(第二部 . 第十章 ) 消された名前
区役所の待合室は、朝から白かった。
床も、壁も、天井も、番号を表示する液晶画面の光まで、同じ白に沈んでいる。
人の声だけが、その白い空間の中で低く揺れていた。
申請書にペンを走らせる音。
番号札を引き抜く音。
子どもを抱いた母親の小さなため息。
どれも普通だった。
普通すぎて、晴人には息苦しかった。
こんな場所で、人の存在は一枚の紙になる。
名前。
生年月日。
続柄。
住所。
たったそれだけで、誰かがこの世界にいたことになる。
では、その紙から名前が消えたら。
その人は、どこへ行くのだろう。
晴人は番号札を握りしめた。
二三七。
紙の端が、指の汗で少し柔らかくなっている。
隣に座る瀬奈は、膝の上に黒いファイルを置いていた。母親のノート、古い火災記事のコピー、三〇四号室の図面、そして白い折り鶴。
折り鶴は、小さな透明袋の中に入れられている。
瀬奈はそれを見ないようにしている。
晴人も、見ないようにしていた。
見れば、思い出す。
畳の上で、結衣が折っていた指先。
火の中で、こちらへ手を伸ばした影。
そして、母のメッセージ。
何の話だったか、忘れちゃった。
文字が消えた瞬間の画面の白さが、まだ目の奥に残っている。
「水野さん」
瀬奈が小さく呼んだ。
「大丈夫ですか」
晴人は番号表示の画面から目を離さずに答えた。
「大丈夫に見えるか」
「見えません」
「なら聞くな」
「確認です」
瀬奈の声は静かだった。
静かすぎて、晴人は少しだけ自分の息の荒さに気づいた。
番号が変わる。
二三四。
二三五。
窓口の向こうでは、職員たちが同じ色のベストを着て、同じ高さの椅子に座り、同じ速度で書類を受け取っていた。
誰も急いでいない。
誰も怯えていない。
世界は、結衣の名前が消えかけていることを知らない。
「水野さん」
瀬奈がもう一度、低く言った。
「窓口で話す時、感情的にならないでください」
「わかってる」
「相手は規則で動きます。怒っても、紙は出てきません」
「わかってる」
「それでも言います。あなたは今、崩れやすい状態です」
晴人は瀬奈を見た。
瀬奈の目は、まっすぐだった。
記者の目ではなかった。
誰かが崩れる前に、その手首を掴もうとしている人の目だった。
「崩れたら」
晴人は言った。
「拾ってくれるのか」
瀬奈は少しだけ黙った。
そして、答えた。
「拾います」
短い言葉だった。
余計な優しさはなかった。
だから余計に、胸の奥に残った。
液晶画面の番号が切り替わった。
二三七。
呼び出し音が鳴った。
晴人は立ち上がった。
手の中の番号札が、薄い紙とは思えないほど重かった。
*
窓口のガラス板には、小さな傷がいくつもついていた。
晴人はそこに映る自分の顔を見た。
目の下に影がある。
寝不足だけではない。
十年前から眠れていない人間の顔だった。
「戸籍謄本のご請求ですね」
職員の女性は、淡々と言った。
声は柔らかい。
けれど柔らかいだけで、こちらの痛みには触れない声だった。
「はい」
「ご本人様確認書類をお願いします」
晴人は運転免許証を出した。
女性は確認し、申請書を受け取る。
その指先の動きに、迷いはなかった。
「本籍地はこちらでお間違いありませんか」
「ありません」
「必要な方のお名前は」
晴人は一度だけ息を止めた。
「水野結衣です」
女性の手がキーボードの上で止まった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけだった。
けれど晴人には、その沈黙が壁のように感じられた。
「水野、結衣様ですね」
「はい」
「漢字は」
晴人は申請書の余白に書いた。
水野結衣。
書き慣れた名前だった。
小学校の持ち物に、母の代わりに書いてやったことがある。
運動会のゼッケンにも、夏休みの工作の箱にも。
水野結衣。
その四文字は、晴人の中でまだ生きていた。
職員は画面を見た。
キーボードを打つ音が、短く続く。
晴人はガラス板の向こうの画面を見ようとした。
角度のせいで、文字は読めない。
ただ、白い画面の中を黒い行が流れていることだけがわかった。
職員の眉が、わずかに寄った。
「少々お待ちください」
彼女はそう言って、もう一度キーボードを打った。
瀬奈が隣で黙っている。
ファイルの角を指で押さえている。
その指先が、わずかに白い。
職員が別の画面を開いた。
また検索する。
今度は長かった。
プリンターは動かない。
誰も呼ばない。
窓口の向こうで、時間だけが薄く削れていく。
「申し訳ございません」
職員は顔を上げた。
丁寧な声だった。
「該当する方が確認できません」
晴人は聞き間違えたと思った。
「……確認できない?」
「はい。水野結衣様というお名前では、こちらの戸籍には記載が見当たりません」
「そんなはずない」
声が少し大きくなった。
瀬奈の手が、机の下で晴人の袖を軽く引いた。
感情的にならないで。
さっきの言葉が頭の中で鳴る。
晴人は歯を食いしばった。
「妹です。水野結衣。十年前に亡くなっています。死亡届も出ているはずです」
