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零号室  作者: 清忠
15/33

(第二部 . 第七章 ) 二度目の入室

壁に描かれた扉は、朝になっても消えなかった。


 晴人は一睡もしないまま、リビングの床に座っていた。


 カーテンの隙間から入る薄い光が、壁紙の凹凸を白く浮かび上がらせている。普段なら何の特徴もない賃貸マンションの壁。その中央に、細い線だけでできた扉の輪郭が残っていた。


 取っ手はない。


 鍵穴もない。


 ただ、そこにあるべきではない四角い線だけが、壁の内側から押し出されるように滲んでいる。


 晴人は膝の上に置いた写真を見下ろした。


 家族写真。


 十年前の夏祭りで撮られた一枚。


 母が笑い、結衣が綿あめを持ち、父がぎこちなくピースをしている。晴人だけが、少し離れたところで面倒くさそうな顔をしていた。


 昨日までは、父の顔がぼやけていた。


 今朝は違った。


 父の輪郭はさらに薄くなっていた。


 目も、鼻も、口も、灰色の水で擦られたようにぼんやりしている。


 そして、写真の端。


 晴人の肩のあたりも、ほんの少しだけ滲んでいた。


 まだ消えてはいない。


 けれど、そこにあったはずの線が、確かに弱くなっている。


 晴人は親指で自分の顔の輪郭をなぞった。


 紙の表面は冷たかった。


 スマートフォンが震えた。


 床の上で小さく鳴ったその音に、晴人の肩が揺れる。


 画面には、如月瀬奈の名前が表示されていた。


「……もしもし」


「寝てませんね」


 瀬奈の声も、眠っていない人間の声だった。


 低く、乾いている。


「そっちの扉は?」


「消えてない」


「こっちもです」


 晴人は壁を見た。


「開いたのか」


「いいえ。開きません。ただ、ノートの中に描かれた扉の線が濃くなっています。母のページの上に」


 母。


 瀬奈はその言葉を、いつも平らに言う。


 けれど今朝だけは、ほんの少しだけ息が乱れていた。


「橘には?」


「つながりません。昨夜の電話のあと、何度かかけました。でも出ない」


 晴人は写真を裏返した。


 痛みは消えない。


 ただ、誰かに移るだけだ。


 細い文字が、白い裏面に残っている。


「行くしかない」


 言ったあとで、自分の声の冷たさに気づいた。


 瀬奈が黙る。


 電話の向こうで、紙をめくる音がした。


「三〇四号室ですか」


「あそこから始まった」


「水野さん」


「何だ」


「昨日、橘さんは止めました」


「知ってる」


「部屋は誰も救わない、とも言いました」


「だから何もしないのか」


 晴人の声が、少しだけ荒くなった。


 すぐに後悔した。


 瀬奈に怒鳴る理由はない。


 けれど、眠っていない頭の中では、言葉が角を持っていた。


 瀬奈はしばらく答えなかった。


 短い沈黙。


 それから、静かに言った。


「私は止めません」


 晴人は息を止めた。


「ただ、ひとつだけ約束してください」


「約束?」


「一人で入らないでください」


 壁の扉が、朝の光の中でかすかに揺れたように見えた。


 錯覚かもしれない。


 それでも晴人は、反射的に写真を握りしめた。


「……わかった」


「一時間後、三〇四号室の前で」


「ああ」


「水野さん」


 瀬奈の声が、電話を切る直前で止まった。


「もし中で結衣さんに会っても」


 晴人は答えなかった。


「言葉を、全部信じないでください」


 通話が切れた。


 晴人はしばらく、暗くなった画面を見ていた。


 黒いガラスに、自分の顔が映っている。


 疲れた目。


 青白い頬。


 そして背後の壁に、開くことのない扉。


 晴人は立ち上がった。


 写真を封筒に入れ、バッグの底へ押し込む。


 玄関で靴を履くとき、ふと棚の上の鍵に目が留まった。


 父の家の鍵。


 もう何年も使っていない。


 なぜそこにあるのか、自分でもわからなかった。


 以前から置いてあった気もする。


 昨日置いた気もする。


 晴人はそれを手に取った。


 金属は、氷のように冷たかった。



 三〇四号室のある古い集合住宅は、午前の光の中でも暗かった。


 建物の周りには解体工事用の足場が組まれ、青い防音シートが風に揺れている。シートの向こうで、誰かが金属を叩く音がした。遠い雷のように、鈍く響く。


 解体予定日は、また延期になった。


 理由は書類上の問題。


 管理会社から送られてきた短いメールには、そう書かれていた。


 けれど晴人には、別の理由のように思えた。


 この建物そのものが、壊されることを拒んでいる。


 そんな馬鹿げた考えが、頭の端から離れなかった。


 瀬奈は一階の郵便受けの前に立っていた。


 黒いジャケットに、肩から斜めにかけたバッグ。髪は後ろでひとつに結ばれている。顔色は悪いが、目だけは冴えていた。


「早いですね」


「そっちこそ」


「眠れませんでした」


 瀬奈はそう言って、郵便受けを指差した。


 三〇四。


 そこだけ、名前札が外れていた。


 昨日までは、空室を示す小さな白い紙が入っていたはずだった。


 今は何もない。


 ただ、金属の表面に細い傷がついていた。


 横に一本。


 縦に一本。


 四角い形。


 小さな扉のような傷。


「ここにも」


 瀬奈が言った。


 晴人は答えず、階段の方へ歩いた。


 エレベーターは使わなかった。


 古い建物特有の湿った匂いが、階段室に溜まっていた。コンクリートの壁には雨染みが伸び、手すりの塗装は剥がれている。二階へ上がる途中で、上から子どもの笑い声が聞こえた気がした。


