(第二部 . 第八章 ) 火の中の呼び声
火の色は、記憶の中よりも暗かった。
赤ではない。
橙でもない。
それは、黒に近い色をしていた。
燃えているのは壁でも、床でも、家具でもなかった。もっと奥にあるもの。声や匂い、まだ言えなかった言葉、取り返しのつかない一秒。
晴人は零号室の入口に立ったまま、動けなかった。
開いた扉の向こうに、十年前の家があった。
古い二階建ての木造住宅。
廊下の先に階段。
階段の上に、煙。
その煙の中に、結衣が立っている。
十二歳のままの姿で。
火事の日の姿で。
薄い水色のワンピースの裾が、煙に揺れていた。
結衣は晴人を見ていた。
唇が動く。
声は聞こえない。
それでも、晴人にはわかった。
お兄ちゃん。
今度は、逃げないで。
「水野さん」
背後で瀬奈の声がした。
遠かった。
同じ廊下にいるはずなのに、水の底から聞こえてくるみたいだった。
「入らないでください」
晴人は返事をしなかった。
できなかった。
喉の奥が、もう煙で塞がれている。
目の前の闇の中で、結衣がゆっくり背を向けた。
階段の上へ歩き出す。
小さな裸足が、一段目に乗る。
その足音が聞こえた。
ぎし、と。
十年前と同じ音だった。
晴人の右手が勝手に動いた。
扉の縁に触れる。
冷たいはずの木が、熱を持っていた。
「水野さん!」
瀬奈が腕を掴んだ。
爪が食い込むほど強かった。
「今、入ったら――」
「見ないと駄目だ」
晴人は言った。
自分の声が、ひどく静かだった。
「もう、見ないふりはできない」
瀬奈の手が震えた。
晴人はその震えに気づいた。
気づいたのに、振り払った。
瀬奈の指が外れる。
一瞬、彼女の表情が見えた。
怒りでも、恐怖でもない。
置いていかれる人間の顔だった。
晴人はそれを見ないようにして、零号室へ足を踏み入れた。
畳の部屋はなかった。
次の瞬間、熱が頬を打った。
*
そこは、夜だった。
八月十七日。
蒸し暑い夜。
蝉の声が、どこか遠くでまだ鳴いていた。
晴人は玄関の内側に立っていた。
靴箱の上に、母が置いた小さな陶器の犬がある。首のところに赤いリボンが巻かれている。父がどこかの出張土産に買ってきたものだ。
そんなものまで、はっきり見えた。
忘れていたはずなのに。
家の匂いがした。
洗剤。
古い木。
夕飯の残りの味噌汁。
そして、その奥に混じる、焦げた匂い。
晴人は息を吸った。
肺が焼けるように痛んだ。
視界の端で、カレンダーが揺れていた。
八月十七日。
黒い丸が、日付のところについている。
結衣の文字。
おまつり。
小さく、丸い字だった。
「……違う」
晴人は呟いた。
こんなもの、覚えていなかった。
覚えていないのではない。
思い出さないようにしていた。
廊下の奥で、何かが落ちる音がした。
台所だ。
晴人は足を踏み出した。
床板が軋む。
自分の家なのに、他人の家を歩いているようだった。
リビングの襖が半分開いている。
中から、テレビの音が漏れていた。
夏のニュース。
どこかの花火大会。
アナウンサーの明るい声。
その声の下で、炎が小さく鳴っていた。
ぱち。
ぱち。
台所のコンロではない。
リビングの隅、仏壇の横に置かれた古い延長コードのあたりから、細い煙が上がっていた。
まだ火は小さい。
黒い蛇みたいな煙が、畳の上を這っている。
晴人はそこへ駆け寄ろうとした。
だが体が動かなかった。
足が床に縫いつけられている。
いや、動けないのではない。
この記憶の中で、晴人は見ているだけだった。
過去の晴人が、リビングの中央に座っている。
十九歳の晴人。
白い半袖シャツ。
短く切った髪。
不機嫌そうな横顔。
手には携帯ゲーム機を持っている。
テレビの音も、煙の匂いも、何も気づいていない。
晴人は自分自身を見た。
十九歳の自分は、顔を上げずに舌打ちした。
「うるさいな」
階段の上から、結衣の声がした。
「お兄ちゃん、私のハサミ知らない?」
「知らない」
「さっき使ってたでしょ」
「使ってない」
「嘘。机の上にあったもん」
