(第二部 . 第七章 ) 二度目の入室
壁に描かれた扉は、朝になっても消えなかった。
晴人は一睡もしないまま、リビングの床に座っていた。
カーテンの隙間から入る薄い光が、壁紙の凹凸を白く浮かび上がらせている。普段なら何の特徴もない賃貸マンションの壁。その中央に、細い線だけでできた扉の輪郭が残っていた。
取っ手はない。
鍵穴もない。
ただ、そこにあるべきではない四角い線だけが、壁の内側から押し出されるように滲んでいる。
晴人は膝の上に置いた写真を見下ろした。
家族写真。
十年前の夏祭りで撮られた一枚。
母が笑い、結衣が綿あめを持ち、父がぎこちなくピースをしている。晴人だけが、少し離れたところで面倒くさそうな顔をしていた。
昨日までは、父の顔がぼやけていた。
今朝は違った。
父の輪郭はさらに薄くなっていた。
目も、鼻も、口も、灰色の水で擦られたようにぼんやりしている。
そして、写真の端。
晴人の肩のあたりも、ほんの少しだけ滲んでいた。
まだ消えてはいない。
けれど、そこにあったはずの線が、確かに弱くなっている。
晴人は親指で自分の顔の輪郭をなぞった。
紙の表面は冷たかった。
スマートフォンが震えた。
床の上で小さく鳴ったその音に、晴人の肩が揺れる。
画面には、如月瀬奈の名前が表示されていた。
「……もしもし」
「寝てませんね」
瀬奈の声も、眠っていない人間の声だった。
低く、乾いている。
「そっちの扉は?」
「消えてない」
「こっちもです」
晴人は壁を見た。
「開いたのか」
「いいえ。開きません。ただ、ノートの中に描かれた扉の線が濃くなっています。母のページの上に」
母。
瀬奈はその言葉を、いつも平らに言う。
けれど今朝だけは、ほんの少しだけ息が乱れていた。
「橘には?」
「つながりません。昨夜の電話のあと、何度かかけました。でも出ない」
晴人は写真を裏返した。
痛みは消えない。
ただ、誰かに移るだけだ。
細い文字が、白い裏面に残っている。
「行くしかない」
言ったあとで、自分の声の冷たさに気づいた。
瀬奈が黙る。
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「三〇四号室ですか」
「あそこから始まった」
「水野さん」
「何だ」
「昨日、橘さんは止めました」
「知ってる」
「部屋は誰も救わない、とも言いました」
「だから何もしないのか」
晴人の声が、少しだけ荒くなった。
すぐに後悔した。
瀬奈に怒鳴る理由はない。
けれど、眠っていない頭の中では、言葉が角を持っていた。
瀬奈はしばらく答えなかった。
短い沈黙。
それから、静かに言った。
「私は止めません」
晴人は息を止めた。
「ただ、ひとつだけ約束してください」
「約束?」
「一人で入らないでください」
壁の扉が、朝の光の中でかすかに揺れたように見えた。
錯覚かもしれない。
それでも晴人は、反射的に写真を握りしめた。
「……わかった」
「一時間後、三〇四号室の前で」
「ああ」
「水野さん」
瀬奈の声が、電話を切る直前で止まった。
「もし中で結衣さんに会っても」
晴人は答えなかった。
「言葉を、全部信じないでください」
通話が切れた。
晴人はしばらく、暗くなった画面を見ていた。
黒いガラスに、自分の顔が映っている。
疲れた目。
青白い頬。
そして背後の壁に、開くことのない扉。
晴人は立ち上がった。
写真を封筒に入れ、バッグの底へ押し込む。
玄関で靴を履くとき、ふと棚の上の鍵に目が留まった。
父の家の鍵。
もう何年も使っていない。
なぜそこにあるのか、自分でもわからなかった。
以前から置いてあった気もする。
昨日置いた気もする。
晴人はそれを手に取った。
金属は、氷のように冷たかった。
*
三〇四号室のある古い集合住宅は、午前の光の中でも暗かった。
建物の周りには解体工事用の足場が組まれ、青い防音シートが風に揺れている。シートの向こうで、誰かが金属を叩く音がした。遠い雷のように、鈍く響く。