「お亡くなりになった方ですと、除籍の記載が残っている場合がございます。お調べいたします」
職員はまた画面を操作した。
晴人は申請書の上の名前を見た。
水野結衣。
インクはまだ濡れている。
そこにある。
あるはずだ。
職員は奥の席の男性職員に声をかけた。
二人が画面を見て、何か小さく話している。
聞こえない。
けれど、言葉の切れ端だけがガラスを越えて落ちてきた。
該当なし。
履歴。
除籍なし。
出生届。
なし。
晴人の指が、申請書の端を掴んだ。
紙がしわになる。
瀬奈が、今度は少し強く袖を引いた。
「水野さん」
「わかってる」
わかっていなかった。
何も。
自分が座っている椅子の硬さも、窓口の上に貼られた案内表示も、職員の首から下がる名札も、全部が遠くなっていく。
水野結衣という名前が、この白い建物の中で、存在しないものとして扱われている。
それだけが、異様に近かった。
男性職員がこちらへ来た。
「お待たせいたしました」
彼は丁寧に頭を下げた。
「恐れ入りますが、ご家族構成について確認させていただいてもよろしいでしょうか」
晴人は喉を鳴らした。
「父、母、自分、妹です」
「妹様のお名前が、水野結衣様」
「そうです」
「生年月日はお分かりになりますか」
「平成十四年、四月二十七日」
すぐに出た。
忘れるはずがない。
結衣の誕生日。
四月二十七日。
春の終わりに生まれたから、母は衣という字を使いたかった。
結ぶ衣。
人と人をほどけないように結ぶ子になるように、と。
母がそう言っていた。
言っていたはずだ。
男性職員は入力した。
そして、首をかしげた。
「やはり、該当がありません」
晴人は笑いそうになった。
笑えなかった。
「じゃあ、何ですか」
声が震えた。
「俺の妹は、届けも出されずに、死んだことになっているんですか」
「いえ、そういう意味では――」
「火事で死んだんです。新聞にも載りました。学校にも通っていました。葬式もしました。墓もあります。写真も――」
写真。
晴人は胸ポケットに手を入れた。
家族写真を取り出す。
右端の空白。
そこに、結衣がいた場所。
だが、窓口の白い光の下で見ると、その空白はさらに広がっていた。
父の顔だけではない。
母の隣、晴人の右側。
少女が立っていたはずの場所には、誰かが最初から写っていなかったような余白しかない。
晴人は写真を職員に見せようとして、手を止めた。
何を見せるつもりだ。
いないことを証明する写真を。
瀬奈が静かに言った。
「古い戸籍の改製原戸籍は確認できますか」
男性職員の視線が瀬奈に移った。
「ご親族の方ですか」
「代理ではありません。同行者です。ただ、調査のため、古い記録を確認した方がいいと思います」
「調査、ですか」
職員の声に、わずかな警戒が混じった。
瀬奈は名刺を出した。
フリーライター。
都市伝承、失踪事件、古い集合住宅に関する記事。
その肩書きは、役所の窓口では役に立たない。
むしろ余計に怪しく見える。
しかし瀬奈は引かなかった。
「公的な請求権が必要なら、水野さん本人の請求として手続きをしてください。現行戸籍にないなら、改製前の記録、除籍簿、住民票の除票、死亡届の受理記録。確認できる範囲でお願いします」
男性職員は少しだけ表情を変えた。
この人は、何をどこまで知っているのか。
そう考えている顔だった。
「お時間をいただきます」
「待ちます」
瀬奈は即答した。
晴人はまだ写真を握っていた。
右端の空白に、親指がかかっている。
そこにいたはずの妹の肩を、押さえているみたいだった。
*
待合室に戻ると、番号はもう二六〇番台になっていた。
世界は進んでいた。
晴人の中だけが、同じ場所で止まっている。
自動販売機の前で、瀬奈が缶コーヒーを二本買った。
一本を晴人に差し出す。
「飲んでください」
「いらない」
「飲めなくても持っていてください。手が震えています」
晴人は自分の手を見た。
確かに、震えていた。
缶を受け取る。
冷たかった。
その冷たさが、少しだけ現実に戻してくれた。
瀬奈は隣の椅子に座った。
「今の段階で言えることがあります」
「何だ」
「消える順番です」
晴人は瀬奈を見た。
「記憶が先。記録が後」
瀬奈はファイルを開いた。
中から、昨日のメモを取り出す。
「お母様は最初、名前を聞き返しました。漢字を聞こうとした。つまり、完全に消えてはいなかった」
「そのあと、忘れた」
「はい。そして今、戸籍上から確認できなくなっている」
「だから何だ」
「部屋は、いきなり人を消すんじゃない。まず周囲の記憶を薄める。それから、記録を削る」
晴人は缶コーヒーを握った。
金属が小さくへこむ。
「まるで、世界の方が後から帳尻を合わせているみたいです」
瀬奈の声は低かった。
「人が忘れたから、紙も合わせて消える。紙が消えたから、また人が忘れやすくなる。そうやって輪が閉じていく」
「輪が閉じたら」
晴人は聞いた。
瀬奈は答えなかった。
答えを知っているからではない。
言えば、本当になる気がしたからだ。
晴人は自分で言った。
「誰にも思い出されなくなる」
瀬奈は頷いた。
