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零号室  作者: 清忠
19/31

(第三部 . 第一章 ) 扉のない部屋

 第三部 結衣が死んだ日


夜が明けるまで、晴人は玄関の前から動けなかった。


 扉は、そこにあった。


 実家の狭い玄関を出て、すぐ右側。普段なら白い壁が続いているだけの場所に、古い木の扉が一枚、呼吸もせずに立っていた。


 廊下の非常灯は消えている。


 階段のほうから、朝刊を配るバイクの音が一度だけ遠く聞こえた。


 母は居間で眠っていた。


 眠っているというより、疲れ切って意識を落としただけだった。ソファに横たわったまま、手には何も書かれていない戸籍謄本のコピーを握っている。


 紙は白い。


 結衣の名前が、そこにはない。


 父、母、晴人。


 それだけが家族だと、紙は言っていた。


 晴人はその白さから逃げるように玄関へ出た。けれど、逃げた先に扉があった。


 扉の隙間から流れ込んでいた煙は、夜が深くなるにつれて薄くなった。


 火の匂いだけが残った。


 濡れた灰の匂い。


 古い木材が内側から焦げていく匂い。


 そして、折り紙を折る音。


 かさり。


 かさり。


 晴人は何度も手を伸ばしかけた。


 指先が冷えた木目に触れそうになるたび、結衣の声が蘇った。


 今度は、私の名前を、忘れないで。


 開ければ、会える。


 そう思った。


 開ければ、あの部屋に戻れる。


 結衣がいて、畳があって、白い折り鶴があって、十年前の火の匂いがあって、まだ取り返せる何かがそこに残っているかもしれない。


 だが同時に、別の声も聞こえた。


 橘の声。


 あの部屋は、人を救いません。


 晴人は扉の前で、拳を握った。


 爪が手のひらに食い込む。


 痛みがあった。


 痛みだけが、今、自分が外側にいる証拠だった。


 空が白み始めるころ、扉の向こうで折り紙の音が止まった。


 晴人は息を止めた。


「お兄ちゃん」


 声はしなかった。


 代わりに、玄関の蛍光灯が一度だけ瞬いた。


 次の瞬間、扉は消えていた。


 そこにはただ、白い壁があるだけだった。


 壁紙に、細く黒い線が残っている。


 焦げ跡のような線。


 晴人はその線に触れた。


 ざらりとした感触が、指先に残った。


 壁の向こう側から、かすかに紙の擦れる音がした。


 けれど、それもすぐに消えた。


 携帯電話が震えたのは、その直後だった。


 画面には、如月瀬奈の名前が出ていた。


 晴人はしばらく画面を見つめた。


 電話は切れない。


 何度も、何度も震え続ける。


 晴人は通話ボタンを押した。


「……何だ」


 自分の声はひどく枯れていた。


 瀬奈はすぐには答えなかった。


 向こう側に、電車の走る音が聞こえる。


 ホームのアナウンス。


 人の足音。


 それから、低く抑えた息。


「水野さん」


「ああ」


「今、話せますか」


「用件による」


 少しの沈黙。


 瀬奈の声が、ひとつ低くなった。


「扉のない部屋を見つけました」


 晴人は壁に触れたまま、動きを止めた。


「……どういう意味だ」


「そのままです」


 瀬奈は言った。


「入口がない部屋です。図面にはあるのに、建物の中には扉がありません」


 晴人は玄関の白い壁を見た。


 扉があった場所。


 今は何もない場所。


「どこで見つけた」


「母のノートの中です」


 その声は、いつもの瀬奈よりも少しだけ硬かった。


 硬いのに、どこか脆かった。


「十五年前、母が最後に調べていた場所です」


 晴人は答えなかった。


 電話の向こうで、電車のドアが閉まる音がした。


 瀬奈は続けた。


「たぶん、そこに母がいます」


 朝の光が、玄関の窓から細く差し込んだ。


 白い壁の焦げ跡が、その光の中で一瞬だけ黒く濃くなった。


 晴人は目を細めた。


 壁の向こうで、誰かが爪を立てたような音がした。


 かり。


 かり。


 まるで、内側から出ようとしているみたいに。



 瀬奈が指定した喫茶店は、都営線の古い駅から三分ほど歩いた路地にあった。


 看板の文字は半分剥げている。