 晴人は足を止めた。


「聞こえました?」


 瀬奈が小声で言う。


「……いや」


「嘘が下手ですね」


 晴人は何も言わなかった。


 また階段を上がる。


 三階の踊り場に出た瞬間、廊下の蛍光灯が一度だけ瞬いた。


 細い白い光が、廊下の奥へ伸びる。


 三〇一。


 三〇二。


 三〇三。


 三〇四。


 その向こう。


 以前はなかった扉。


 晴人は喉を鳴らした。


 扉は、そこにあった。


 前に見たときと同じ場所。


 廊下の突き当たり、図面上では壁で終わっているはずの位置。


 茶色の木製扉。


 古びた真鍮の取っ手。


 表札のない枠。


 そして、扉の下からわずかに漏れる、畳の匂い。


「本当にあるんですね」


 瀬奈の声は、驚きよりも確認に近かった。


「見えるのか」


「見えます」


「前は?」


「写真では見えませんでした。水野さんの説明と、記録だけです」


「じゃあ、今はなぜ」


 瀬奈はバッグから一冊のノートを取り出した。


 母のノート。


 角が擦り切れ、表紙に古い水染みがある。


「これを開いたあとからです」


 瀬奈はノートを開いた。


 晴人は横から覗き込む。


 ページの中央に、扉の絵があった。


 昨日までは薄い線だったはずの扉。


 今は濃く、黒く、紙を焦がしたように浮かび上がっている。


 その下に、文字が増えていた。


 母の筆跡ではない。


 橘の字にも似ていない。


 子どものような、丸い字。


 お兄ちゃんを入れないで。


 晴人の手から、空気が抜けた。


「これ……」


「今朝、出ていました」


 瀬奈はページを押さえた。


 指先がわずかに震えている。


「結衣さんの字ですか」


 晴人はすぐに答えられなかった。


 文字を見る。


 お兄ちゃんを入れないで。


 丸い。


 でも、結衣はもっと右上がりに書いていた。


 小学校の連絡帳に残っていた字。


 夏休みの宿題のプリント。


 晴人に宛てた小さな手紙。


 それらとは、似ている。


 似すぎている。


 だからこそ、少しだけ違う部分が不気味だった。


「わからない」


 晴人は言った。


「似てる。でも、違う」


「部屋が書いたのかもしれません」


「部屋が?」


「人の記憶を使って」


 瀬奈はノートを閉じた。


「橘さんが言ったことを思い出してください。痛みは消えない。ただ誰かに移るだけ。あの部屋が見せるものは、救いではないかもしれない」


「それでも」


 晴人は扉を見た。


「確かめる」


「何を?」


「俺の記憶が、どこまで本当なのか」


 瀬奈は晴人を見た。


 責めるような目ではなかった。


 止めるような目でもない。


 ただ、そこに立っている人間の奥を見ようとする目だった。


「水野さんは、結衣さんを救いたいんですか」


 廊下の空気が、一段冷えた気がした。


 晴人は答えなかった。


 救いたい。


 その言葉は、簡単すぎた。


 会いたい。


 それも違う。


 謝りたい。


 それは近い。


 でも、もっと深いところにあるものは、言葉にならなかった。


 あの日からずっと、胸の奥で腐らず残っているもの。


 自分だけが生きているという事実。


 結衣の声を忘れそうになるたびに、安心してしまう自分。


 その安心に、毎回吐き気がした。


「俺は」


 晴人は言った。


「何を忘れたのか知りたい」


 瀬奈は少しだけ目を伏せた。


「……わかりました」


 彼女はスマートフォンを取り出し、録音アプリを開いた。


