(第三部 . 第二章) 廃墟の団地
雨は、錆びたフェンスを細い指で叩いていた。
東京の端に残された宮下団地は、灰色の空の下で、もう誰の帰りも待っていないように立っていた。
敷地を囲む仮設フェンスには、黄色い立入禁止の札が何枚も結ばれている。風に煽られるたび、札は乾いた音を立てた。
カン、カン。
どこかで、誰かが空き缶を蹴っているような音だった。
晴人はフェンスの前で足を止めた。
六号棟。
十五年前、如月亜紀が最後に訪れた場所。
そして昨夜、瀬奈の部屋の壁に現れた黒い線と同じものが写っていた古い写真。その背景にあった団地だった。
写真の中の亜紀は、白い壁の前に立っていた。
助けて。
声はなかった。
けれど、口の形だけが残っていた。
晴人はコートの内ポケットに入れた封筒を指で押さえた。中には、瀬奈がコピーした古い写真が入っている。
紙越しに、写真の冷たさが伝わってくる気がした。
「ここで間違いない」
隣で瀬奈が言った。
彼女の声はいつもより低かった。
黒い傘の下で、横顔だけが濡れた光を受けている。目の下には薄い影があった。眠っていないのだろう。
晴人も、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、壁の中から聞こえた声が戻ってきた。
『私はまだ、生きている』
十五年前に消えた母親の声。
その声を聞いた瞬間の瀬奈の顔を、晴人は忘れられなかった。
泣きそうでもなく、叫びそうでもなかった。
ただ、壊れた時計の針みたいに、表情が途中で止まっていた。
「管理会社には連絡したのか」
「した。建物は再開発待ち。今は立ち入り禁止。警備会社が巡回してるだけ」
「なら、入れない」
「入れる」
瀬奈は即答した。
晴人が振り向くと、彼女はフェンスの端を指さした。
仮設フェンスの一部が、外側へ少し曲がっていた。金具が外れ、下に隙間ができている。人ひとりなら、身をかがめれば通れる幅だった。
晴人は眉をひそめた。
「偶然か」
「そう思いたいなら、そう思って」
瀬奈は傘を畳んだ。
雨粒が髪に落ちる。
彼女は肩にかけた鞄を前に回し、中の黒いノートを確かめるように触った。
亜紀のノート。
擦り切れた表紙の角。
何度も開かれたページの癖。
その中に、宮下団地の名前は何度も出てきた。
特に六号棟。
扉のない部屋。
帰れなかった人。
そして、母の最後のメモ。
――ここは、部屋ではない。誰かの後悔が形を持ったもの。
晴人はフェンスの向こうを見た。
団地の敷地は広い。
雨に濡れたアスファルト。伸び放題の雑草。折れた掲示板。撤去されずに残った古い自転車置き場。
奥に、同じ形をした棟がいくつも並んでいた。
一号棟、二号棟、三号棟。
灰色の箱が、雨の幕の向こうに沈んでいる。
けれど、六号棟だけが少し違って見えた。
他の棟より奥にある。
他の棟より影が濃い。
そして、窓が一つもこちらを見ていない。
晴人はそう感じた。
窓はある。
けれど、見返してこない。
空っぽなのに、何かが隠れている。
「如月」
「なに」
「怖くないのか」
瀬奈はフェンスの隙間に手をかけたまま、少しだけ笑った。
笑ったと言っても、口元が動いただけだった。
「怖いよ」
彼女は言った。
「怖いから、来た」
それだけ言って、瀬奈は身をかがめた。
フェンスの下をくぐる。
黒いコートの裾が雨水に触れた。
晴人は一瞬だけ立ち尽くした。
カン、カン。
黄色い札がまた鳴る。
立入禁止。
解体予定地。
危険。
その言葉のどれもが、今の晴人にはひどく薄く見えた。
部屋は、人を選ぶ。
橘の声が頭の中で蘇る。
そして、一度見つけられた人間を、簡単には離しません。
晴人は息を吐いた。
傘を畳み、フェンスの下をくぐった。
雨の匂いが変わった。
外側では、アスファルトと排気ガスの匂いがしていた。
内側では、濡れたコンクリートと古い畳の匂いがした。
まだ建物に入っていないのに。
