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零号室  作者: 清忠
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(第二部 . 第九章 ) 娘の名を忘れた母

父の声は、煙の匂いを連れてきた。


 晴人、と。


 たった三文字だった。


 けれどその声を聞いた瞬間、晴人の体の奥で、十年前から閉じ込められていた何かが音を立てて割れた。


 廊下の非常灯が赤く点滅している。


 ベルが鳴っている。


 古い集合住宅の壁が、火事の夜の家みたいに赤く染まっている。


 瀬奈が何かを叫んでいた。


 口元は見えた。


 けれど音は、ベルに潰されて届かなかった。


 晴人は零号室の扉に手を伸ばした。


 扉は閉じている。


 さっきまで、そこにあった。


 確かに、あった。


 木目の古い引き戸。


 触れると冷たく、内側に火の匂いを隠していた扉。


 だが晴人の指先が触れたのは、ざらついた壁紙だった。


 扉は消えていた。


 白く汚れた壁。


 古い水染み。


 剥がれかけたクロス。


 その上に、かすかに焦げ跡のような黒い線が残っているだけだった。


「……嘘だろ」


 晴人は壁を叩いた。


 一度。


 二度。


 返ってくる音は軽い。


 中に空間がある音ではなかった。


 ただの壁だ。


 何もない。


 けれど向こうから、もう一度声がした。


「晴人」


 今度は少し近かった。


 父の声だった。


 低くて、疲れていて、いつも最後の一言だけを飲み込むような声。


 晴人は壁に額を押しつけた。


「父さん」


 返事はなかった。


 ベルの音が遠のいていく。


 赤い光も、薄くなっていく。


 煙の匂いが消える。


 代わりに、湿ったコンクリートと古い畳の匂いが戻ってきた。


 瀬奈の手が晴人の肩を掴んだ。


「水野さん、離れてください」


 晴人は動かなかった。


「まだ中にいる」


「誰がですか」


「父さんだ」


 瀬奈の指が、一瞬だけ強張った。


「お父さんの声がしたんですか」


 晴人はうなずいた。


 頬が壁に触れたままだった。


 冷たかった。


 壁の向こうに人などいない。


 わかっている。


 それでも離れられなかった。


 十年前の火事のあと、父はほとんど家に帰らなくなった。


 葬儀の日も、父は泣かなかった。


 棺の前に立ち、結衣の顔を見て、ただ一度だけ目を閉じた。


 それだけだった。


 晴人は、その横顔を憎んだ。


 妹が死んだのに。


 母が壊れそうになっていたのに。


 どうしてそんな顔でいられるのか、と。


 けれど今、壁の向こうから聞こえた声は、あの日の父ではなかった。


 火の中で、誰かを呼び続けている声だった。


 晴人、と。


 まるで自分を探しているみたいに。


「水野さん」


 瀬奈が低く言った。


「ここに長くいるのは危険です」


「でも」


「今、あなたは何かを思い出した。結衣さんの声が言っていました。思い出したら、次は消える、と」


 晴人は壁から顔を離した。


 非常灯はもう点滅していなかった。


 廊下の奥は、普通の暗さに戻っていた。


 だが普通という言葉が、もう信用できなかった。


 晴人は手の中の折り鶴を見た。


 焦げた紙。


 開かれた羽。


 そこに書かれた結衣の言葉。


 私は、お兄ちゃんを助けるために戻った。


 文字はまだ残っていた。


 だが、ほんの少し薄くなったように見えた。


「誰が消えるんだ」


 晴人は言った。


 自分に聞いたのか、瀬奈に聞いたのか、わからなかった。


 瀬奈は答えなかった。


 その代わり、スマートフォンを見た。


 録音アプリは停止している。


 画面には、もう十年前の日付は表示されていなかった。


 ただ、現在の時刻だけが白く浮かんでいる。


 午前一時四十二分。


 夜はまだ深かった。


 瀬奈は小さく息を吐いた。


「確認するべき人がいます」


 晴人は彼女を見た。


「誰を」


 瀬奈は少し迷った。


 そして言った。


「あなたのお母さんです」



 母の住むマンションは、駅から少し離れた住宅街にあった。


 築三十年ほどの、薄い灰色の外壁をした五階建て。


 夜明け前の街はまだ眠っていて、道端の自動販売機だけが白い光を吐いていた。


 タクシーを降りると、冷たい空気が頬に触れた。


