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零号室  作者: 清忠
18/30

(第二部 . 第十章 ) 消された名前

 区役所の待合室は、朝から白かった。


 床も、壁も、天井も、番号を表示する液晶画面の光まで、同じ白に沈んでいる。


 人の声だけが、その白い空間の中で低く揺れていた。


 申請書にペンを走らせる音。


 番号札を引き抜く音。


 子どもを抱いた母親の小さなため息。


 どれも普通だった。


 普通すぎて、晴人には息苦しかった。


 こんな場所で、人の存在は一枚の紙になる。


 名前。


 生年月日。


 続柄。


 住所。


 たったそれだけで、誰かがこの世界にいたことになる。


 では、その紙から名前が消えたら。


 その人は、どこへ行くのだろう。


 晴人は番号札を握りしめた。


 二三七。


 紙の端が、指の汗で少し柔らかくなっている。


 隣に座る瀬奈は、膝の上に黒いファイルを置いていた。母親のノート、古い火災記事のコピー、三〇四号室の図面、そして白い折り鶴。


 折り鶴は、小さな透明袋の中に入れられている。


 瀬奈はそれを見ないようにしている。


 晴人も、見ないようにしていた。


 見れば、思い出す。


 畳の上で、結衣が折っていた指先。


 火の中で、こちらへ手を伸ばした影。


 そして、母のメッセージ。


 何の話だったか、忘れちゃった。


 文字が消えた瞬間の画面の白さが、まだ目の奥に残っている。


「水野さん」


 瀬奈が小さく呼んだ。


「大丈夫ですか」


 晴人は番号表示の画面から目を離さずに答えた。


「大丈夫に見えるか」


「見えません」


「なら聞くな」


「確認です」


 瀬奈の声は静かだった。


 静かすぎて、晴人は少しだけ自分の息の荒さに気づいた。


 番号が変わる。


 二三四。


 二三五。


 窓口の向こうでは、職員たちが同じ色のベストを着て、同じ高さの椅子に座り、同じ速度で書類を受け取っていた。


 誰も急いでいない。


 誰も怯えていない。


 世界は、結衣の名前が消えかけていることを知らない。


「水野さん」


 瀬奈がもう一度、低く言った。


「窓口で話す時、感情的にならないでください」


「わかってる」


「相手は規則で動きます。怒っても、紙は出てきません」


「わかってる」


「それでも言います。あなたは今、崩れやすい状態です」


 晴人は瀬奈を見た。


 瀬奈の目は、まっすぐだった。


 記者の目ではなかった。


 誰かが崩れる前に、その手首を掴もうとしている人の目だった。


「崩れたら」


 晴人は言った。


「拾ってくれるのか」


 瀬奈は少しだけ黙った。


 そして、答えた。


「拾います」


 短い言葉だった。


 余計な優しさはなかった。


 だから余計に、胸の奥に残った。


 液晶画面の番号が切り替わった。


 二三七。


 呼び出し音が鳴った。


 晴人は立ち上がった。


 手の中の番号札が、薄い紙とは思えないほど重かった。



 窓口のガラス板には、小さな傷がいくつもついていた。


 晴人はそこに映る自分の顔を見た。


 目の下に影がある。


 寝不足だけではない。


 十年前から眠れていない人間の顔だった。


「戸籍謄本のご請求ですね」


 職員の女性は、淡々と言った。


 声は柔らかい。


 けれど柔らかいだけで、こちらの痛みには触れない声だった。


「はい」


「ご本人様確認書類をお願いします」


 晴人は運転免許証を出した。


 女性は確認し、申請書を受け取る。


 その指先の動きに、迷いはなかった。


「本籍地はこちらでお間違いありませんか」


「ありません」


「必要な方のお名前は」


 晴人は一度だけ息を止めた。


「水野結衣です」


 女性の手がキーボードの上で止まった。


 ほんの一瞬。


 本当に一瞬だけだった。


 けれど晴人には、その沈黙が壁のように感じられた。


「水野、結衣様ですね」


「はい」


「漢字は」


 晴人は申請書の余白に書いた。


 水野結衣。


 書き慣れた名前だった。


 小学校の持ち物に、母の代わりに書いてやったことがある。


 運動会のゼッケンにも、夏休みの工作の箱にも。


 水野結衣。


 その四文字は、晴人の中でまだ生きていた。


 職員は画面を見た。


 キーボードを打つ音が、短く続く。


 晴人はガラス板の向こうの画面を見ようとした。


 角度のせいで、文字は読めない。


 ただ、白い画面の中を黒い行が流れていることだけがわかった。