「記録を残します。中で何か起きたら、できるだけ声に出してください」


「そんな余裕があると思うか」


「思いません。でも、やらないよりはましです」


 瀬奈は録音ボタンを押した。


 赤い点が画面に灯る。


 小さな赤い目のようだった。


 晴人は扉の前に立った。


 取っ手に手を伸ばす。


 冷たい。


 前と同じだ。


 真鍮の取っ手は、まるで地下水に浸かっていたように冷えていた。


「水野さん」


 瀬奈が背後で言った。


「戻るときは、私の声を目印にしてください」


「声?」


「名前を呼びます。何が見えても、私の声が聞こえたら戻ってきてください」


 晴人は振り返らなかった。


「わかった」


「約束です」


「ああ」


 晴人は取っ手を回した。


 扉は、音もなく開いた。



 畳の部屋ではなかった。


 晴人は足を踏み入れた瞬間、それに気づいた。


 そこにあったのは、子どもの頃に暮らしていた家の玄関だった。


 狭い三和土。


 木目の古い下駄箱。


 壁にかけられた薄い黄色の傘。


 鍵を置くための小さな皿。


 すべて、覚えている。


 忘れたと思っていたものまで、細かくそこにあった。


 下駄箱の上に置かれた招き猫の置物。


 欠けた右耳。


 母が百円ショップで買ってきて、結衣が赤い油性ペンで目を塗った。


 晴人は一歩も動けなかった。


 背後を振り返る。


 扉はなかった。


 廊下もない。


 瀬奈もいない。


 ただ、玄関の磨りガラスの向こうに、午後の光が滲んでいる。


 遠くで蝉が鳴いていた。


 夏の音。


 十年前の音。


「……瀬奈」


 呼んでみた。


 返事はない。


 録音アプリの赤い点も見えない。


 スマートフォンを取り出そうとして、ポケットに手を入れる。


 何もなかった。


 スマートフォンがない。


 バッグもない。


 手には、なぜか父の家の鍵だけが握られていた。


 古い金属の感触。


 晴人はそれを見つめた。


 鍵には、小さなプラスチックのタグがついている。


 青いタグ。


 そこに、母の字で書かれていた。


 晴人用。


 十年前、家を出るときに持っていた鍵。


 あの日も。


 持っていた。


 晴人は喉の奥が詰まるのを感じた。


 玄関の奥から、足音が聞こえた。


 ぱたぱた、と軽い音。


 スリッパを履かない小さな足。


「お兄ちゃん?」


 晴人は顔を上げた。


 廊下の向こうから、結衣の声がした。


 けれど姿は見えない。


「帰ってきたの?」


 晴人の胸が強く鳴った。


 声を出そうとした。


 出なかった。


 廊下の壁には、家族写真が飾られていた。


 今の写真よりも新しい。


 火事の少し前に撮ったものだ。


 結衣の前歯が一本抜けていて、笑うと少し隙間が見える。母はそれを見て笑っていた。父はいつも通り、笑い方がぎこちなかった。


 晴人は写真の中の自分を見た。


 十九歳の自分。


 白い半袖シャツをだらしなく着て、ポケットに手を突っ込んでいる。


 目が不機嫌だった。


 その自分の顔は、はっきりしていた。


 まだ、消えていない。


「お兄ちゃん?」


 結衣の声が近づく。


 晴人は靴を脱いだ。


 足の裏に、廊下の木の冷たさが触れる。


 懐かしい感触だった。


 廊下を進む。


 左手に台所。


 右手に居間。


 奥に階段。


 そのすべてが、記憶より少しだけ明るかった。


 あるいは、記憶の方が暗くなっていただけなのかもしれない。


 台所から味噌汁の匂いがした。