 八月のはずなのに、朝の空気は妙に冷えていた。


 晴人はエントランスの前で足を止めた。


 集合ポストの銀色の扉が、蛍光灯の下で並んでいる。


 その一つに、水野、と小さな黒い文字で貼られていた。


 母の字ではない。


 管理会社が作ったラベルだ。


 見慣れたはずの名字が、妙によそよそしく見えた。


「大丈夫ですか」


 瀬奈が隣で聞いた。


 晴人は返事をしようとして、声が出ないことに気づいた。


 母に会うだけだ。


 そう思おうとした。


 しかし、胸の奥で別の声が言っていた。


 会うだけでは済まない。


 何かを確認するために会う。


 何かが失われたかどうかを、母の顔で確かめる。


 それは、ひどく残酷なことだった。


 晴人はインターホンを押した。


 しばらく沈黙があった。


 スピーカーの奥で、小さなノイズが鳴る。


『はい』


 母の声だった。


 寝起きの、少し掠れた声。


 それだけで、晴人の肩から力が抜けそうになった。


「俺。晴人」


『晴人?』


 母は一瞬、驚いたようだった。


『こんな時間にどうしたの』


「近くまで来たから」


 嘘だった。


 けれど本当のことは言えなかった。


 十年前の火事を見てきた。


 結衣が俺を助けるために戻ったと知った。


 その代わりに、誰かが消えようとしているかもしれない。


 そんなことを、インターホン越しに言えるわけがなかった。


 母は少し黙ったあと、困ったように笑った。


『あなた、昔から急ね』


 ロックが解除される音がした。


 ガラス扉が開く。


 瀬奈は一歩下がった。


「私は下で待ちます」


「一緒に来てくれ」


 晴人はすぐに言った。


 自分でも、ほとんど頼むような声だと思った。


 瀬奈は晴人の顔を見た。


 何かを言いかけたが、やめた。


「わかりました」


 二人はエレベーターに乗った。


 古い機械の唸りが、箱の中に低く響く。


 表示ランプが、一、二、三、と上がっていく。


 晴人は鏡に映った自分を見た。


 顔色が悪い。


 目の下に影がある。


 片手には、折り目の戻った焦げた紙をまだ持っていた。


 瀬奈がそれを見ていた。


「それ、隠した方がいいです」


 晴人は頷き、紙を手帳の間に挟んだ。


 エレベーターが四階で止まる。


 扉が開く。


 廊下の先に、母の部屋があった。


 四〇六号室。


 ドアの横に、小さな鉢植えが置かれている。


 母は昔から植物をすぐ枯らす人だった。


 それでも毎年、何かを買ってきては、今度こそ大丈夫と言っていた。


 今置かれている鉢植えは、葉の端が少し茶色くなっている。


 晴人はそれを見て、なぜか胸が詰まった。


 チャイムを鳴らす前に、内側から鍵が開いた。


 母が顔を出した。



 六十を少し過ぎた母は、薄い灰色のカーディガンを羽織っていた。髪は後ろで雑に結ばれ、目元には寝不足の影がある。


 だが、その顔を見た瞬間、晴人は少しだけ安心した。


 母は母だった。


 消えていない。


 変わっていない。


「本当にどうしたの、こんな朝早く」


 母はそう言いながら、視線を瀬奈に移した。


「あら」


「夜分にすみません。如月瀬奈と申します」


 瀬奈は丁寧に頭を下げた。


 母は目を丸くしたあと、晴人を見た。


「あなた、こういう時間に女の人を連れてくるようになったの」


「違う」


 晴人は即座に否定した。


 母は少し笑った。


 その笑い方は、昔と変わらなかった。


 結衣がテストでひどい点を取って隠そうとしたとき、同じように笑っていた。


 思い出した瞬間、晴人の胸が冷えた。


 母は覚えているのか。


 結衣のことを。


「とにかく入りなさい。廊下じゃ寒いでしょう」


 玄関に入ると、味噌汁の匂いがした。


 まだ火を入れたばかりのような、薄い出汁の匂い。


「起きてたのか」


「目が覚めちゃってね。眠れないから、お味噌汁だけ作ってたの」


 母はスリッパを二足出した。


 そのあと、少し首を傾げた。


「おかしいわね」


「何が」


「三足出そうとしちゃった」


 母は笑った。


「寝ぼけてるのかしら」


 晴人は玄関マットの上で動けなくなった。


 瀬奈がほんのわずかにこちらを見る。


 母は気づかず、二足のスリッパを揃えた。


「どうぞ」


 リビングは昔より片付いていた。


 一人で暮らすようになってから、母の部屋はものが少なくなった。


 低いテーブル。