 職員の眉が、わずかに寄った。


「少々お待ちください」


 彼女はそう言って、もう一度キーボードを打った。


 瀬奈が隣で黙っている。


 ファイルの角を指で押さえている。


 その指先が、わずかに白い。


 職員が別の画面を開いた。


 また検索する。


 今度は長かった。


 プリンターは動かない。


 誰も呼ばない。


 窓口の向こうで、時間だけが薄く削れていく。


「申し訳ございません」


 職員は顔を上げた。


 丁寧な声だった。


「該当する方が確認できません」


 晴人は聞き間違えたと思った。


「……確認できない?」


「はい。水野結衣様というお名前では、こちらの戸籍には記載が見当たりません」


「そんなはずない」


 声が少し大きくなった。


 瀬奈の手が、机の下で晴人の袖を軽く引いた。


 感情的にならないで。


 さっきの言葉が頭の中で鳴る。


 晴人は歯を食いしばった。


「妹です。水野結衣。十年前に亡くなっています。死亡届も出ているはずです」


「お亡くなりになった方ですと、除籍の記載が残っている場合がございます。お調べいたします」


 職員はまた画面を操作した。


 晴人は申請書の上の名前を見た。


 水野結衣。


 インクはまだ濡れている。


 そこにある。


 あるはずだ。


 職員は奥の席の男性職員に声をかけた。


 二人が画面を見て、何か小さく話している。


 聞こえない。


 けれど、言葉の切れ端だけがガラスを越えて落ちてきた。


 該当なし。


 履歴。


 除籍なし。


 出生届。


 なし。


 晴人の指が、申請書の端を掴んだ。


 紙がしわになる。


 瀬奈が、今度は少し強く袖を引いた。


「水野さん」


「わかってる」


 わかっていなかった。


 何も。


 自分が座っている椅子の硬さも、窓口の上に貼られた案内表示も、職員の首から下がる名札も、全部が遠くなっていく。


 水野結衣という名前が、この白い建物の中で、存在しないものとして扱われている。


 それだけが、異様に近かった。


 男性職員がこちらへ来た。


「お待たせいたしました」


 彼は丁寧に頭を下げた。


「恐れ入りますが、ご家族構成について確認させていただいてもよろしいでしょうか」


 晴人は喉を鳴らした。


「父、母、自分、妹です」


「妹様のお名前が、水野結衣様」


「そうです」


「生年月日はお分かりになりますか」


「平成十四年、四月二十七日」


 すぐに出た。


 忘れるはずがない。


 結衣の誕生日。


 四月二十七日。


 春の終わりに生まれたから、母は衣という字を使いたかった。


 結ぶ衣。


 人と人をほどけないように結ぶ子になるように、と。


 母がそう言っていた。


 言っていたはずだ。


 男性職員は入力した。


 そして、首をかしげた。


「やはり、該当がありません」


 晴人は笑いそうになった。


 笑えなかった。


「じゃあ、何ですか」


 声が震えた。


「俺の妹は、届けも出されずに、死んだことになっているんですか」


「いえ、そういう意味では――」


「火事で死んだんです。新聞にも載りました。学校にも通っていました。葬式もしました。墓もあります。写真も――」


 写真。


 晴人は胸ポケットに手を入れた。


 家族写真を取り出す。


 右端の空白。


 そこに、結衣がいた場所。


 だが、窓口の白い光の下で見ると、その空白はさらに広がっていた。


 父の顔だけではない。


 母の隣、晴人の右側。


 少女が立っていたはずの場所には、誰かが最初から写っていなかったような余白しかない。


 晴人は写真を職員に見せようとして、手を止めた。


 何を見せるつもりだ。


 いないことを証明する写真を。


 瀬奈が静かに言った。


「古い戸籍の改製原戸籍は確認できますか」


 男性職員の視線が瀬奈に移った。


「ご親族の方ですか」


「代理ではありません。同行者です。ただ、調査のため、古い記録を確認した方がいいと思います」


「調査、ですか」


 職員の声に、わずかな警戒が混じった。


 瀬奈は名刺を出した。


 フリーライター。


 都市伝承、失踪事件、古い集合住宅に関する記事。


 その肩書きは、役所の窓口では役に立たない。


 むしろ余計に怪しく見える。


 しかし瀬奈は引かなかった。


「公的な請求権が必要なら、水野さん本人の請求として手続きをしてください。現行戸籍にないなら、改製前の記録、除籍簿、住民票の除票、死亡届の受理記録。確認できる範囲でお願いします」


