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零号室  作者: 清忠
14/30

(第二部 . 第六章 ) 痛みの入れ替え

折り鶴は、床の上で小さく息をしているように見えた。


 白い紙の羽が、資料室の薄暗がりの中でわずかに浮いていた。窓は閉まっている。空調の音も止まっている。外を走る車の振動だけが、古い床板を通してかすかに伝わってくる。


 それなのに、鶴の翼は震えていた。


 お兄ちゃん、あの人を信じないで。


 晴人はその文字から目を離せなかった。


 結衣の字だった。


 曲がり方も、余白の取り方も、最後の「で」の跳ね方も。幼い頃、母への誕生日カードに書かれていた字と同じだった。机の引き出しの奥にしまってあったノートの字と同じだった。火事のあと、灰の中から出てきた、端だけが焦げた折り紙の裏に残っていた名前と同じだった。


 けれど、同じすぎた。


 そのことが、逆に晴人の胸を冷やした。


「拾わないでください」


 橘が言った。


 静かな声だった。


 驚いていない。


 恐れてもいない。


 床に落ちた折り鶴を見下ろすその目には、今起きたことを、何度も見てきた人間の疲れだけがあった。


 晴人は橘を睨んだ。


「どういう意味だ」


「そのままです」


「これは結衣の字だ」


「そう見えるのでしょう」


 晴人の中で、何かが音を立てた。


 一歩、前に出る。


 瀬奈が横から腕をつかんだ。


「水野さん」


「離せ」


「落ち着いて」


「落ち着けるか」


 声が自分の喉を傷つけて出た。


 晴人は橘を見たまま言った。


「お前は、妹の名前を知っていた。火事の図面に、妹の名前を書いていた。その上で、今度は妹の字が出てきた。偶然だと言うつもりか」


 橘は答えなかった。


 製図台の上の古い図面に、赤い丸が残っている。


 扉、発生位置。


 水野結衣、確認。


 晴人の視界の端で、その文字だけがゆっくり脈打っていた。


「答えろ」


 橘はゆっくり息を吐いた。


 そして、床の折り鶴に視線を落としたまま言った。


「水野さん。あなたは今、自分が見たいものを見ています」


「何だと」


「人は、失ったものの形を間違えません。声も、字も、癖も、匂いも。どれだけ時間が経っても、体のどこかが覚えている」


 橘の指が、製図台の縁を軽く叩いた。


「だから、あの部屋はそれを使います」


 瀬奈の手に力が入った。


 晴人は、その一言の意味をすぐには飲み込めなかった。


 使う。


 誰が。


 何を。


 何のために。


「……あの部屋?」


 瀬奈が低く聞いた。


「あなたは、やはり知っているんですね」


 橘は彼女を見た。


 瀬奈の目は、怒りではなく、もっと深いものを帯びていた。十五年間、どこにも置けなかった問い。その問いを、ようやく人の形をした相手に向けられる場所まで来た人間の目だった。