 包丁がまな板を叩く音。


 母の鼻歌。


 父が新聞をめくる音。


 どこにでもある、ただの家の音。


 晴人は居間の入り口で立ち止まった。


 そこに母がいた。


 若い。


 十年前の母。


 髪を後ろでまとめ、エプロンの裾で濡れた手を拭いている。


「晴人、帰ってたの」


 母はそう言って、自然に笑った。


 晴人は息を呑む。


 声も、表情も、全部そのままだった。


 今の母は、もうこんなふうに笑わない。


 笑えないのだと思っていた。


 違う。


 その笑い方ごと、どこかに置いてきたのだ。


「……母さん」


「何、その顔。熱でもあるの?」


 母が近づこうとした瞬間、晴人は一歩下がった。


 母の足が止まる。


 少しだけ不思議そうに首を傾げる。


 けれど、その違和感はすぐに消えた。


 まるでこの世界が、晴人の反応を深く追及しないように作られているみたいに。


「結衣なら二階よ。また折り紙散らかしてる」


 母は台所へ戻りながら言った。


「夕飯までに片づけなさいって言っておいて」


 晴人は二階を見上げた。


 階段の上から、紙を折る音が聞こえる。


 かすかな、乾いた音。


 晴人は階段に足をかけた。


 一段。


 また一段。


 木が小さく軋む。


 それも覚えていた。


 三段目だけ、少し低い音がする。


 父が何度も直すと言って、結局直さなかった場所。


 二階の廊下に出ると、空気が少し変わった。


 下の生活音が遠くなる。


 結衣の部屋の扉が半分開いていた。


 隙間から、白い紙が見えた。


 晴人は扉の前に立つ。


 中を覗く。


 結衣は床に座っていた。


 薄い水色のワンピース。


 膝の上には折り紙。


 前に零号室で見た姿と同じだった。


 けれど、この部屋の結衣は、もう少し生きているように見えた。


 頬に血色があり、髪が窓から入る風で小さく揺れている。


 机の上にはランドセル。


 壁には夏休みの予定表。


 窓辺には朝顔の鉢。


 そこにいるのは、記憶でも幻でもなく、十年前の結衣そのものに見えた。


「お兄ちゃん」


 結衣が振り返った。


 そして笑った。


「遅かったね」


 晴人の足元が揺れた。


 その言葉。


 前にも聞いた。


 零号室で。


 結衣は同じ声で言った。


 遅すぎたよ。


「結衣」


「何?」


 結衣は首を傾げた。


 その無邪気な仕草が、晴人の胸を切った。


「今日……何日だ」


「変なの」


 結衣は笑い、机の上のカレンダーを指差した。


 八月十七日。


 赤い丸がついている。


 晴人はその日付を見た瞬間、胃の奥が冷たくなった。


 火事の日。


 結衣が死んだ日。


 晴人の中で、長いあいだ黒く閉じられていた蓋が、音もなく浮き上がる。


 あの日の午後。


 父は仕事で遅くなると言っていた。


 母は近所のスーパーへ買い物に出た。


 晴人は部活をさぼって早く帰ってきた。


 結衣は家にいた。


 そこまでは覚えている。


 その先は、いつも曖昧になる。


 煙。


 熱。


 誰かの叫び声。


 自分の手。


 走る足。


 振り返ったときには、家が燃えていた。


 結衣は二階にいた。


 そう聞かされた。


 そう思っていた。


「お兄ちゃん?」


 結衣が心配そうに眉を寄せた。


「顔、白いよ」


 晴人は無理に息を吸った。


「結衣、今日は外に出るんだ」


「え?」


「今すぐ」


「どうして?」


「いいから」


 晴人は部屋に入った。


 結衣の腕を掴もうとした。