 男性職員は少しだけ表情を変えた。


 この人は、何をどこまで知っているのか。


 そう考えている顔だった。


「お時間をいただきます」


「待ちます」


 瀬奈は即答した。


 晴人はまだ写真を握っていた。


 右端の空白に、親指がかかっている。


 そこにいたはずの妹の肩を、押さえているみたいだった。



 待合室に戻ると、番号はもう二六〇番台になっていた。


 世界は進んでいた。


 晴人の中だけが、同じ場所で止まっている。


 自動販売機の前で、瀬奈が缶コーヒーを二本買った。


 一本を晴人に差し出す。


「飲んでください」


「いらない」


「飲めなくても持っていてください。手が震えています」


 晴人は自分の手を見た。


 確かに、震えていた。


 缶を受け取る。


 冷たかった。


 その冷たさが、少しだけ現実に戻してくれた。


 瀬奈は隣の椅子に座った。


「今の段階で言えることがあります」


「何だ」


「消える順番です」


 晴人は瀬奈を見た。


「記憶が先。記録が後」


 瀬奈はファイルを開いた。


 中から、昨日のメモを取り出す。


「お母様は最初、名前を聞き返しました。漢字を聞こうとした。つまり、完全に消えてはいなかった」


「そのあと、忘れた」


「はい。そして今、戸籍上から確認できなくなっている」


「だから何だ」


「部屋は、いきなり人を消すんじゃない。まず周囲の記憶を薄める。それから、記録を削る」


 晴人は缶コーヒーを握った。


 金属が小さくへこむ。


「まるで、世界の方が後から帳尻を合わせているみたいです」


 瀬奈の声は低かった。


「人が忘れたから、紙も合わせて消える。紙が消えたから、また人が忘れやすくなる。そうやって輪が閉じていく」


「輪が閉じたら」


 晴人は聞いた。


 瀬奈は答えなかった。


 答えを知っているからではない。


 言えば、本当になる気がしたからだ。


 晴人は自分で言った。


「誰にも思い出されなくなる」


 瀬奈は頷いた。


「戸籍のない男も、同じだったのかもしれません」


 第九章で出会った老人の顔が、晴人の脳裏に浮かんだ。


 誰にも覚えられず、書類にも残らず、それでも自分はここにいると訴えていた男。


 彼は、未来の結衣なのか。


 それとも、未来の晴人なのか。


 晴人は缶のプルタブに指をかけた。


 開けなかった。


「結衣が消えるなら」


 声がかすれた。


「死んだことすら、なかったことになるのか」


 瀬奈は視線を落とした。


「可能性はあります」


「墓は?」


「変わるかもしれません」


「仏壇は?」


「名前が、消えるかもしれません」


「母さんは?」


 瀬奈は黙った。


 晴人は続けた。


「母さんは、娘を亡くした痛みだけ残して、誰を亡くしたのか忘れるのか」


 その言葉は、自分の胸にも刺さった。


 痛みだけが残る。


 名前のない痛み。


 理由のない喪失。


 人はそれを抱えて、生きられるのだろうか。


 晴人のスマートフォンが震えた。


 母からではなかった。


 父からだった。


 父の名前が画面に出た瞬間、晴人の心臓が一度だけ強く鳴った。


 十年前の火事の夜から、父とは必要なことしか話していない。


 誕生日にも、命日にも、正月にも。


 父から電話が来ることは、ほとんどなかった。


 晴人は通話ボタンを押した。


「もしもし」


 しばらく、無音だった。


 雑音だけが聞こえる。


 風の音。


 あるいは、古い廊下を吹き抜ける空気の音。


「父さん?」


 返事はない。


 晴人は立ち上がった。


 瀬奈も顔を上げる。


 画面には、父の名前が表示されている。


 通話時間だけが進んでいた。


 十二秒。


 十三秒。


 十四秒。


 そして、かすれた声が聞こえた。


「……晴人」


 父の声だった。


 でも、遠い。


 まるで壁の向こうから話しているみたいだった。


「父さん、今どこにいる」


「お前……」


 声が途切れる。


 ノイズ。


 紙を擦るような音。


「お前、誰のことを調べてる」


 晴人は息を止めた。


「結衣のことだ」


 電話の向こうが沈黙した。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 そして父が言った。


「……ゆい?」


 晴人の背中が冷たくなった。


 瀬奈が立ち上がる。


「父さん」


 晴人は低く言った。


「ふざけるな」


「晴人」


「忘れたって言うのか」


「違う」


 父の声が、ほんの少し強くなった。


「忘れたんじゃない」


「じゃあ何だ」


 またノイズ。


 その奥で、誰かが咳き込む音がした。


 火事の夜の音に似ていた。


「思い出すな」


 父は言った。


 晴人の手が止まった。


「何を」


「お前が見たものだ」


「何の話をしてる」


「十年前」


 父の声が、ひどく近くなる。


 それなのに、電話越しのはずの声は、晴人の背後から聞こえたような気がした。


「お前は、あの子を置いて逃げたんじゃない」


 晴人は動けなかった。


 瀬奈の表情が変わる。


「父さん」


 晴人の声は、ほとんど息だった。


「今、何て言った」


 通話が切れた。


 画面に、通話終了の文字が表示される。


 晴人はしばらく、その文字を見ていた。


 瀬奈が口を開く。


「今の」


「聞こえたか」


「はい」


「父さんは、知ってる」


 晴人はスマートフォンを握った。


「俺が忘れてることを」


 その瞬間、窓口から声がした。


「二三七番の方」


 呼ばれていた。


 晴人は振り向いた。


 白い窓口の向こうで、男性職員が封筒を持って立っている。


 その封筒は薄かった。


 あまりにも薄かった。


 人一人の存在を証明するには、足りないほど。



 封筒の中には、戸籍謄本が一通入っていた。


 それから、古い記録を確認した結果についての説明書き。


 男性職員は、慎重な口調で言った。


「現行戸籍、改製原戸籍、除籍簿、確認できる範囲で照会いたしました」


 晴人は何も言わなかった。


 瀬奈が代わりに聞いた。


「結果は」


「水野結衣様という方の記載は、確認できませんでした」


 言葉は、予想していた。


 それでも実際に聞くと、体の中で何かが一段深く沈んだ。


「出生届の受理記録もですか」


「こちらで確認できる範囲では、ございません」


「死亡届は」


「ございません」


「火災で亡くなった未成年者の記録は」


 瀬奈の声が少し硬くなった。


 職員は目を伏せた。


「火災に関する行政記録そのものは、こちらの窓口では扱えません。ただ、戸籍上、該当する方の死亡記載はございません」


 晴人は封筒を開けた。