晴人は立ち上がり、背後を振り返った。
フェンスの向こうの道路が、やけに遠く見えた。
車の音も、人の気配も、雨の奥へ沈んでいる。
団地の中だけが、別の時間に切り取られていた。
瀬奈はもう歩き出していた。
晴人はその背中を追った。
水たまりに、二人の足が映る。
その中で、晴人は一瞬、自分の顔がぼやけているのを見た。
足を止める。
雨粒が水面を打つ。
輪が広がる。
顔はすぐに崩れた。
「水野さん?」
瀬奈が振り返る。
「なんでもない」
晴人はそう答えた。
けれど、胸の奥には冷たいものが残った。
父の顔が消えた写真。
戸籍から消えた結衣の名前。
母が忘れた娘。
そして水たまりの中で、輪郭を失いかけた自分。
晴人は拳を握った。
まだだ。
まだ、自分はここにいる。
そう思うために。
*
宮下団地は、昭和の終わりに建てられた集合住宅だった。
低い棟が何棟も並び、中央には小さな広場がある。
かつては滑り台と砂場があったらしい。
今は滑り台の片側が錆びて外され、砂場には雨水が溜まっていた。
水面に、裸の木の枝が逆さまに映っている。
晴人は広場の端で立ち止まった。
そこに、古い掲示板があった。
ガラスは割れている。
中には色褪せた回覧板の跡だけが残っていた。
防犯パトロールのお知らせ。
粗大ごみ回収日。
夏祭りのポスター。
どれも日付は十五年以上前だった。
瀬奈は掲示板に近づき、割れたガラスの隙間から一枚の紙を指でつまんだ。
紙は湿気で波打っている。
文字のほとんどは滲んでいた。
それでも、中央の数行だけが読めた。
六号棟の皆様へ。
夜間、階段および共用廊下にて、子どもの声が聞こえるという相談が複数寄せられています。
心当たりのある方は、管理室までお知らせください。
晴人は背中に小さな寒気を覚えた。
「子どもの声」
瀬奈が呟いた。
昨夜、壁の奥で笑っていた声。
結衣の声ではない声。
知らない子どもたちの声。
「ここでも聞こえてたのか」
「母のノートにもある」
瀬奈は鞄から黒いノートを取り出した。
雨に濡れないよう、体で庇いながらページを開く。
折り癖のついたページに、細い字が並んでいた。
――夜十時以降、六号棟の階段で複数の児童の笑い声。
――居住者の証言では、声は上からではなく壁の中から聞こえる。
――声の数が日によって増える。
――一人の住民が「知らない子が、自分の名前を呼んだ」と証言。
晴人はノートの文字を見つめた。
声の数が増える。
その一文だけが、嫌に目に残った。
「ここにいた人たちは、どうなった」
「再開発で退去。資料上はそうなってる」
「資料上は?」
瀬奈はページを閉じた。
「何人か、退去記録がない」
雨の音が強くなった。
晴人は周囲を見渡した。
どの棟の窓も暗い。
ベランダには古い物干し竿が残っている。錆びた自転車。割れた植木鉢。誰かが捨て忘れた青い傘。
生活の跡だけがあり、人だけが消えていた。
「また、忘れられた人か」
「わからない。でも母は、ここで何かを見た」
瀬奈の指が、ノートの表紙を強く押さえた。
白くなるほど。
「そして帰ってこなかった」
晴人は何も言えなかった。
気休めの言葉なら、いくらでも言える。
大丈夫だ。
きっと見つかる。
まだ希望はある。
けれど、そのどれもが今の瀬奈には届かないことを、晴人は知っていた。
大切な人を失った人間に、簡単な言葉は刃物になる。
自分が何度も、それで傷ついてきたからだ。
瀬奈はノートを鞄に戻した。
「六号棟に行こう」
「ああ」
二人は広場を抜けた。
水たまりを踏む音が、団地の壁に小さく反響する。
六号棟へ続く道は、他の棟より狭かった。
植え込みの木が伸び、枝が通路を塞いでいる。誰も手入れしていないはずなのに、道の中央だけは不自然に踏み固められていた。
まるで、誰かが今も通っているように。
晴人は足元を見た。
泥の上に、小さな足跡があった。
子どもの靴の跡。
雨の中で、まだ新しい。