「如月さん」


 橘はその名を呼んだ。


 瀬奈の肩が、わずかに揺れた。


「あなたのお母様も、同じように折り鶴を見ました」


 部屋の空気が止まった。


 晴人は瀬奈を見た。


 瀬奈はまばたきをしなかった。


「……母を、知っているんですか」


「会いました」


「いつ」


「十五年前です」


 その数字が落ちた瞬間、瀬奈の顔から色が引いた。


 十五年前。


 瀬奈の母が消えた年。


 彼女が、ずっと追ってきた年月。


「どこで」


「扉の前です」


「生きているんですか」


 瀬奈の声は、ほとんど音になっていなかった。


 橘はすぐに答えなかった。


 その沈黙だけで、答えは半分以上伝わってしまった。


 瀬奈は唇を結んだ。


 泣かなかった。


 ただ、ファイルケースを持つ指が白くなっていた。


「あなたは、何をしたんですか」


 橘は目を伏せた。


「私は、止めようとしました」


「止められなかった」


「ええ」


「それで、母は消えた」


 橘は何も言わない。


 資料室の壁に掛かった時計が、細い音を立てた。


 秒針が一つ進む。


 それだけで、部屋の隅に積まれた古い紙が崩れそうに見えた。


 晴人は橘を睨み続けていた。


「説明しろ」


 橘は首を横に振った。


「すべてを説明することはできません」


「ふざけるな」


「できないのです。言葉にした瞬間、その人の中で扉が形を持つことがある」


 橘は製図台の下から、黒い布で覆われた箱を引き出した。


 木製の古い箱だった。


 角は擦り減り、蓋には無数の細い傷がついている。鍵穴の周囲だけ、指で何度も触れられたように黒ずんでいた。


 橘は首から下げていた小さな鍵を外した。


「見れば、戻れなくなるものもあります」


「それでも見ます」


 答えたのは瀬奈だった。


 橘は彼女を見た。


 瀬奈はまっすぐ立っていた。


 怖がっている。


 それでも、引かない。


 橘は小さく頷き、鍵を差し込んだ。


 錆びた音がした。


 蓋が開く。


 中には、古い写真と、数枚の紙片、そして小さな封筒が入っていた。


 すべてに同じ文字が書かれている。


 零号室。



 箱の中の写真は、どれも色褪せていた。


 集合住宅の廊下。


 畳の部屋。


 押し入れの襖。


 ベランダに干された洗濯物。


 玄関の表札。


 どこにでもある風景だった。


 だからこそ、気味が悪かった。


 そこには怪物も、血も、壊れた死体も写っていない。


 ただ、人が暮らしていた場所がある。


 誰かが夕飯を作り、誰かが靴をそろえ、誰かが洗濯物を畳み、誰かが明日の予定を考えていた場所。


 その日常の隅に、描かれていない扉があった。


 橘は一枚の写真を製図台の上に置いた。


 古いアパートの廊下だった。


 画面の奥に、ドアが三つ並んでいる。


 だが、右端の壁に、薄い影があった。


 扉の形に見える。


 見ようとしなければ見えない。


 けれど、一度そう見えてしまうと、もうただの壁には戻らない。


「最初に記録したものです」


 橘が言った。


「三十年以上前の写真です。中野区の木造アパート。老朽化で取り壊す前の調査でした」


「あなたが撮ったんですか」


 瀬奈が聞いた。


「はい」


 橘の声には、懐かしさも誇りもなかった。


 ただ、罪の重さを確かめるような響きだけがあった。


「当時の私は、ただの若い設計士でした。古い建物の改修や解体前調査を請け負っていた。図面と実際の建物に食い違いがあることは珍しくありません。増築、違法改修、配管の変更、図面の紛失。理由はいくらでもあります」