 古いテレビ。


 壁際の棚。


 その上に写真立てがいくつか並んでいる。


 晴人は無意識にそこへ目を向けた。


 家族写真があった。


 十年以上前、海に行ったときの写真。


 父がまだよく笑っていた頃。


 母が麦わら帽子をかぶり、晴人が不機嫌そうに顔を背けている。


 その隣に、結衣がいたはずだった。


 白いワンピースを着て、両手でピースをしていた。


 晴人は写真立てに近づいた。


 そこに、結衣はいた。


 いた、ように見えた。


 写真の右端。


 白いワンピース。


 細い肩。


 だが顔だけが、光に溶けたようにぼやけていた。


 輪郭はある。


 髪もある。


 笑っている形も、なんとなくわかる。


 けれど、顔がない。


 晴人の指先が冷たくなった。


 第四章で見た父の顔と同じだった。


 輪郭を残したまま、存在だけが削られている。


「その写真、懐かしいでしょう」


 母が台所から言った。


 晴人は声を出さずに写真を見続けた。


「海なんて、もう何年も行ってないわね」


 母は味噌汁を器によそっている。


 湯気が白く上がる。


「晴人、あの時ずっと機嫌悪かったのよ。砂が靴に入るのが嫌だって」


 覚えている。


 晴人はそう思った。


 あの日、結衣は裸足で砂浜を走った。


 波に足を取られて転び、母に怒られた。


 父は笑っていた。


 晴人は濡れた妹の手を掴まされて、文句を言った。


 結衣は、笑いながら言った。


 お兄ちゃん、手、冷たい。


 母はそのことを覚えているのか。


「母さん」


「何?」


 声が震えた。


 晴人は写真から目を離せなかった。


「この右端に写ってるの、誰?」


 台所で、椀を置く音がした。


 小さな音だった。


 それなのに、部屋の空気が止まったように感じた。


 母はゆっくりリビングへ戻ってきた。


 写真立てを覗き込む。


 そして、少し眉を寄せた。


「右端?」


「ここ」


 晴人は指差した。


 白いワンピースの少女。


 顔のない妹。


 母は目を細めた。


「……誰かしら」


 晴人の呼吸が止まった。


 瀬奈が後ろで、息を呑む音がした。


 母は困ったように笑った。


「光が入っちゃってるのね。昔の写真だから」


「違う」


 晴人の声は、思ったより低かった。


 母が顔を上げる。


「晴人?」


「光じゃない」


 晴人は写真を持ち上げた。


 ガラスの表面に、自分の顔が映る。


 顔色の悪い男が、妹の写った写真を握っている。


「ここにいたんだよ」


「誰が」


「結衣が」


 その名前を言った瞬間、部屋のどこかで、かさり、と音がした。


 紙が折れる音。


 母は瞬きをした。


「ゆい?」


 晴人は母を見た。


 母は本当に知らない顔をしていた。


 知らない名前を聞いた人の顔。


 遠い親戚の子どもの名前を思い出そうとしているような、薄い困惑。


「結衣だよ」


 晴人の喉が痛んだ。


「水野結衣。俺の妹だ」


 母は黙った。


 長い沈黙だった。


 テレビの黒い画面。


 湯気の立つ味噌汁。


 カーテンの隙間から入る夜明け前の青い光。


 その全部が、母の返事を待っていた。


 やがて母は、ゆっくり首を横に振った。


「晴人」


 声は優しかった。


 だから余計に、残酷だった。


「あなたに、妹なんていなかったでしょう」



 何かが落ちた。


 写真立てだった。


 晴人が手を離したことに、自分で気づかなかった。


 ガラスは割れなかった。


 床の上で裏返しになった写真立てが、軽い音を立てて止まる。


 母が慌ててしゃがんだ。


「危ないじゃない。大丈夫?」


 晴人は答えなかった。


 頭の中で、同じ言葉が何度も鳴っている。


 あなたに、妹なんていなかったでしょう。


 それは叫びではなかった。


 怒りでもなかった。


 母はただ、事実を言っただけだった。


 自分の知っている世界の、当たり前の形を口にしただけだった。


 だからこそ、晴人にはどうすることもできなかった。


「母さん」


 やっと出た声は、ひどく小さかった。


「本当に、覚えてないのか」


「何を?」


「結衣のこと」


 母は写真立てを拾い上げ、埃を払った。


 その手つきは穏やかだった。


「その子は……お友達かしら」


「友達じゃない」


「じゃあ、親戚の子?」


「妹だって言ってるだろ」


 声が荒くなった。


