表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
零号室  作者: 清忠
16/30

(第二部 . 第八章 ) 火の中の呼び声

火の色は、記憶の中よりも暗かった。


 赤ではない。


 橙でもない。


 それは、黒に近い色をしていた。


 燃えているのは壁でも、床でも、家具でもなかった。もっと奥にあるもの。声や匂い、まだ言えなかった言葉、取り返しのつかない一秒。


 晴人は零号室の入口に立ったまま、動けなかった。


 開いた扉の向こうに、十年前の家があった。


 古い二階建ての木造住宅。


 廊下の先に階段。


 階段の上に、煙。


 その煙の中に、結衣が立っている。


 十二歳のままの姿で。


 火事の日の姿で。


 薄い水色のワンピースの裾が、煙に揺れていた。


 結衣は晴人を見ていた。


 唇が動く。


 声は聞こえない。


 それでも、晴人にはわかった。


 お兄ちゃん。


 今度は、逃げないで。


「水野さん」


 背後で瀬奈の声がした。


 遠かった。


 同じ廊下にいるはずなのに、水の底から聞こえてくるみたいだった。


「入らないでください」


 晴人は返事をしなかった。


 できなかった。


 喉の奥が、もう煙で塞がれている。


 目の前の闇の中で、結衣がゆっくり背を向けた。


 階段の上へ歩き出す。


 小さな裸足が、一段目に乗る。


 その足音が聞こえた。


 ぎし、と。


 十年前と同じ音だった。


 晴人の右手が勝手に動いた。


 扉の縁に触れる。


 冷たいはずの木が、熱を持っていた。


「水野さん!」


 瀬奈が腕を掴んだ。


 爪が食い込むほど強かった。


「今、入ったら――」


「見ないと駄目だ」


 晴人は言った。


 自分の声が、ひどく静かだった。


「もう、見ないふりはできない」


 瀬奈の手が震えた。


 晴人はその震えに気づいた。


 気づいたのに、振り払った。


 瀬奈の指が外れる。


 一瞬、彼女の表情が見えた。


 怒りでも、恐怖でもない。


 置いていかれる人間の顔だった。


 晴人はそれを見ないようにして、零号室へ足を踏み入れた。


 畳の部屋はなかった。


 次の瞬間、熱が頬を打った。



 そこは、夜だった。


 八月十七日。


 蒸し暑い夜。


 蝉の声が、どこか遠くでまだ鳴いていた。


 晴人は玄関の内側に立っていた。


 靴箱の上に、母が置いた小さな陶器の犬がある。首のところに赤いリボンが巻かれている。父がどこかの出張土産に買ってきたものだ。


 そんなものまで、はっきり見えた。


 忘れていたはずなのに。


 家の匂いがした。


 洗剤。


 古い木。


 夕飯の残りの味噌汁。


 そして、その奥に混じる、焦げた匂い。


 晴人は息を吸った。


 肺が焼けるように痛んだ。


 視界の端で、カレンダーが揺れていた。


 八月十七日。


 黒い丸が、日付のところについている。


 結衣の文字。


 おまつり。


 小さく、丸い字だった。


「……違う」


 晴人は呟いた。


 こんなもの、覚えていなかった。


 覚えていないのではない。


 思い出さないようにしていた。


 廊下の奥で、何かが落ちる音がした。


 台所だ。


 晴人は足を踏み出した。


 床板が軋む。


 自分の家なのに、他人の家を歩いているようだった。


 リビングの襖が半分開いている。


 中から、テレビの音が漏れていた。


 夏のニュース。


 どこかの花火大会。


 アナウンサーの明るい声。


 その声の下で、炎が小さく鳴っていた。


 ぱち。


 ぱち。


 台所のコンロではない。


 リビングの隅、仏壇の横に置かれた古い延長コードのあたりから、細い煙が上がっていた。


 まだ火は小さい。


 黒い蛇みたいな煙が、畳の上を這っている。


 晴人はそこへ駆け寄ろうとした。