 紙を取り出す。


 白い紙。


 黒い文字。


 水野家の戸籍。


 父の名前。


 母の名前。


 晴人の名前。


 そこまでは、ある。


 その下。


 妹の名前があるはずの場所。


 何もない。


 余白ですらなかった。


 最初から、そこに行が存在しなかった。


 晴人は紙を見つめた。


 目を凝らせば、見える気がした。


 水野結衣。


 四月二十七日生。


 長女。


 十年前、火災により死亡。


 そう書かれているはずだ。


 だが、文字はない。


 紙は、何も知らない顔をしている。


 男性職員が申し訳なさそうに言った。


「別の自治体で出生届を出された可能性や、転籍の記録なども考えられますが」


「本籍は変わってません」


 晴人は言った。


 声が低かった。


「生まれた時から、ここです」


「では、何か別のお名前で――」


「ありません」


「失礼ですが、記憶違いという可能性も」


 その言葉が終わる前に、晴人は顔を上げた。


 職員は口を閉じた。


 瀬奈が静かに間に入る。


「ご対応ありがとうございました。写しはこのまま受け取ります」


 彼女は頭を下げた。


 晴人の腕に軽く触れる。


「行きましょう」


 晴人は動かなかった。


 戸籍謄本の上の自分の名前を見ていた。


 水野晴人。


 長男。


 それだけ。


 まるで、ひとりっ子だったみたいに。


 職員が何か言った。


 聞こえなかった。


 晴人は戸籍謄本を封筒に戻した。


 その時、紙の裏側に何かが見えた。


 薄い影。


 印刷ではない。


 汚れでもない。


 紙を光に透かした時だけ浮かぶ、かすかな折り目のような線。


 晴人は封筒を持ったまま、窓口の蛍光灯にかざした。


「水野さん?」


 瀬奈が覗き込む。


 紙の裏側に、三角形の影があった。


 折り鶴の羽に似ていた。


 その羽の下に、薄く、文字のようなものが浮かんでいる。


 衣。


 一文字だけ。


 結衣の、衣。


 晴人の喉が鳴った。


 次の瞬間、その影は消えた。


 紙はまた、ただの白い紙になった。


「今の、見えたか」


 晴人が聞く。


 瀬奈は頷かなかった。


 首も横に振らなかった。


 ただ、唇を結んでいた。


「見えたんだな」


「……はい」


「何だった」


「折り目に見えました」


「名前は」


 瀬奈は一瞬ためらった。


「一文字だけ」


「衣」


「はい」


 晴人は紙を握った。


 握り潰しそうになって、やめた。


 これは、証拠だ。


 いや、証拠だったものだ。


 消えかけた誰かの、最後の爪痕。


 晴人は封筒を胸に抱えた。


 その胸の内側で、鼓動が乱れている。


 結衣は消えていない。


 まだ。


 少なくとも、一文字は残っていた。


 だが、一文字しか残っていなかった。



 役所を出ると、空は曇っていた。


 朝には薄く晴れていたはずなのに、雲が低く降りている。


 建物のガラス扉に、二人の姿が映った。


 晴人と瀬奈。


 その少し後ろに、もう一人の影があるように見えた。


 晴人が振り返る。


 誰もいない。


 自動ドアが閉まる音だけがした。


 瀬奈は階段の端で立ち止まり、ファイルを開いた。


「次に確認する場所があります」


「どこだ」


「学校です。結衣さんが通っていた小学校。卒業アルバム、在籍記録、クラス名簿」


「残ってると思うか」


「わかりません」


「戸籍がないんだぞ」


「だからこそです。公的記録が消えても、私的記録が遅れて消える可能性があります」


 瀬奈は早口ではなかった。


 しかし、言葉の奥に焦りがあった。


「学校、病院、写真館、火災当時の新聞、葬儀社。ひとつずつ確認します。消える順番を見れば、部屋の性質がわかるかもしれません」


「性質なんて知ってどうする」


 晴人の声は荒かった。


「結衣の名前が消えてる。母さんは忘れてる。父さんは何か知ってて、今は電話にも出ない。調べたって、消えるものは消えるんじゃないのか」


 瀬奈はファイルを閉じた。


「なら、何もしませんか」


 晴人は黙った。


「何もしないなら、部屋の方が進みます。私たちが立ち止まっている間に、記憶も記録も削られていく」


「わかってる」


「わかっているなら、動いてください」


 瀬奈の声が初めて強くなった。


 晴人は彼女を見た。


 瀬奈の目の奥にも、疲労があった。


 彼女だって平気ではない。


 母親が消えた十五年前から、ずっと何かを追いかけている。


 追いかけなければ、失ったものが本当に失われるから。


 晴人は封筒を握り直した。


「小学校へ行く」


 瀬奈は頷いた。


「電話します。今も残っているか確認を――」


 彼女がスマートフォンを取り出した時、晴人の端末が震えた。


 通知音は鳴らなかった。


 画面だけが勝手に点灯している。


 発信者なし。


 件名なし。


 メールでも、メッセージでもない。


 白い画面の中央に、短い文字だけが表示されていた。


 記録は嘘をつく。


 瀬奈が画面を見た。


「これは」


 晴人は答えなかった。


 文字が次の行に変わる。


 思い出した者から、消える。


 風が吹いた。


 役所前の植え込みの葉が、乾いた音を立てる。


 晴人は画面を握りしめた。


 その文字は、すぐに消えなかった。


 まるで、読ませるために残っているみたいだった。


 思い出した者から、消える。


 父の言葉が重なる。


 思い出すな。


 お前は、あの子を置いて逃げたんじゃない。


 晴人は目を閉じた。


 十年前の廊下。


 火の匂い。


 結衣の声。


 お兄ちゃん。


 そして、誰かの手。


 自分の背中を押した手。


 それは結衣の手だったのか。


 晴人は目を開けた。


 画面の文字は、また変わっていた。


 次は、名前ではない。


 記憶だ。



 小学校は、すでに半分が工事用フェンスに囲まれていた。


 校門の横に、統合移転のお知らせが貼られている。


 来年度から別の学校と合併し、この校舎は取り壊されるらしい。


 古い集合住宅。


 古い学校。


 古い家。


 零号室は、取り壊されるものの中から現れる。


 晴人はフェンス越しに校庭を見た。


 白線の消えかけたトラック。


 錆びた鉄棒。


 雨水のたまった砂場。


 結衣が走っていた場所だ。


 晴人が保護者代わりに運動会へ来たこともある。


 父は仕事で来られなかった。


 母は体調を崩していた。


 結衣は赤組だった。


 リレーで転んだ。


 膝を擦りむいて、泣きそうな顔で立ち上がった。


 それでも最後まで走った。


 ゴールしたあと、晴人の方を見て笑った。


 お兄ちゃん、見てた?