瀬奈も気づいた。
二人は同時に立ち止まる。
足跡は一つではなかった。
二つ。
三つ。
もっとある。
小さな靴跡が、植え込みの影から六号棟へ向かって続いていた。
「警備員の子ども……ではないよな」
「こんな場所に?」
瀬奈の声が硬くなる。
足跡は階段入口の前で途切れていた。
六号棟。
建物の入口には、青いペンキでそう書かれたプレートが残っていた。
だが、その数字だけが奇妙に黒ずんでいた。
六。
雨に濡れた数字が、目玉のない顔みたいに見える。
晴人は入口の前で息を止めた。
ここから先は、空気が違う。
三〇四号室の扉を開けたときと同じだった。
世界の音が、薄い膜の向こうへ離れていく感覚。
雨音が遠くなる。
代わりに、別の音が聞こえた。
コツ。
コツ。
上の階で、誰かが歩いている。
ゆっくりと。
裸足ではない。
小さな靴の音。
瀬奈が顔を上げた。
「聞こえた?」
「ああ」
「行く」
「如月」
晴人は思わず彼女の腕を掴んだ。
瀬奈は振り返らなかった。
「ここで戻ったら、母を二度失うことになる」
その声は静かだった。
けれど、静かすぎて痛かった。
晴人は手を離した。
瀬奈は一歩、入口の中へ入った。
非常灯は消えている。
階段室には、昼間なのに薄暗い影が溜まっていた。
壁にはひびが走り、古いチラシが半分剥がれている。
集合郵便受けは錆び、いくつかの扉が開いたままになっていた。
その一つに、白いものが挟まっていた。
晴人は近づいた。
折り紙だった。
白い折り鶴。
翼の片方が少しだけ歪んでいる。
結衣の折り方に似ていた。
晴人の指が止まる。
触れるべきではない。
そう思った。
けれど、目を離せなかった。
鶴の背に、小さな文字が書かれている。
水で滲んでいたが、まだ読めた。
――おにいちゃん。
晴人の喉が締まった。
瀬奈が横から覗き込む。
「結衣ちゃん?」
晴人は答えなかった。
指先で鶴をつまむ。
紙は濡れていない。
外は雨なのに。
郵便受けの中も湿っているのに。
折り鶴だけが、乾いていた。
それを手に取った瞬間、上の階で子どもが笑った。
今度ははっきりと。
きゃは。
短く、高く。
瀬奈が階段を見上げる。
晴人は折り鶴を握りしめた。
「六階か」
「たぶん」
瀬奈はスマートフォンを取り出し、ライトを点けた。
白い光が階段の踊り場を照らす。
埃が舞っている。
誰も通っていないはずの場所に、細い足跡が続いていた。
小さな靴跡。
六階へ。
*
階段を上るたび、団地の中の温度が下がっていった。
一階から二階へ。
二階から三階へ。
壁に残る部屋番号のプレートが、雨漏りの跡に汚れている。
201、202、203。
三階。
301、302、303。
晴人は無意識に数えていた。
職業病だった。
古い建物を見ると、構造と動線を頭の中で整理してしまう。
階段の位置。
共用廊下の幅。
住戸の並び。
窓の向き。
けれど、この六号棟は、途中から数え方が狂い始めた。
四階に上がったはずなのに、プレートは301を示していた。
もう一度階段を上る。
今度は502。
さらに上る。
踊り場の壁に、104と書かれていた。
瀬奈が足を止める。
「これ、おかしいよね」
「ああ」
晴人は手すりに触れた。
冷たい。
鉄ではなく、氷に触れているみたいだった。
「建物の中が、ずれてる」
「三〇四号室と同じ?」
「似てる。でも、もっと大きい」
晴人は階段の下を見た。
さっき上ってきたはずの階段が、途中で闇に沈んでいる。
ライトを向けても、一階の入口は見えなかった。
代わりに、ずっと下のほうで、赤い光が点滅している。
非常灯のようで、違う。
呼吸しているような光だった。
瀬奈は唇を噛んだ。
「戻る?」
晴人は彼女を見る。
その問いは、晴人に向けたものではなかった。
自分自身に向けた問いだった。
戻れるなら、戻るべきなのか。
進めば何かを失うとわかっていても、進むべきなのか。