 だが体が動かなかった。


 足が床に縫いつけられている。


 いや、動けないのではない。


 この記憶の中で、晴人は見ているだけだった。


 過去の晴人が、リビングの中央に座っている。


 十九歳の晴人。


 白い半袖シャツ。


 短く切った髪。


 不機嫌そうな横顔。


 手には携帯ゲーム機を持っている。


 テレビの音も、煙の匂いも、何も気づいていない。


 晴人は自分自身を見た。


 十九歳の自分は、顔を上げずに舌打ちした。


「うるさいな」


 階段の上から、結衣の声がした。


「お兄ちゃん、私のハサミ知らない?」


「知らない」


「さっき使ってたでしょ」


「使ってない」


「嘘。机の上にあったもん」


「だったら机見ればいいだろ」


 十九歳の晴人は、ゲームの画面から目を離さない。


 結衣の足音が階段を降りてくる。


 とん、とん、とん。


 水色のワンピース。


 手には折り紙の束。


 結衣はリビングの入口に立って、鼻を動かした。


「なんか、くさい」


 晴人の心臓が跳ねた。


 十九歳の自分はまだ画面を見ている。


「夕飯の匂いだろ」


「違うよ。焦げてる」


 結衣がリビングに入る。


 仏壇の横へ視線を向けた。


 その瞬間、延長コードの先で小さな火花が弾けた。


 ぱん。


 音は小さかった。


 けれど結衣はびくっと肩を揺らした。


「お兄ちゃん」


「何」


「火」


 十九歳の晴人がようやく顔を上げた。


 火は、もう畳に移っていた。


 新聞紙の束。


 その上に置かれていた古い雑誌。


 火はそこへ舌を伸ばし、一気に大きくなった。


 晴人は叫んだ。


 それが今の自分の声なのか、過去の自分の声なのかわからなかった。


「逃げろ!」


 十九歳の晴人も同じことを叫んでいた。


「結衣、逃げろ!」


 結衣は動かなかった。


 目の前の火を見ている。


 小さな体が固まっている。


 晴人は過去の自分に向かって叫んだ。


 走れ。


 早く結衣を連れて行け。


 でも十九歳の晴人も、一瞬だけ動けなかった。


 その一瞬が、火を大きくした。


 カーテンに燃え移る。


 黒い煙が天井に広がる。


 テレビ画面が赤く反射する。


 十九歳の晴人はようやく立ち上がり、結衣の手を掴んだ。


「来い!」


 結衣の折り紙が床に散らばった。


 白い紙。


 赤い紙。


 黄色い紙。


 その上を煙がなめていく。


「お母さんは?」


「いいから来い!」


「お母さん、二階だよ!」


 晴人は息を止めた。


 二階。


 母はその夜、二階にいた。


 そうだ。


 風邪気味で早く寝ていた。


 なぜ忘れていた。


 いや。


 忘れていたのではない。


 記憶の中で、そこだけが黒く塗りつぶされていた。


 十九歳の晴人は結衣の手を引いた。


 玄関へ向かう。


 煙が廊下に流れ込む。


 結衣は何度も振り返った。


「お母さん!」


「俺があとで呼ぶ!」


「だめだよ、寝てる!」


「うるさい! 早く!」


 晴人はその場に立ち尽くした。


 過去の自分の声が、耳を刺した。


 うるさい。


 結衣に向かって、そう言った。


 火事の夜に。


 結衣は口を閉じた。


 泣きそうな顔をした。


 けれど走った。


 十九歳の晴人に引かれるまま、玄関へ。


 玄関の扉が開く。


 外の空気が入ってくる。


 黒い煙が一気に流れた。


 近所の誰かが叫んでいる。


 遠くで犬が吠えている。


 夜の湿った空気。


 アスファルトの匂い。


 結衣は外に出た。


 十九歳の晴人も外へ飛び出した。


 晴人はそこで、記憶が終わると思っていた。


 ずっとそう信じていた。


 自分は結衣を連れ出せなかった。


 自分だけが逃げた。


 結衣は二階にいて、助けを呼ぶ声を聞きながら死んだ。


 それが十年間、晴人の中にあった真実だった。