 窓際には色褪せた観葉植物が並び、店内には焙煎の匂いよりも、湿った木材と古い新聞紙の匂いが濃く残っていた。


 午前七時半。


 店内の客は、晴人と瀬奈を含めて四人しかいない。


 カウンターでは白髪の店主が、テレビの音を消したまま画面を見ていた。


 瀬奈は一番奥の席に座っていた。


 背中を壁につけ、入口が見える位置。


 彼女の前には、黒いファイルと茶色い封筒が置かれている。


 コーヒーには手をつけていなかった。


 晴人が席に着くと、瀬奈はすぐに顔を上げた。


 いつものように、鋭い目だった。


 だがその下に、眠っていない人間特有の薄い影がある。


「寝てませんね」


 晴人が言うと、瀬奈は一瞬だけ口元を動かした。


「お互いさまです」


「笑うところか」


「笑ってません」


 瀬奈は封筒に手を置いた。


 指先が、封の角を何度もなぞっている。


 落ち着いているように見せている。


 だが、指が落ち着いていなかった。


 晴人はそれを見て、何も言わなかった。


 瀬奈は黒いファイルを開いた。


 中から一枚のコピーを取り出す。


 古い間取り図だった。


 紙の端が黄ばんでいる。


 上部に、細い文字で物件名が書かれていた。


 宮下団地 六号棟 三〇一号室。


 晴人はその名前に見覚えがなかった。


 だが、図面を見た瞬間、背中の奥が冷えた。


 部屋の構成は普通だった。


 玄関。


 台所。


 和室。


 押し入れ。


 浴室。


 小さな物入れ。


 ただし、図面の一番奥に、細い長方形の空間がある。


 面積にして二畳ほど。


 部屋としては小さい。


 物入れとしては広すぎる。


 そこには、名称が書かれていなかった。


 扉の記号もない。


 壁で完全に囲まれている。


「……これは何だ」


「わかりません」


「わからないものを見せるな」


「わからないから見せています」


 瀬奈は淡々と言った。


 いつもなら、晴人はそこで言い返していた。


 だが今日は、言葉が喉の手前で止まった。


 図面のその空間から、目が離せなかった。


 扉がない。


 入口がない。


 なのに、確かに部屋として描かれている。


「現地には」


 晴人は尋ねた。


「行ったのか」


「まだです」


「なぜ」


「解体予定区域です。今は立入禁止になっています」


「それだけなら、あんたは行くだろ」


 瀬奈の指が止まった。


 図面の角を押さえていた爪が、紙に小さく沈む。


 彼女はしばらく黙った。


 店内の古い時計が、かちり、と音を立てた。


「……母が最後にいた場所だからです」


 声は小さかった。


 だが、逃げなかった。


 晴人は瀬奈の顔を見た。


 彼女は図面を見ていた。


 母親の話をしているのに、晴人を見ていない。


 いや、見られないのだろうと思った。


「母親は、十五年前に失踪したんだったな」


「はい」


「警察は」


「家出扱いでした」


「理由は」


「大人だからです」


 瀬奈は短く答えた。


「仕事で無理をしていた。夫とはすでに離婚していた。娘を置いて出ていく理由も、探せばいくらでも作れた」


 その言い方は、自分に向けているようでもあった。


 瀬奈は茶色い封筒を開いた。


 中から、写真を数枚取り出す。


 一枚目は、若い女性が古い団地の前に立っている写真だった。


 肩までの髪。


 薄いベージュのコート。


 手には黒いノート。


 目元が、瀬奈に似ていた。


「母です。如月亜紀」


 瀬奈は言った。


 その名前を口にするとき、彼女の声だけが少し遅れた。


 晴人は写真を見下ろした。


 如月亜紀は笑っていない。


 カメラではなく、その少し横を見ている。


 何かを警戒しているように。


 あるいは、誰かの声を聞いているように。


「記者だったのか」


「フリーのライターです。都市伝説、未解決の失踪、古い建築物に残る噂。そういうものばかり追っていました」


「似てるな」


「嫌なところばかり」


 瀬奈は二枚目の写真を出した。


 団地の廊下だった。


 古いコンクリート。


 手すりの向こうに曇った空。


 壁には部屋番号のプレートが並んでいる。