解体予定日は、また延期になった。
理由は書類上の問題。
管理会社から送られてきた短いメールには、そう書かれていた。
けれど晴人には、別の理由のように思えた。
この建物そのものが、壊されることを拒んでいる。
そんな馬鹿げた考えが、頭の端から離れなかった。
瀬奈は一階の郵便受けの前に立っていた。
黒いジャケットに、肩から斜めにかけたバッグ。髪は後ろでひとつに結ばれている。顔色は悪いが、目だけは冴えていた。
「早いですね」
「そっちこそ」
「眠れませんでした」
瀬奈はそう言って、郵便受けを指差した。
三〇四。
そこだけ、名前札が外れていた。
昨日までは、空室を示す小さな白い紙が入っていたはずだった。
今は何もない。
ただ、金属の表面に細い傷がついていた。
横に一本。
縦に一本。
四角い形。
小さな扉のような傷。
「ここにも」
瀬奈が言った。
晴人は答えず、階段の方へ歩いた。
エレベーターは使わなかった。
古い建物特有の湿った匂いが、階段室に溜まっていた。コンクリートの壁には雨染みが伸び、手すりの塗装は剥がれている。二階へ上がる途中で、上から子どもの笑い声が聞こえた気がした。
晴人は足を止めた。
「聞こえました?」
瀬奈が小声で言う。
「……いや」
「嘘が下手ですね」
晴人は何も言わなかった。
また階段を上がる。
三階の踊り場に出た瞬間、廊下の蛍光灯が一度だけ瞬いた。
細い白い光が、廊下の奥へ伸びる。
三〇一。
三〇二。
三〇三。
三〇四。
その向こう。
以前はなかった扉。
晴人は喉を鳴らした。
扉は、そこにあった。
前に見たときと同じ場所。
廊下の突き当たり、図面上では壁で終わっているはずの位置。
茶色の木製扉。
古びた真鍮の取っ手。
表札のない枠。
そして、扉の下からわずかに漏れる、畳の匂い。
「本当にあるんですね」
瀬奈の声は、驚きよりも確認に近かった。
「見えるのか」
「見えます」
「前は?」
「写真では見えませんでした。水野さんの説明と、記録だけです」
「じゃあ、今はなぜ」
瀬奈はバッグから一冊のノートを取り出した。
母のノート。
角が擦り切れ、表紙に古い水染みがある。
「これを開いたあとからです」
瀬奈はノートを開いた。
晴人は横から覗き込む。
ページの中央に、扉の絵があった。
昨日までは薄い線だったはずの扉。
今は濃く、黒く、紙を焦がしたように浮かび上がっている。
その下に、文字が増えていた。
母の筆跡ではない。
橘の字にも似ていない。
子どものような、丸い字。
お兄ちゃんを入れないで。
晴人の手から、空気が抜けた。
「これ……」
「今朝、出ていました」
瀬奈はページを押さえた。
指先がわずかに震えている。
「結衣さんの字ですか」
晴人はすぐに答えられなかった。
文字を見る。
お兄ちゃんを入れないで。
丸い。
でも、結衣はもっと右上がりに書いていた。
小学校の連絡帳に残っていた字。
夏休みの宿題のプリント。
晴人に宛てた小さな手紙。
それらとは、似ている。
似すぎている。
だからこそ、少しだけ違う部分が不気味だった。
「わからない」
晴人は言った。
「似てる。でも、違う」
「部屋が書いたのかもしれません」
「部屋が?」
「人の記憶を使って」
瀬奈はノートを閉じた。
「橘さんが言ったことを思い出してください。痛みは消えない。ただ誰かに移るだけ。あの部屋が見せるものは、救いではないかもしれない」
「それでも」
晴人は扉を見た。
「確かめる」
「何を?」
「俺の記憶が、どこまで本当なのか」
瀬奈は晴人を見た。
責めるような目ではなかった。
止めるような目でもない。
ただ、そこに立っている人間の奥を見ようとする目だった。
「水野さんは、結衣さんを救いたいんですか」
廊下の空気が、一段冷えた気がした。
晴人は答えなかった。
救いたい。
その言葉は、簡単すぎた。
会いたい。
それも違う。
謝りたい。
それは近い。
でも、もっと深いところにあるものは、言葉にならなかった。