「戸籍のない男も、同じだったのかもしれません」
第九章で出会った老人の顔が、晴人の脳裏に浮かんだ。
誰にも覚えられず、書類にも残らず、それでも自分はここにいると訴えていた男。
彼は、未来の結衣なのか。
それとも、未来の晴人なのか。
晴人は缶のプルタブに指をかけた。
開けなかった。
「結衣が消えるなら」
声がかすれた。
「死んだことすら、なかったことになるのか」
瀬奈は視線を落とした。
「可能性はあります」
「墓は?」
「変わるかもしれません」
「仏壇は?」
「名前が、消えるかもしれません」
「母さんは?」
瀬奈は黙った。
晴人は続けた。
「母さんは、娘を亡くした痛みだけ残して、誰を亡くしたのか忘れるのか」
その言葉は、自分の胸にも刺さった。
痛みだけが残る。
名前のない痛み。
理由のない喪失。
人はそれを抱えて、生きられるのだろうか。
晴人のスマートフォンが震えた。
母からではなかった。
父からだった。
父の名前が画面に出た瞬間、晴人の心臓が一度だけ強く鳴った。
十年前の火事の夜から、父とは必要なことしか話していない。
誕生日にも、命日にも、正月にも。
父から電話が来ることは、ほとんどなかった。
晴人は通話ボタンを押した。
「もしもし」
しばらく、無音だった。
雑音だけが聞こえる。
風の音。
あるいは、古い廊下を吹き抜ける空気の音。
「父さん?」
返事はない。
晴人は立ち上がった。
瀬奈も顔を上げる。
画面には、父の名前が表示されている。
通話時間だけが進んでいた。
十二秒。
十三秒。
十四秒。
そして、かすれた声が聞こえた。
「……晴人」
父の声だった。
でも、遠い。
まるで壁の向こうから話しているみたいだった。
「父さん、今どこにいる」
「お前……」
声が途切れる。
ノイズ。
紙を擦るような音。
「お前、誰のことを調べてる」
晴人は息を止めた。
「結衣のことだ」
電話の向こうが沈黙した。
一秒。
二秒。
三秒。
そして父が言った。
「……ゆい?」
晴人の背中が冷たくなった。
瀬奈が立ち上がる。
「父さん」
晴人は低く言った。
「ふざけるな」
「晴人」
「忘れたって言うのか」
「違う」
父の声が、ほんの少し強くなった。
「忘れたんじゃない」
「じゃあ何だ」
またノイズ。
その奥で、誰かが咳き込む音がした。
火事の夜の音に似ていた。
「思い出すな」
父は言った。
晴人の手が止まった。
「何を」
「お前が見たものだ」
「何の話をしてる」
「十年前」
父の声が、ひどく近くなる。
それなのに、電話越しのはずの声は、晴人の背後から聞こえたような気がした。
「お前は、あの子を置いて逃げたんじゃない」
晴人は動けなかった。
瀬奈の表情が変わる。
「父さん」
晴人の声は、ほとんど息だった。
「今、何て言った」
通話が切れた。
画面に、通話終了の文字が表示される。
晴人はしばらく、その文字を見ていた。
瀬奈が口を開く。
「今の」
「聞こえたか」
「はい」
「父さんは、知ってる」
晴人はスマートフォンを握った。
「俺が忘れてることを」
その瞬間、窓口から声がした。
「二三七番の方」
呼ばれていた。
晴人は振り向いた。
白い窓口の向こうで、男性職員が封筒を持って立っている。
その封筒は薄かった。
あまりにも薄かった。
人一人の存在を証明するには、足りないほど。
*
封筒の中には、戸籍謄本が一通入っていた。
それから、古い記録を確認した結果についての説明書き。
男性職員は、慎重な口調で言った。
「現行戸籍、改製原戸籍、除籍簿、確認できる範囲で照会いたしました」
晴人は何も言わなかった。
瀬奈が代わりに聞いた。
「結果は」
「水野結衣様という方の記載は、確認できませんでした」
言葉は、予想していた。
それでも実際に聞くと、体の中で何かが一段深く沈んだ。
「出生届の受理記録もですか」
「こちらで確認できる範囲では、ございません」
「死亡届は」
「ございません」
「火災で亡くなった未成年者の記録は」
瀬奈の声が少し硬くなった。
職員は目を伏せた。
「火災に関する行政記録そのものは、こちらの窓口では扱えません。ただ、戸籍上、該当する方の死亡記載はございません」
晴人は封筒を開けた。
紙を取り出す。
白い紙。
黒い文字。
水野家の戸籍。
父の名前。
母の名前。
晴人の名前。
そこまでは、ある。
その下。
妹の名前があるはずの場所。
何もない。
余白ですらなかった。
最初から、そこに行が存在しなかった。
晴人は紙を見つめた。
目を凝らせば、見える気がした。
水野結衣。
四月二十七日生。
長女。
十年前、火災により死亡。
そう書かれているはずだ。
だが、文字はない。
紙は、何も知らない顔をしている。
男性職員が申し訳なさそうに言った。
「別の自治体で出生届を出された可能性や、転籍の記録なども考えられますが」
「本籍は変わってません」
晴人は言った。
声が低かった。
「生まれた時から、ここです」
「では、何か別のお名前で――」
「ありません」
「失礼ですが、記憶違いという可能性も」
その言葉が終わる前に、晴人は顔を上げた。
職員は口を閉じた。
瀬奈が静かに間に入る。