 橘は写真の奥を指した。


「ですが、これは違った」


「何が」


「壁の向こうに空間があった。けれど、どの図面にも存在しなかった。外から寸法を測っても、内側から測っても、計算が合わない。建物の体積が、そこだけ少し増えていた」


 晴人の背筋に冷たいものが走った。


 建物の体積が増える。


 そんなことはありえない。


 図面の世界では、壁の厚みも、柱の位置も、部屋の広さも、数字で決まる。数字は嘘をつかない。少なくとも、晴人はそう信じていた。


 だが、三〇四号室の扉は、数字の外側にあった。


「そのとき、誰かが中へ入ったんですか」


 瀬奈が聞いた。


 橘の指が止まった。


「入居者の女性です」


「何があったんですか」


「彼女には、事故で亡くした息子がいました」


 橘は箱の中から、もう一枚の紙を取り出した。


 古い手書きのメモだった。


 母親の名。


 男児の名。


 事故の日付。


 そして、最後に小さく書かれていた。


 帰宅後、夫が妻を認識できず。


 晴人はその一文を見た。


 意味はわかる。


 けれど、頭が受け入れなかった。


「どういうことだ」


「彼女は部屋の中で、息子が死んだ日の記憶を見たそうです」


 橘は静かに言った。


「道路へ飛び出した息子の手を、今度は離さなかった。外へ出ると、息子は生きていました」


 瀬奈が息を呑んだ。


 晴人の胸が、ひどく嫌な形に締めつけられた。


 生きていた。


 その言葉だけが、空気の中で揺れた。


 もし、結衣も。


 頭の奥で、誰かがそう囁いた。


 晴人は拳を握った。


「でも、夫が妻を認識できなかった」


 瀬奈が言った。


 橘は頷いた。


「夫だけではありません。翌日には、隣人が彼女の名前を忘れていた。その翌日には、職場の記録から彼女の在籍履歴が消えた。三日後、息子は母親を呼ばなくなりました」


「なぜ」


「戻した命の分だけ、彼女の存在が外へ押し出されたからです」


 晴人は、息をするのを忘れた。


 橘の声が、遠くから聞こえる。


「部屋は、失ったものを取り戻す場所ではありません。誰かの痛みを、別の誰かへ移す場所です」


 瀬奈は紙を見つめていた。


「その女性は、どうなったんですか」


「消えました」


 短い言葉だった。


 だが、その一言の中に、長い沈黙が詰まっていた。


「誰も彼女を覚えていなくなった日の朝、部屋だけが残っていました。息子は生きていた。夫も、近所の人も、会社の同僚も、皆、最初からその子には母親がいなかったように話していた」


 橘は写真を裏返した。


 裏には鉛筆で日付が書かれていた。


 そして、その横に一行。


 母親、未確認。


 晴人は吐き気を覚えた。


 救われたはずの子ども。


 消えた母親。


 それを誰も悲しまない世界。


 悲しむ人間ごと、消えてしまった世界。


「そんなものを、なぜ記録していた」


 晴人の声は低かった。


 橘はまっすぐ彼を見た。


「止めるためです」


「止められていない」


「その通りです」


 橘は反論しなかった。


 反論しないことが、かえって晴人を苛立たせた。


「止めるためだと? なら、なぜ火事の図面に結衣の名前がある。なぜあの扉の位置を知っている。なぜ十年前、俺たちに何も言わなかった」


 声が大きくなった。


 資料室の棚が、その声を吸い込むように沈黙した。


 橘はすぐには答えなかった。


 彼の指が、古い封筒の端に触れた。


 その指先は少し震えていた。


「言えば、信じましたか」


「何?」


「火事の直後、十二歳の少女が、存在しない扉の前で確認された。扉は出火点ではなく、出現点だった。あなたの妹は、その扉に触れていた。そう言えば、誰が信じましたか」


「信じる信じないの問題じゃない」


「問題です」


 橘の声が、初めて少し強くなった。


「信じない人間には、扉はただの壁です。けれど、信じてしまった人間には、壁が扉になる」


 晴人は口を閉じた。


 橘は続けた。


「言葉にするだけで、その人の中に形ができます。後悔が深いほど、その形は鮮明になる。失った人の声を覚えているほど、扉は近くなる」


 橘は、晴人の目を見た。


「私は、あなたを扉へ近づけたくなかった」


 晴人は笑った。


 乾いた笑いだった。


「近づけたくなかった? もう遅いだろ」


「だから止めています」


「止める?」


 晴人は床の折り鶴を指さした。


「あれを見ろ。結衣が俺に警告している。あんたを信じるなって」


「それが結衣さんの言葉だと、なぜ断言できますか」


 晴人は言葉を失った。


 橘は静かに言った。


「部屋は、人の記憶から形を作ります。声も、字も、表情も、癖も。その人が最も信じたいものを差し出してくる」


「結衣は本物だった」


「あなたにとっては」


「違う」


 晴人は一歩前に出た。


「違う。あれは結衣だった。俺の名前を呼んだ。俺に、遅すぎたよと言った。俺の知らないことも知っていた」


「だからこそ危険です」


 橘の声は、悲しいほど静かだった。


「あなたが知らないことを言うものを、人は真実だと思う。けれど、真実と救いは同じではありません」


 瀬奈が、床の折り鶴を見つめたまま言った。


「じゃあ、母が見たものも……母ではなかったんですか」


 その問いには、責める響きがなかった。


 ただ、答えを聞く前から傷つくことを知っている声だった。


 橘は目を伏せた。


「わかりません」


「わからない?」


「本物かどうかを、外にいる人間は判断できません。中に入った本人でさえ、最後までわからないことがある」


 瀬奈の唇が小さく震えた。


「それでも母は、入ったんですね」


「はい」


「何を取り戻そうとしたんですか」


 橘は瀬奈を見る。


 少しだけ、ためらった。


「それは、私の口からは言えません」


「なぜ」


「あなた自身が、いつか知ることになる」


「またそうやって隠すんですか」


 瀬奈の声が鋭くなった。


「母が消えてから、私は十五年、何も知らされずに生きてきたんです。父はその話をしない。親戚は気まずそうに黙る。役所の記録には、失踪としか書かれていない。私はずっと、自分だけが置いていかれた理由を探してきた」