 母の肩が小さく揺れた。


 瀬奈が一歩近づく。


「水野さん」


 制止する声だった。


 晴人はわかっていた。


 母を責めても意味がない。


 母が忘れたくて忘れたわけではない。


 忘れさせられたのだ。


 あの部屋に。


 零号室に。


 それでも、感情は理屈の形をしてくれなかった。


「母さんは、結衣を産んだんだよ」


 晴人は言った。


「小さくて、よく熱を出して、折り紙が好きで、玉子焼きに砂糖を入れないと怒って、火事の日に――」


 言葉が詰まった。


 火事の日に。


 結衣は戻った。


 母を助けるために。


 あるいは、晴人を助けるために。


 どちらにせよ、結衣は死んだ。


 その結衣を、母はもう覚えていない。


 母は困ったように晴人を見ていた。


「晴人、あなた、疲れてるんじゃない?」


「疲れてるとかじゃない」


「最近、仕事は大丈夫なの」


「そういう話じゃない!」


 部屋の空気が震えた。


 母が黙る。


 晴人は自分の声に驚いた。


 昔も、こうやって怒鳴ったことがある。


 火事のあと。


 父が家に帰ってこない夜。


 母が泣き疲れて眠っていた台所で、晴人は壁にコップを投げつけた。


 割れたガラスを片付けながら、母は何も言わなかった。


 あのとき、母は結衣の名前を何度も呼んでいた。


 今の母は、その名前すら知らない。


 瀬奈が静かに口を開いた。


「お母様、少しお話を伺ってもよろしいですか」


 母は戸惑いながら瀬奈を見た。


「あなたは……晴人の知り合い?」


「はい」


「お仕事の?」


「少し、調査をしています」


「調査?」


 母の顔に警戒が浮かぶ。


 瀬奈は深く頭を下げた。


「突然すみません。ただ、晴人さんに関わる大事なことです」


 母は晴人を見た。


 晴人は何も言えなかった。


 母はため息をつき、テーブルの前に座った。


「とりあえず座りなさい。お味噌汁、冷めちゃうから」


 こんな時でも、母は味噌汁の心配をする。


 晴人はそのことがたまらなく苦しかった。


 三人は低いテーブルを囲んだ。


 母は椀を三つ並べた。


 三つ。


 晴人はそれを見た。


 母も見た。


「あら」


 母は自分で驚いた顔をした。


「また三つ出しちゃった」


 瀬奈の視線が、椀から母へ移る。


 母は苦笑した。


「癖かしら。一人暮らしなのにね」


「昔から三つだったんですか」


 瀬奈が聞いた。


 母は首を傾げた。


「どうだったかしら」


「ご家族は何人でしたか」


「私と、夫と、晴人」


 母はそこで少し止まった。


 指先が椀の縁に触れている。


「……三人、よね」


 その声は、自分に確認しているようだった。


 晴人は何も言わず、母の手を見ていた。


 母の右手の薬指には、もう指輪がない。


 父が家を出たあと、しばらくして外した。


 引き出しの中にしまったと言っていた。


 結衣の遺影の隣に置いた、と。


 その遺影は今、どこにあるのだろう。


「父さんは」


 晴人は聞いた。


「父さんのことは覚えてる?」


 母は怪訝そうにした。


「何を言ってるの。覚えてるに決まってるでしょう」


「火事のことは」


 母の顔から、少しだけ血の気が引いた。


 覚えている。


 晴人はそれを見てわかった。


 火事そのものは消えていない。


 消えたのは、そこにいた結衣だけだ。


「……覚えてるわ」


 母は椀から手を離した。


「あの家が燃えた夜のことなら」


「その火事で、誰が死んだ?」


 瀬奈が小さく息を止めた。


 母は晴人を見た。


 責めるようではなかった。


 ただ、傷を突然指で押された人の顔だった。


「誰も」


 母は言った。


 晴人の背中を、冷たいものが滑り落ちた。


「誰も、死んでいないわ」


「違う」


「あなたも私も助かった。お父さんはその時、仕事でいなかった。家は全焼したけれど、誰も死ななかった」


 母は言葉を区切るように話した。


 何度も何度も自分に言い聞かせてきた記憶を、慎重に取り出しているようだった。


「それが、あの日のことよ」


「違う」


 晴人は首を振った。


「結衣が死んだ」


 母は黙った。


 聞いたことのない名前を、二度目に聞いた顔をした。


「晴人」


「結衣が、母さんを助けに戻ったんだ」


「誰の話をしているの」


「母さんの娘だよ」


 母は困ったように目を伏せた。