「ご対応ありがとうございました。写しはこのまま受け取ります」
彼女は頭を下げた。
晴人の腕に軽く触れる。
「行きましょう」
晴人は動かなかった。
戸籍謄本の上の自分の名前を見ていた。
水野晴人。
長男。
それだけ。
まるで、ひとりっ子だったみたいに。
職員が何か言った。
聞こえなかった。
晴人は戸籍謄本を封筒に戻した。
その時、紙の裏側に何かが見えた。
薄い影。
印刷ではない。
汚れでもない。
紙を光に透かした時だけ浮かぶ、かすかな折り目のような線。
晴人は封筒を持ったまま、窓口の蛍光灯にかざした。
「水野さん?」
瀬奈が覗き込む。
紙の裏側に、三角形の影があった。
折り鶴の羽に似ていた。
その羽の下に、薄く、文字のようなものが浮かんでいる。
衣。
一文字だけ。
結衣の、衣。
晴人の喉が鳴った。
次の瞬間、その影は消えた。
紙はまた、ただの白い紙になった。
「今の、見えたか」
晴人が聞く。
瀬奈は頷かなかった。
首も横に振らなかった。
ただ、唇を結んでいた。
「見えたんだな」
「……はい」
「何だった」
「折り目に見えました」
「名前は」
瀬奈は一瞬ためらった。
「一文字だけ」
「衣」
「はい」
晴人は紙を握った。
握り潰しそうになって、やめた。
これは、証拠だ。
いや、証拠だったものだ。
消えかけた誰かの、最後の爪痕。
晴人は封筒を胸に抱えた。
その胸の内側で、鼓動が乱れている。
結衣は消えていない。
まだ。
少なくとも、一文字は残っていた。
だが、一文字しか残っていなかった。
*
役所を出ると、空は曇っていた。
朝には薄く晴れていたはずなのに、雲が低く降りている。
建物のガラス扉に、二人の姿が映った。
晴人と瀬奈。
その少し後ろに、もう一人の影があるように見えた。
晴人が振り返る。
誰もいない。
自動ドアが閉まる音だけがした。
瀬奈は階段の端で立ち止まり、ファイルを開いた。
「次に確認する場所があります」
「どこだ」
「学校です。結衣さんが通っていた小学校。卒業アルバム、在籍記録、クラス名簿」
「残ってると思うか」
「わかりません」
「戸籍がないんだぞ」
「だからこそです。公的記録が消えても、私的記録が遅れて消える可能性があります」
瀬奈は早口ではなかった。
しかし、言葉の奥に焦りがあった。
「学校、病院、写真館、火災当時の新聞、葬儀社。ひとつずつ確認します。消える順番を見れば、部屋の性質がわかるかもしれません」
「性質なんて知ってどうする」
晴人の声は荒かった。
「結衣の名前が消えてる。母さんは忘れてる。父さんは何か知ってて、今は電話にも出ない。調べたって、消えるものは消えるんじゃないのか」
瀬奈はファイルを閉じた。
「なら、何もしませんか」
晴人は黙った。
「何もしないなら、部屋の方が進みます。私たちが立ち止まっている間に、記憶も記録も削られていく」
「わかってる」
「わかっているなら、動いてください」
瀬奈の声が初めて強くなった。
晴人は彼女を見た。
瀬奈の目の奥にも、疲労があった。
彼女だって平気ではない。
母親が消えた十五年前から、ずっと何かを追いかけている。
追いかけなければ、失ったものが本当に失われるから。
晴人は封筒を握り直した。
「小学校へ行く」
瀬奈は頷いた。
「電話します。今も残っているか確認を――」
彼女がスマートフォンを取り出した時、晴人の端末が震えた。
通知音は鳴らなかった。
画面だけが勝手に点灯している。
発信者なし。
件名なし。
メールでも、メッセージでもない。
白い画面の中央に、短い文字だけが表示されていた。
記録は嘘をつく。
瀬奈が画面を見た。
「これは」
晴人は答えなかった。
文字が次の行に変わる。
思い出した者から、消える。
風が吹いた。
役所前の植え込みの葉が、乾いた音を立てる。
晴人は画面を握りしめた。
その文字は、すぐに消えなかった。
まるで、読ませるために残っているみたいだった。
思い出した者から、消える。
父の言葉が重なる。
思い出すな。
お前は、あの子を置いて逃げたんじゃない。
晴人は目を閉じた。
十年前の廊下。
火の匂い。
結衣の声。
お兄ちゃん。
そして、誰かの手。
自分の背中を押した手。
それは結衣の手だったのか。
晴人は目を開けた。
画面の文字は、また変わっていた。
次は、名前ではない。
記憶だ。
*
小学校は、すでに半分が工事用フェンスに囲まれていた。
校門の横に、統合移転のお知らせが貼られている。
来年度から別の学校と合併し、この校舎は取り壊されるらしい。
古い集合住宅。
古い学校。
古い家。
零号室は、取り壊されるものの中から現れる。
晴人はフェンス越しに校庭を見た。
白線の消えかけたトラック。
錆びた鉄棒。
雨水のたまった砂場。
結衣が走っていた場所だ。
晴人が保護者代わりに運動会へ来たこともある。
父は仕事で来られなかった。
母は体調を崩していた。
結衣は赤組だった。
リレーで転んだ。
膝を擦りむいて、泣きそうな顔で立ち上がった。
それでも最後まで走った。
ゴールしたあと、晴人の方を見て笑った。
お兄ちゃん、見てた?
