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零号室  作者: 清忠
20/31

(第三部 . 第二章) 廃墟の団地

 雨は、錆びたフェンスを細い指で叩いていた。


 東京の端に残された宮下団地は、灰色の空の下で、もう誰の帰りも待っていないように立っていた。


 敷地を囲む仮設フェンスには、黄色い立入禁止の札が何枚も結ばれている。風に煽られるたび、札は乾いた音を立てた。


 カン、カン。


 どこかで、誰かが空き缶を蹴っているような音だった。


 晴人はフェンスの前で足を止めた。


 六号棟。


 十五年前、如月亜紀が最後に訪れた場所。


 そして昨夜、瀬奈の部屋の壁に現れた黒い線と同じものが写っていた古い写真。その背景にあった団地だった。


 写真の中の亜紀は、白い壁の前に立っていた。


 助けて。


 声はなかった。


 けれど、口の形だけが残っていた。


 晴人はコートの内ポケットに入れた封筒を指で押さえた。中には、瀬奈がコピーした古い写真が入っている。


 紙越しに、写真の冷たさが伝わってくる気がした。


「ここで間違いない」


 隣で瀬奈が言った。


 彼女の声はいつもより低かった。


 黒い傘の下で、横顔だけが濡れた光を受けている。目の下には薄い影があった。眠っていないのだろう。


 晴人も、ほとんど眠れなかった。


 目を閉じるたび、壁の中から聞こえた声が戻ってきた。


『私はまだ、生きている』


 十五年前に消えた母親の声。


 その声を聞いた瞬間の瀬奈の顔を、晴人は忘れられなかった。


 泣きそうでもなく、叫びそうでもなかった。


 ただ、壊れた時計の針みたいに、表情が途中で止まっていた。


「管理会社には連絡したのか」


「した。建物は再開発待ち。今は立ち入り禁止。警備会社が巡回してるだけ」


「なら、入れない」


「入れる」


 瀬奈は即答した。


 晴人が振り向くと、彼女はフェンスの端を指さした。


 仮設フェンスの一部が、外側へ少し曲がっていた。金具が外れ、下に隙間ができている。人ひとりなら、身をかがめれば通れる幅だった。


 晴人は眉をひそめた。


「偶然か」


「そう思いたいなら、そう思って」


 瀬奈は傘を畳んだ。


 雨粒が髪に落ちる。


 彼女は肩にかけた鞄を前に回し、中の黒いノートを確かめるように触った。


 亜紀のノート。


 擦り切れた表紙の角。


 何度も開かれたページの癖。


 その中に、宮下団地の名前は何度も出てきた。


 特に六号棟。


 扉のない部屋。


 帰れなかった人。


 そして、母の最後のメモ。


 ――ここは、部屋ではない。誰かの後悔が形を持ったもの。


 晴人はフェンスの向こうを見た。


 団地の敷地は広い。


 雨に濡れたアスファルト。伸び放題の雑草。折れた掲示板。撤去されずに残った古い自転車置き場。


 奥に、同じ形をした棟がいくつも並んでいた。


 一号棟、二号棟、三号棟。


 灰色の箱が、雨の幕の向こうに沈んでいる。


 けれど、六号棟だけが少し違って見えた。


 他の棟より奥にある。


 他の棟より影が濃い。


 そして、窓が一つもこちらを見ていない。


 晴人はそう感じた。


 窓はある。


 けれど、見返してこない。


 空っぽなのに、何かが隠れている。


「如月」


「なに」


「怖くないのか」


 瀬奈はフェンスの隙間に手をかけたまま、少しだけ笑った。


 笑ったと言っても、口元が動いただけだった。


「怖いよ」


 彼女は言った。


「怖いから、来た」


 それだけ言って、瀬奈は身をかがめた。


 フェンスの下をくぐる。


 黒いコートの裾が雨水に触れた。


 晴人は一瞬だけ立ち尽くした。


 カン、カン。


 黄色い札がまた鳴る。


 立入禁止。


 解体予定地。


 危険。


 その言葉のどれもが、今の晴人にはひどく薄く見えた。


 部屋は、人を選ぶ。


 橘の声が頭の中で蘇る。


 そして、一度見つけられた人間を、簡単には離しません。


 晴人は息を吐いた。


 傘を畳み、フェンスの下をくぐった。