「だったら机見ればいいだろ」
十九歳の晴人は、ゲームの画面から目を離さない。
結衣の足音が階段を降りてくる。
とん、とん、とん。
水色のワンピース。
手には折り紙の束。
結衣はリビングの入口に立って、鼻を動かした。
「なんか、くさい」
晴人の心臓が跳ねた。
十九歳の自分はまだ画面を見ている。
「夕飯の匂いだろ」
「違うよ。焦げてる」
結衣がリビングに入る。
仏壇の横へ視線を向けた。
その瞬間、延長コードの先で小さな火花が弾けた。
ぱん。
音は小さかった。
けれど結衣はびくっと肩を揺らした。
「お兄ちゃん」
「何」
「火」
十九歳の晴人がようやく顔を上げた。
火は、もう畳に移っていた。
新聞紙の束。
その上に置かれていた古い雑誌。
火はそこへ舌を伸ばし、一気に大きくなった。
晴人は叫んだ。
それが今の自分の声なのか、過去の自分の声なのかわからなかった。
「逃げろ!」
十九歳の晴人も同じことを叫んでいた。
「結衣、逃げろ!」
結衣は動かなかった。
目の前の火を見ている。
小さな体が固まっている。
晴人は過去の自分に向かって叫んだ。
走れ。
早く結衣を連れて行け。
でも十九歳の晴人も、一瞬だけ動けなかった。
その一瞬が、火を大きくした。
カーテンに燃え移る。
黒い煙が天井に広がる。
テレビ画面が赤く反射する。
十九歳の晴人はようやく立ち上がり、結衣の手を掴んだ。
「来い!」
結衣の折り紙が床に散らばった。
白い紙。
赤い紙。
黄色い紙。
その上を煙がなめていく。
「お母さんは?」
「いいから来い!」
「お母さん、二階だよ!」
晴人は息を止めた。
二階。
母はその夜、二階にいた。
そうだ。
風邪気味で早く寝ていた。
なぜ忘れていた。
いや。
忘れていたのではない。
記憶の中で、そこだけが黒く塗りつぶされていた。
十九歳の晴人は結衣の手を引いた。
玄関へ向かう。
煙が廊下に流れ込む。
結衣は何度も振り返った。
「お母さん!」
「俺があとで呼ぶ!」
「だめだよ、寝てる!」
「うるさい! 早く!」
晴人はその場に立ち尽くした。
過去の自分の声が、耳を刺した。
うるさい。
結衣に向かって、そう言った。
火事の夜に。
結衣は口を閉じた。
泣きそうな顔をした。
けれど走った。
十九歳の晴人に引かれるまま、玄関へ。
玄関の扉が開く。
外の空気が入ってくる。
黒い煙が一気に流れた。
近所の誰かが叫んでいる。
遠くで犬が吠えている。
夜の湿った空気。
アスファルトの匂い。
結衣は外に出た。
十九歳の晴人も外へ飛び出した。
晴人はそこで、記憶が終わると思っていた。
ずっとそう信じていた。
自分は結衣を連れ出せなかった。
自分だけが逃げた。
結衣は二階にいて、助けを呼ぶ声を聞きながら死んだ。
それが十年間、晴人の中にあった真実だった。
だが、違った。
結衣は、確かに一度、外に出ていた。
火の外へ。
生きて。
息をして。
晴人の隣に立っていた。
*
外は騒がしかった。
近所の人たちが集まり始めている。
誰かが携帯電話で消防に連絡している。
誰かがバケツを持って走っている。
家の一階の窓から、黒い煙が噴き出していた。
十九歳の晴人は道路に膝をつき、咳き込んでいた。
結衣もその隣にいた。
顔は煤で汚れている。
目だけが大きく開いている。
「お母さん」
結衣が言った。
十九歳の晴人は咳をしながら、首を振った。
「駄目だ」
「お母さん、まだ中だよ」
「駄目だって!」
その声は怒鳴り声だった。
恐怖が、怒りの形をして出ていた。
結衣は黙った。
家の二階の窓が、赤く光っている。
母の部屋。
薄いカーテンの向こうで、炎が揺れていた。
晴人は現在の自分のまま、その光景を見ていた。
胸の奥が軋む。
外に出たなら。
結衣は助かったはずだ。
なぜ死んだ。
なぜ、結衣は死ななければならなかった。
答えは、目の前にあった。
結衣が立ち上がった。
十九歳の晴人は気づかなかった。
咳き込み、涙を拭い、燃える家を見上げていた。
結衣は一歩、家へ向かった。