「私に、娘はいないわ」


 その言葉は静かだった。


 静かすぎて、晴人は一瞬、何を言われたのかわからなかった。


 母は続けた。


「私は、あなたしか産んでいない」


 部屋のどこかで、また紙の音がした。


 かさり。


 かさり。


 今度は、瀬奈もはっきり顔を上げた。


 音はリビングの奥から聞こえた。


 廊下の先。


 押し入れのある和室。


 母もそちらを見た。


「今、何か鳴った?」


 晴人は立ち上がった。


「和室、見てもいいか」


「ええ。でも、散らかってるわよ」


 母は本当にそう思っているようだった。


 何かが起きていることを、まだ知らない顔をしていた。



 和室には、古い箪笥と、畳の上に置かれた段ボール箱がいくつかあった。


 母がこの部屋へ引っ越したとき、実家から持ってきたものだ。


 晴人は昔、一度だけ手伝いに来た。


 そのとき母は、結衣の物だけは自分で整理すると言って、箱に触らせなかった。


 今、その箱は押し入れの下段に入っていた。


 薄茶色の段ボール。


 黒いマジックで、思い出、と書かれている。


 母の字だった。


 その下に、もう一行あった。


 晴人 小学校


 晴人は箱の前で止まった。


「これ」


 母が後ろから覗き込む。


「ああ、それね。あなたの小さい頃のものよ。捨てられなくて」


 違う。


 晴人は思った。


 その箱には、結衣のものが入っていたはずだ。


 薄い水色のワンピース。


 幼稚園の名札。


 折り紙。


 夏休みの絵日記。


 火事のあと、焼けずに残った小さなヘアピン。


 母は、それを「結衣の箱」と呼んでいた。


 晴人はしゃがみ込み、箱の蓋に触れた。


 マジックの文字が、妙に新しく見えた。


 まるで今朝書かれたばかりのように。


「開けるぞ」


「どうぞ」


 母はあっさり言った。


 その軽さが怖かった。


 晴人は蓋を開けた。


 中には、古い通知表、作文、色褪せた運動会の写真、折れたプラスチックの定規が入っていた。


 全部、晴人のものだった。


 結衣のものはない。


 一つもない。


 晴人は箱の底まで手を入れた。


 紙の感触。


 布の感触。


 段ボールのざらつき。


 何もない。


「おかしい」


 晴人は呟いた。


「ここにあった」


「何が?」


「結衣の物だ」


 母は何も言わなかった。


 瀬奈が横から箱の中を覗き込む。


「水野さん、焦らないでください。何か、痕跡が残っているかもしれません」


 痕跡。


 晴人は箱の中身を一つずつ取り出した。


 小学校の作文。


 題名は、ぼくの家族。


 晴人の字だった。


 丸くて、雑で、ところどころひらがなが鏡文字になっている。


 晴人は震える手で作文を開いた。


 ぼくの家族は、お父さんとお母さんと、ぼくです。


 そこで文章は終わっていなかった。


 次の行に、薄い跡があった。


 消しゴムで消したわけではない。


 印刷のインクが消えたわけでもない。


 紙そのものが、その一行だけを忘れてしまったような空白。


 晴人はその空白を指でなぞった。


 指先に、細かい紙の粉がついた。


「ここに、書いてあった」


 声が掠れる。


「妹のことを」


 母は後ろで息を呑んだ。


 晴人は振り返った。


 母の顔は青ざめていた。


「母さん?」


「……変ね」


 母は自分の両手を見ていた。


「変なの」


「何が」


「その作文、覚えてる気がするの」


 晴人は立ち上がった。


「結衣のことを?」


「いいえ」


 母は首を振った。


「名前は、わからない。でも……あなたがそれを読んだ時、誰かが怒ったの」


「誰か?」


「女の子」


 母の声が小さくなる。


「小さい女の子が、私も書いてって言った気がする」


 晴人の胸が強く痛んだ。


 それは結衣だ。


 結衣は、晴人の作文に自分のことが二行しか書かれていないと怒った。


 そして勝手に赤いクレヨンで、わたしもいます、と書き足した。


 母はそれを見て笑っていた。


 父は作文を写真に撮った。


 晴人は本気で怒って、結衣と喧嘩した。


 そんな小さな記憶が、急に胸の奥から溢れてきた。


 けれど母の口から出るのは、名前ではなかった。


「どんな子だった」


 晴人は聞いた。


 母は額に手を当てた。


「わからない」


「思い出してくれ」


「わからないのよ」


 母の声が震えた。