 見てた。


 そう答えた。


 覚えている。


 覚えているのに。


 校舎の窓に映る空は、灰色だった。


 瀬奈は事務室に電話をかけていた。


 短い会話のあと、こちらを見た。


「在籍記録の確認は難しいそうです。ただ、卒業アルバムの閲覧なら、校内でできるかもしれないと」


「入れるのか」


「事務の方に事情を説明しました。卒業生の家族としてなら」


 瀬奈は少し間を置いた。


「ただし、結衣さんが卒業生として確認できれば、です」


 晴人は校門のインターホンを押した。


 古いチャイムが鳴る。


 しばらくして、スピーカーから女性の声がした。


「はい」


「水野と申します。先ほどお電話した件で」


 声が少し途切れる。


 ザザ、とノイズが入った。


 スピーカーの向こうで、女性が何か紙をめくる音がした。


「水野……晴人様ですね」


「はい」


「申し訳ありません。確認したのですが、こちらの卒業生名簿に、水野結衣さんのお名前が見当たらなくて」


 晴人は目を閉じた。


 予想していた。


 それでも、胸の奥がまた削られる。


「でも、通っていました」


「恐れ入りますが、年度をもう一度教えていただけますか」


「十年前です。火事で亡くなったので、卒業はしていません。六年生でした」


 スピーカーの向こうが静かになった。


 校舎のどこかで、風が窓を鳴らした。


「火事で亡くなった児童、ですか」


「はい」


「少々お待ちください」


 音が切れた。


 晴人はフェンスに手をかけた。


 冷たい金属。


 指先に、錆のざらつきが移る。


 瀬奈が隣に立つ。


「入れないかもしれません」


「わかってる」


「それでも、ここまで来た意味はあります」


「慰めはいらない」


「慰めではありません」


 瀬奈は校舎を見た。


「消え方が一致しています」


 晴人は何も言わなかった。


 インターホンが再び鳴った。


「お待たせしました」


 女性の声は、さっきより少しだけ低くなっていた。


「当時の事故記録も確認しましたが、火災で亡くなった児童の記録はありませんでした」


 晴人の手が、フェンスを強く握った。


「ですが」


 女性が続けた。


「少し、不自然な点がありまして」


 瀬奈が顔を上げる。


「不自然な点?」


「当時の六年二組の集合写真だけ、一名分の空白があります」


 晴人の呼吸が止まった。


「空白?」


「はい。写真の端ではなく、列の真ん中です。児童が一人立っていたような隙間があるのですが、名簿上は人数が合っています」


 風が止んだ。


 校庭の砂も、木の葉も、何も動かない。


 女性の声だけが、スピーカーから落ちてくる。


「それと、その写真の裏に、鉛筆で名前が書かれていました」


 晴人はスピーカーに近づいた。


「何て」


 女性は少し躊躇った。


「消えかけていますが……水野、という名字だけは読めます」


 晴人は目を閉じた。


 水野。


 まだ残っている。


 半分だけ。


 名字だけ。


 世界が、結衣を家族から切り離そうとしている。


 名前から、先に。


 瀬奈がすぐに言った。


「その写真を確認できますか」


「校内でなら可能です。ただ、記録にない方の個人情報になりますので、外部への持ち出しや撮影は――」


 女性の声がそこで途切れた。


 ノイズ。


 ひどいノイズだった。


 インターホンのスピーカーが、突然、古いラジオのように軋む。


 そして、女性とは違う声がした。


 小さな少女の声。


「お兄ちゃん」


 晴人の全身が凍った。


 瀬奈も動きを止める。


 声は続いた。


「名前、呼んで」


 晴人はインターホンを掴んだ。


「結衣」


 即座に言った。


「水野結衣」


 スピーカーの向こうで、かさり、と紙を折る音がした。


 返事はない。


 そのかわり、校舎の三階の窓が一枚だけ、内側からゆっくり開いた。


 誰もいない窓。


 薄暗い教室。


 その机の上に、白いものが見えた。


 折り鶴だった。



 事務の女性に案内されて入った校舎は、昼間なのに薄暗かった。


 廊下にはワックスの匂いと、古い木の匂いが残っている。


 下駄箱の上には、誰かが作った交通安全のポスターが色褪せたまま貼られていた。


 統合移転が決まっているせいか、壁の掲示物は少ない。