晴人は叫んだ。
「やめろ!」
声は届かない。
結衣の小さな背中が、火の光に照らされる。
彼女は玄関の前で振り返った。
十九歳の晴人ではなく、現在の晴人を見た。
そんなはずはない。
これは記憶だ。
過去の映像だ。
けれど結衣は、確かに晴人を見ていた。
「お兄ちゃん」
声が聞こえた。
十年前の声。
零号室の声。
両方が重なっていた。
「今度は、ちゃんと見てて」
晴人の足が動いた。
初めて、記憶の中で足が動いた。
結衣へ向かって走る。
手を伸ばす。
けれど距離が縮まらない。
玄関はすぐそこにあるのに、走っても走っても近づかない。
結衣は家の中へ戻った。
「結衣!」
十九歳の晴人も、ようやく気づいた。
顔を上げる。
結衣の姿が玄関の闇に消える。
「結衣!」
過去の晴人が立ち上がる。
だが近所の男が彼を押さえた。
「行くな! もう無理だ!」
「妹が!」
「消防が来る!」
「離せ!」
十九歳の晴人が暴れる。
腕を振り回し、男の手を振りほどこうとする。
けれど体格が違った。
煙を吸った体に力は残っていない。
晴人は現在の自分のまま、玄関へ走った。
今度は止める者はいない。
火の中へ足を踏み入れる。
熱が皮膚を刺した。
息をした瞬間、喉が焼ける。
だが痛みは、遠かった。
これは記憶だ。
それなのに、シャツの袖が焦げる匂いがした。
床を這う煙。
天井を走る炎。
階段の方から、結衣の咳き込む声がした。
「結衣!」
晴人は廊下を走った。
足元に折り紙が散っている。
半分燃えた鶴。
白い羽が黒く縮んでいく。
リビングの中で、テレビがまだついていた。
画面には花火が映っている。
赤。
青。
金色。
その音が、炎の音と混ざっていた。
晴人は階段の下に着いた。
上から、結衣の声。
「お母さん!」
晴人は階段を見上げた。
二階へ続く木の階段は、煙でほとんど見えない。
一段目に足をかける。
熱い。
木が焼けている。
手すりが黒く焦げ、触れた手のひらに煤がつく。
それでも上る。
一段。
二段。
三段。
途中で、背後から誰かの声がした。
「晴人」
父の声だった。
晴人は振り返った。
玄関の近くに、父が立っていた。
仕事着のまま。
顔は煙でぼやけている。
はっきり見えない。
写真の中と同じように。
「来るな」
父が言った。
声だけが、妙に鮮明だった。
「お前は、来るな」
晴人は目を見開いた。
父はこの夜、家にいなかったはずだ。
仕事で遅くなると、母が言っていた。
それが晴人の記憶だった。
でも、父はここにいる。
玄関の煙の中に。
顔だけが、どうしても見えない。
「父さん……?」
父は答えなかった。
その背後で、炎が大きく跳ねた。
父の輪郭が揺れる。
まるで燃えた写真の中の人物みたいに、端から崩れていく。
「行くな」
もう一度、父が言った。
「そこへ行ったら、お前は思い出す」
晴人は階段の手すりを握りしめた。
手のひらが熱で痛む。
「何を」
父の顔が、煙の中で溶けていた。
「お前が、忘れたことだ」
その瞬間、二階で結衣が叫んだ。
「お兄ちゃん!」
晴人は父から目を離した。
階段を駆け上がる。
背後で父の声が遠ざかった。
「晴人」
それは責める声ではなかった。
止める声でもなかった。
謝る声だった。
*
二階の廊下は、煙で白かった。
視界はほとんどない。
壁に貼られた家族写真が、熱で反り返っている。
夏祭りの写真。
父の顔。
晴人はそれを見た。
その一瞬だけ、写真の中の父の顔が見えた気がした。
汗ばんだ額。
困ったような笑み。
そして、目。
何かを隠している目。
次の瞬間、写真は火に包まれた。
晴人は廊下を進んだ。
母の部屋の扉が開いている。
中から、結衣の咳が聞こえる。
「お母さん、起きて!」
晴人は部屋に入った。
そこに母はいなかった。
布団は乱れている。
枕元の薬。
水の入ったコップ。
開いた窓。
カーテンが煙に揺れている。
結衣は布団のそばに膝をついていた。
目を大きく開けている。
「いない」
結衣が言った。
声が震えている。