見てた。
そう答えた。
覚えている。
覚えているのに。
校舎の窓に映る空は、灰色だった。
瀬奈は事務室に電話をかけていた。
短い会話のあと、こちらを見た。
「在籍記録の確認は難しいそうです。ただ、卒業アルバムの閲覧なら、校内でできるかもしれないと」
「入れるのか」
「事務の方に事情を説明しました。卒業生の家族としてなら」
瀬奈は少し間を置いた。
「ただし、結衣さんが卒業生として確認できれば、です」
晴人は校門のインターホンを押した。
古いチャイムが鳴る。
しばらくして、スピーカーから女性の声がした。
「はい」
「水野と申します。先ほどお電話した件で」
声が少し途切れる。
ザザ、とノイズが入った。
スピーカーの向こうで、女性が何か紙をめくる音がした。
「水野……晴人様ですね」
「はい」
「申し訳ありません。確認したのですが、こちらの卒業生名簿に、水野結衣さんのお名前が見当たらなくて」
晴人は目を閉じた。
予想していた。
それでも、胸の奥がまた削られる。
「でも、通っていました」
「恐れ入りますが、年度をもう一度教えていただけますか」
「十年前です。火事で亡くなったので、卒業はしていません。六年生でした」
スピーカーの向こうが静かになった。
校舎のどこかで、風が窓を鳴らした。
「火事で亡くなった児童、ですか」
「はい」
「少々お待ちください」
音が切れた。
晴人はフェンスに手をかけた。
冷たい金属。
指先に、錆のざらつきが移る。
瀬奈が隣に立つ。
「入れないかもしれません」
「わかってる」
「それでも、ここまで来た意味はあります」
「慰めはいらない」
「慰めではありません」
瀬奈は校舎を見た。
「消え方が一致しています」
晴人は何も言わなかった。
インターホンが再び鳴った。
「お待たせしました」
女性の声は、さっきより少しだけ低くなっていた。
「当時の事故記録も確認しましたが、火災で亡くなった児童の記録はありませんでした」
晴人の手が、フェンスを強く握った。
「ですが」
女性が続けた。
「少し、不自然な点がありまして」
瀬奈が顔を上げる。
「不自然な点?」
「当時の六年二組の集合写真だけ、一名分の空白があります」
晴人の呼吸が止まった。
「空白?」
「はい。写真の端ではなく、列の真ん中です。児童が一人立っていたような隙間があるのですが、名簿上は人数が合っています」
風が止んだ。
校庭の砂も、木の葉も、何も動かない。
女性の声だけが、スピーカーから落ちてくる。
「それと、その写真の裏に、鉛筆で名前が書かれていました」
晴人はスピーカーに近づいた。
「何て」
女性は少し躊躇った。
「消えかけていますが……水野、という名字だけは読めます」
晴人は目を閉じた。
水野。
まだ残っている。
半分だけ。
名字だけ。
世界が、結衣を家族から切り離そうとしている。
名前から、先に。
瀬奈がすぐに言った。
「その写真を確認できますか」
「校内でなら可能です。ただ、記録にない方の個人情報になりますので、外部への持ち出しや撮影は――」
女性の声がそこで途切れた。
ノイズ。
ひどいノイズだった。
インターホンのスピーカーが、突然、古いラジオのように軋む。
そして、女性とは違う声がした。
小さな少女の声。
「お兄ちゃん」
晴人の全身が凍った。
瀬奈も動きを止める。
声は続いた。
「名前、呼んで」
晴人はインターホンを掴んだ。
「結衣」
即座に言った。
「水野結衣」
スピーカーの向こうで、かさり、と紙を折る音がした。
返事はない。
そのかわり、校舎の三階の窓が一枚だけ、内側からゆっくり開いた。
誰もいない窓。
薄暗い教室。
その机の上に、白いものが見えた。
折り鶴だった。
*
事務の女性に案内されて入った校舎は、昼間なのに薄暗かった。
廊下にはワックスの匂いと、古い木の匂いが残っている。
下駄箱の上には、誰かが作った交通安全のポスターが色褪せたまま貼られていた。
統合移転が決まっているせいか、壁の掲示物は少ない。
ところどころ剥がされた跡だけが残っている。
晴人は上履きに履き替えながら、足元を見た。
子どもの頃より、廊下はずっと狭く感じる。
自分が大きくなったのか。
それとも、記憶の中でだけ、この場所が広かったのか。
「こちらです」
女性は事務室の奥ではなく、三階へ案内した。
「写真は職員室に保管していたはずなのですが、先ほど確認したら、なぜか六年二組のものだけ資料室に移されていました」
「誰が移したんですか」
瀬奈が聞いた。
「わかりません。記録もありません」
晴人は階段を上がりながら、手すりに触れた。
冷たい。
火事の夜の手すりは熱かった。