晴人は答えなかった。
瀬奈も答えを待っていなかった。
彼女は階段を上った。
晴人も後に続く。
次の踊り場に出たとき、壁の落書きが目に入った。
子どもの字だった。
クレヨンで描かれた、歪んだ家。
四角い部屋。
窓。
人の形。
そして、真ん中に黒い線。
晴人は立ち止まった。
絵の下に文字がある。
ひらがなで。
へやが、あく。
その横に、別の筆跡で小さく書かれていた。
あけちゃだめ。
瀬奈がライトを近づける。
「誰が書いたの」
「わからない」
晴人は絵を見つめた。
線の向こう側にも、人が描かれている。
小さな女の子。
黒いノートを持った女。
そして、顔のない大人。
晴人は息を呑んだ。
黒いノートを持った女。
亜紀。
「これ、母だ」
瀬奈の声が震えた。
彼女は指を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。
壁に触れるのが怖かったのだろう。
その気持ちは、晴人にもわかった。
この建物の壁は、ただのコンクリートではない。
見ている。
聞いている。
覚えている。
そして、忘れさせる。
上の階から、また足音がした。
コツ。
コツ。
今度は近い。
瀬奈がライトを上げる。
階段の一段上に、小さな靴が片方だけ置かれていた。
赤い靴。
子ども用。
雨に濡れていない。
晴人の胸の奥で、何かが軋んだ。
結衣が昔、赤い靴を欲しがったことがある。
誕生日の前だった。
母にねだって、父に笑われて、それでも最後まで諦めなかった。
結局、買ってもらえなかった。
火事の一週間前。
晴人はそのことを、今まで忘れていた。
いや。
忘れていたのではない。
思い出さないようにしていた。
赤い靴の横に、白い紙片が落ちている。
瀬奈が拾った。
古いメモの切れ端だった。
文字は震えている。
――六号棟は、階数が合わない。
――同じ階に何度も戻される。
――子どもたちは、扉が開くのを待っている。
瀬奈は息を止めた。
「母の字」
晴人はメモを見た。
「ここまで来ていたんだな」
「うん」
瀬奈はメモを胸に押し当てた。
ほんの一瞬だけ、彼女の目が細く震えた。
「でも、ここから帰れなかった」
雨音が消えていた。
気づいたとき、周囲は完全な静寂に包まれていた。
外ではまだ雨が降っているはずだ。
けれど音がしない。
階段室の空気だけが、耳の奥に詰まっている。
晴人はポケットからスマートフォンを取り出した。
圏外。
時刻は十一時三分で止まっていた。
瀬奈のスマートフォンも同じだった。
「閉じ込められたか」
「まだ、出口はある」
瀬奈はそう言った。
だが、その声に確信はなかった。
二人はさらに階段を上った。
やがて、共用廊下に出た。
階数表示はなかった。
ただ、廊下の奥に一枚のプレートが落ちていた。
604。
白いプレートに黒い数字。
晴人は足を止めた。
写真の中の白い壁。
扉のない部屋。
亜紀が立っていた場所。
ノートには、何度も六〇四と書かれていた。
だが、目の前の廊下には、部屋の扉が三つしかなかった。
601。
602。
603。
その先は、壁だった。
窓もない。
扉もない。
白く塗られた壁。
そこだけ、雨の染みも、ひびも、落書きもなかった。
新しいわけではない。
むしろ古い。
けれど、そこだけが妙にきれいだった。
まるで誰かが毎日、丁寧に拭いているみたいに。
瀬奈が写真を取り出した。
震える手で封筒から古い写真を抜く。
晴人も覗き込んだ。
写っている白い壁。
黒い線。
その前に立つ亜紀。
背景の廊下。
同じだった。
ここだ。
「ここに、母がいた」
瀬奈の声は小さかった。
白い壁の前に立つ。
ライトの光が壁を撫でる。
黒い線は、ない。
ただの壁。
扉のない場所。
瀬奈は写真を持ったまま、壁に近づいた。
「瀬奈」
晴人は思わず名前を呼んだ。
彼女は止まらなかった。
壁の前で立ち、手を伸ばす。
指先が、白い塗装に触れる寸前。