「お母さん、いない」
晴人は言葉を失った。
母はいなかった。
この時点で、母はもう外にいたのか。
それとも別の部屋にいたのか。
記憶は、まだ歪んでいる。
部屋の隅で、何かが倒れた。
本棚だ。
熱で歪んだ棚が、ゆっくり傾いている。
結衣のすぐ横。
「結衣、そこから離れろ!」
晴人は叫んだ。
結衣は振り返った。
現在の晴人を見ている。
煙で涙を流しながら、かすかに笑った。
「やっと来た」
晴人の胸が詰まる。
「早く逃げろ」
「お兄ちゃんは?」
「俺はいい。お前は逃げろ」
「それ、前も言った」
結衣の声が、静かだった。
十二歳の子どもの声ではない。
零号室で何度も同じ場面を見てきた者の声だった。
「何度も言った。でも、お兄ちゃんはいつも同じところで止まる」
「何を言ってる」
「思い出さないから」
天井から火の粉が落ちた。
布団に燃え移る。
部屋が一気に明るくなった。
結衣の顔が、炎の色に染まる。
「私は、一度外に出たんだよ」
晴人は頷けなかった。
聞きたくなかった。
それ以上は。
でも結衣は続けた。
「お兄ちゃんが、私を外に出してくれた」
「なら、なんで……」
「戻ったから」
晴人の視界が歪んだ。
「お母さんを助けるために?」
結衣は首を横に振った。
ゆっくりと。
「最初は、そう思った」
棚がさらに傾く。
晴人は結衣へ手を伸ばした。
今度は届きそうだった。
指先が、結衣の肩に触れる寸前で止まる。
透明な壁があるみたいに、それ以上進まない。
「でも、階段の下で聞こえたの」
「何が」
結衣は廊下の方を見た。
煙の向こう。
階段の下。
そこから、十九歳の晴人の声が聞こえた。
妹が!
離せ!
結衣!
声は泣いていた。
怒っていた。
壊れていた。
結衣はその声を聞いていたのだ。
二階で。
火の中で。
「お兄ちゃんが、こっちに来ようとしてた」
結衣は言った。
「だから、戻らなきゃって思った」
「戻る?」
「お兄ちゃんを止めるために」
晴人は息を忘れた。
結衣は折り紙の束を胸に抱いていた。
いつの間に持っていたのか、わからない。
その中に、白い紙が一枚あった。
「私が外に出てたら、お兄ちゃんは中に戻った」
「そんなこと」
「するよ」
結衣は即座に言った。
その目は、十年前の妹の目ではなかった。
兄を知っている目だった。
「お兄ちゃんは、自分だけ助かるのが嫌いだから」
「違う」
「違わない」
結衣は少しだけ笑った。
煙で濡れた頬に、煤がついている。
「だから私、二階に戻ったの」
晴人の耳の奥で、何かが割れた。
十年間、固まっていた記憶の殻。
それが、ひび割れていく。
「お前は……」
声が出ない。
「俺を、助けるために……?」
結衣は答えなかった。
答えなくてもわかった。
晴人の体から力が抜ける。
膝をつきそうになる。
だが床は燃えていた。
熱が皮膚を刺す。
それでも痛みは、足りなかった。
足りるはずがなかった。
「そんなの、頼んでない」
言葉が勝手にこぼれた。
幼い言い方だった。
十九歳の自分と同じだった。
「頼んでない……俺は、そんなこと」
「うん」
結衣は頷いた。
「頼まれてない」
「だったら!」
晴人は叫んだ。
「だったら、なんで!」
炎が天井を走った。
部屋全体が赤く揺れる。
結衣は目を伏せた。
手の中の白い折り紙を、一度だけ撫でる。
「お兄ちゃんに、死んでほしくなかったから」
その言葉は、火よりも熱かった。
晴人は何も言えなかった。
十年間、自分は逆の罪を背負っていた。
結衣を見捨てた。
結衣を置いて逃げた。
結衣を助けられなかった。
そう思って生きてきた。
けれど本当は。
結衣は、自分を死なせないために火の中へ戻った。
晴人が知らないところで。
晴人が忘れたままの場所で。
*
廊下の向こうで、何かが崩れた。
家全体が揺れる。
階段の一部が燃え落ちたのだ。
結衣はその音を聞いて、顔を上げた。
「もうすぐ」
「何が」
「お兄ちゃんが、ここまで来る」
晴人は廊下を見た。
煙の奥から、十九歳の晴人の声が近づいている。
結衣!