あの日からずっと、胸の奥で腐らず残っているもの。
自分だけが生きているという事実。
結衣の声を忘れそうになるたびに、安心してしまう自分。
その安心に、毎回吐き気がした。
「俺は」
晴人は言った。
「何を忘れたのか知りたい」
瀬奈は少しだけ目を伏せた。
「……わかりました」
彼女はスマートフォンを取り出し、録音アプリを開いた。
「記録を残します。中で何か起きたら、できるだけ声に出してください」
「そんな余裕があると思うか」
「思いません。でも、やらないよりはましです」
瀬奈は録音ボタンを押した。
赤い点が画面に灯る。
小さな赤い目のようだった。
晴人は扉の前に立った。
取っ手に手を伸ばす。
冷たい。
前と同じだ。
真鍮の取っ手は、まるで地下水に浸かっていたように冷えていた。
「水野さん」
瀬奈が背後で言った。
「戻るときは、私の声を目印にしてください」
「声?」
「名前を呼びます。何が見えても、私の声が聞こえたら戻ってきてください」
晴人は振り返らなかった。
「わかった」
「約束です」
「ああ」
晴人は取っ手を回した。
扉は、音もなく開いた。
*
畳の部屋ではなかった。
晴人は足を踏み入れた瞬間、それに気づいた。
そこにあったのは、子どもの頃に暮らしていた家の玄関だった。
狭い三和土。
木目の古い下駄箱。
壁にかけられた薄い黄色の傘。
鍵を置くための小さな皿。
すべて、覚えている。
忘れたと思っていたものまで、細かくそこにあった。
下駄箱の上に置かれた招き猫の置物。
欠けた右耳。
母が百円ショップで買ってきて、結衣が赤い油性ペンで目を塗った。
晴人は一歩も動けなかった。
背後を振り返る。
扉はなかった。
廊下もない。
瀬奈もいない。
ただ、玄関の磨りガラスの向こうに、午後の光が滲んでいる。
遠くで蝉が鳴いていた。
夏の音。
十年前の音。
「……瀬奈」
呼んでみた。
返事はない。
録音アプリの赤い点も見えない。
スマートフォンを取り出そうとして、ポケットに手を入れる。
何もなかった。
スマートフォンがない。
バッグもない。
手には、なぜか父の家の鍵だけが握られていた。
古い金属の感触。
晴人はそれを見つめた。
鍵には、小さなプラスチックのタグがついている。
青いタグ。
そこに、母の字で書かれていた。
晴人用。
十年前、家を出るときに持っていた鍵。
あの日も。
持っていた。
晴人は喉の奥が詰まるのを感じた。
玄関の奥から、足音が聞こえた。
ぱたぱた、と軽い音。
スリッパを履かない小さな足。
「お兄ちゃん?」
晴人は顔を上げた。
廊下の向こうから、結衣の声がした。
けれど姿は見えない。
「帰ってきたの?」
晴人の胸が強く鳴った。
声を出そうとした。
出なかった。
廊下の壁には、家族写真が飾られていた。
今の写真よりも新しい。
火事の少し前に撮ったものだ。
結衣の前歯が一本抜けていて、笑うと少し隙間が見える。母はそれを見て笑っていた。父はいつも通り、笑い方がぎこちなかった。
晴人は写真の中の自分を見た。
十九歳の自分。
白い半袖シャツをだらしなく着て、ポケットに手を突っ込んでいる。
目が不機嫌だった。
その自分の顔は、はっきりしていた。
まだ、消えていない。
「お兄ちゃん?」
結衣の声が近づく。
晴人は靴を脱いだ。
足の裏に、廊下の木の冷たさが触れる。
懐かしい感触だった。
廊下を進む。
左手に台所。
右手に居間。
奥に階段。
そのすべてが、記憶より少しだけ明るかった。
あるいは、記憶の方が暗くなっていただけなのかもしれない。
台所から味噌汁の匂いがした。
包丁がまな板を叩く音。
母の鼻歌。
父が新聞をめくる音。
どこにでもある、ただの家の音。
晴人は居間の入り口で立ち止まった。
そこに母がいた。
若い。
十年前の母。
髪を後ろでまとめ、エプロンの裾で濡れた手を拭いている。
「晴人、帰ってたの」
母はそう言って、自然に笑った。
晴人は息を呑む。
声も、表情も、全部そのままだった。
今の母は、もうこんなふうに笑わない。