 雨の匂いが変わった。


 外側では、アスファルトと排気ガスの匂いがしていた。


 内側では、濡れたコンクリートと古い畳の匂いがした。


 まだ建物に入っていないのに。


 晴人は立ち上がり、背後を振り返った。


 フェンスの向こうの道路が、やけに遠く見えた。


 車の音も、人の気配も、雨の奥へ沈んでいる。


 団地の中だけが、別の時間に切り取られていた。


 瀬奈はもう歩き出していた。


 晴人はその背中を追った。


 水たまりに、二人の足が映る。


 その中で、晴人は一瞬、自分の顔がぼやけているのを見た。


 足を止める。


 雨粒が水面を打つ。


 輪が広がる。


 顔はすぐに崩れた。


「水野さん?」


 瀬奈が振り返る。


「なんでもない」


 晴人はそう答えた。


 けれど、胸の奥には冷たいものが残った。


 父の顔が消えた写真。


 戸籍から消えた結衣の名前。


 母が忘れた娘。


 そして水たまりの中で、輪郭を失いかけた自分。


 晴人は拳を握った。


 まだだ。


 まだ、自分はここにいる。


 そう思うために。



 宮下団地は、昭和の終わりに建てられた集合住宅だった。


 低い棟が何棟も並び、中央には小さな広場がある。


 かつては滑り台と砂場があったらしい。


 今は滑り台の片側が錆びて外され、砂場には雨水が溜まっていた。


 水面に、裸の木の枝が逆さまに映っている。


 晴人は広場の端で立ち止まった。


 そこに、古い掲示板があった。


 ガラスは割れている。


 中には色褪せた回覧板の跡だけが残っていた。


 防犯パトロールのお知らせ。


 粗大ごみ回収日。


 夏祭りのポスター。


 どれも日付は十五年以上前だった。


 瀬奈は掲示板に近づき、割れたガラスの隙間から一枚の紙を指でつまんだ。


 紙は湿気で波打っている。


 文字のほとんどは滲んでいた。


 それでも、中央の数行だけが読めた。


 六号棟の皆様へ。


 夜間、階段および共用廊下にて、子どもの声が聞こえるという相談が複数寄せられています。


 心当たりのある方は、管理室までお知らせください。


 晴人は背中に小さな寒気を覚えた。


「子どもの声」


 瀬奈が呟いた。


 昨夜、壁の奥で笑っていた声。


 結衣の声ではない声。


 知らない子どもたちの声。


「ここでも聞こえてたのか」


「母のノートにもある」


 瀬奈は鞄から黒いノートを取り出した。


 雨に濡れないよう、体で庇いながらページを開く。


 折り癖のついたページに、細い字が並んでいた。


 ――夜十時以降、六号棟の階段で複数の児童の笑い声。


 ――居住者の証言では、声は上からではなく壁の中から聞こえる。


 ――声の数が日によって増える。


 ――一人の住民が「知らない子が、自分の名前を呼んだ」と証言。


 晴人はノートの文字を見つめた。


 声の数が増える。


 その一文だけが、嫌に目に残った。


「ここにいた人たちは、どうなった」


「再開発で退去。資料上はそうなってる」


「資料上は?」


 瀬奈はページを閉じた。


「何人か、退去記録がない」


 雨の音が強くなった。


 晴人は周囲を見渡した。


 どの棟の窓も暗い。


 ベランダには古い物干し竿が残っている。錆びた自転車。割れた植木鉢。誰かが捨て忘れた青い傘。


 生活の跡だけがあり、人だけが消えていた。


「また、忘れられた人か」


「わからない。でも母は、ここで何かを見た」


 瀬奈の指が、ノートの表紙を強く押さえた。


 白くなるほど。


「そして帰ってこなかった」


 晴人は何も言えなかった。


 気休めの言葉なら、いくらでも言える。


 大丈夫だ。


 きっと見つかる。


 まだ希望はある。


 けれど、そのどれもが今の瀬奈には届かないことを、晴人は知っていた。


 大切な人を失った人間に、簡単な言葉は刃物になる。


 自分が何度も、それで傷ついてきたからだ。


 瀬奈はノートを鞄に戻した。


「六号棟に行こう」


「ああ」


 二人は広場を抜けた。


 水たまりを踏む音が、団地の壁に小さく反響する。