 けれど、指先が触れる直前で止まった。


 前に零号室で聞いた橘の声が、頭の奥で響く。


 痛みは消えない。


 ただ、誰かに移るだけだ。


 ここで結衣を連れ出したら、何が変わる。


 誰が忘れる。


 誰が消える。


 晴人の指が震えた。


 結衣はその手を見て、小さく笑った。


「また怒ってるの?」


「怒ってない」


「じゃあ、どうしたの」


「……覚えてないんだ」


「何を?」


「この日に、何が起きたのか」


 結衣は晴人を見上げた。


 その目が、急に静かになった。


 十二歳の少女の目ではない。


 もっと古いものを知っている目。


 零号室で見た結衣と同じ目。


「思い出したいの?」


 声の温度が変わった。


 晴人の背中に、冷たいものが走る。


「お前は……誰だ」


 結衣は答えなかった。


 窓の外で、蝉の声が一瞬止まった。


 部屋の空気が重くなる。


 机の上の折り紙が、一枚だけふわりと浮いた。


 風はない。


 白い紙は宙で半分に折れ、また開き、鶴の形になっていく。


 結衣はそれを見ない。


 ただ晴人だけを見ていた。


「お兄ちゃんは、ずっと間違えてる」


「何を」


「あの日のこと」


 晴人の喉が乾いた。


「俺は、結衣を助けられなかった」


「ううん」


 結衣は首を横に振った。


「違うよ」


 その声は優しかった。


 優しすぎた。


「お兄ちゃんは、助けられなかったんじゃない」


 廊下の奥で、何かが落ちる音がした。


 下の階から、母の声が聞こえる。


「結衣、晴人、ごはんできるわよ」


 平和な声。


 何も知らない声。


 晴人は動けなかった。


 結衣は立ち上がった。


 その手には、いつの間にか白い折り鶴が握られている。


「見せてあげる」


「何を」


「お兄ちゃんが、忘れたところ」


 部屋の壁が、ゆっくり暗くなった。


 夕方の影ではない。


 煙のような黒さ。


 鼻の奥に、焦げた匂いが刺さる。


 晴人は反射的に口元を押さえた。


 結衣の部屋の天井に、細い黒い筋が走る。


 一筋。


 二筋。


 それは煙ではなく、ひび割れのようにも見えた。


 壁紙の下から、別の時間が滲み出している。


「結衣、やめろ」


「やめたら、また忘れるよ」


「いい」


「よくない」


 結衣は初めて、少しだけ怒った顔をした。


 その表情も、晴人は知っていた。


 昔、晴人が彼女の折り紙を勝手に捨てたとき。


 宿題を見てやる約束を破ったとき。


 結衣は泣く前に、必ずこんな顔をした。


「お兄ちゃんは、ずっと自分だけ悪者にしてる」


「違うのか」


「違う」


「じゃあ誰が悪い」


 結衣は答えなかった。


 部屋の空気が、さらに熱を帯びる。


 夏の暑さではない。


 火の近くにいるときの、皮膚の表面だけが先に乾く熱。


 晴人の耳の奥で、パチ、と音がした。


 木が爆ぜる音。


 まだ見えていない火が、どこかで息をしている。


 晴人は窓へ向かった。


 開けようとする。


 鍵はかかっていない。


 けれど窓は動かなかった。


 力を入れても、びくともしない。


 ガラスの向こうの景色が歪んでいる。


 隣家の屋根。


 電線。


 青い空。


 それらが水の中に沈んだみたいに揺れていた。


「ここは記憶だから」


 結衣が言った。


「お兄ちゃんが覚えていない場所には、出られない」


「なら、どこに行けばいい」


「下」


「下?」


「最初の火は、下から来た」


 晴人は振り返った。