 ところどころ剥がされた跡だけが残っている。


 晴人は上履きに履き替えながら、足元を見た。


 子どもの頃より、廊下はずっと狭く感じる。


 自分が大きくなったのか。


 それとも、記憶の中でだけ、この場所が広かったのか。


「こちらです」


 女性は事務室の奥ではなく、三階へ案内した。


「写真は職員室に保管していたはずなのですが、先ほど確認したら、なぜか六年二組のものだけ資料室に移されていました」


「誰が移したんですか」


 瀬奈が聞いた。


「わかりません。記録もありません」


 晴人は階段を上がりながら、手すりに触れた。


 冷たい。


 火事の夜の手すりは熱かった。


 逃げる時、掌の皮が焼けるように痛んだ。


 その痛みを、今も覚えている。


 だが、自分は誰と一緒に逃げていたのか。


 一人だったのか。


 結衣の手を引いていたのか。


 それとも、結衣に押されていたのか。


 三階の廊下に出た瞬間、晴人は立ち止まった。


 開いている窓がある。


 さっき外から見えた窓だ。


 風が入り、カーテンを揺らしている。


 その下の机に、白い折り鶴が置かれていた。


 女性職員が息を呑んだ。


「こんなもの、さっきは……」


 瀬奈は鶴に近づこうとして、足を止めた。


「触らないでください」


 晴人が先に言った。


 自分でも驚くほど冷静な声だった。


 折り鶴は、綺麗に折られていた。


 結衣の鶴ではない。


 結衣の鶴は、いつも少し曲がっていた。


 首の向きが不器用で、羽の左右がずれていた。


 これは違う。


 完璧すぎる。


 人間が折ったものではなく、紙が自分で鶴の形を思い出したみたいだった。


 女性職員は青ざめた顔で資料室の鍵を開けた。


「写真はこちらに」


 資料室は狭かった。


 棚が壁いっぱいに並び、古いアルバムや卒業記念誌、段ボール箱が詰め込まれている。


 蛍光灯が一本、弱く点滅していた。


 瀬奈がスマートフォンを取り出す。


 女性職員が首を横に振った。


「撮影はご遠慮ください」


「わかっています。メモだけ取ります」


 棚から一冊のアルバムが出された。


 十年前の年度。


 六年二組。


 女性職員がページを開く。


 集合写真が現れた。


 晴人は息を忘れた。


 子どもたちが三列に並んでいる。


 担任の先生が端に立っている。


 校舎の前。


 晴れた日の写真。


 その真ん中に、不自然な隙間があった。


 肩と肩の間。


 一人分の空白。


 左右の児童は、明らかにそこに誰かがいるように体の向きを少し開けている。


 けれど、そこには誰も写っていない。


 晴人の目が、その空白に吸い寄せられる。


 そこに、結衣がいた。


 白いブラウス。


 紺のスカート。


 少し緊張して、でも写真を撮られるのが嬉しくて、唇を結びながら笑っていた。


 そういう顔だったはずだ。


 なのに今は、空白しかない。


 女性職員が写真の裏を見せた。


 鉛筆の薄い文字。


 クラス全員の名前が並んでいる。


 その中に、一箇所だけ、消しゴムで強く擦ったような跡があった。


 跡の上に、かろうじて読める二文字。


 水野。


 その後ろは、白く削れている。


 晴人は指を伸ばした。


 触れる直前で止める。


 触れたら、消える気がした。


 瀬奈が横から覗き込む。


「水野……」


「結衣だ」


 晴人は言った。


 それは説明ではなかった。


 確認でもなかった。


 祈りに近かった。


「ここにいた」


 女性職員は何も言わなかった。


 信じていないのではない。


 信じたくないのだ。


 普通の世界で働いている人間は、普通ではないものを見た時、まず自分の理解の方を守ろうとする。


 だが写真の空白は、理解を許さない。


 瀬奈がメモを取った。


 その手が震えている。


「どうした」


 晴人が聞く。


 瀬奈は写真から目を離さずに言った。


「これと同じものを、見たことがあります」


「どこで」


「母のノートです」


 晴人は瀬奈を見た。


 瀬奈の顔色が変わっていた。


「母が集めていた失踪者の資料の中に、集合写真がありました。誰かが消えた写真。名前だけが残ったもの。顔だけが残ったもの。逆に、顔は写っているのに、誰も名前を覚えていないもの」