笑えないのだと思っていた。
違う。
その笑い方ごと、どこかに置いてきたのだ。
「……母さん」
「何、その顔。熱でもあるの?」
母が近づこうとした瞬間、晴人は一歩下がった。
母の足が止まる。
少しだけ不思議そうに首を傾げる。
けれど、その違和感はすぐに消えた。
まるでこの世界が、晴人の反応を深く追及しないように作られているみたいに。
「結衣なら二階よ。また折り紙散らかしてる」
母は台所へ戻りながら言った。
「夕飯までに片づけなさいって言っておいて」
晴人は二階を見上げた。
階段の上から、紙を折る音が聞こえる。
かすかな、乾いた音。
晴人は階段に足をかけた。
一段。
また一段。
木が小さく軋む。
それも覚えていた。
三段目だけ、少し低い音がする。
父が何度も直すと言って、結局直さなかった場所。
二階の廊下に出ると、空気が少し変わった。
下の生活音が遠くなる。
結衣の部屋の扉が半分開いていた。
隙間から、白い紙が見えた。
晴人は扉の前に立つ。
中を覗く。
結衣は床に座っていた。
薄い水色のワンピース。
膝の上には折り紙。
前に零号室で見た姿と同じだった。
けれど、この部屋の結衣は、もう少し生きているように見えた。
頬に血色があり、髪が窓から入る風で小さく揺れている。
机の上にはランドセル。
壁には夏休みの予定表。
窓辺には朝顔の鉢。
そこにいるのは、記憶でも幻でもなく、十年前の結衣そのものに見えた。
「お兄ちゃん」
結衣が振り返った。
そして笑った。
「遅かったね」
晴人の足元が揺れた。
その言葉。
前にも聞いた。
零号室で。
結衣は同じ声で言った。
遅すぎたよ。
「結衣」
「何?」
結衣は首を傾げた。
その無邪気な仕草が、晴人の胸を切った。
「今日……何日だ」
「変なの」
結衣は笑い、机の上のカレンダーを指差した。
八月十七日。
赤い丸がついている。
晴人はその日付を見た瞬間、胃の奥が冷たくなった。
火事の日。
結衣が死んだ日。
晴人の中で、長いあいだ黒く閉じられていた蓋が、音もなく浮き上がる。
あの日の午後。
父は仕事で遅くなると言っていた。
母は近所のスーパーへ買い物に出た。
晴人は部活をさぼって早く帰ってきた。
結衣は家にいた。
そこまでは覚えている。
その先は、いつも曖昧になる。
煙。
熱。
誰かの叫び声。
自分の手。
走る足。
振り返ったときには、家が燃えていた。
結衣は二階にいた。
そう聞かされた。
そう思っていた。
「お兄ちゃん?」
結衣が心配そうに眉を寄せた。
「顔、白いよ」
晴人は無理に息を吸った。
「結衣、今日は外に出るんだ」
「え?」
「今すぐ」
「どうして?」
「いいから」
晴人は部屋に入った。
結衣の腕を掴もうとした。
けれど、指先が触れる直前で止まった。
前に零号室で聞いた橘の声が、頭の奥で響く。
痛みは消えない。
ただ、誰かに移るだけだ。
ここで結衣を連れ出したら、何が変わる。
誰が忘れる。
誰が消える。
晴人の指が震えた。
結衣はその手を見て、小さく笑った。
「また怒ってるの?」
「怒ってない」
「じゃあ、どうしたの」
「……覚えてないんだ」
「何を?」
「この日に、何が起きたのか」
結衣は晴人を見上げた。
その目が、急に静かになった。
十二歳の少女の目ではない。
もっと古いものを知っている目。
零号室で見た結衣と同じ目。
「思い出したいの?」
声の温度が変わった。
晴人の背中に、冷たいものが走る。
「お前は……誰だ」
結衣は答えなかった。
窓の外で、蝉の声が一瞬止まった。
部屋の空気が重くなる。
机の上の折り紙が、一枚だけふわりと浮いた。
風はない。
白い紙は宙で半分に折れ、また開き、鶴の形になっていく。
結衣はそれを見ない。
ただ晴人だけを見ていた。
「お兄ちゃんは、ずっと間違えてる」
「何を」
「あの日のこと」
晴人の喉が乾いた。
「俺は、結衣を助けられなかった」
「ううん」
結衣は首を横に振った。
「違うよ」
その声は優しかった。
優しすぎた。