 彼女は一歩前に出た。


「あなたは、知っていたんですね」


 橘は答えない。


「知っていて、黙っていた」


「……はい」


 瀬奈の手が、橘の頬に向かって動いた。


 晴人は止めなかった。


 乾いた音が、資料室に響いた。


 橘の顔が横を向く。


 眼鏡が少しずれた。


 瀬奈は肩で息をしていた。


 涙は出ていなかった。


「謝らないでください」


 彼女は言った。


「謝られたら、許さなきゃいけない気がするから」


 橘はゆっくり眼鏡を直した。


「わかりました」


 その言い方が、あまりにも静かで、瀬奈の表情がかえって歪んだ。


 晴人は視線を落とした。


 床の折り鶴は、まだそこにあった。


 お兄ちゃん、あの人を信じないで。


 その言葉は、結衣の声で頭の中に響く。


 信じるな。


 けれど、目の前の男は嘘をついているようにも見えなかった。


 嘘をつくほど、自分を守ろうとしていない。


 それが、気味悪かった。



 橘は折り鶴を拾わなかった。


 代わりに、机の引き出しから透明なケースを取り出した。標本を入れるような、薄いプラスチックの箱だった。


「触れずに入れます」


 彼は細いピンセットで鶴をつまみ、ケースの中へ落とした。


 羽がケースの底に触れる。


 その瞬間、紙が小さく鳴った。


 きし、と。


 まるで古い扉が、少しだけ開いた音だった。


 晴人は思わず身構えた。


 何も起きなかった。


 けれど、資料室の温度が少し下がった気がした。


「こうしておけば安全なのか」


「安全ではありません」


 橘はケースの蓋を閉じた。


「ただ、直接触れるよりはましです」


「触るとどうなる」


「人によります」


「またそれか」


「本当に、人によるのです」


 橘はケースを棚の上に置いた。


 そこには同じようなケースが、いくつも並んでいた。


 晴人は目を細める。


 中には、折り紙だけではなかった。


 古い鍵。


 子どもの靴下。


 小さな鈴。


 割れた写真立ての欠片。


 乾いた赤い糸。


 誰かにとって大切だったもの。


 誰かにとって、戻りたかった場所へつながるもの。


「全部、部屋から出てきたものか」


「一部は」


「残りは?」


「部屋に呼ばれた人が、外で見つけたものです」


 晴人の背中に、ぞわりとした感覚が走った。


「外で?」


「あなたが見た折り鶴のように」


 晴人は口を閉じた。


 昨夜の商店街。


 雨上がりの軒下。


 濡れていない白い鶴。


 台所じゃないよ。


 あれは、部屋の外にあった。


 もし部屋が外へ出てくるなら。


 もし扉が、壁だけではなく、紙や写真や声の中にも開くのなら。


 逃げる場所などない。


「部屋は、広がっているんですか」


 瀬奈が聞いた。


 橘は少し黙った。


「広がる、という表現が正しいかはわかりません。ただ、後悔のある場所へ、形を変えて現れる」


「場所?」


「建物だけではありません。写真、日記、古い録音、記憶の中の部屋。強い後悔が長く残ったものには、扉の影ができることがあります」


 瀬奈は母のノートを思い出したのか、バッグの紐を握った。


 晴人も、胸ポケットの写真を思い出した。


 父の顔が滲んだ家族写真。


 あれも、扉の影なのか。


 手が勝手に胸へ伸びる。


 橘がそれを見た。


「写真を持っていますね」


 晴人の動きが止まる。


「なぜわかる」


「顔が薄くなり始めているはずです」


 晴人は答えなかった。


 瀬奈が彼を見る。


「水野さん」


「何でもない」


「見せてください」


「嫌だ」


 即答だった。


 自分でも子どもじみていると思った。


 だが、見せたくなかった。


 あの写真は、家族の最後の証拠だった。


 父の顔がどれだけ滲んでいても、そこにはまだ、父がいた。


 他人に見られた瞬間、滲みは現実になる。


 現実になれば、もう後戻りできない。


 橘は無理に見ようとしなかった。


「その写真を、なるべく一人で見ないでください」


「命令するな」


「忠告です」


「忠告ばかりだな」


「それしかできません」


 その言葉が、晴人にはひどく腹立たしかった。