「顔が、見えないの」


 和室の空気が冷えた。


 瀬奈がゆっくり窓の方を見る。


 カーテンの隙間から、朝の光が細く入っていた。


 その光の中に、埃が舞っている。


 埃の動きが、一瞬だけ紙の羽のように見えた。


 母はその場に座り込んだ。


「どうしてかしら」


 母は呟いた。


「胸が、痛いの」


 晴人は母の前に膝をついた。


「母さん」


「その子の名前を聞くと、痛いの」


「結衣」


 母の目から、涙が落ちた。


 晴人は息を止めた。


 母は自分の涙に驚いたように頬に触れた。


「どうして」


 彼女は小さく笑おうとした。


 けれど笑えなかった。


「どうして、泣いてるのかしら」


 晴人は答えられなかった。


 答えを知っているのに、言葉にできなかった。


 母の中から結衣は消えている。


 それでも、体のどこかが覚えている。


 娘を抱いた重さ。


 熱を出した額に触れた夜。


 小さな手を握った感触。


 火の中へ戻った背中。


 名前だけが奪われても、痛みは残る。


 愛した事実が、名前のない傷になって残っている。


 瀬奈は静かに言った。


「完全には消えていません」


 晴人は彼女を見た。


「どういう意味だ」


「記録や言葉は消されても、感情の反応だけは残っている。少なくとも今は」


「今は?」


 瀬奈は答える前に、箱の中から一枚の写真を取り出した。


 運動会の写真だった。


 晴人がリレーで転んだ日のもの。


 写真の端に、小さな影が写っている。


 白い帽子。


 小さな手。


 顔はない。


 瀬奈は写真を母に見せた。


「この子に、何か感じますか」


 母は写真を見た。


 長い時間、黙っていた。


 やがて、指でその白い帽子に触れた。


「……叱らなきゃ」


 母が呟いた。


 晴人は聞き返した。


「何を?」


「この子、また靴下を泥だらけにしてる」


 母は泣きながら言った。


「何度言っても、裸足で走るから」


 晴人は目を閉じた。


 結衣だった。


 確かに結衣だった。


 母は名前を忘れても、叱った理由を覚えている。


 娘がどんなふうに走ったかを、まだ体のどこかで覚えている。


「母さん」


 晴人は言った。


「それが結衣だ」


 母は写真を見つめたまま、ゆっくり首を振った。


「違う」


「母さん」


「違うの」


 母の声が、急に硬くなった。


「思い出しちゃいけない気がする」


 晴人の背筋が冷えた。


「誰に言われた」


 母は目を伏せた。


「わからない」


「部屋か」


「部屋?」


「零号室」


 その言葉を聞いた瞬間、押し入れの奥で音がした。


 かさり。


 かさり。


 さっきよりも近い。


 瀬奈がすぐに押し入れを見る。


 母は青ざめた。


「今の、何」


 晴人は押し入れの襖に手をかけた。


 瀬奈が止めようとした。


「待ってください」


「聞こえた」


「今開けるのは危険です」


「でも中に」


 晴人の言葉は途中で止まった。


 襖の隙間から、一枚の白い紙が滑り出てきた。


 折り紙だった。


 まだ折られていない、白い正方形の紙。


 それは畳の上をゆっくり滑り、母の膝の前で止まった。


 誰も触れていない。


 窓は閉まっている。


 風もない。


 母はその紙を見下ろした。


 顔から血の気が引いていく。


「これ」


 母の唇が震えた。


「私、知ってる」


 晴人は息を飲んだ。


「結衣の折り紙だ」


 母は紙に手を伸ばした。


 指が触れる直前、白い紙に薄い折り目が浮かび上がった。


 ひとりでに、紙が折れ始める。


 角が重なる。


 線がつく。


 羽が開く。


 小さな鶴が、畳の上で形を成していく。


 母は叫びそうになって口を押さえた。


 瀬奈はスマートフォンを取り出したが、画面は真っ暗なまま反応しなかった。


 晴人は鶴を見ていた。


 白い鶴。


 焦げ跡のない、綺麗な鶴。


 結衣が昔折ったものより、ずっと正確だった。


 鶴の首が、ゆっくり母の方を向く。


 ありえない。


 紙が動くはずがない。


 けれど鶴は、確かに母を見た。


 母の涙が、畳に落ちた。


 その瞬間、白い鶴の羽に文字が浮かび上がった。


 お母さん。


 たった四文字。


 母は喉の奥で声にならない声を漏らした。


「誰……」


 晴人は目を見開いた。


 母は震える手で鶴を拾い上げた。