 三〇一。


 三〇二。


 三〇三。


 そして、その先に白い壁がある。


 廊下はそこで終わっている。


 普通の壁だった。


 扉はない。


 だが写真の下に、亜紀の字でメモが書かれていた。


 「壁の向こうで、子どもが泣いている」


 晴人の指が、写真の端に触れた。


 紙が少し冷たい。


「この壁の向こうが、図面の部屋か」


「位置は一致します」


「でも入口がない」


「だから、扉のない部屋です」


 瀬奈は三枚目の写真を出した。


 同じ廊下。


 同じ白い壁。


 だが、壁の中央に黒い染みがあった。


 細い線のような染み。


 焦げ跡にも見える。


 晴人は息を止めた。


 実家の玄関の壁に残っていた線と、よく似ていた。


「昨日の夜」


 晴人は言った。


「俺の実家にも、同じ線が出た」


 瀬奈の顔が動いた。


「扉が?」


「あった。夜の間だけ」


「開けたんですか」


「開けてない」


「なぜ」


 晴人は答えなかった。


 コーヒーの表面に、蛍光灯の白い光が揺れている。


 開ければよかったのか。


 開けるべきだったのか。


 開けなかったから、結衣はまた消えていくのか。


 その考えが、朝からずっと喉の奥に張りついている。


 瀬奈はそれ以上聞かなかった。


 代わりに、黒いノートを開いた。


 紙は古い。


 角が擦り切れている。


 何度も読み返された跡があった。


「母のノートです。前に見せたものとは別の冊です」


「まだあったのか」


「隠していました」


「誰に」


「たぶん、私に」


 瀬奈はページをめくった。


 手書きの文字が並んでいる。


 急いで書いたらしく、線がところどころ震えていた。


 それでも、亜紀の字は読みやすかった。


 晴人は瀬奈の指が止まったページを覗き込んだ。


 そこには、短い文章が残されていた。


 零号室には、段階がある。


 一、扉として現れる。


 二、記憶の中に招く。


 三、外の現在を書き換える。


 四、名前を奪う。


 五、扉を必要としなくなる。


 晴人の目が、最後の行で止まった。


 扉を必要としなくなる。


「どういうことだ」


「母は、零号室がただの部屋ではないと考えていました」


 瀬奈はページの端を押さえた。


「最初は、扉を見せる。中へ入れるために。でも何度も記憶を書き換えられた場所では、部屋そのものが建物に沈み込む。入口がなくても、内側だけが残る」


「内側だけ」


「はい」


 瀬奈は次のページを開いた。


 そこには、赤いペンで囲まれた一文があった。


 扉のない部屋に残るのは、帰れなかった人間である。


 晴人は指先が冷えるのを感じた。


 帰れなかった人間。


 その言葉だけが、紙から浮いて見えた。


「母親がそこにいる根拠は」


「これです」


 瀬奈は封筒の底から、小さなカセットテープを取り出した。


 透明なケースはひび割れていた。


 ラベルには、古いボールペンで日付が書かれている。


 十五年前。


 亜紀が失踪した日の前日だった。


「再生できるのか」


「しました」


「中身は」


 瀬奈はすぐに答えなかった。


 彼女はカセットを見ていた。


 小さなプラスチックの箱。


 その中に、自分の母親の最後の声が入っている。


 晴人は、携帯電話に残された母のメッセージを思い出した。


 何の話だったか、忘れちゃった。


 あれも、ひとつの消失だった。


 記憶から人が抜け落ちる音だった。


 瀬奈は鞄から小型のレコーダーを取り出した。


 古いカセットを再生できるよう、専用の機械に移したらしい。


「ここで聞かせるつもりだったのか」


「聞かせるべきか、迷っていました」


「なぜ」


「聞いたら、あなたは行くと思ったから」


 晴人は瀬奈を見た。


「行かないと思うか」


「思いません」


「なら同じだ」


「違います」


 瀬奈の声が、少しだけ強くなった。


「私は、あなたを巻き込んでいます」


 その言葉に、晴人は眉を動かした。


 瀬奈は続けた。


「最初からそうでした。私はあなたの妹さんのことだけを追っていたんじゃない。母につながる手がかりとして、あなたを見ていました」