 何もできなかった人間の言葉。


 知っていて黙っていた人間の言葉。


 それでも、何かを失い続けてきた人間の言葉。


 どれも本当で、どれも許せなかった。


「じゃあ、俺がもう一度あの部屋に入ったらどうなる」


 晴人は言った。


 瀬奈が顔を上げる。


「水野さん」


「聞いてるだけだ」


 橘の目が細くなった。


「何をするつもりですか」


「結衣に会う」


「やめなさい」


「なぜ」


「あなたは、もう一度会いたいだけではない」


 晴人は返事をしなかった。


 橘は続けた。


「あなたは、やり直したいと思っている」


 その言葉が、胸の奥に刺さった。


 やり直したい。


 否定できなかった。


 あの夜、もし自分が違う行動をしていたら。


 もし結衣を一人にしなかったら。


 もし台所ではなく、押し入れの奥を見ていたら。


 もし、もし、もし。


 十年間、晴人はその言葉だけを飲み込んで生きてきた。


「やり直せるなら」


 晴人は低く言った。


「誰だって、やり直したいだろ」


 橘は何も言わなかった。


 瀬奈も黙っていた。


 その沈黙の中で、晴人だけが、自分の声を聞いた。


 言ってはいけないことを、言ってしまった声。


「結衣が死なずに済むなら」


 晴人は続けた。


「俺が何かを失ってもいい」


 橘の表情が変わった。


 初めて、明確な恐れが浮かんだ。


「その言葉を、二度と言ってはいけません」


「何だよ」


「部屋は、そういう言葉を聞いています」


 晴人は笑おうとした。


 しかし、口元が動かなかった。


「まさか」


「まさか、と思う気持ちがあるうちに離れなさい」


 橘は製図台の上に手を置いた。


「水野さん。失ってもいいものなど、人にはありません。自分ではそう思っていても、あなたを覚えている人間がいる。あなたが消えたあと、その人たちの中からあなたの席が空くのではない。その席そのものが、最初からなかったことにされる」


 晴人は、父の滲んだ顔を思い出した。


 母の声を思い出した。


 最近、母が電話の中で少し言葉を詰まらせたこと。


 結衣の話題になると、いつもより早く別の話に移ったこと。


 もしかすると、もう始まっているのか。


「もし俺が結衣を助けたら」


 晴人は聞いた。


「誰が消える」


 橘は答えなかった。


「父か」


 答えない。


「母か」


 答えない。


「俺か」


 橘の指が、製図台の上でわずかに動いた。


 それだけで、晴人は十分だった。


 瀬奈が息を呑む。


「決まっているわけではありません」


 橘は言った。


「部屋は、計算で動いているのではない。後悔の深さ、記憶の強さ、戻したいものの重さ。そのすべてが、歪みを生みます。誰が忘れられるかは、入るまでわからない」


「そんな曖昧なもので、人が消えるのか」


「はい」


 あまりにも簡単な答えだった。


 晴人は奥歯を噛んだ。


 許せなかった。


 理不尽さが。


 曖昧さが。


 結衣の死だけは決定しているのに、助けようとしたときの代償は誰にもわからないということが。


「ふざけるな」


 橘は目を伏せた。


「そう思います」


「同意するな」


「私も、そう思ったことがあります」


 その言い方に、晴人は引っかかった。


「何を戻そうとした」


 橘は答えなかった。


 代わりに、棚の奥へ視線を向けた。


 そこには、写真立ての欠片が入ったケースがあった。


 小さな女の子の髪飾りのようなものも見えた。


 瀬奈もそれに気づいた。


「あなたにも、誰かいるんですね」


 橘は否定しなかった。


「だから、俺たちを止めるのか」


 晴人が言うと、橘はしばらく沈黙した。


 そして、かすかに頷いた。


「止めたいのではありません」


「同じだろ」


「違います」


 橘は晴人を見た。


「止まってほしいのです。自分の足で」



 資料室を出る頃には、外の空が暗くなり始めていた。


 神保町の路地に、冷たい風が流れていた。古書店の店主が店先の本を段ボールに戻し、ビニールのカバーをかけている。看板の古い電球が一つずつ灯り、濡れたような夕方の光が歩道に落ちていた。