 だが、違った。


 結衣は、確かに一度、外に出ていた。


 火の外へ。


 生きて。


 息をして。


 晴人の隣に立っていた。



 外は騒がしかった。


 近所の人たちが集まり始めている。


 誰かが携帯電話で消防に連絡している。


 誰かがバケツを持って走っている。


 家の一階の窓から、黒い煙が噴き出していた。


 十九歳の晴人は道路に膝をつき、咳き込んでいた。


 結衣もその隣にいた。


 顔は煤で汚れている。


 目だけが大きく開いている。


「お母さん」


 結衣が言った。


 十九歳の晴人は咳をしながら、首を振った。


「駄目だ」


「お母さん、まだ中だよ」


「駄目だって!」


 その声は怒鳴り声だった。


 恐怖が、怒りの形をして出ていた。


 結衣は黙った。


 家の二階の窓が、赤く光っている。


 母の部屋。


 薄いカーテンの向こうで、炎が揺れていた。


 晴人は現在の自分のまま、その光景を見ていた。


 胸の奥が軋む。


 外に出たなら。


 結衣は助かったはずだ。


 なぜ死んだ。


 なぜ、結衣は死ななければならなかった。


 答えは、目の前にあった。


 結衣が立ち上がった。


 十九歳の晴人は気づかなかった。


 咳き込み、涙を拭い、燃える家を見上げていた。


 結衣は一歩、家へ向かった。


 晴人は叫んだ。


「やめろ!」


 声は届かない。


 結衣の小さな背中が、火の光に照らされる。


 彼女は玄関の前で振り返った。


 十九歳の晴人ではなく、現在の晴人を見た。


 そんなはずはない。


 これは記憶だ。


 過去の映像だ。


 けれど結衣は、確かに晴人を見ていた。


「お兄ちゃん」


 声が聞こえた。


 十年前の声。


 零号室の声。


 両方が重なっていた。


「今度は、ちゃんと見てて」


 晴人の足が動いた。


 初めて、記憶の中で足が動いた。


 結衣へ向かって走る。


 手を伸ばす。


 けれど距離が縮まらない。


 玄関はすぐそこにあるのに、走っても走っても近づかない。


 結衣は家の中へ戻った。


「結衣!」


 十九歳の晴人も、ようやく気づいた。


 顔を上げる。


 結衣の姿が玄関の闇に消える。


「結衣!」


 過去の晴人が立ち上がる。


 だが近所の男が彼を押さえた。


「行くな! もう無理だ!」


「妹が!」


「消防が来る!」


「離せ!」


 十九歳の晴人が暴れる。


 腕を振り回し、男の手を振りほどこうとする。


 けれど体格が違った。


 煙を吸った体に力は残っていない。


 晴人は現在の自分のまま、玄関へ走った。


 今度は止める者はいない。


 火の中へ足を踏み入れる。


 熱が皮膚を刺した。


 息をした瞬間、喉が焼ける。


 だが痛みは、遠かった。


 これは記憶だ。


 それなのに、シャツの袖が焦げる匂いがした。


 床を這う煙。


 天井を走る炎。


 階段の方から、結衣の咳き込む声がした。


「結衣!」


 晴人は廊下を走った。


 足元に折り紙が散っている。


 半分燃えた鶴。


 白い羽が黒く縮んでいく。


 リビングの中で、テレビがまだついていた。


 画面には花火が映っている。


 赤。


 青。


 金色。


 その音が、炎の音と混ざっていた。


 晴人は階段の下に着いた。


 上から、結衣の声。


「お母さん!」


 晴人は階段を見上げた。


 二階へ続く木の階段は、煙でほとんど見えない。


 一段目に足をかける。


 熱い。


 木が焼けている。


 手すりが黒く焦げ、触れた手のひらに煤がつく。


 それでも上る。


 一段。


 二段。


 三段。


 途中で、背後から誰かの声がした。


「晴人」


 父の声だった。


 晴人は振り返った。


 玄関の近くに、父が立っていた。


 仕事着のまま。


 顔は煙でぼやけている。


 はっきり見えない。