 指先が羽を壊さないように、信じられないほど優しく。


 その仕草だけは、娘を抱く母親のものだった。


「誰なの」


 母は鶴に問いかけた。


「あなた、誰なの」


 鶴は答えなかった。


 ただ、羽の文字がゆっくり薄くなっていく。


 お母さん。


 その文字が消える前に、母は突然胸を押さえた。


「だめ」


 母は言った。


「だめよ」


「母さん?」


「行っちゃだめ」


 母の目は鶴を見ていなかった。


 もっと遠いものを見ていた。


 火の中か。


 十年前の玄関か。


 結衣が振り返ったあの瞬間か。


「戻っちゃだめ」


 母の声が震えた。


「お母さんはいいから、戻っちゃだめ」


 晴人の胸が締めつけられた。


 それは、記憶だった。


 母が覚えていないはずの記憶。


 火事の日、結衣に言った言葉なのか。


 あるいは、言えなかった言葉なのか。


 母は鶴を抱くように握りしめた。


 紙が少し潰れる。


「ごめんね」


 涙が止まらなかった。


「ごめんね……誰か、わからないのに」


 晴人は母の肩に手を置いた。


「結衣だよ」


 母はゆっくり晴人を見た。


 その目は、晴人を見ているのに、別の誰かを探しているようだった。


「ゆい」


 母は名前を口にした。


 小さく。


 とても小さく。


 けれど確かに。


 晴人は息を止めた。


 次の瞬間、リビングの方で写真立てが倒れる音がした。


 がたん。


 母の手から、白い鶴が落ちた。


 鶴は畳に触れた途端、何の変哲もない折り紙に戻った。


 羽の文字も消えている。


 母は瞬きをした。


 さっきまで流れていた涙の理由を忘れたように、困惑していた。


「……私、何をしてたの?」


 晴人は言葉を失った。


 瀬奈がそっと床の折り鶴を拾った。


 そこにはもう何も書かれていない。


 ただ、白い紙の折り目だけが残っていた。



 朝が来ていた。


 カーテンの向こうで、街がゆっくり明るくなっていく。


 近くの道路を、最初のバスが通り過ぎる音がした。


 母はリビングの椅子に座っていた。


 瀬奈が淹れた温かいお茶を、両手で包むように持っている。


 さっき泣いていたことを、母はほとんど覚えていなかった。


 ただ、目元だけが赤くなっていた。


「ごめんなさいね」


 母は瀬奈に言った。


「私、少し変だったでしょう」


「いえ」


 瀬奈は首を振った。


「疲れが出ただけだと思います」


 嘘が上手い。


 晴人はそう思った。


 瀬奈の嘘は、相手を安心させる形をしている。


 晴人にはできない。


 晴人は写真立てを手に取っていた。


 さっき倒れた海の写真。


 結衣の顔は、さらに薄くなっていた。


 今はもう、白いワンピースの輪郭さえ曖昧だ。


 そこに誰かが立っていた、と言われなければわからない。


 写真の右端には、ただ不自然な空白がある。


 晴人は唇を噛んだ。


「持って帰っていいか」


 母が顔を上げた。


「その写真?」


「ああ」


「いいけど……そんなの、どうするの」


「確認したいことがある」


 母は不安そうにした。


「晴人、本当に大丈夫?」


 その声は、母の声だった。


 息子を心配する母の声。


 けれどそこには、娘を失った母の響きがない。


 晴人は頷いた。


「大丈夫」


 母は納得していない顔だった。


 それでも、それ以上は聞かなかった。


 昔からそうだった。


 晴人が本当に答えたくない時、母は無理に聞かない。


 その優しさが、今は痛かった。


 玄関まで見送る母の足音は、小さかった。


 靴を履く晴人の背中に、母は言った。


「また来なさい」


「ああ」


「ちゃんと寝るのよ」


「ああ」


 母は少し笑った。


「あなた、昔から無理するとすぐ顔に出るんだから」


 晴人はドアノブに手をかけた。


 そのとき、母がふと首を傾げた。


「ねえ、晴人」


「何」


「あなた、小さい頃、誰かをよく探していなかった?」


 晴人は振り返った。


 母は自分でも不思議そうな顔をしていた。


「名前を呼んでいた気がするの。夜中に起きて、廊下に出て」


「誰の名前」


「それが、わからないの」


 母は困ったように笑った。


「夢かもしれないわね」


 晴人は何も言えなかった。


 母は続けた。


「でも、その子を探している時のあなた、いつも泣きそうな顔をしていた気がする」