逃げる時、掌の皮が焼けるように痛んだ。
その痛みを、今も覚えている。
だが、自分は誰と一緒に逃げていたのか。
一人だったのか。
結衣の手を引いていたのか。
それとも、結衣に押されていたのか。
三階の廊下に出た瞬間、晴人は立ち止まった。
開いている窓がある。
さっき外から見えた窓だ。
風が入り、カーテンを揺らしている。
その下の机に、白い折り鶴が置かれていた。
女性職員が息を呑んだ。
「こんなもの、さっきは……」
瀬奈は鶴に近づこうとして、足を止めた。
「触らないでください」
晴人が先に言った。
自分でも驚くほど冷静な声だった。
折り鶴は、綺麗に折られていた。
結衣の鶴ではない。
結衣の鶴は、いつも少し曲がっていた。
首の向きが不器用で、羽の左右がずれていた。
これは違う。
完璧すぎる。
人間が折ったものではなく、紙が自分で鶴の形を思い出したみたいだった。
女性職員は青ざめた顔で資料室の鍵を開けた。
「写真はこちらに」
資料室は狭かった。
棚が壁いっぱいに並び、古いアルバムや卒業記念誌、段ボール箱が詰め込まれている。
蛍光灯が一本、弱く点滅していた。
瀬奈がスマートフォンを取り出す。
女性職員が首を横に振った。
「撮影はご遠慮ください」
「わかっています。メモだけ取ります」
棚から一冊のアルバムが出された。
十年前の年度。
六年二組。
女性職員がページを開く。
集合写真が現れた。
晴人は息を忘れた。
子どもたちが三列に並んでいる。
担任の先生が端に立っている。
校舎の前。
晴れた日の写真。
その真ん中に、不自然な隙間があった。
肩と肩の間。
一人分の空白。
左右の児童は、明らかにそこに誰かがいるように体の向きを少し開けている。
けれど、そこには誰も写っていない。
晴人の目が、その空白に吸い寄せられる。
そこに、結衣がいた。
白いブラウス。
紺のスカート。
少し緊張して、でも写真を撮られるのが嬉しくて、唇を結びながら笑っていた。
そういう顔だったはずだ。
なのに今は、空白しかない。
女性職員が写真の裏を見せた。
鉛筆の薄い文字。
クラス全員の名前が並んでいる。
その中に、一箇所だけ、消しゴムで強く擦ったような跡があった。
跡の上に、かろうじて読める二文字。
水野。
その後ろは、白く削れている。
晴人は指を伸ばした。
触れる直前で止める。
触れたら、消える気がした。
瀬奈が横から覗き込む。
「水野……」
「結衣だ」
晴人は言った。
それは説明ではなかった。
確認でもなかった。
祈りに近かった。
「ここにいた」
女性職員は何も言わなかった。
信じていないのではない。
信じたくないのだ。
普通の世界で働いている人間は、普通ではないものを見た時、まず自分の理解の方を守ろうとする。
だが写真の空白は、理解を許さない。
瀬奈がメモを取った。
その手が震えている。
「どうした」
晴人が聞く。
瀬奈は写真から目を離さずに言った。
「これと同じものを、見たことがあります」
「どこで」
「母のノートです」
晴人は瀬奈を見た。
瀬奈の顔色が変わっていた。
「母が集めていた失踪者の資料の中に、集合写真がありました。誰かが消えた写真。名前だけが残ったもの。顔だけが残ったもの。逆に、顔は写っているのに、誰も名前を覚えていないもの」
「それが、零号室と関係あるのか」
「母は、そう考えていたと思います」
瀬奈は小さく息を吸った。
「でも、今わかりました」
「何が」
「母は、部屋を調べていたんじゃない」
蛍光灯が一度、大きく瞬いた。
資料室の奥が、ほんの一瞬だけ暗くなる。
瀬奈は言った。
「消えかけている人を、追っていたんです」
その時、机の上の折り鶴が動いた。
風は入っていない。
窓は廊下側で、ここは資料室の奥だ。
なのに、折り鶴の羽がゆっくり開いた。
中から、小さく折りたたまれた紙片が落ちる。
女性職員が悲鳴を飲み込んだ。
瀬奈が一歩下がる。
晴人は紙片を見た。
手を伸ばす。
瀬奈が止めようとした。
「水野さん」
「大丈夫だ」
大丈夫ではなかった。
それでも、取らずにはいられなかった。
紙片は薄く、冷たかった。
開くと、そこには鉛筆で一行だけ書かれていた。
水野結衣を思い出すな。
晴人の視界が揺れた。
その下に、もう一行。
思い出せば、次に消えるのは水野晴人。
*
帰りの電車の中で、晴人は一度も座らなかった。
空席はあった。
けれど座ると、体の力が抜けて、そのまま立ち上がれなくなる気がした。
窓の外を、曇った街が流れていく。
マンション。
駐車場。
古い商店街。
取り壊し予定の建物に貼られた白い看板。
すべてが同じ速度で後ろへ消えていく。