 写真の中と同じように。


「来るな」


 父が言った。


 声だけが、妙に鮮明だった。


「お前は、来るな」


 晴人は目を見開いた。


 父はこの夜、家にいなかったはずだ。


 仕事で遅くなると、母が言っていた。


 それが晴人の記憶だった。


 でも、父はここにいる。


 玄関の煙の中に。


 顔だけが、どうしても見えない。


「父さん……?」


 父は答えなかった。


 その背後で、炎が大きく跳ねた。


 父の輪郭が揺れる。


 まるで燃えた写真の中の人物みたいに、端から崩れていく。


「行くな」


 もう一度、父が言った。


「そこへ行ったら、お前は思い出す」


 晴人は階段の手すりを握りしめた。


 手のひらが熱で痛む。


「何を」


 父の顔が、煙の中で溶けていた。


「お前が、忘れたことだ」


 その瞬間、二階で結衣が叫んだ。


「お兄ちゃん!」


 晴人は父から目を離した。


 階段を駆け上がる。


 背後で父の声が遠ざかった。


「晴人」


 それは責める声ではなかった。


 止める声でもなかった。


 謝る声だった。



 二階の廊下は、煙で白かった。


 視界はほとんどない。


 壁に貼られた家族写真が、熱で反り返っている。


 夏祭りの写真。


 父の顔。


 晴人はそれを見た。


 その一瞬だけ、写真の中の父の顔が見えた気がした。


 汗ばんだ額。


 困ったような笑み。


 そして、目。


 何かを隠している目。


 次の瞬間、写真は火に包まれた。


 晴人は廊下を進んだ。


 母の部屋の扉が開いている。


 中から、結衣の咳が聞こえる。


「お母さん、起きて!」


 晴人は部屋に入った。


 そこに母はいなかった。


 布団は乱れている。


 枕元の薬。


 水の入ったコップ。


 開いた窓。


 カーテンが煙に揺れている。


 結衣は布団のそばに膝をついていた。


 目を大きく開けている。


「いない」


 結衣が言った。


 声が震えている。


「お母さん、いない」


 晴人は言葉を失った。


 母はいなかった。


 この時点で、母はもう外にいたのか。


 それとも別の部屋にいたのか。


 記憶は、まだ歪んでいる。


 部屋の隅で、何かが倒れた。


 本棚だ。


 熱で歪んだ棚が、ゆっくり傾いている。


 結衣のすぐ横。


「結衣、そこから離れろ!」


 晴人は叫んだ。


 結衣は振り返った。


 現在の晴人を見ている。


 煙で涙を流しながら、かすかに笑った。


「やっと来た」


 晴人の胸が詰まる。


「早く逃げろ」


「お兄ちゃんは?」


「俺はいい。お前は逃げろ」


「それ、前も言った」


 結衣の声が、静かだった。


 十二歳の子どもの声ではない。


 零号室で何度も同じ場面を見てきた者の声だった。


「何度も言った。でも、お兄ちゃんはいつも同じところで止まる」


「何を言ってる」


「思い出さないから」


 天井から火の粉が落ちた。


 布団に燃え移る。


 部屋が一気に明るくなった。


 結衣の顔が、炎の色に染まる。


「私は、一度外に出たんだよ」


 晴人は頷けなかった。


 聞きたくなかった。


 それ以上は。


 でも結衣は続けた。


「お兄ちゃんが、私を外に出してくれた」


「なら、なんで……」


「戻ったから」


 晴人の視界が歪んだ。


「お母さんを助けるために?」


 結衣は首を横に振った。


 ゆっくりと。


「最初は、そう思った」


 棚がさらに傾く。


 晴人は結衣へ手を伸ばした。


 今度は届きそうだった。


 指先が、結衣の肩に触れる寸前で止まる。


 透明な壁があるみたいに、それ以上進まない。


「でも、階段の下で聞こえたの」


「何が」


 結衣は廊下の方を見た。


 煙の向こう。


 階段の下。


 そこから、十九歳の晴人の声が聞こえた。


 妹が!