 六号棟へ続く道は、他の棟より狭かった。


 植え込みの木が伸び、枝が通路を塞いでいる。誰も手入れしていないはずなのに、道の中央だけは不自然に踏み固められていた。


 まるで、誰かが今も通っているように。


 晴人は足元を見た。


 泥の上に、小さな足跡があった。


 子どもの靴の跡。


 雨の中で、まだ新しい。


 瀬奈も気づいた。


 二人は同時に立ち止まる。


 足跡は一つではなかった。


 二つ。


 三つ。


 もっとある。


 小さな靴跡が、植え込みの影から六号棟へ向かって続いていた。


「警備員の子ども……ではないよな」


「こんな場所に?」


 瀬奈の声が硬くなる。


 足跡は階段入口の前で途切れていた。


 六号棟。


 建物の入口には、青いペンキでそう書かれたプレートが残っていた。


 だが、その数字だけが奇妙に黒ずんでいた。


 六。


 雨に濡れた数字が、目玉のない顔みたいに見える。


 晴人は入口の前で息を止めた。


 ここから先は、空気が違う。


 三〇四号室の扉を開けたときと同じだった。


 世界の音が、薄い膜の向こうへ離れていく感覚。


 雨音が遠くなる。


 代わりに、別の音が聞こえた。


 コツ。


 コツ。


 上の階で、誰かが歩いている。


 ゆっくりと。


 裸足ではない。


 小さな靴の音。


 瀬奈が顔を上げた。


「聞こえた?」


「ああ」


「行く」


「如月」


 晴人は思わず彼女の腕を掴んだ。


 瀬奈は振り返らなかった。


「ここで戻ったら、母を二度失うことになる」


 その声は静かだった。


 けれど、静かすぎて痛かった。


 晴人は手を離した。


 瀬奈は一歩、入口の中へ入った。


 非常灯は消えている。


 階段室には、昼間なのに薄暗い影が溜まっていた。


 壁にはひびが走り、古いチラシが半分剥がれている。


 集合郵便受けは錆び、いくつかの扉が開いたままになっていた。


 その一つに、白いものが挟まっていた。


 晴人は近づいた。


 折り紙だった。


 白い折り鶴。


 翼の片方が少しだけ歪んでいる。


 結衣の折り方に似ていた。


 晴人の指が止まる。


 触れるべきではない。


 そう思った。


 けれど、目を離せなかった。


 鶴の背に、小さな文字が書かれている。


 水で滲んでいたが、まだ読めた。


 ――おにいちゃん。


 晴人の喉が締まった。


 瀬奈が横から覗き込む。


「結衣ちゃん?」


 晴人は答えなかった。


 指先で鶴をつまむ。


 紙は濡れていない。


 外は雨なのに。


 郵便受けの中も湿っているのに。


 折り鶴だけが、乾いていた。


 それを手に取った瞬間、上の階で子どもが笑った。


 今度ははっきりと。


 きゃは。


 短く、高く。


 瀬奈が階段を見上げる。


 晴人は折り鶴を握りしめた。


「六階か」


「たぶん」


 瀬奈はスマートフォンを取り出し、ライトを点けた。


 白い光が階段の踊り場を照らす。


 埃が舞っている。


 誰も通っていないはずの場所に、細い足跡が続いていた。


 小さな靴跡。


 六階へ。



 階段を上るたび、団地の中の温度が下がっていった。


 一階から二階へ。


 二階から三階へ。


 壁に残る部屋番号のプレートが、雨漏りの跡に汚れている。


 201、202、203。


 三階。


 301、302、303。


 晴人は無意識に数えていた。


 職業病だった。


 古い建物を見ると、構造と動線を頭の中で整理してしまう。


 階段の位置。


 共用廊下の幅。


 住戸の並び。


 窓の向き。


 けれど、この六号棟は、途中から数え方が狂い始めた。


 四階に上がったはずなのに、プレートは301を示していた。


 もう一度階段を上る。


 今度は502。


 さらに上る。


 踊り場の壁に、104と書かれていた。


 瀬奈が足を止める。


「これ、おかしいよね」


「ああ」


 晴人は手すりに触れた。


 冷たい。


 鉄ではなく、氷に触れているみたいだった。


「建物の中が、ずれてる」