瀬奈は隣に立ち、吊革を掴んでいた。
彼女も話さなかった。
紙片は、晴人の手帳に挟まれている。
水野結衣を思い出すな。
思い出せば、次に消えるのは水野晴人。
脅しなのか。
警告なのか。
それとも、結衣自身の願いなのか。
晴人にはわからない。
ただ、ひとつだけわかることがあった。
もう、戻れない。
結衣の名前は、役所から消えた。
学校からも、消えかけていた。
母の記憶からは、ほとんど消えている。
次にどこから消えるのか。
墓か。
写真か。
自分の記憶か。
電車がトンネルに入った。
窓が黒くなる。
そこに、晴人の顔が映った。
疲れた男の顔。
その後ろに、少女が立っていた。
晴人は振り返らなかった。
振り返れば、いなくなる気がした。
窓の中の少女は、薄く笑っていた。
十二歳のままの結衣。
けれどその輪郭は、前よりも淡い。
水に溶けかけた絵のように、肩の線が揺れている。
晴人は窓を見つめたまま、口を動かした。
「結衣」
声にはしなかった。
唇だけで呼んだ。
窓の中の結衣が、少しだけ首を横に振った。
呼ばないで。
そう言っているように見えた。
電車がトンネルを抜ける。
窓が明るくなる。
少女の姿は消えた。
瀬奈が小さく言った。
「今、何か見ましたか」
晴人は答えなかった。
答えれば、彼女まで巻き込む。
もう巻き込んでいる。
それでも、言葉にするのが怖かった。
晴人は封筒を取り出した。
戸籍謄本をもう一度見る。
父。
母。
自分。
それだけ。
長男。
妹なし。
紙は冷たい。
その冷たさが、現実の顔をしている。
晴人はペンを取り出した。
戸籍謄本の余白に書くことはできない。
だから、手帳の最後のページを開いた。
ゆっくりと書く。
水野結衣。
四文字。
書いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
まだ書ける。
まだ覚えている。
瀬奈が隣で見ていた。
「毎日、書いてください」
晴人は彼女を見た。
「名前を?」
「はい。声に出してもいい。書いてもいい。記録が消えるなら、こちらで記録を増やすしかありません」
「増やしたら、俺が消えるんじゃないのか」
瀬奈は答えに詰まった。
晴人は笑った。
笑ったつもりだった。
喉の奥が痛むだけだった。
「それでも、書くしかないだろ」
瀬奈は何も言わなかった。
晴人はもう一度、名前を書いた。
水野結衣。
その下に、もう一度。
水野結衣。
字が少し震えている。
三度目を書こうとした時、電車が揺れた。
ペン先が紙の上でずれる。
インクが、黒い線を引いた。
その線が、ゆっくり滲んだ。
水野結衣。
最初に書いた名前の、衣の字が薄くなる。
晴人は息を止めた。
インクが紙に吸い込まれていく。
消える。
まるで、紙の裏側から誰かが文字を舐め取っているみたいに。
「瀬奈」
晴人の声が震えた。
瀬奈が手帳を覗き込む。
水野結衣。
二つ目の名前も、薄くなり始めていた。
瀬奈がバッグから自分のペンを出した。
「書き続けてください」
「消える」
「それでも」
瀬奈は自分のメモ帳を開いた。
そこに同じ名前を書く。
水野結衣。
さらにもう一度。
水野結衣。
「私も書きます」
晴人は彼女を見た。
「やめろ」
「嫌です」
「お前まで消えるかもしれない」
「それなら、なおさら急ぎます」
瀬奈の声は震えていなかった。
晴人は怒鳴ろうとした。
できなかった。
瀬奈のメモ帳の文字も、端から薄くなっていた。
水野。
結。
衣。
順番に消えていく。
二人は電車の中で、ただ名前を書き続けた。
周囲の乗客は誰も見ていない。
誰も気づかない。
吊革が揺れる。
車内アナウンスが次の駅を告げる。
世界は普通に動いている。
その中で、たった四文字だけが、何度も生まれて、何度も消えていった。
*
夜、晴人は実家の前に立っていた。
母に電話をしたが、出なかった。
父にもかけた。
電源が入っていない、という機械音声だけが返ってきた。
実家の玄関灯はついている。
カーテンの隙間から、居間の明かりが漏れている。
誰かはいる。
けれど、チャイムを押す前に、晴人は足を止めた。
玄関横の表札。
水野。
それだけ。
昔は、そこに家族全員の名前が書かれた小さなプレートがあった。
父。
母。
晴人。
結衣。
結衣は自分の名前の横に、小さなシールを貼っていた。
星のシール。
母に叱られて、泣きながら剥がした。
跡だけがしばらく残っていた。
今、その跡もない。
晴人はチャイムを押した。
家の中で、柔らかい音が鳴る。
足音。
母が出てきた。
「晴人」
母は少し驚いた顔をした。
「どうしたの、こんな時間に」
晴人は母の顔を見た。