 離せ!


 結衣!


 声は泣いていた。


 怒っていた。


 壊れていた。


 結衣はその声を聞いていたのだ。


 二階で。


 火の中で。


「お兄ちゃんが、こっちに来ようとしてた」


 結衣は言った。


「だから、戻らなきゃって思った」


「戻る?」


「お兄ちゃんを止めるために」


 晴人は息を忘れた。


 結衣は折り紙の束を胸に抱いていた。


 いつの間に持っていたのか、わからない。


 その中に、白い紙が一枚あった。


「私が外に出てたら、お兄ちゃんは中に戻った」


「そんなこと」


「するよ」


 結衣は即座に言った。


 その目は、十年前の妹の目ではなかった。


 兄を知っている目だった。


「お兄ちゃんは、自分だけ助かるのが嫌いだから」


「違う」


「違わない」


 結衣は少しだけ笑った。


 煙で濡れた頬に、煤がついている。


「だから私、二階に戻ったの」


 晴人の耳の奥で、何かが割れた。


 十年間、固まっていた記憶の殻。


 それが、ひび割れていく。


「お前は……」


 声が出ない。


「俺を、助けるために……?」


 結衣は答えなかった。


 答えなくてもわかった。


 晴人の体から力が抜ける。


 膝をつきそうになる。


 だが床は燃えていた。


 熱が皮膚を刺す。


 それでも痛みは、足りなかった。


 足りるはずがなかった。


「そんなの、頼んでない」


 言葉が勝手にこぼれた。


 幼い言い方だった。


 十九歳の自分と同じだった。


「頼んでない……俺は、そんなこと」


「うん」


 結衣は頷いた。


「頼まれてない」


「だったら!」


 晴人は叫んだ。


「だったら、なんで!」


 炎が天井を走った。


 部屋全体が赤く揺れる。


 結衣は目を伏せた。


 手の中の白い折り紙を、一度だけ撫でる。


「お兄ちゃんに、死んでほしくなかったから」


 その言葉は、火よりも熱かった。


 晴人は何も言えなかった。


 十年間、自分は逆の罪を背負っていた。


 結衣を見捨てた。


 結衣を置いて逃げた。


 結衣を助けられなかった。


 そう思って生きてきた。


 けれど本当は。


 結衣は、自分を死なせないために火の中へ戻った。


 晴人が知らないところで。


 晴人が忘れたままの場所で。



 廊下の向こうで、何かが崩れた。


 家全体が揺れる。


 階段の一部が燃え落ちたのだ。


 結衣はその音を聞いて、顔を上げた。


「もうすぐ」


「何が」


「お兄ちゃんが、ここまで来る」


 晴人は廊下を見た。


 煙の奥から、十九歳の晴人の声が近づいている。


 結衣!


 どこだ!