「知ってる」


 晴人が言うと、瀬奈は一瞬だけ言葉を失った。


「知ってたんですか」


「途中からな」


「怒らないんですか」


「怒るほど余裕がない」


 瀬奈は黙った。


 カウンターの奥で、店主がコーヒーカップを拭く音がした。


 小さな店内に、乾いた布の音が広がる。


 晴人はレコーダーを指差した。


「聞かせろ」


 瀬奈はしばらく晴人を見ていた。


 その目は、何かを確認しているようだった。


 この人は今、どこまで壊れているのか。


 どこまで連れていっていいのか。


 晴人には、そんなふうに見えた。


 やがて瀬奈は、再生ボタンを押した。


 ざ、という古いノイズが流れた。


 しばらく、何も聞こえない。


 ノイズだけ。


 遠くで風が鳴っているような音。


 それから、女性の息遣いが入った。


『……録れてる?』


 瀬奈の肩が、ほんの少し動いた。


 母の声だった。


 十五年前の如月亜紀。


 ノイズに混じっているのに、声の芯ははっきりしていた。


『瀬奈が、これを聞くことはないと思いたい』


 晴人は瀬奈を見なかった。


 見れば、彼女がどんな顔をしているのかわかってしまう。


 わかってしまえば、何かを言わなければならない気がした。


 今は何も言えなかった。


 テープの中で、亜紀は小さく息を吸った。


『でも、もし聞いているなら、私は失敗したんだと思う』


 ノイズ。


 紙をめくる音。


 そして、遠くで水滴が落ちるような音。


『宮下団地六号棟の三〇一号室。図面には、閉じた空間がある。入口のない二畳ほどの部屋。施工ミスではない。増築でもない。あれは、あとから生えた部屋だ』


 晴人は図面を見た。


 壁で囲まれた小さな空間。


 その中に、人がいると想像する。


 入口がない。


 窓もない。


 声だけが、壁の向こうに届く。


『今日、壁の向こうから声がした』


 瀬奈の指が、膝の上で強く握られた。


『子どもの声だった。泣いている。名前を呼んでいる。でも、何度聞いても誰の名前かわからない。録音しようとしたら、声は消えた。代わりに、紙を折る音がした』


 晴人の胸の奥が締めつけられた。


 紙を折る音。


 かさり。


 かさり。


 零号室の中で、結衣が折っていた音。


『折り鶴だと思う』


 亜紀の声は、そこで少し震えた。


『白い折り鶴。なぜそう思ったのか、自分でもわからない。ただ、あの音を聞いた瞬間、頭の中に白い鶴が浮かんだ』


 瀬奈が息を呑んだ。


 晴人も、動けなかった。


 十五年前。


 亜紀が聞いた音。


 白い折り鶴。


 結衣が死んだのは十年前だ。


 五年、合わない。


 なのに、なぜ。


 晴人の手が、図面の上で止まった。


 時間が、ずれている。


 零号室の中では、過去と現在が同じ場所に折り畳まれている。


 今さら驚くべきことではなかった。


 それでも、十五年前に結衣の気配が残っているという事実は、晴人の背中に冷たい針を刺した。


『私は明日、もう一度行く』


 亜紀の声が続いた。


『扉はない。でも、壁の向こうに部屋がある。もし入る方法があるなら、そこに何かの答えがある』


 ノイズが強くなった。


 瀬奈はレコーダーに目を落とした。


 この先を何度も聞いているのだろう。


 それでも、慣れてはいない。


 慣れるはずがない。


 亜紀は少し黙った。


 次に聞こえた声は、記録者ではなく、母親のものだった。


『瀬奈』


 瀬奈の唇がわずかに開いた。


 声は出なかった。


『朝ごはん、ちゃんと食べなさい。冷蔵庫の卵は古いから捨てて。玄関の鍵は、上だけじゃなく下も閉めること。あと、ベランダの鉢植え、水をやりすぎないで』


 それは、あまりにも普通の言葉だった。


 普通すぎて、痛かった。


 失踪する前の人間が残した言葉としては、あまりにも生活の匂いがした。


 亜紀は笑おうとしたのか、短く息を漏らした。


『……ごめんね』


 ノイズが一段大きくなった。


『お母さんは、たぶん嘘をついている。あなたのためだと言いながら、本当は自分のために行く。知りたいから。確かめたいから。戻れないかもしれないとわかっていても、足が止まらない』