「三〇四号室と同じ?」


「似てる。でも、もっと大きい」


 晴人は階段の下を見た。


 さっき上ってきたはずの階段が、途中で闇に沈んでいる。


 ライトを向けても、一階の入口は見えなかった。


 代わりに、ずっと下のほうで、赤い光が点滅している。


 非常灯のようで、違う。


 呼吸しているような光だった。


 瀬奈は唇を噛んだ。


「戻る?」


 晴人は彼女を見る。


 その問いは、晴人に向けたものではなかった。


 自分自身に向けた問いだった。


 戻れるなら、戻るべきなのか。


 進めば何かを失うとわかっていても、進むべきなのか。


 晴人は答えなかった。


 瀬奈も答えを待っていなかった。


 彼女は階段を上った。


 晴人も後に続く。


 次の踊り場に出たとき、壁の落書きが目に入った。


 子どもの字だった。


 クレヨンで描かれた、歪んだ家。


 四角い部屋。


 窓。


 人の形。


 そして、真ん中に黒い線。


 晴人は立ち止まった。


 絵の下に文字がある。


 ひらがなで。


 へやが、あく。


 その横に、別の筆跡で小さく書かれていた。


 あけちゃだめ。


 瀬奈がライトを近づける。


「誰が書いたの」


「わからない」


 晴人は絵を見つめた。


 線の向こう側にも、人が描かれている。


 小さな女の子。


 黒いノートを持った女。


 そして、顔のない大人。


 晴人は息を呑んだ。


 黒いノートを持った女。


 亜紀。


「これ、母だ」


 瀬奈の声が震えた。


 彼女は指を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。


 壁に触れるのが怖かったのだろう。


 その気持ちは、晴人にもわかった。


 この建物の壁は、ただのコンクリートではない。


 見ている。


 聞いている。


 覚えている。


 そして、忘れさせる。


 上の階から、また足音がした。


 コツ。


 コツ。


 今度は近い。


 瀬奈がライトを上げる。


 階段の一段上に、小さな靴が片方だけ置かれていた。


 赤い靴。


 子ども用。


 雨に濡れていない。


 晴人の胸の奥で、何かが軋んだ。


 結衣が昔、赤い靴を欲しがったことがある。


 誕生日の前だった。


 母にねだって、父に笑われて、それでも最後まで諦めなかった。


 結局、買ってもらえなかった。


 火事の一週間前。


 晴人はそのことを、今まで忘れていた。


 いや。


 忘れていたのではない。


 思い出さないようにしていた。


 赤い靴の横に、白い紙片が落ちている。


 瀬奈が拾った。


 古いメモの切れ端だった。


 文字は震えている。


 ――六号棟は、階数が合わない。


 ――同じ階に何度も戻される。


 ――子どもたちは、扉が開くのを待っている。


 瀬奈は息を止めた。


「母の字」


 晴人はメモを見た。


「ここまで来ていたんだな」


「うん」


 瀬奈はメモを胸に押し当てた。


 ほんの一瞬だけ、彼女の目が細く震えた。


「でも、ここから帰れなかった」


 雨音が消えていた。


 気づいたとき、周囲は完全な静寂に包まれていた。


 外ではまだ雨が降っているはずだ。


 けれど音がしない。


 階段室の空気だけが、耳の奥に詰まっている。


 晴人はポケットからスマートフォンを取り出した。


 圏外。


 時刻は十一時三分で止まっていた。


 瀬奈のスマートフォンも同じだった。


「閉じ込められたか」


「まだ、出口はある」


 瀬奈はそう言った。


 だが、その声に確信はなかった。


 二人はさらに階段を上った。


 やがて、共用廊下に出た。


 階数表示はなかった。


 ただ、廊下の奥に一枚のプレートが落ちていた。


 604。


 白いプレートに黒い数字。


 晴人は足を止めた。


 写真の中の白い壁。


 扉のない部屋。


 亜紀が立っていた場所。


 ノートには、何度も六〇四と書かれていた。


 だが、目の前の廊下には、部屋の扉が三つしかなかった。