 近所の男を振りほどいたのか。


 それとも、これは記憶が歪んで見せているだけなのか。


 わからない。


 だが声は、確かに近づいていた。


 結衣の顔から血の気が引いた。


「だめ」


 彼女は小さく言った。


「来ちゃだめ」


 晴人は手を伸ばした。


「結衣、俺に何をさせたい」


 結衣は晴人を見た。


「見てて」


「それだけか」


「うん」


「俺は、何もできないのか」


「今は」


 今は。


 その言葉に、晴人は寒気を覚えた。


 部屋の中は燃えているのに、背筋だけが冷たかった。


「いつならできる」


 結衣は答えなかった。


 代わりに、折り紙を広げた。


 白い正方形の紙。


 煙に濡れ、端が少し黒くなっている。


 その紙を、彼女は折り始めた。


 こんな場所で。


 こんな時に。


 角を合わせる。


 折り目をつける。


 指が震えているのに、何度もやり直す。


 晴人はそれを見ていた。


 何度も見た光景だった。


 零号室の畳の上。


 結衣はいつも折り鶴を折っていた。


 あれは遊びではなかった。


 合図だったのか。


 目印だったのか。


 あるいは、記憶を縫い止めるための何かだったのか。


「お兄ちゃん」


 結衣が言った。


「覚えてて」


「何を」


「私が戻ったこと」


 晴人は唇を噛んだ。


 血の味がした。


「忘れるわけない」


 結衣は小さく首を振った。


「忘れたよ」


 晴人は言葉を失う。


「十年も」


 責める言い方ではなかった。


 ただ事実を言っているだけだった。


 だから余計に痛かった。


「でも、仕方ないと思う」


「仕方なくない」


「ううん。仕方ないよ」


 結衣は折り鶴の首を作った。


 少し曲がった。


 彼女らしい形だった。


「だって、覚えてたら、お兄ちゃんは生きられなかった」


 晴人は息を吸った。


 煙が入ってくる。


 喉が焼ける。


 目から涙が流れる。


 それが煙のせいなのか、そうではないのか、もうわからなかった。


「誰が消した」


 晴人は聞いた。


「俺の記憶を、誰が消した」


 結衣の指が止まる。


 折りかけの鶴が、手の中で震えた。


「結衣」


「……部屋」


 彼女は小さく言った。


「部屋が、持っていった」


 晴人は零号室を思い出した。


 図面にない部屋。


 扉の向こうの畳。


 折り鶴。


 父の顔がぼやけた写真。


 痛みは消えない。


 ただ、誰かに移るだけだ。


「部屋は、何をした」


 結衣は晴人を見なかった。


「お兄ちゃんが生きるために、必要なものを持っていった」


「俺の記憶を?」


「うん」


「その代わりに、何を取った」


 結衣は黙った。


 炎の音だけが大きくなる。


 晴人は一歩近づこうとした。


 見えない壁に阻まれる。


「答えろ」


 結衣の目が揺れた。


 初めて、彼女の顔に恐怖が見えた。


「まだ、だめ」


「なぜ」


「全部思い出したら、次に消える人がいる」


 晴人の喉が詰まった。


「誰だ」


 結衣は答えない。


 視線だけを廊下の方へ向けた。


 そこから、十九歳の晴人の声が聞こえた。


 近い。


 すぐそこだ。


「結衣!」


 結衣は立ち上がった。


 折り鶴を胸に抱いたまま、扉の方へ向かう。


 晴人は叫んだ。


「行くな!」


 結衣は振り返った。


 炎の中で、少しだけ笑った。


「今度は、ちゃんと見ててね」


 その言葉と同時に、廊下から十九歳の晴人が飛び込んできた。


 顔は煤で黒い。


 目は涙と煙で真っ赤だった。


「結衣!」


 十九歳の晴人が、結衣へ駆け寄ろうとする。


 その瞬間、天井が崩れた。


 火のついた梁が、二人の間に落ちる。


 轟音。


 火花。


 熱風。


 十九歳の晴人は後ろへ吹き飛ばされた。


 結衣は、彼の前に立っていた。


 小さな体で。


 兄の方へ飛んできた火の粉を、遮るように。


 晴人はその光景を見た。


 見てしまった。


 記憶の奥に押し込められていた真実。