どこだ!
近所の男を振りほどいたのか。
それとも、これは記憶が歪んで見せているだけなのか。
わからない。
だが声は、確かに近づいていた。
結衣の顔から血の気が引いた。
「だめ」
彼女は小さく言った。
「来ちゃだめ」
晴人は手を伸ばした。
「結衣、俺に何をさせたい」
結衣は晴人を見た。
「見てて」
「それだけか」
「うん」
「俺は、何もできないのか」
「今は」
今は。
その言葉に、晴人は寒気を覚えた。
部屋の中は燃えているのに、背筋だけが冷たかった。
「いつならできる」
結衣は答えなかった。
代わりに、折り紙を広げた。
白い正方形の紙。
煙に濡れ、端が少し黒くなっている。
その紙を、彼女は折り始めた。
こんな場所で。
こんな時に。
角を合わせる。
折り目をつける。
指が震えているのに、何度もやり直す。
晴人はそれを見ていた。
何度も見た光景だった。
零号室の畳の上。
結衣はいつも折り鶴を折っていた。
あれは遊びではなかった。
合図だったのか。
目印だったのか。
あるいは、記憶を縫い止めるための何かだったのか。
「お兄ちゃん」
結衣が言った。
「覚えてて」
「何を」
「私が戻ったこと」
晴人は唇を噛んだ。
血の味がした。
「忘れるわけない」
結衣は小さく首を振った。
「忘れたよ」
晴人は言葉を失う。
「十年も」
責める言い方ではなかった。
ただ事実を言っているだけだった。
だから余計に痛かった。
「でも、仕方ないと思う」
「仕方なくない」
「ううん。仕方ないよ」
結衣は折り鶴の首を作った。
少し曲がった。
彼女らしい形だった。
「だって、覚えてたら、お兄ちゃんは生きられなかった」
晴人は息を吸った。
煙が入ってくる。
喉が焼ける。
目から涙が流れる。
それが煙のせいなのか、そうではないのか、もうわからなかった。
「誰が消した」
晴人は聞いた。
「俺の記憶を、誰が消した」
結衣の指が止まる。
折りかけの鶴が、手の中で震えた。
「結衣」
「……部屋」
彼女は小さく言った。
「部屋が、持っていった」
晴人は零号室を思い出した。
図面にない部屋。
扉の向こうの畳。
折り鶴。
父の顔がぼやけた写真。
痛みは消えない。
ただ、誰かに移るだけだ。
「部屋は、何をした」
結衣は晴人を見なかった。
「お兄ちゃんが生きるために、必要なものを持っていった」
「俺の記憶を?」
「うん」
「その代わりに、何を取った」
結衣は黙った。
炎の音だけが大きくなる。
晴人は一歩近づこうとした。
見えない壁に阻まれる。
「答えろ」
結衣の目が揺れた。
初めて、彼女の顔に恐怖が見えた。
「まだ、だめ」
「なぜ」
「全部思い出したら、次に消える人がいる」
晴人の喉が詰まった。
「誰だ」
結衣は答えない。
視線だけを廊下の方へ向けた。
そこから、十九歳の晴人の声が聞こえた。
近い。
すぐそこだ。
「結衣!」
結衣は立ち上がった。
折り鶴を胸に抱いたまま、扉の方へ向かう。
晴人は叫んだ。
「行くな!」
結衣は振り返った。
炎の中で、少しだけ笑った。
「今度は、ちゃんと見ててね」
その言葉と同時に、廊下から十九歳の晴人が飛び込んできた。
顔は煤で黒い。
目は涙と煙で真っ赤だった。
「結衣!」
十九歳の晴人が、結衣へ駆け寄ろうとする。
その瞬間、天井が崩れた。
火のついた梁が、二人の間に落ちる。
轟音。
火花。
熱風。
十九歳の晴人は後ろへ吹き飛ばされた。
結衣は、彼の前に立っていた。
小さな体で。
兄の方へ飛んできた火の粉を、遮るように。
晴人はその光景を見た。
見てしまった。