「それが、零号室と関係あるのか」


「母は、そう考えていたと思います」


 瀬奈は小さく息を吸った。


「でも、今わかりました」


「何が」


「母は、部屋を調べていたんじゃない」


 蛍光灯が一度、大きく瞬いた。


 資料室の奥が、ほんの一瞬だけ暗くなる。


 瀬奈は言った。


「消えかけている人を、追っていたんです」


 その時、机の上の折り鶴が動いた。


 風は入っていない。


 窓は廊下側で、ここは資料室の奥だ。


 なのに、折り鶴の羽がゆっくり開いた。


 中から、小さく折りたたまれた紙片が落ちる。


 女性職員が悲鳴を飲み込んだ。


 瀬奈が一歩下がる。


 晴人は紙片を見た。


 手を伸ばす。


 瀬奈が止めようとした。


「水野さん」


「大丈夫だ」


 大丈夫ではなかった。


 それでも、取らずにはいられなかった。


 紙片は薄く、冷たかった。


 開くと、そこには鉛筆で一行だけ書かれていた。


 水野結衣を思い出すな。


 晴人の視界が揺れた。


 その下に、もう一行。


 思い出せば、次に消えるのは水野晴人。



 帰りの電車の中で、晴人は一度も座らなかった。


 空席はあった。


 けれど座ると、体の力が抜けて、そのまま立ち上がれなくなる気がした。


 窓の外を、曇った街が流れていく。


 マンション。


 駐車場。


 古い商店街。


 取り壊し予定の建物に貼られた白い看板。


 すべてが同じ速度で後ろへ消えていく。


 瀬奈は隣に立ち、吊革を掴んでいた。


 彼女も話さなかった。


 紙片は、晴人の手帳に挟まれている。


 水野結衣を思い出すな。


 思い出せば、次に消えるのは水野晴人。


 脅しなのか。


 警告なのか。


 それとも、結衣自身の願いなのか。


 晴人にはわからない。


 ただ、ひとつだけわかることがあった。


 もう、戻れない。


 結衣の名前は、役所から消えた。


 学校からも、消えかけていた。


 母の記憶からは、ほとんど消えている。


 次にどこから消えるのか。


 墓か。


 写真か。


 自分の記憶か。


 電車がトンネルに入った。


 窓が黒くなる。


 そこに、晴人の顔が映った。


 疲れた男の顔。


 その後ろに、少女が立っていた。


 晴人は振り返らなかった。


 振り返れば、いなくなる気がした。


 窓の中の少女は、薄く笑っていた。


 十二歳のままの結衣。


 けれどその輪郭は、前よりも淡い。


 水に溶けかけた絵のように、肩の線が揺れている。


 晴人は窓を見つめたまま、口を動かした。


「結衣」


 声にはしなかった。


 唇だけで呼んだ。


 窓の中の結衣が、少しだけ首を横に振った。


 呼ばないで。


 そう言っているように見えた。


 電車がトンネルを抜ける。


 窓が明るくなる。


 少女の姿は消えた。


 瀬奈が小さく言った。


「今、何か見ましたか」


 晴人は答えなかった。


 答えれば、彼女まで巻き込む。


 もう巻き込んでいる。


 それでも、言葉にするのが怖かった。


 晴人は封筒を取り出した。


 戸籍謄本をもう一度見る。


 父。


 母。


 自分。


 それだけ。


 長男。


 妹なし。


 紙は冷たい。


 その冷たさが、現実の顔をしている。


 晴人はペンを取り出した。


 戸籍謄本の余白に書くことはできない。


 だから、手帳の最後のページを開いた。


 ゆっくりと書く。


 水野結衣。


 四文字。


 書いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 まだ書ける。


 まだ覚えている。


 瀬奈が隣で見ていた。


「毎日、書いてください」


 晴人は彼女を見た。


「名前を?」


「はい。声に出してもいい。書いてもいい。記録が消えるなら、こちらで記録を増やすしかありません」


「増やしたら、俺が消えるんじゃないのか」


 瀬奈は答えに詰まった。


 晴人は笑った。


 笑ったつもりだった。


 喉の奥が痛むだけだった。


「それでも、書くしかないだろ」


 瀬奈は何も言わなかった。


 晴人はもう一度、名前を書いた。


 水野結衣。


 その下に、もう一度。


 水野結衣。


 字が少し震えている。


 三度目を書こうとした時、電車が揺れた。


 ペン先が紙の上でずれる。


 インクが、黒い線を引いた。


 その線が、ゆっくり滲んだ。


 水野結衣。


 最初に書いた名前の、衣の字が薄くなる。


 晴人は息を止めた。


 インクが紙に吸い込まれていく。


 消える。


 まるで、紙の裏側から誰かが文字を舐め取っているみたいに。


「瀬奈」


 晴人の声が震えた。


 瀬奈が手帳を覗き込む。


 水野結衣。


 二つ目の名前も、薄くなり始めていた。


 瀬奈がバッグから自分のペンを出した。


「書き続けてください」


「消える」


「それでも」


 瀬奈は自分のメモ帳を開いた。


 そこに同じ名前を書く。


 水野結衣。


 さらにもう一度。


 水野結衣。


「私も書きます」


 晴人は彼女を見た。


「やめろ」


「嫌です」


「お前まで消えるかもしれない」


「それなら、なおさら急ぎます」


 瀬奈の声は震えていなかった。


 晴人は怒鳴ろうとした。


 できなかった。


 瀬奈のメモ帳の文字も、端から薄くなっていた。


 水野。


 結。


 衣。


 順番に消えていく。


 二人は電車の中で、ただ名前を書き続けた。


 周囲の乗客は誰も見ていない。


 誰も気づかない。


 吊革が揺れる。


 車内アナウンスが次の駅を告げる。


 世界は普通に動いている。


 その中で、たった四文字だけが、何度も生まれて、何度も消えていった。



 夜、晴人は実家の前に立っていた。


 母に電話をしたが、出なかった。


 父にもかけた。


 電源が入っていない、という機械音声だけが返ってきた。


 実家の玄関灯はついている。


 カーテンの隙間から、居間の明かりが漏れている。


 誰かはいる。