「そんなはずない」


 記録では二階の子ども部屋付近から出火。


 そう聞いていた。


 母も、警察も、消防の記録も。


 いや。


 消防の記録は、瀬奈が言っていた。


 原因は、違うかもしれないと。


「行こう」


 結衣が扉へ向かう。


 晴人は慌ててその背中を追った。


 廊下へ出た瞬間、家の中の明るさが変わった。


 さっきまで聞こえていた母の鼻歌が消えている。


 台所の包丁の音もない。


 代わりに、低い唸りのような音が聞こえた。


 家全体が、どこか遠くで軋んでいる。


 階段の下から、薄い煙が上がっていた。


 白い。


 まだ黒くない。


 晴人は手すりを握った。


 木が熱い。


 記憶の中なのに、熱さだけは本物だった。


「結衣、待て」


 結衣は振り返らなかった。


 小さな背中が、煙の方へ向かっていく。


 その姿を見た瞬間、晴人の頭の奥で何かが弾けた。


 違う。


 この場面を知っている。


 自分は、ここにいた。


 階段の上。


 煙。


 結衣の背中。


 そして、自分の声。


 行くな。


 そう叫んだはずだった。


 いや。


 叫ばなかった。


 声が出なかった。


 晴人は手すりに爪を立てた。


 視界が揺れる。


「思い出して」


 結衣が階段の途中で言った。


「お兄ちゃん」


 その声が、遠くから聞こえる。


 瀬奈の声ではない。


 結衣の声。


 でも、どこかで別の声が重なっている。


 水野さん。


 戻ってきてください。


 かすかに聞こえた気がした。


 晴人は振り返ろうとした。


 背後には結衣の部屋。


 その奥の壁に、細い扉の線が浮かんでいる。


 帰り道。


 たぶん、そこへ行けば戻れる。


 けれど階段の下から、母の叫び声がした。


「晴人!」


 晴人の足が止まる。


 母の声。


 十年前の母の声。


 恐怖に引き裂かれた声。


 晴人は階段を駆け下りた。


 途中で煙が目に入る。


 涙が出る。


 喉が焼ける。


 それでも下へ向かう。


 居間に出た。


 そこはもう、さっきの居間ではなかった。


 テーブルの上の新聞が燃えている。


 カーテンの裾に火が移り、黄色い舌のように揺れている。


 天井近くに煙が溜まり、部屋の上半分を黒く塗りつぶしていた。


 母の姿はない。


 父もいない。


 ただ、玄関の方から冷たい風が入ってくる。


 扉が開いていた。


 外へ出られる。


 晴人は一歩そちらへ進んだ。


 その瞬間、背後で結衣が咳き込んだ。


 振り返る。


 結衣は階段の下に立っていた。


 小さな体を折り曲げ、煙の中で口元を押さえている。


「結衣!」


 晴人は走ろうとした。


 けれど足が動かなかった。


 床が、まるで水の中の泥のように重い。


 進もうとするほど、足首に何かが絡みつく。


 晴人は下を見た。


 黒い手。


 影のような手が、床板の隙間から伸びている。


 何本も。


 細く、冷たく。


 晴人の足を掴んでいた。


「違う」


 晴人は呟いた。


「こんなの、なかった」


 結衣が顔を上げた。


 煙の向こうで、その目だけがはっきり見えた。


「なかったんじゃない」


 結衣は言った。


「覚えてないだけ」


 影の手が、晴人の足を強く引いた。


 体が後ろへ倒れそうになる。


 そのとき、別の声がはっきり聞こえた。


「水野さん!」


 瀬奈の声。


 現実の声。


 遠い廊下から、扉の外から、必死に呼ぶ声。


「戻ってください!」