 601。


 602。


 603。


 その先は、壁だった。


 窓もない。


 扉もない。


 白く塗られた壁。


 そこだけ、雨の染みも、ひびも、落書きもなかった。


 新しいわけではない。


 むしろ古い。


 けれど、そこだけが妙にきれいだった。


 まるで誰かが毎日、丁寧に拭いているみたいに。


 瀬奈が写真を取り出した。


 震える手で封筒から古い写真を抜く。


 晴人も覗き込んだ。


 写っている白い壁。


 黒い線。


 その前に立つ亜紀。


 背景の廊下。


 同じだった。


 ここだ。


「ここに、母がいた」


 瀬奈の声は小さかった。


 白い壁の前に立つ。


 ライトの光が壁を撫でる。


 黒い線は、ない。


 ただの壁。


 扉のない場所。


 瀬奈は写真を持ったまま、壁に近づいた。


「瀬奈」


 晴人は思わず名前を呼んだ。


 彼女は止まらなかった。


 壁の前で立ち、手を伸ばす。


 指先が、白い塗装に触れる寸前。


 壁の中から、誰かがノックした。


 コン。


 一度だけ。


 瀬奈の手が止まる。


 晴人の背中に冷たい汗が流れた。


 コン。


 二度目。


 今度は少し強い。


 壁の向こうに空間がある。


 そう思わせる音だった。


 瀬奈は息を吸った。


「お母さん?」


 声は返ってこなかった。


 代わりに、壁の中央に細い黒い線が現れた。


 写真と同じ場所。


 縦に一本。


 上から下へ。


 墨が染み出すように。


 晴人は瀬奈の肩を掴んだ。


「離れろ」


「待って」


「離れろ」


 瀬奈は首を振った。


 その目は壁から離れない。


 黒い線は少しずつ太くなっていく。


 線の周囲の壁が、内側から濡れていくように暗くなる。


 そこから、かすかな匂いが漏れた。


 古い畳。


 乾いた紙。


 そして、焦げた木の匂い。


 晴人の手が震えた。


 三〇四号室。


 零号室。


 あの部屋と同じ匂い。


 瀬奈が写真を握りしめる。


 壁の向こうから、低い声がした。


『瀬奈』


 瀬奈の顔が変わった。


 十五年分の時間が、一瞬で彼女の目から消えた。


 そこにいたのは、母親を待つ子どもの顔だった。


「お母さん……」


『来てはだめ』


 声は、はっきりしていた。


 昨夜よりも近い。


 壁のすぐ向こうに立っているみたいだった。


『ここは、部屋じゃない』


 瀬奈の唇が震える。


「でも、生きてるって言った」


『生きている。けれど、戻れない』


「だったら、私が――」


『だめ』


 その一言は、鋭かった。


 瀬奈の肩が跳ねる。


 黒い線が、音もなく広がった。


 線の隙間から、暗闇が見える。


 ただの暗闇ではない。


 奥に、畳の縁が見えた。


 小さなちゃぶ台。


 白い折り紙。


 壁に貼られた古い写真。


 それは部屋だった。


 六号棟の廊下に存在しないはずの、和室。


 晴人は全身の血が引くのを感じた。


 零号室。


 だが、三〇四号室のものとは違う。


 もっと古い。


 もっと深い。


 何人もの後悔が、重なっている。


 廊下の奥で、子どもたちが笑った。


 今度は一人ではない。


 何人も。


 壁の中。


 天井の上。


 床の下。


 同じ声が、違う高さで重なっている。


 瀬奈は動けなかった。


 晴人は彼女を引き戻そうとした。


 そのとき、白い壁にもう一つの影が映った。


 瀬奈の影。


 晴人の影。


 そして、もう一人。


 小さな女の子の影。


 晴人は息を呑んだ。


 影は晴人の足元に立っていた。


 振り返る。


 誰もいない。


 だが、壁には影だけが残っている。


 十二歳くらいの少女。


 肩までの髪。


 細い腕。


 その影が、晴人のコートの裾を掴んでいた。


『お兄ちゃん』


 結衣の声がした。


 晴人の心臓が跳ねた。


 瀬奈も振り返る。


 廊下には誰もいない。


 けれど、声だけがそこにいた。


『入っちゃだめ』