 結衣は逃げ遅れたのではない。


 助けを待っていたのでもない。


 彼女は戻った。


 兄を止めるために。


 兄を生かすために。


 そして最後の瞬間まで、兄の前に立っていた。



 音が消えた。


 炎の音も。


 十九歳の晴人の叫び声も。


 外のサイレンも。


 すべてが遠ざかる。


 晴人は白い光の中に立っていた。


 さっきまで燃えていた部屋が、形を失っていく。


 壁がほどける。


 天井が紙のように剥がれる。


 床が水面みたいに揺れる。


 その中央に、結衣がいた。


 火傷も、煤も消えている。


 水色のワンピースだけが、少しだけ焦げている。


 手には、白い折り鶴。


「お兄ちゃん」


 声は近かった。


 すぐ隣にいるみたいだった。


 晴人は膝をついた。


 立っていられなかった。


「ごめん」


 言葉が、勝手に出た。


「ごめん、結衣」


 結衣は首を横に振った。


「謝らないで」


「俺は、忘れてた」


「うん」


「お前が、俺を助けてくれたことも」


「うん」


「お前が外に出てたことも」


「うん」


「俺は……」


 声が崩れた。


 十年間、涙にならなかったものが、胸の奥から上がってくる。


 けれど涙は出なかった。


 ただ息だけが震えた。


「俺は、自分だけが助かったと思ってた」


 結衣は晴人の前にしゃがんだ。


 手を伸ばす。


 小さな指が、晴人の頬に触れようとする。


 触れない。


 透明な距離が、二人の間に残っている。


「それでよかった」


「よくない」


「お兄ちゃんは生きてる」


「お前は死んだ」


「うん」


 結衣は静かに頷いた。


 その素直さが、晴人をさらに壊した。


「じゃあ、よくないだろ」


 結衣は答えなかった。


 代わりに、折り鶴を晴人の足元に置いた。


 白い鶴。


 片方の羽が、少し焦げている。


「持っていって」


「何を」


「思い出したこと」


 晴人は折り鶴を見た。


 手を伸ばす。


 今度は触れた。


 紙は熱くなかった。


 冷たくもなかった。


 ただ、確かにそこにあった。


「結衣」


 晴人は顔を上げた。


「お前は、何なんだ」


 結衣の表情が、ほんの少しだけ変わった。


 笑みが薄くなる。


 目の奥に、知らない暗さが沈む。


「わからない」


「本当に?」


「うん」


 結衣は自分の胸に手を当てた。


「私は結衣だと思う。でも、時々、そうじゃない気がする」


 晴人は息を止めた。


「誰かに、何かを言わされてるのか」


 結衣は答えようとした。


 しかし、その口が開いた瞬間、部屋の奥から黒い線が伸びた。


 影だった。


 火の影ではない。


 零号室そのものの影。


 それが結衣の足元に絡みつく。


 晴人は立ち上がった。


「結衣!」


 結衣は苦しそうに顔をしかめた。


 でも叫ばなかった。


 慣れているみたいに。


 何度もこうして引き戻されてきたみたいに。


「もう行かなきゃ」


「待て」


「お兄ちゃん」


 結衣の声が、急に幼くなった。


 十二歳の妹の声に戻った。


「次に来たら、選ばされる」


「何を」


「私を助けるか」


 影が結衣の膝まで上がる。


 白い床が黒く染まる。


「今の誰かを、失くすか」


 晴人の背筋が凍った。


「どういう意味だ」


「部屋は、空っぽじゃない」


 結衣は晴人を見つめた。


「誰かの後悔で、いっぱいなの」


 影が彼女の腰を覆う。


 晴人は走った。


 今度は距離が縮まった。


 手を伸ばす。


 あと少し。


 結衣の指先が見える。


 しかし、触れる寸前で、床が割れた。


 白い光が裂け、下から黒い煙が噴き上がる。


 晴人の体が後ろへ引かれた。


 誰かが腕を掴んでいる。


 瀬奈の手。


 現実の手だった。


「水野さん!」


 瀬奈の声が聞こえる。


「戻ってきて!」


 晴人は抵抗した。


 結衣へ手を伸ばす。


「結衣!」


 結衣は影に沈みながら、唇を動かした。