記憶の奥に押し込められていた真実。
結衣は逃げ遅れたのではない。
助けを待っていたのでもない。
彼女は戻った。
兄を止めるために。
兄を生かすために。
そして最後の瞬間まで、兄の前に立っていた。
*
音が消えた。
炎の音も。
十九歳の晴人の叫び声も。
外のサイレンも。
すべてが遠ざかる。
晴人は白い光の中に立っていた。
さっきまで燃えていた部屋が、形を失っていく。
壁がほどける。
天井が紙のように剥がれる。
床が水面みたいに揺れる。
その中央に、結衣がいた。
火傷も、煤も消えている。
水色のワンピースだけが、少しだけ焦げている。
手には、白い折り鶴。
「お兄ちゃん」
声は近かった。
すぐ隣にいるみたいだった。
晴人は膝をついた。
立っていられなかった。
「ごめん」
言葉が、勝手に出た。
「ごめん、結衣」
結衣は首を横に振った。
「謝らないで」
「俺は、忘れてた」
「うん」
「お前が、俺を助けてくれたことも」
「うん」
「お前が外に出てたことも」
「うん」
「俺は……」
声が崩れた。
十年間、涙にならなかったものが、胸の奥から上がってくる。
けれど涙は出なかった。
ただ息だけが震えた。
「俺は、自分だけが助かったと思ってた」
結衣は晴人の前にしゃがんだ。
手を伸ばす。
小さな指が、晴人の頬に触れようとする。
触れない。
透明な距離が、二人の間に残っている。
「それでよかった」
「よくない」
「お兄ちゃんは生きてる」
「お前は死んだ」
「うん」
結衣は静かに頷いた。
その素直さが、晴人をさらに壊した。
「じゃあ、よくないだろ」
結衣は答えなかった。
代わりに、折り鶴を晴人の足元に置いた。
白い鶴。
片方の羽が、少し焦げている。
「持っていって」
「何を」
「思い出したこと」
晴人は折り鶴を見た。
手を伸ばす。
今度は触れた。
紙は熱くなかった。
冷たくもなかった。
ただ、確かにそこにあった。
「結衣」
晴人は顔を上げた。
「お前は、何なんだ」
結衣の表情が、ほんの少しだけ変わった。
笑みが薄くなる。
目の奥に、知らない暗さが沈む。
「わからない」
「本当に?」
「うん」
結衣は自分の胸に手を当てた。
「私は結衣だと思う。でも、時々、そうじゃない気がする」
晴人は息を止めた。
「誰かに、何かを言わされてるのか」
結衣は答えようとした。
しかし、その口が開いた瞬間、部屋の奥から黒い線が伸びた。
影だった。
火の影ではない。
零号室そのものの影。
それが結衣の足元に絡みつく。
晴人は立ち上がった。
「結衣!」
結衣は苦しそうに顔をしかめた。
でも叫ばなかった。
慣れているみたいに。
何度もこうして引き戻されてきたみたいに。
「もう行かなきゃ」
「待て」
「お兄ちゃん」
結衣の声が、急に幼くなった。
十二歳の妹の声に戻った。
「次に来たら、選ばされる」
「何を」
「私を助けるか」
影が結衣の膝まで上がる。
白い床が黒く染まる。
「今の誰かを、失くすか」
晴人の背筋が凍った。
「どういう意味だ」
「部屋は、空っぽじゃない」
結衣は晴人を見つめた。
「誰かの後悔で、いっぱいなの」
影が彼女の腰を覆う。
晴人は走った。
今度は距離が縮まった。
手を伸ばす。
あと少し。
結衣の指先が見える。
しかし、触れる寸前で、床が割れた。
白い光が裂け、下から黒い煙が噴き上がる。
晴人の体が後ろへ引かれた。
誰かが腕を掴んでいる。
瀬奈の手。
現実の手だった。
「水野さん!」
瀬奈の声が聞こえる。
「戻ってきて!」
晴人は抵抗した。
結衣へ手を伸ばす。
「結衣!」