 晴人は歯を食いしばった。


 結衣を見る。


 結衣は煙の中で、静かに首を横に振った。


 行かないで。


 そう言っているのか。


 それとも。


 行って。


 そう言っているのか。


 わからない。


 晴人は手を伸ばした。


「結衣!」


 その瞬間、居間の奥で何かが崩れた。


 大きな音。


 火花が舞う。


 視界が白く弾ける。


 熱と煙が、晴人の顔を打った。


 世界が反転した。



 晴人は廊下の床に膝をついていた。


 誰かが肩を掴んでいる。


 強く。


 痛いほど強く。


「水野さん!」


 瀬奈の声だった。


 晴人は咳き込んだ。


 喉が焼けるように痛い。


 実際に煙を吸ったわけではないはずなのに、肺の奥まで黒く汚れたような感覚が残っている。


 目から涙が流れていた。


 鼻の奥に焦げた匂いが貼りついている。


 晴人は床に手をついた。


 古い集合住宅の廊下。


 蛍光灯。


 瀬奈。


 三〇四号室。


 そして、目の前の扉。


 零号室の扉は、半分だけ開いていた。


 中は暗い。


 畳の部屋ではない。


 幼い家でもない。


 ただ黒い闇だけが、そこに残っていた。


「どれくらい」


 晴人は掠れた声で聞いた。


「三分です」


 瀬奈が答える。


「でも、呼んでも反応がなくて……途中から、中から煙の匂いがしました」


「煙?」


「はい」


 瀬奈は晴人の袖を見た。


 晴人も自分の腕を見る。


 シャツの袖口が、黒く焦げていた。


 小さな穴が開いている。


 現実の服が。


 晴人は息を止めた。


 瀬奈も黙る。


 廊下の蛍光灯が、じじ、と音を立てた。


「中で、何を見ましたか」


 瀬奈が聞いた。


 晴人は答えようとした。


 けれど言葉にならない。


 家。


 母。


 結衣。


 八月十七日。


 火。


 影の手。


 そして、結衣の言葉。


 お兄ちゃんは、助けられなかったんじゃない。


 晴人は胸を押さえた。


 心臓が、まだ火の中に置き去りにされたみたいに暴れている。


 瀬奈は録音されたスマートフォンを確認した。


 画面を見て、眉を寄せる。


「録れていません」


「何?」


「入った瞬間から、音が全部消えています」


 瀬奈は再生ボタンを押した。


 スピーカーから聞こえたのは、ただの無音だった。


 いや。


 完全な無音ではない。


 耳を近づけると、かすかに何かが聞こえた。


 紙を折る音。


 そして、小さな女の子の声。


 晴人はスマートフォンを奪うように受け取った。


 音量を上げる。


 瀬奈も隣で耳を澄ませた。


 ざらざらしたノイズの奥。


 火が燃えるような音の中。


 結衣の声がした。


「お兄ちゃん」


 晴人の指が固まる。


 次の声は、もっと小さかった。


 けれど、はっきり聞こえた。


「今度は、見ててね」


 録音はそこで途切れた。


 廊下に沈黙が落ちる。


 晴人は顔を上げた。


 開いたままの零号室の奥に、赤い光が灯っていた。


 炎の色。


 闇の向こうで、古い家の階段が見えた。


 そこに、十二歳の結衣が立っている。


 煙の中で。


 火の中で。


 死んだ日の姿で。


 結衣は晴人を見て、唇を動かした。


 声は聞こえなかった。


 それでも晴人には、何を言ったのかわかった。


 お兄ちゃん。


 今度は、逃げないで。


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