 瀬奈は俯いた。


 晴人は、その横顔を見た。


 彼女の表情はほとんど変わっていない。


 だが、顎の線だけが強く張っていた。


『もし私が帰らなかったら、私を探さないで』


 テープの中で、遠くのどこかから、かさり、と音がした。


『でも』


 亜紀の声が、急に近くなった。


『もし、壁の向こうから私の声が聞こえたら』


 瀬奈の指が震えた。


『そのときは、まだ終わっていない』


 再生音が途切れた。


 レコーダーからは、ノイズだけが流れ続けている。


 瀬奈は止めなかった。


 晴人も何も言わなかった。


 喫茶店の窓の外を、通勤する人々が流れていく。


 傘を持つ人。


 鞄を肩にかけた人。


 スマートフォンを見ながら歩く人。


 誰も、壁の向こうに人がいるかもしれないなんて考えていない。


 世界は普通に進む。


 誰かがいなくなっても。


 誰かの名前が消えても。


 普通に。


「聞こえたのか」


 晴人は尋ねた。


 瀬奈は再生ボタンを止めた。


「何をですか」


「母親の声」


 瀬奈は少しだけ目を伏せた。


「一度だけ」


「いつ」


「昨夜です」


 晴人の目が、瀬奈に向いた。


 瀬奈はゆっくり封筒から最後の一枚を取り出した。


 それは、写真ではなかった。


 古い新聞記事の切り抜きだった。


 十五年前、宮下団地六号棟の取り壊し計画が一時中止になったという小さな記事。


 理由は、入居者の退去確認に不備があったため。


 記事の余白に、亜紀の字が書かれていた。


 「誰も住んでいないはずの部屋から、返事があった」


 晴人はその文字を見た。


「昨夜、どこで聞いた」


「自宅です」


「自宅?」


「私の部屋の壁から」


 瀬奈は静かに言った。


「母の声がしました」


 晴人の背中に、冷たいものが落ちた。


 瀬奈の部屋。


 宮下団地ではない。


 離れた場所。


 それなのに、声がした。


「何て」


 晴人は聞いた。


 瀬奈は答えようとして、口を閉じた。


 言葉を選んでいる。


 いや、思い出したくないのかもしれない。


 やがて彼女は、ゆっくりと言った。


「瀬奈、開けないで」


 晴人は何も言えなかった。


 瀬奈は続けた。


「それだけです。でも、そのあと、壁の中からノックがありました」


「ノック?」


「はい」


 瀬奈は自分の指で、テーブルを二度叩いた。


 こつ。


 こつ。


 短く、乾いた音。


「同じリズムで、ずっと」


 晴人の耳の奥に、夜明け前の音が蘇った。


 かり。


 かり。


 壁の内側から、何かが出ようとしていた音。


「その壁に」


 晴人は言った。


「焦げ跡はあったか」


 瀬奈は頷いた。


「今朝、ありました。細い黒い線が一本」


 晴人は目を閉じた。


 実家の壁。


 瀬奈の部屋の壁。


 宮下団地の写真の壁。


 すべて同じだ。


 扉は消えた。


 けれど部屋は残っている。


 入口を必要としない部屋。


 誰かを閉じ込めたまま、別の場所の壁に影だけを伸ばしている。


「行くしかないな」


 晴人が言うと、瀬奈はすぐには頷かなかった。


「怖いです」


 意外なほど素直な言葉だった。


 晴人は瀬奈を見た。


 彼女はカップの縁を見ている。


 コーヒーはまだ減っていない。


「母を見つけたいと思っていました。十五年間、ずっと。でも、いざ近づくと、怖い」


 瀬奈は笑わなかった。


「母が本当にいたら、私は何を言えばいいんでしょう」


 晴人は答えられなかった。


 結衣に会ったとき、自分は何を言っただろう。


 なんで、ここにいる。


 答えろよ。


 責めることしかできなかった。


 会いたかった相手に、最初に向けた言葉がそれだった。


 晴人はテーブルの上の図面を見た。


 扉のない小さな空間。


「言うことがなくても」


 彼は低く言った。


「会わなかったことにはできない」


 瀬奈はゆっくり顔を上げた。


 その目の奥で、何かが揺れた。


「あなたは、妹さんに会いたいですか」


 その質問は、あまりにもまっすぐだった。


 晴人はすぐに答えなかった。


 答えは簡単だった。


 会いたい。


 今すぐ。


 もう一度。


 声を聞きたい。


 顔を見たい。


 名前を呼びたい。


 けれど、その一言を口にした瞬間、自分が昨日の扉を開けなかった理由まで崩れてしまいそうだった。


