今すぐ問い詰めたいはずだった。
それでも彼女は、晴人を止めた。
生きている人間の方へ、引き戻すように。
晴人はゆっくり手を下ろした。
橘は何も言わなかった。
ただ、引き出しから別の紙を取り出した。
古い図面だった。
それを製図台の上に広げる。
青い線で描かれた集合住宅の平面図。
三〇四号室とよく似た間取り。
ただし、図面の片隅に、小さく鉛筆で書かれた文字があった。
零号室。
晴人の目が、その三文字に釘付けになる。
図面の正式な部屋番号ではない。
朱印でもない。
誰かが後から、迷いながら書いたような薄い文字。
それなのに、消しゴムで消された跡が何度も重なっていた。
書いては消し、消してはまた書いた文字だった。
「これは何だ」
晴人の声は掠れていた。
「最初にそう呼んだのは、私ではありません」
「誰だ」
橘は答える代わりに、図面の下を指した。
そこには、小さなメモが貼られていた。
古い付箋。
紙の端は茶色く変色している。
そこに、細い女性の字で書かれていた。
開く部屋ではなく、戻される部屋。
署名はない。
だが、瀬奈の顔から血の気が引いた。
「……母の字です」
晴人は瀬奈を見た。
瀬奈の目は、付箋から離れなかった。
橘は静かに言った。
「あなたのお母様は、誰より早く気づいていました。あの部屋が、人を救うためのものではないことに」
「じゃあ、なぜ止めなかったんですか」
瀬奈の声が震えた。
初めてだった。
彼女の声が、はっきりと震えたのは。
「母は帰ってこなかった。あなたは知っていた。知っていて、何もしなかったんですか」
橘は目を閉じた。
長い沈黙。
時計の秒針の音だけが聞こえる。
一秒。
二秒。
三秒。
まるで、部屋そのものが答えを待っているようだった。
「何もしなかったわけではありません」
橘は言った。
「ただ、間に合わなかった」
晴人の胸に、その言葉が刺さった。
間に合わなかった。
ありふれた言葉。
だが、ありふれているからこそ、逃げ場がない。
橘は図面をゆっくり畳み始めた。
瀬奈がその手を止めた。
「まだ終わっていません」
「終わっています」
「母はどこですか」
「答えられません」
「知らないんですか」
「知っています」
瀬奈の手が止まった。
晴人も動けなかった。
橘は瀬奈を見た。
その目には、謝罪のようなものがあった。
だが、それは許しを求める目ではなかった。
もう許されることを諦めた人間の目だった。
「知っています。ですが、あなたが今そこへ行けば、戻れなくなる」
「それでも行きます」
「お母様も、同じことを言いました」
瀬奈の表情が凍った。
橘は製図台の上に手を置いた。
骨ばった指が、紙の上で小さく震えていた。
「水野さん」
今度は晴人を見た。
「あなたも、同じ目をしています」
「何が言いたい」
「戻りたい人間は、自分が未来を捨てようとしていることに気づかない」
晴人は何も言えなかった。
「結衣さんに会ったのなら、なおさらです」
その名が出た瞬間、部屋の温度が一段下がった。
晴人は動けなかった。
瀬奈も橘を見る。
「なぜ、妹の名前を」
橘は答えなかった。
その沈黙が、晴人の内側で火花のように弾けた。
「言え」
低い声が出た。
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
「なぜ結衣の名前を知っている」
橘はゆっくり立ち上がった。
棚の一番下から、赤い紐で縛られた図面筒を一つ取り出す。
紐をほどく。
紙が机の上へ広がった。
古い火災現場の平面図だった。
水野家の住んでいた部屋。
十年前の火事。
台所。
和室。
玄関。
廊下。
晴人は息を止めた。
図面の中に、赤い鉛筆で小さな印がつけられていた。
台所ではない。
和室の押し入れの奥。
そこに、丸がある。
そして、横に書かれていた。
扉、発生位置。
さらに、その下。
小さな字で。
水野結衣、確認。
晴人の視界が、狭くなった。
音が消える。
瀬奈の声も、時計の音も、街の気配も、すべて遠のいていく。
図面の上の赤い丸だけが、目の前で大きくなっていく。
台所じゃないよ。
結衣の字。
火災記録。
消された空白。
橘礼司。
全部が、そこへ集まっていく。
「これは……何だ」
晴人はようやく声を出した。
橘は答えなかった。
その代わり、製図台のライトを消した。
部屋が薄暗くなる。
窓の外では、午後の光がビルの壁に反射していた。
けれど資料室の中だけは、夜のようだった。
橘の声が、その暗がりの中で静かに響いた。
「十年前、あの火事で最初に開いたのは、台所の火ではありません」
晴人は拳を握った。
爪が掌に食い込む。
「最初に開いたのは」
橘は、赤い丸を指した。
「あの扉です」
その瞬間、背後の棚の奥で、かすかに紙の擦れる音がした。
晴人は振り返った。
誰もいない。
だが、赤い紐で縛られた図面筒の一本が、棚から少しだけ飛び出していた。
その隙間から、白いものが一つ落ちる。
床に、音もなく着地した。
折り鶴だった。
晴人はそれを見下ろした。
羽の内側に、また文字があった。
今度は、昨日よりもはっきり読めた。
お兄ちゃん、あの人を信じないで。