 晴人は喉の奥で名前を呼ぼうとした。


 結衣。


 声にならなかった。


 黒い隙間の中から、今度は亜紀の声が重なった。


『瀬奈、聞いて』


 瀬奈は壁に向き直る。


 涙が一粒、頬を滑った。


 けれど彼女は拭かなかった。


『この部屋は、開けてはいけなかった』


「誰が開けたの」


 瀬奈が尋ねる。


『私たち』


 廊下の空気が凍った。


『最初に、私たちが開けた』


 黒い線がさらに広がる。


 壁の中の部屋が、少しずつこちらへ近づいてくる。


 畳の縁。


 ちゃぶ台。


 折り紙。


 そして、開いたままの黒いノート。


 瀬奈の母のノートと同じもの。


 ページが勝手にめくれていた。


 晴人はその文字を読もうとした。


 だが文字は黒く潰れている。


 ただ、一行だけが白く浮かび上がった。


 ――扉が開くとき、誰かが帰り、誰かが残る。


 晴人の耳元で、橘の声がした気がした。


 痛みは移るだけです。


 瀬奈が一歩、隙間へ近づいた。


「如月!」


 晴人は彼女の腕を掴む。


 今度は強く。


 瀬奈は振りほどこうとした。


「放して」


「だめだ」


「母がそこにいる」


「だからだ」


 瀬奈の目が晴人を刺した。


「あなたならわかるでしょ」


 晴人は言葉を失った。


 わかる。


 わかってしまう。


 死んだはずの結衣が目の前に現れたとき、自分も同じ目をしていたはずだ。


 助けられるかもしれない。


 取り戻せるかもしれない。


 今度こそ、間に合うかもしれない。


 その考えが、どれほど人を狂わせるか。


 晴人は知っていた。


 知っているから、腕を離せなかった。


「わかるから、止めてる」


 瀬奈の顔が歪んだ。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 その両方が、喉の奥で絡まっているような表情だった。


 壁の中で、亜紀の声が小さくなった。


『瀬奈、逃げて』


「嫌だ」


『お願い』


「嫌だよ」


 瀬奈の声が初めて崩れた。


「十五年待ったんだよ」


 その言葉は廊下に落ちた。


 雨の音はない。


 子どもの笑い声も止まっていた。


 六号棟全体が、その一言を聞いているようだった。


「十五年、誰も信じなかった。母は失踪した。逃げた。私を捨てた。そう言われ続けた。でも違った。ここにいた。ずっとここにいたんでしょ?」


 瀬奈は壁に向かって言った。


「だったら、私が連れて帰る」


 黒い隙間の奥で、何かが動いた。


 亜紀の姿が見えた。


 写真と同じベージュのコート。


 肩までの髪。


 黒いノートを抱えたまま、彼女は部屋の奥に立っていた。


 顔は暗くて見えない。


 けれど、瀬奈にはわかったのだろう。


 彼女の手から写真が落ちた。


 床に裏返しで落ちる。


 その音と同時に、部屋の中の畳が軋んだ。


 亜紀が一歩、こちらへ近づいた。


 晴人は瀬奈を後ろへ引いた。


 だが、次の瞬間、廊下の床が沈んだ。


 違う。


 床ではない。


 廊下全体が、部屋のほうへ傾いていた。


 白い壁が、ゆっくりと口を開ける。


 黒い線はもう線ではなかった。


 隙間でもない。


 扉だった。


 取っ手もない。


 蝶番もない。


 ただ、壁そのものが左右に分かれていく。


 ギイ、とも鳴らなかった。


 音もなく。


 あまりにも静かに。


 瀬奈は息を呑んだ。


 晴人も動けなかった。


 廊下の空気が、部屋の中へ吸い込まれていく。


 髪が揺れる。


 服の裾が引かれる。


 手の中の折り鶴が震えた。


 晴人はそれを握りしめる。


 紙の内側から、小さな声がした。


『お兄ちゃん、だめ』


 次の瞬間、六号棟のどこかで、チャイムが鳴った。


 ピンポン。


 古い団地の呼び鈴。


 一度だけ。


 扉のないはずの部屋の中から。


 そして、誰の手も触れていないのに、零号室がゆっくりと開いた。


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