結衣は影に沈みながら、唇を動かした。
声はもう聞こえなかった。
けれど、今度は読み取れた。
お兄ちゃん。
私は、助けられたんだよ。
次の瞬間、世界が弾けた。
*
晴人は廊下に倒れていた。
頬に冷たい床の感触がある。
喉が焼けるように痛い。
肺の奥で、煙の味がした。
「水野さん!」
瀬奈が肩を揺さぶっている。
晴人は咳き込んだ。
黒い煤が、唇の端に付いた。
瀬奈の顔色が変わる。
「血じゃない……煤?」
晴人は起き上がろうとした。
体が重い。
全身が火の中を通ってきたみたいだった。
右腕の袖が焦げている。
前よりも大きく。
布地が黒く縮み、皮膚に熱が残っている。
零号室の扉は閉じていた。
さっきまで見えていた炎の色はない。
ただ、古い木の扉がそこにある。
何事もなかったみたいに。
瀬奈がスマートフォンを見た。
「九分……」
「何が」
「中にいた時間です。さっきは三分だったのに、今回は九分です」
晴人は扉を見た。
時間が伸びている。
深く入るほど、長くなるのか。
それとも、部屋の方が手放さなくなっているのか。
「見た」
晴人は呟いた。
声が自分のものではないみたいに掠れていた。
「何をですか」
瀬奈が聞く。
晴人は答える前に、手の中の感触に気づいた。
右手を開く。
白い折り鶴があった。
片方の羽が、黒く焦げている。
瀬奈が息を呑む。
「それ……中から?」
晴人は頷いた。
折り鶴の腹の部分に、細い文字があった。
結衣の字。
火で少し滲んでいる。
晴人は震える指で、それを開こうとした。
「待ってください」
瀬奈が止めた。
「もし、それも代償に関係していたら」
「関係してる」
晴人は言った。
「でも、見なきゃいけない」
瀬奈は手を離した。
晴人は折り鶴をゆっくり開いた。
紙が軋む。
折り目が戻る。
焦げた羽が崩れないように、慎重に広げる。
中に、短い言葉が書かれていた。
お兄ちゃんは、助けられなかったんじゃない。
その下に、もう一行。
私は、お兄ちゃんを助けるために戻った。
文字が滲んだ。
晴人の指先が震えたせいか。
それとも、紙そのものが泣いているみたいに湿っていたせいか。
瀬奈は何も言わなかった。
ただ、隣で息を止めていた。
晴人は紙を握りしめられなかった。
破れてしまいそうだった。
だから、両手でそっと包んだ。
廊下の蛍光灯が、じじ、と鳴った。
三〇四号室の奥から、誰かが歩く音がした。
一歩。
また一歩。
扉の向こうではない。
壁の中。
古い集合住宅の配管のさらに奥。
そこを、誰かが歩いている。
瀬奈が顔を上げた。
「聞こえますか」
「ああ」
晴人は扉から目を離さない。
足音は、子どものものではなかった。
重い。
ゆっくり。
大人の足音。
そしてその足音の下に、もうひとつ音が混じっていた。
紙を折る音。
かさり。
かさり。
瀬奈のスマートフォンが震えた。
画面が勝手に点灯する。
録音アプリが、停止していたはずなのに再生を始めていた。
ノイズ。
火の音。
そして、結衣の声。
「お兄ちゃん」
晴人は画面を見た。
録音時間は、九分ではなかった。
表示されている数字は、十年前の日付だった。
八月十七日。
瀬奈が青ざめる。
再生された声は、続いた。
「思い出したら、次は消えるよ」
誰が。
晴人はそう聞こうとした。
その前に、廊下の奥で非常灯が赤く点滅した。
誰も押していないはずの火災報知器が、古い建物の中で鳴り始めた。
けたたましいベルの音。
赤い光。
煙の匂い。
そして、閉じた零号室の扉の向こうから、結衣ではない声がした。
「晴人」
父の声だった。