 けれど、チャイムを押す前に、晴人は足を止めた。


 玄関横の表札。


 水野。


 それだけ。


 昔は、そこに家族全員の名前が書かれた小さなプレートがあった。


 父。


 母。


 晴人。


 結衣。


 結衣は自分の名前の横に、小さなシールを貼っていた。


 星のシール。


 母に叱られて、泣きながら剥がした。


 跡だけがしばらく残っていた。


 今、その跡もない。


 晴人はチャイムを押した。


 家の中で、柔らかい音が鳴る。


 足音。


 母が出てきた。


「晴人」


 母は少し驚いた顔をした。


「どうしたの、こんな時間に」


 晴人は母の顔を見た。


 疲れている。


 だが、いつもの母だった。


 娘を忘れた母。


 娘を忘れたことも忘れている母。


「入っていいか」


「もちろん」


 母は扉を開けた。


 家の中は、煮物の匂いがした。


 普通の夜の匂い。


 靴を脱ぐと、廊下の奥に仏壇の部屋が見えた。


 晴人はまっすぐそこへ向かった。


「晴人?」


 母が後ろから呼ぶ。


 晴人は答えなかった。


 仏壇の前に座る。


 線香立て。


 花。


 小さな鈴。


 写真立て。


 そこにあるはずの、結衣の写真。


 なかった。


 代わりに、家族写真が一枚置かれていた。


 父、母、晴人。


 三人だけの写真。


 右端の空白すらない。


 最初から三人で撮った写真のように、綺麗に収まっている。


 晴人は写真立てを手に取った。


 裏を見る。


 日付。


 十年前。


 結衣の命日の翌年。


 家族三人で撮るはずのない時期。


 母が部屋の入口で立ち止まった。


「どうしたの」


 晴人は写真を見たまま聞いた。


「ここにあった写真は」


「写真?」


「結衣の写真だ」


 母は眉を寄せた。


 困った顔。


 知らない言葉を聞いた人の顔。


「また、その名前」


 晴人の指が、写真立ての縁を強く掴んだ。


「母さん」


「その子は、晴人の知り合いなの?」


 音が消えた。


 家の中の時計の音も、台所の換気扇の音も、外を通る車の音も。


 全部、遠くへ行った。


 晴人は写真立てを置いた。


 仏壇の引き出しを開ける。


 母が驚いて近づく。


「ちょっと、何を」


 引き出しの中には、古い数珠と、香典袋の残りと、薄い紙の束が入っていた。


 法要の記録。


 年忌表。


 戒名を書いた紙。


 晴人はそれを一枚ずつ取り出した。


 父方の祖父。


 祖母。


 親戚の名前。


 結衣の名前はない。


 戒名もない。


 命日もない。


 何もない。


 晴人は最後の紙を取り出した。


 白紙だった。


 いや、白紙ではない。


 紙の中央に、かすかな焦げ跡があった。


 折り鶴の形。


 そして、その中心に一文字だけ。


 衣。


 まただ。


 晴人は紙を母に見せた。


「これを見て」


 母は紙を覗き込んだ。


 首をかしげる。


「汚れてるわね」


「文字は」


「文字?」


「見えないのか」


 母は少し困ったように笑った。


「晴人、疲れてるんじゃない?」


 その笑い方が、優しかった。


 優しいから、残酷だった。


 晴人は紙を握りしめた。


「疲れてるのは、母さんだよ」


「え?」


「娘を亡くしたことを、ずっと抱えてきた。なのに今、その娘の名前だけを取り上げられてる」


 母は何も言わなかった。


 晴人の言葉が理解できないのではない。


 理解しようとして、入口で立ち止まっているように見えた。


 母の目が、仏壇の奥を見た。


 何もない空間。


 そこに誰かの影を探すように。


「私」


 母が小さく言った。


「誰かを、忘れているの?」


 晴人は息を呑んだ。


 母の声は震えていた。


 完全に消えたわけではない。


 痛みは残っている。


 名前のない痛みが、母の中でまだ鳴っている。


 晴人は答えようとした。


 その時、玄関の方で物音がした。


 鍵が回る音。


 父が帰ってきたのだと思った。


 晴人は立ち上がる。


 しかし玄関に立っていたのは、父ではなかった。


 誰もいない。


 扉だけが、少し開いている。


 外の夜風が廊下に入り込んでいた。


 足元に、一枚の封筒が落ちている。


 晴人はそれを拾った。


 差出人はない。


 中には、戸籍謄本のコピーが入っていた。


 今日、役所でもらったものと同じ形式。


 だが、一箇所だけ違っていた。


 父、母、晴人。


 その下に、薄い文字で新しい行が浮かんでいる。


 水野結衣。


 晴人の心臓が跳ねた。


 だが、次の瞬間、その文字は紙の上で滲み始めた。


 水。


 野。


 結。


 衣。


 一文字ずつ、黒い染みになって崩れていく。


 晴人は叫ぶように名前を呼んだ。


「結衣!」


 母が後ろで息を呑む。


 紙の上の文字は止まらない。


 最後に残ったのは、衣の一画だけだった。


 それも、ゆっくり薄くなる。


 晴人は指で押さえた。


 消えるな。


 消えるな。


 消えるな。


 祈りのように、何度も思った。


 けれど文字は消えた。


 紙は白くなった。


 世界が、結衣の名前をなかったことにした。


 晴人は白い戸籍謄本を握ったまま、玄関の暗闇を見た。


 開いた扉の向こう。


 夜の廊下に、古い木の扉が一枚だけ立っていた。


 ここは実家の玄関前だ。


 そんな扉はない。


 あるはずがない。


 扉の向こうから、紙を折る音がした。


 かさり。


 かさり。


 そして、結衣の声がした。


「お兄ちゃん」


 晴人は動けなかった。


 声は近い。


 すぐそこにいる。


 けれど、遠い。


 十年分、遠い。


「今度は」


 結衣は言った。


「私の名前を、忘れないで」


 扉の隙間から、白い煙が流れ込んだ。


 火の匂いがした。


 晴人は白い紙を握りしめた。


 そこにはもう、何も書かれていなかった。


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