 晴人は窓の外を見た。


 通りの向こうで、小学生くらいの女の子が母親の手を引いて歩いている。


 黄色い帽子。


 小さなランドセル。


 母親は急いでいるのに、女の子は何かを見つけたように立ち止まった。


 白い紙くずだった。


 風に転がるそれを、女の子は拾い上げる。


 晴人は視線を逸らした。


「会いたい」


 声は小さかった。


「でも、会うたびに何かが消えるなら」


 言葉がそこで止まった。


 瀬奈は待っていた。


 急かさず、遮らず。


「俺は、何を望んでるのかわからなくなる」


 瀬奈は何も言わなかった。


 その沈黙が、今は少しだけありがたかった。



 瀬奈の部屋は、駅から離れた小さなマンションの四階にあった。


 古い建物ではない。


 築十年ほどの、ごく普通の単身者向けマンション。


 オートロックのパネルは指紋で曇り、エレベーターの中には宅配便の不在票が一枚落ちていた。


 零号室が好む古い団地や取り壊し前の物件とは違う。


 だからこそ、晴人には不気味だった。


 あの部屋は、場所を選ばなくなっている。


 瀬奈が鍵を開けると、室内から冷たい空気が流れ出た。


 窓は閉まっている。


 エアコンもついていない。


 それなのに、部屋の中だけが外より冷えていた。


「入ってください」


 瀬奈の声はいつも通りだった。


 だが、靴を脱ぐ指先が少しもたついた。


 部屋は片づいていた。


 本棚には取材資料が詰め込まれ、床には箱に分けられた古い記事のコピーが積まれている。


 机の上にはノートパソコン。


 壁際に、小さな写真立てがひとつ。


 晴人はそれに目を留めた。


 写真には、十二歳くらいの瀬奈と、若い如月亜紀が写っている。


 遊園地かどこかだろう。


 背景に、観覧車の一部が見える。


 亜紀は笑っている。


 喫茶店で見た写真とは違う。


 母親の顔だった。


 瀬奈は写真立てを伏せなかった。


 そのまま、部屋の奥へ進む。


「ここです」


 彼女が指したのは、ベッドと本棚の間の壁だった。


 白いクロス。


 目立った汚れはない。


 けれど中央に、細い黒い線が一本走っている。


 縦に。


 床から一メートルほどの高さまで。


 まるで、そこだけ壁が少し焼けたように。


 晴人は近づいた。


 線の端に触れる。


 指先に、ざらりとした粉がついた。


 黒い。


 煤だった。


 瀬奈が息を詰める。


「昨日まではなかったんです」


「音は」


「夜中の二時過ぎです」


「何回」


「数えていません」


 瀬奈は壁から少し離れて立っていた。


 自分の部屋なのに、その壁に近づきたくないのだとわかった。


 晴人は耳を当てようとした。


「待ってください」


 瀬奈が止めた。


「何か聞こえたら」


「聞くために来た」


「それでも」


 彼女はそこで言葉を切った。


 晴人は振り返った。


 瀬奈は唇を噛んでいた。


 強い人間の顔ではない。


 母親を探して十五年を生きてきた娘の顔だった。


 晴人は少しだけ視線を落とした。


「聞こえても、開けない」


「約束できますか」


「できない」


 正直に言うと、瀬奈は一瞬だけ苦く笑った。


「最低ですね」


「知ってる」


「でも、嘘よりはいいです」


 晴人は壁に耳を当てた。


 冷たい。


 壁紙越しに、氷のような冷たさが伝わってくる。


 最初は何も聞こえなかった。


 自分の心音だけ。


 遠くの道路を走る車の音。


 隣の部屋の生活音。


 冷蔵庫の低い唸り。


 それだけだった。


 晴人は目を閉じた。


 耳を澄ませる。


 そのとき、壁の奥から音がした。


 こつ。


 晴人の体が固まる。


 少し間を置いて、もう一度。


 こつ。


 瀬奈が息を止めたのがわかった。


 音はそれきり止まった。


 晴人は耳を離さなかった。


 冷たさが頬に染み込む。


 壁の向こうに、空間がある。


 ただの隣室ではない。


 もっと奥。


 建物の厚みでは説明できないほど遠く、近い場所。


 誰かがそこに立っている。


 晴人はそう感じた。


 かさり。


 今度は、紙の音だった。


 瀬奈の背後で、棚の資料が小さく揺れた。


 窓は閉まっている。


 風はない。


 かさり。


 かさり。


 晴人は歯を食いしばった。


 結衣の音だ。


 そう思った瞬間、壁の向こうで声がした。