 晴人はビルの入口で立ち止まった。


 橘は後ろからついてきていた。


 瀬奈は少し先で、スマートフォンを見ている。画面を見つめたまま、動かない。


「どうした」


 晴人が声をかけると、瀬奈はゆっくり顔を上げた。


「母のノートです」


「ノート?」


「写真を撮って保存していたページがあります。今、確認したら」


 彼女はスマートフォンを差し出した。


 画面には、古いノートのページが写っていた。


 以前、瀬奈が見せたものだった。


 零号室に関するメモ。


 失踪者の名前。


 建物の住所。


 そして、隅に小さく書かれた記号。


 晴人は画面を見つめた。


 ページの下端に、見覚えのある文字がある。


 橘礼司。


 その名前は、以前からそこにあったのか。


 晴人にはわからなかった。


 けれど瀬奈の表情を見れば、答えはわかった。


「前は、なかったのか」


 瀬奈は頷いた。


「少なくとも、私は気づいていませんでした」


「消えていた文字が出てきた?」


「それとも、私が忘れていたのかもしれません」


 その言葉が、夕方の空気より冷たかった。


 瀬奈はスマートフォンを胸元に下ろした。


「母のノートまで、変わり始めている」


 橘が後ろから言った。


「近づきすぎています」


 瀬奈は振り返った。


「誰のせいですか」


 橘は何も言わなかった。


 瀬奈はもう一度画面を見た。


 晴人も視線を落とす。


 橘礼司。


 その名前の下に、小さな線が引かれている。


 線の横には、母親の字でこう書かれていた。


 彼は、扉を閉める方法を知っている。


 晴人は橘を見た。


「閉める方法を知っているのか」


 橘の顔に、わずかな苦痛が走った。


「知っている、とは言えません」


「ノートにはそう書いてある」


「扉を閉める方法ではなく、扉から離れる方法です」


「どう違う」


「閉めたと思っても、扉は別の場所に現れます」


 橘はビルの入口のガラスに映る自分の姿を見た。


 痩せた老人の顔。


 長い年月を、紙と沈黙の中で過ごしてきた顔。


「本当に必要なのは、扉を閉めることではありません」


「じゃあ何だ」


「開けたいと思う自分を、置いていくことです」


 晴人はその言葉に苛立った。


「簡単に言うな」


「簡単ではありません」


「なら、言うな」


「言わなければ、あなたは行く」


 その通りだった。


 晴人は何も返せなかった。


 胸ポケットの写真が、重い。


 紙一枚のはずなのに、まるで小さな石が入っているようだった。


 瀬奈が静かに言った。


「水野さん。今日だけは、部屋に行かないでください」


「行く場所なんてわからない」


「わからなくても、向こうから来ます」


 瀬奈の声に、疲れが混じっていた。


 彼女もまた、母のノートという扉を抱えている。


 晴人だけではない。


 そう思った瞬間、わずかに息ができた。


「……わかった」


 晴人は小さく言った。


 瀬奈はそれ以上、何も言わなかった。


 橘は二人を見ていた。


「今夜、もし何かを見ても、返事をしてはいけません」


「何かって何だ」


「声です」


 風が強くなった。


 古書店のビニールが、ばさりと鳴る。


「呼ばれても、返事をしてはいけない。名前を呼ばれても、振り返ってはいけない。特に、あなたが一番聞きたい声なら」


 晴人の喉が詰まった。


 結衣の声。


 お兄ちゃん。


 遅すぎたよ。


 助けて。


 そんな声が聞こえたら、自分は振り返らずにいられるのか。


 答えはわかっていた。


 だからこそ、怖かった。


 橘は最後に、低く言った。


「部屋は、あなたが開けるのを待っているのではありません」


 晴人は顔を上げた。


「では何を待っている」


「あなたが、開けたいと思う瞬間です」



 その夜、晴人は自宅へ戻った。


 部屋の明かりをつけるまでに、いつもより時間がかかった。


 玄関の前で鍵を探し、鍵穴に差し込む。回す。ドアを開ける。そこまでは普段通りだった。けれど、靴を脱いだあと、廊下の奥を見ることができなかった。


 自分の部屋なのに、知らない場所に見えた。


 キッチンの換気扇。


 冷蔵庫の低い音。


 壁にかけた上着。