「お兄ちゃんは、助けられなかったんじゃない」
廊下の奥で、何かが落ちる音がした。
下の階から、母の声が聞こえる。
「結衣、晴人、ごはんできるわよ」
平和な声。
何も知らない声。
晴人は動けなかった。
結衣は立ち上がった。
その手には、いつの間にか白い折り鶴が握られている。
「見せてあげる」
「何を」
「お兄ちゃんが、忘れたところ」
部屋の壁が、ゆっくり暗くなった。
夕方の影ではない。
煙のような黒さ。
鼻の奥に、焦げた匂いが刺さる。
晴人は反射的に口元を押さえた。
結衣の部屋の天井に、細い黒い筋が走る。
一筋。
二筋。
それは煙ではなく、ひび割れのようにも見えた。
壁紙の下から、別の時間が滲み出している。
「結衣、やめろ」
「やめたら、また忘れるよ」
「いい」
「よくない」
結衣は初めて、少しだけ怒った顔をした。
その表情も、晴人は知っていた。
昔、晴人が彼女の折り紙を勝手に捨てたとき。
宿題を見てやる約束を破ったとき。
結衣は泣く前に、必ずこんな顔をした。
「お兄ちゃんは、ずっと自分だけ悪者にしてる」
「違うのか」
「違う」
「じゃあ誰が悪い」
結衣は答えなかった。
部屋の空気が、さらに熱を帯びる。
夏の暑さではない。
火の近くにいるときの、皮膚の表面だけが先に乾く熱。
晴人の耳の奥で、パチ、と音がした。
木が爆ぜる音。
まだ見えていない火が、どこかで息をしている。
晴人は窓へ向かった。
開けようとする。
鍵はかかっていない。
けれど窓は動かなかった。
力を入れても、びくともしない。
ガラスの向こうの景色が歪んでいる。
隣家の屋根。
電線。
青い空。
それらが水の中に沈んだみたいに揺れていた。
「ここは記憶だから」
結衣が言った。
「お兄ちゃんが覚えていない場所には、出られない」
「なら、どこに行けばいい」
「下」
「下?」
「最初の火は、下から来た」
晴人は振り返った。
「そんなはずない」
記録では二階の子ども部屋付近から出火。
そう聞いていた。
母も、警察も、消防の記録も。
いや。
消防の記録は、瀬奈が言っていた。
原因は、違うかもしれないと。
「行こう」
結衣が扉へ向かう。
晴人は慌ててその背中を追った。
廊下へ出た瞬間、家の中の明るさが変わった。
さっきまで聞こえていた母の鼻歌が消えている。
台所の包丁の音もない。
代わりに、低い唸りのような音が聞こえた。
家全体が、どこか遠くで軋んでいる。
階段の下から、薄い煙が上がっていた。
白い。
まだ黒くない。
晴人は手すりを握った。
木が熱い。
記憶の中なのに、熱さだけは本物だった。
「結衣、待て」
結衣は振り返らなかった。
小さな背中が、煙の方へ向かっていく。
その姿を見た瞬間、晴人の頭の奥で何かが弾けた。
違う。
この場面を知っている。
自分は、ここにいた。
階段の上。
煙。
結衣の背中。
そして、自分の声。
行くな。
そう叫んだはずだった。
いや。
叫ばなかった。
声が出なかった。
晴人は手すりに爪を立てた。
視界が揺れる。
「思い出して」
結衣が階段の途中で言った。
「お兄ちゃん」
その声が、遠くから聞こえる。
瀬奈の声ではない。
結衣の声。
でも、どこかで別の声が重なっている。
水野さん。
戻ってきてください。
かすかに聞こえた気がした。
晴人は振り返ろうとした。
背後には結衣の部屋。
その奥の壁に、細い扉の線が浮かんでいる。
帰り道。
たぶん、そこへ行けば戻れる。
けれど階段の下から、母の叫び声がした。
「晴人!」
晴人の足が止まる。
母の声。
十年前の母の声。
恐怖に引き裂かれた声。
晴人は階段を駆け下りた。
途中で煙が目に入る。
涙が出る。
喉が焼ける。
それでも下へ向かう。
居間に出た。
そこはもう、さっきの居間ではなかった。
テーブルの上の新聞が燃えている。
カーテンの裾に火が移り、黄色い舌のように揺れている。
天井近くに煙が溜まり、部屋の上半分を黒く塗りつぶしていた。
母の姿はない。
父もいない。
ただ、玄関の方から冷たい風が入ってくる。