 女の声。


 掠れている。


 遠い。


 けれど確かに、大人の女の声だった。


『……せな』


 瀬奈の顔から血の気が引いた。


「お母さん」


 小さな声だった。


 晴人は振り返らなかった。


 耳を壁につけたまま、声の続きを待つ。


 ノイズのようなものが壁の奥で揺れている。


 水の中で誰かが話しているようだった。


『せな……そこに、いるの』


 瀬奈は一歩、壁に近づいた。


「いる」


 その声は、子どものようだった。


「いるよ。お母さん、私、ここにいる」


 壁の向こうから、かすかな吐息が聞こえた。


 笑ったようにも、泣いたようにも聞こえた。


『大きく、なったね』


 瀬奈の手が、口元を覆った。


 目から涙は落ちていない。


 ただ、呼吸がうまくできていなかった。


「お母さん」


 瀬奈はもう一度呼んだ。


「どこにいるの」


 返事はすぐには来なかった。


 壁の奥で、何かが擦れる。


 畳。


 紙。


 古い木。


 いくつもの音が重なり、部屋の中の空気が少しずつ重くなる。


 晴人は壁から耳を離した。


 黒い線が、さっきよりも長くなっている。


 床へ向かって、ゆっくり伸びていた。


「瀬奈」


 晴人は低く言った。


「下がれ」


 瀬奈は聞こえていないようだった。


 壁に手を伸ばしている。


 その指先が、黒い線に触れようとしていた。


「瀬奈」


 晴人は彼女の手首を掴んだ。


 瀬奈がはっとしたようにこちらを見る。


 その目は濡れていた。


「触るな」


「でも」


「触るな」


 晴人の声が鋭くなった。


 瀬奈は唇を震わせた。


 壁の向こうで、亜紀の声がした。


『だめ』


 二人とも動きを止めた。


『開けないで』


 瀬奈の手首を掴む晴人の指に、力が入った。


「お母さん、どうして」


 瀬奈の声が震えた。


「ずっと探してたのに」


『知ってる』


 壁の向こうの声は、途切れ途切れだった。


『ずっと、見てた』


 その言葉に、瀬奈の表情が歪んだ。


「見てたなら、なんで帰ってこなかったの」


 問い詰める声ではなかった。


 十五年間、胸の奥で何度も繰り返した問いが、ようやく外に出ただけだった。


 壁の向こうで、亜紀はしばらく黙った。


 その沈黙の間、部屋の気温がまた下がった。


 晴人の吐く息が、白くなりかけている。


 瀬奈の部屋の照明が、ちかちかと瞬いた。


『帰るには』


 亜紀の声がした。


『誰かが、代わりに残らないといけない』


 晴人の胸の奥が冷えた。


 橘の言葉が蘇る。


 痛みは、消えるのではありません。


 移るだけです。


 瀬奈は目を見開いた。


「誰かって、誰」


 壁の奥で、何かが動いた。


 黒い線が、さらに下へ伸びる。


 それはもう線ではなく、細い隙間に見えた。


 開こうとしている。


 扉ではない。


 壁そのものが、口を開けようとしている。


 晴人は瀬奈を後ろへ引いた。


 その瞬間、壁の向こうで子どもの声が笑った。


 高く、乾いた笑い声。


 結衣の声ではない。


 もっと知らない声。


 何人もの子どもが、一度に笑っているようだった。


 瀬奈の本棚から、古い資料が一冊落ちた。


 床に開いたページ。


 そこには、宮下団地六号棟の古い写真が貼られていた。


 写真の白い壁。


 扉のない部屋。


 そして、その壁の中央に、今と同じ黒い線。


 晴人は瀬奈の手を掴んだまま、その写真を見下ろした。


 写真の中の黒い線が、動いた気がした。


 いや、違う。


 写真の中に、人影が増えている。


 白い壁の前に、ひとりの女が立っていた。


 ベージュのコート。


 肩までの髪。


 手には黒いノート。


 如月亜紀。


 十五年前の姿のまま。


 彼女は写真の中から、こちらを見ていた。


 瀬奈が小さく息を呑む。


 写真の中の亜紀の口が、わずかに動いた。


 音はなかった。


 だが、晴人には読めた。


 瀬奈にも、読めたはずだった。


 助けて。


 次の瞬間、部屋の壁から、はっきりと母の声がした。


『瀬奈』


 今度は近かった。


 すぐ隣にいるみたいに。


『私はまだ、生きている』


 照明が消えた。


 暗闇の中で、壁の黒い線だけが、細く赤く光っていた。


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