 積んだままの書類。


 すべて昨日と同じだった。


 同じだからこそ、何かが入り込む余地があるように感じた。


 晴人は電気をつけた。


 白い光が部屋に広がる。


 何もない。


 扉もない。


 押し入れもない。


 畳の匂いもしない。


 それでも、安心できなかった。


 晴人はコートを脱がず、テーブルの前に座った。


 スマートフォンには瀬奈からメッセージが来ていた。


 今日は一人で調べないでください。


 短い文だった。


 晴人は返信しようとして、やめた。


 何と返せばいいかわからなかった。


 大丈夫。


 その言葉は嘘になる。


 わかった。


 それも、たぶん嘘になる。


 画面を伏せる。


 部屋が少し静かになった。


 晴人は胸ポケットから家族写真を取り出した。


 テーブルの上に置く。


 指先が、紙の端に触れた。


 写真の中で、父は立っていた。


 母の隣。


 晴人の後ろ。


 結衣は、晴人の腕にしがみつくように笑っている。


 その結衣の顔だけは、はっきりしていた。


 十年前の笑顔のまま。


 けれど父の顔は、さらに薄くなっていた。


 輪郭が溶けている。


 目の位置がわからない。


 口元も、鼻も、まるで霧の中に沈んでいる。


 昨日よりも、確実に。


「……父さん」


 声に出した瞬間、部屋の奥で何かが鳴った。


 かたん。


 晴人は顔を上げた。


 台所。


 ではない。


 洗面所。


 でもない。


 音は、壁の中から聞こえた。


 この部屋に、そんな空間はない。


 晴人は立ち上がった。


 立ち上がってしまった。


 足が勝手に、廊下の方へ向く。


 やめろ。


 行くな。


 橘の声が頭の中で響く。


 返事をしてはいけない。


 名前を呼ばれても、振り返ってはいけない。


 特に、あなたが一番聞きたい声なら。


 晴人は拳を握った。


 廊下の電気はついている。


 白い床。


 左に浴室。


 右に収納。


 その奥に、壁。


 ただの壁。


 そのはずだった。


 かたん。


 もう一度、音がした。


 今度ははっきり聞こえた。


 紙を折る音。


 角を合わせ、爪で折り目をつける音。


 晴人の呼吸が止まった。


 壁の向こうから、声がした。


「お兄ちゃん」


 小さな声。


 記憶の中の声。


 何度も夢で聞いた声。


 晴人は目を閉じた。


 返事をするな。


 唇を噛む。


 血の味がした。


「お兄ちゃん」


 もう一度。


 少し近い。


 壁の向こうではない。


 廊下の奥。


 そこに、誰かが立っているような気配がある。


 晴人は目を開けた。


 何もいない。


 壁だけがある。


 けれど、その壁に、薄い線が浮かんでいた。


 縦に一本。


 横に一本。


 扉の形。


 晴人は後ずさった。


 背中がテーブルに当たる。


 写真が床に落ちた。


 ぱさり、と軽い音。


 写真の裏が見えた。


 そこに、文字があった。


 昨日まではなかった文字。


 結衣の字ではない。


 もっと古い。


 大人の筆跡。


 細く、整った字。


 橘の字に似ていた。


 痛みは消えない。


 ただ、誰かに移るだけだ。


 晴人は息を呑んだ。


 その瞬間、スマートフォンが震えた。


 画面に、瀬奈の名前。


 通話。


 晴人は震える手で取った。


「水野さん、聞こえますか」


 瀬奈の声が荒れていた。


「今、そっちに何か出ていませんか」


「……なぜ」


「私の部屋にも」


 瀬奈の声が途切れた。


 向こうで、何かが落ちる音がした。


「ノートの中に、扉が描かれてる」


 晴人は廊下の奥を見た。


 壁の線が、少しずつ濃くなっていく。


 扉はまだ開いていない。


 けれど、そこにある。


「水野さん」


 瀬奈が言った。


「橘さんから、今、電話が来ました」


「何て」


 晴人の声は掠れていた。


 瀬奈は一瞬だけ黙った。


 そして、橘の言葉をそのまま読み上げるように言った。


「あの部屋は、誰も救いません」


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