扉が開いていた。
外へ出られる。
晴人は一歩そちらへ進んだ。
その瞬間、背後で結衣が咳き込んだ。
振り返る。
結衣は階段の下に立っていた。
小さな体を折り曲げ、煙の中で口元を押さえている。
「結衣!」
晴人は走ろうとした。
けれど足が動かなかった。
床が、まるで水の中の泥のように重い。
進もうとするほど、足首に何かが絡みつく。
晴人は下を見た。
黒い手。
影のような手が、床板の隙間から伸びている。
何本も。
細く、冷たく。
晴人の足を掴んでいた。
「違う」
晴人は呟いた。
「こんなの、なかった」
結衣が顔を上げた。
煙の向こうで、その目だけがはっきり見えた。
「なかったんじゃない」
結衣は言った。
「覚えてないだけ」
影の手が、晴人の足を強く引いた。
体が後ろへ倒れそうになる。
そのとき、別の声がはっきり聞こえた。
「水野さん!」
瀬奈の声。
現実の声。
遠い廊下から、扉の外から、必死に呼ぶ声。
「戻ってください!」
晴人は歯を食いしばった。
結衣を見る。
結衣は煙の中で、静かに首を横に振った。
行かないで。
そう言っているのか。
それとも。
行って。
そう言っているのか。
わからない。
晴人は手を伸ばした。
「結衣!」
その瞬間、居間の奥で何かが崩れた。
大きな音。
火花が舞う。
視界が白く弾ける。
熱と煙が、晴人の顔を打った。
世界が反転した。
*
晴人は廊下の床に膝をついていた。
誰かが肩を掴んでいる。
強く。
痛いほど強く。
「水野さん!」
瀬奈の声だった。
晴人は咳き込んだ。
喉が焼けるように痛い。
実際に煙を吸ったわけではないはずなのに、肺の奥まで黒く汚れたような感覚が残っている。
目から涙が流れていた。
鼻の奥に焦げた匂いが貼りついている。
晴人は床に手をついた。
古い集合住宅の廊下。
蛍光灯。
瀬奈。
三〇四号室。
そして、目の前の扉。
零号室の扉は、半分だけ開いていた。
中は暗い。
畳の部屋ではない。
幼い家でもない。
ただ黒い闇だけが、そこに残っていた。
「どれくらい」
晴人は掠れた声で聞いた。
「三分です」
瀬奈が答える。
「でも、呼んでも反応がなくて……途中から、中から煙の匂いがしました」
「煙?」
「はい」
瀬奈は晴人の袖を見た。
晴人も自分の腕を見る。
シャツの袖口が、黒く焦げていた。
小さな穴が開いている。
現実の服が。
晴人は息を止めた。
瀬奈も黙る。
廊下の蛍光灯が、じじ、と音を立てた。
「中で、何を見ましたか」
瀬奈が聞いた。
晴人は答えようとした。
けれど言葉にならない。
家。
母。
結衣。
八月十七日。
火。
影の手。
そして、結衣の言葉。
お兄ちゃんは、助けられなかったんじゃない。
晴人は胸を押さえた。
心臓が、まだ火の中に置き去りにされたみたいに暴れている。
瀬奈は録音されたスマートフォンを確認した。
画面を見て、眉を寄せる。
「録れていません」
「何?」
「入った瞬間から、音が全部消えています」
瀬奈は再生ボタンを押した。
スピーカーから聞こえたのは、ただの無音だった。
いや。
完全な無音ではない。
耳を近づけると、かすかに何かが聞こえた。
紙を折る音。
そして、小さな女の子の声。
晴人はスマートフォンを奪うように受け取った。
音量を上げる。
瀬奈も隣で耳を澄ませた。
ざらざらしたノイズの奥。
火が燃えるような音の中。
結衣の声がした。
「お兄ちゃん」
晴人の指が固まる。
次の声は、もっと小さかった。
けれど、はっきり聞こえた。
「今度は、見ててね」
録音はそこで途切れた。
廊下に沈黙が落ちる。
晴人は顔を上げた。
開いたままの零号室の奥に、赤い光が灯っていた。
炎の色。
闇の向こうで、古い家の階段が見えた。
そこに、十二歳の結衣が立っている。
煙の中で。
火の中で。
死んだ日の姿で。
結衣は晴人を見て、唇を動かした。
声は聞こえなかった。
それでも晴人には、何を言ったのかわかった。
お兄ちゃん。
今度は、逃げないで。