 声はもう聞こえなかった。


 けれど、今度は読み取れた。


 お兄ちゃん。


 私は、助けられたんだよ。


 次の瞬間、世界が弾けた。



 晴人は廊下に倒れていた。


 頬に冷たい床の感触がある。


 喉が焼けるように痛い。


 肺の奥で、煙の味がした。


「水野さん!」


 瀬奈が肩を揺さぶっている。


 晴人は咳き込んだ。


 黒い煤が、唇の端に付いた。


 瀬奈の顔色が変わる。


「血じゃない……煤?」


 晴人は起き上がろうとした。


 体が重い。


 全身が火の中を通ってきたみたいだった。


 右腕の袖が焦げている。


 前よりも大きく。


 布地が黒く縮み、皮膚に熱が残っている。


 零号室の扉は閉じていた。


 さっきまで見えていた炎の色はない。


 ただ、古い木の扉がそこにある。


 何事もなかったみたいに。


 瀬奈がスマートフォンを見た。


「九分……」


「何が」


「中にいた時間です。さっきは三分だったのに、今回は九分です」


 晴人は扉を見た。


 時間が伸びている。


 深く入るほど、長くなるのか。


 それとも、部屋の方が手放さなくなっているのか。


「見た」


 晴人は呟いた。


 声が自分のものではないみたいに掠れていた。


「何をですか」


 瀬奈が聞く。


 晴人は答える前に、手の中の感触に気づいた。


 右手を開く。


 白い折り鶴があった。


 片方の羽が、黒く焦げている。


 瀬奈が息を呑む。


「それ……中から?」


 晴人は頷いた。


 折り鶴の腹の部分に、細い文字があった。


 結衣の字。


 火で少し滲んでいる。


 晴人は震える指で、それを開こうとした。


「待ってください」


 瀬奈が止めた。


「もし、それも代償に関係していたら」


「関係してる」


 晴人は言った。


「でも、見なきゃいけない」


 瀬奈は手を離した。


 晴人は折り鶴をゆっくり開いた。


 紙が軋む。


 折り目が戻る。


 焦げた羽が崩れないように、慎重に広げる。


 中に、短い言葉が書かれていた。


 お兄ちゃんは、助けられなかったんじゃない。


 その下に、もう一行。


 私は、お兄ちゃんを助けるために戻った。


 文字が滲んだ。


 晴人の指先が震えたせいか。


 それとも、紙そのものが泣いているみたいに湿っていたせいか。


 瀬奈は何も言わなかった。


 ただ、隣で息を止めていた。


 晴人は紙を握りしめられなかった。


 破れてしまいそうだった。


 だから、両手でそっと包んだ。


 廊下の蛍光灯が、じじ、と鳴った。


 三〇四号室の奥から、誰かが歩く音がした。


 一歩。


 また一歩。


 扉の向こうではない。


 壁の中。


 古い集合住宅の配管のさらに奥。


 そこを、誰かが歩いている。


 瀬奈が顔を上げた。


「聞こえますか」


「ああ」


 晴人は扉から目を離さない。


 足音は、子どものものではなかった。


 重い。


 ゆっくり。


 大人の足音。


 そしてその足音の下に、もうひとつ音が混じっていた。


 紙を折る音。


 かさり。


 かさり。


 瀬奈のスマートフォンが震えた。


 画面が勝手に点灯する。


 録音アプリが、停止していたはずなのに再生を始めていた。


 ノイズ。


 火の音。


 そして、結衣の声。


「お兄ちゃん」


 晴人は画面を見た。


 録音時間は、九分ではなかった。


 表示されている数字は、十年前の日付だった。


 八月十七日。


 瀬奈が青ざめる。


 再生された声は、続いた。


「思い出したら、次は消えるよ」


 誰が。


 晴人はそう聞こうとした。


 その前に、廊下の奥で非常灯が赤く点滅した。


 誰も押していないはずの火災報知器が、古い建物の中で鳴り始めた。


 けたたましいベルの音。


 赤い光。


 煙の匂い。


 そして、閉じた零号室の扉の向こうから、結衣ではない声がした。


「晴人」


 父の声だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