 廊下の空気が冷えた。


 瀬奈が玄関の外で静かに待っている。


 晴人は母を見た。


 母の記憶は消えている。


 けれど欠けた場所の縁だけが残っている。


 そこに誰かがいたことを、世界の形だけが覚えている。


「母さん」


 晴人は言った。


「もし、俺がまたその名前を呼んだら」


 母は目を細めた。


「うん」


「忘れないでくれ」


 母は少し驚いた顔をした。


 そして、いつものように笑おうとした。


「変なこと言うのね」


「頼む」


 その声があまりにも真剣だったからか、母の笑みが消えた。


 母は晴人の顔を見た。


 長い沈黙のあと、小さく頷いた。


「わかった」


 晴人は息を吸った。


 そして、ゆっくり言った。


「結衣」


 母はその名前を聞いた。


 聞いて、瞬きをした。


 目が揺れた。


 唇が少し開く。


 何かを言おうとした。


 だが次の瞬間、その表情は静かに元へ戻った。


 知らない名前を聞いた人の顔に。


「……それ、誰?」


 晴人は目を閉じた。


 答えはもう、わかっていた。


 母は忘れてしまう。


 何度聞かせても。


 何度思い出しかけても。


 零号室は、そのたびに結衣を母の中から奪い直す。


 晴人はドアを開けた。


 朝の光が廊下に差し込んでいる。


 瀬奈がこちらを見た。


 晴人は母に背を向ける前に、もう一度だけ言った。


「俺の妹だ」


 母はしばらく黙っていた。


 そして、首を傾げた。


「晴人」


 その声は、やはり優しかった。


「あなたに、妹なんていたかしら」


 扉が閉まる音は、思ったよりも軽かった。



 マンションを出る頃には、空は完全に白んでいた。


 通勤の人々が駅へ向かって歩き始めている。


 誰も晴人たちを見ない。


 世界は普通の朝を続けていた。


 母が娘の名前を忘れても。


 写真から少女の顔が消えても。


 白い折り鶴がひとりでに畳の上で形を作っても。


 街は何も知らない顔で、今日を始めていた。


 晴人はマンション前の植え込みのそばで立ち止まった。


 手の中には、海の写真がある。


 瀬奈は隣で何も言わなかった。


 しばらくして、彼女は静かに口を開いた。


「水野さん」


「何だ」


「お母様は、完全に忘れているわけではありません」


「名前を忘れてる」


「はい」


「顔も忘れてる」


「はい」


「娘だったことも忘れてる」


 瀬奈はすぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 晴人は写真を見た。


 右端の空白。


 そこに、結衣がいた。


 いたはずだ。


 晴人が覚えている限り。


 まだ、いたことにできる。


 だが、もし自分も忘れたら。


 母のように、誰?と聞く日が来たら。


 その時、結衣はどこへ行くのだろう。


 零号室の中か。


 火の中か。


 誰にも呼ばれない名前の底か。


 晴人は写真を胸ポケットにしまった。


「役所へ行く」


 瀬奈が顔を上げた。


「戸籍を確認するんですね」


「ああ」


 声は自分でも驚くほど冷静だった。


 冷静でいないと、崩れそうだった。


「母さんが忘れたなら、まだ記録が残ってるか確かめる」


 瀬奈は頷いた。


「私も行きます」


 晴人は歩き出そうとした。


 その時、スマートフォンが震えた。


 母からだった。


 晴人はすぐに画面を開いた。


 短いメッセージが表示されている。


 さっきはごめんね。


 その下に、もう一行。


 ところで、あなたが言っていた「ゆい」って、漢字ではどう書くの?


 晴人の足が止まった。


 瀬奈が画面を覗き込み、息を呑む。


 晴人は返信しようとした。


 結衣。


 そう打とうとした。


 だが、画面のキーボードに指を置いた瞬間、母からもう一通届いた。


 ごめんなさい。


 何の話だったか、忘れちゃった。


 晴人はスマートフォンを握りしめた。


 画面の上で、最初のメッセージがゆっくり薄くなっていく。


 文字が滲む。


 消える。


 そこには、何もなかった。


 瀬奈が小さく言った。


「急いだ方がいいです」


 晴人は頷いた。


 そして歩き出した。


 役所へ向かって。


 結衣の名前が、まだ世界のどこかに残っているうちに。


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