疲れている。
だが、いつもの母だった。
娘を忘れた母。
娘を忘れたことも忘れている母。
「入っていいか」
「もちろん」
母は扉を開けた。
家の中は、煮物の匂いがした。
普通の夜の匂い。
靴を脱ぐと、廊下の奥に仏壇の部屋が見えた。
晴人はまっすぐそこへ向かった。
「晴人?」
母が後ろから呼ぶ。
晴人は答えなかった。
仏壇の前に座る。
線香立て。
花。
小さな鈴。
写真立て。
そこにあるはずの、結衣の写真。
なかった。
代わりに、家族写真が一枚置かれていた。
父、母、晴人。
三人だけの写真。
右端の空白すらない。
最初から三人で撮った写真のように、綺麗に収まっている。
晴人は写真立てを手に取った。
裏を見る。
日付。
十年前。
結衣の命日の翌年。
家族三人で撮るはずのない時期。
母が部屋の入口で立ち止まった。
「どうしたの」
晴人は写真を見たまま聞いた。
「ここにあった写真は」
「写真?」
「結衣の写真だ」
母は眉を寄せた。
困った顔。
知らない言葉を聞いた人の顔。
「また、その名前」
晴人の指が、写真立ての縁を強く掴んだ。
「母さん」
「その子は、晴人の知り合いなの?」
音が消えた。
家の中の時計の音も、台所の換気扇の音も、外を通る車の音も。
全部、遠くへ行った。
晴人は写真立てを置いた。
仏壇の引き出しを開ける。
母が驚いて近づく。
「ちょっと、何を」
引き出しの中には、古い数珠と、香典袋の残りと、薄い紙の束が入っていた。
法要の記録。
年忌表。
戒名を書いた紙。
晴人はそれを一枚ずつ取り出した。
父方の祖父。
祖母。
親戚の名前。
結衣の名前はない。
戒名もない。
命日もない。
何もない。
晴人は最後の紙を取り出した。
白紙だった。
いや、白紙ではない。
紙の中央に、かすかな焦げ跡があった。
折り鶴の形。
そして、その中心に一文字だけ。
衣。
まただ。
晴人は紙を母に見せた。
「これを見て」
母は紙を覗き込んだ。
首をかしげる。
「汚れてるわね」
「文字は」
「文字?」
「見えないのか」
母は少し困ったように笑った。
「晴人、疲れてるんじゃない?」
その笑い方が、優しかった。
優しいから、残酷だった。
晴人は紙を握りしめた。
「疲れてるのは、母さんだよ」
「え?」
「娘を亡くしたことを、ずっと抱えてきた。なのに今、その娘の名前だけを取り上げられてる」
母は何も言わなかった。
晴人の言葉が理解できないのではない。
理解しようとして、入口で立ち止まっているように見えた。
母の目が、仏壇の奥を見た。
何もない空間。
そこに誰かの影を探すように。
「私」
母が小さく言った。
「誰かを、忘れているの?」
晴人は息を呑んだ。
母の声は震えていた。
完全に消えたわけではない。
痛みは残っている。
名前のない痛みが、母の中でまだ鳴っている。
晴人は答えようとした。
その時、玄関の方で物音がした。
鍵が回る音。
父が帰ってきたのだと思った。
晴人は立ち上がる。
しかし玄関に立っていたのは、父ではなかった。
誰もいない。
扉だけが、少し開いている。
外の夜風が廊下に入り込んでいた。
足元に、一枚の封筒が落ちている。
晴人はそれを拾った。
差出人はない。
中には、戸籍謄本のコピーが入っていた。
今日、役所でもらったものと同じ形式。
だが、一箇所だけ違っていた。
父、母、晴人。
その下に、薄い文字で新しい行が浮かんでいる。
水野結衣。
晴人の心臓が跳ねた。
だが、次の瞬間、その文字は紙の上で滲み始めた。
水。
野。
結。
衣。
一文字ずつ、黒い染みになって崩れていく。
晴人は叫ぶように名前を呼んだ。
「結衣!」
母が後ろで息を呑む。
紙の上の文字は止まらない。
最後に残ったのは、衣の一画だけだった。
それも、ゆっくり薄くなる。
晴人は指で押さえた。
消えるな。
消えるな。
消えるな。
祈りのように、何度も思った。
けれど文字は消えた。
紙は白くなった。
世界が、結衣の名前をなかったことにした。
晴人は白い戸籍謄本を握ったまま、玄関の暗闇を見た。
開いた扉の向こう。
夜の廊下に、古い木の扉が一枚だけ立っていた。
ここは実家の玄関前だ。
そんな扉はない。
あるはずがない。
扉の向こうから、紙を折る音がした。
かさり。
かさり。
そして、結衣の声がした。
「お兄ちゃん」
晴人は動けなかった。
声は近い。
すぐそこにいる。
けれど、遠い。
十年分、遠い。
「今度は」
結衣は言った。
「私の名前を、忘れないで」
扉の隙間から、白い煙が流れ込んだ。
火の匂いがした。
晴人は白い紙を握りしめた。
そこにはもう、何も書かれていなかった。