壁の中から、誰かがノックした。
コン。
一度だけ。
瀬奈の手が止まる。
晴人の背中に冷たい汗が流れた。
コン。
二度目。
今度は少し強い。
壁の向こうに空間がある。
そう思わせる音だった。
瀬奈は息を吸った。
「お母さん?」
声は返ってこなかった。
代わりに、壁の中央に細い黒い線が現れた。
写真と同じ場所。
縦に一本。
上から下へ。
墨が染み出すように。
晴人は瀬奈の肩を掴んだ。
「離れろ」
「待って」
「離れろ」
瀬奈は首を振った。
その目は壁から離れない。
黒い線は少しずつ太くなっていく。
線の周囲の壁が、内側から濡れていくように暗くなる。
そこから、かすかな匂いが漏れた。
古い畳。
乾いた紙。
そして、焦げた木の匂い。
晴人の手が震えた。
三〇四号室。
零号室。
あの部屋と同じ匂い。
瀬奈が写真を握りしめる。
壁の向こうから、低い声がした。
『瀬奈』
瀬奈の顔が変わった。
十五年分の時間が、一瞬で彼女の目から消えた。
そこにいたのは、母親を待つ子どもの顔だった。
「お母さん……」
『来てはだめ』
声は、はっきりしていた。
昨夜よりも近い。
壁のすぐ向こうに立っているみたいだった。
『ここは、部屋じゃない』
瀬奈の唇が震える。
「でも、生きてるって言った」
『生きている。けれど、戻れない』
「だったら、私が――」
『だめ』
その一言は、鋭かった。
瀬奈の肩が跳ねる。
黒い線が、音もなく広がった。
線の隙間から、暗闇が見える。
ただの暗闇ではない。
奥に、畳の縁が見えた。
小さなちゃぶ台。
白い折り紙。
壁に貼られた古い写真。
それは部屋だった。
六号棟の廊下に存在しないはずの、和室。
晴人は全身の血が引くのを感じた。
零号室。
だが、三〇四号室のものとは違う。
もっと古い。
もっと深い。
何人もの後悔が、重なっている。
廊下の奥で、子どもたちが笑った。
今度は一人ではない。
何人も。
壁の中。
天井の上。
床の下。
同じ声が、違う高さで重なっている。
瀬奈は動けなかった。
晴人は彼女を引き戻そうとした。
そのとき、白い壁にもう一つの影が映った。
瀬奈の影。
晴人の影。
そして、もう一人。
小さな女の子の影。
晴人は息を呑んだ。
影は晴人の足元に立っていた。
振り返る。
誰もいない。
だが、壁には影だけが残っている。
十二歳くらいの少女。
肩までの髪。
細い腕。
その影が、晴人のコートの裾を掴んでいた。
『お兄ちゃん』
結衣の声がした。
晴人の心臓が跳ねた。
瀬奈も振り返る。
廊下には誰もいない。
けれど、声だけがそこにいた。
『入っちゃだめ』
晴人は喉の奥で名前を呼ぼうとした。
結衣。
声にならなかった。
黒い隙間の中から、今度は亜紀の声が重なった。
『瀬奈、聞いて』
瀬奈は壁に向き直る。
涙が一粒、頬を滑った。
けれど彼女は拭かなかった。
『この部屋は、開けてはいけなかった』
「誰が開けたの」
瀬奈が尋ねる。
『私たち』
廊下の空気が凍った。
『最初に、私たちが開けた』
黒い線がさらに広がる。
壁の中の部屋が、少しずつこちらへ近づいてくる。
畳の縁。
ちゃぶ台。
折り紙。
そして、開いたままの黒いノート。
瀬奈の母のノートと同じもの。
ページが勝手にめくれていた。
晴人はその文字を読もうとした。
だが文字は黒く潰れている。
ただ、一行だけが白く浮かび上がった。
――扉が開くとき、誰かが帰り、誰かが残る。
晴人の耳元で、橘の声がした気がした。
痛みは移るだけです。
瀬奈が一歩、隙間へ近づいた。
「如月!」
晴人は彼女の腕を掴む。
今度は強く。
瀬奈は振りほどこうとした。
「放して」
「だめだ」
「母がそこにいる」
「だからだ」
瀬奈の目が晴人を刺した。
「あなたならわかるでしょ」
晴人は言葉を失った。
わかる。
わかってしまう。
死んだはずの結衣が目の前に現れたとき、自分も同じ目をしていたはずだ。
助けられるかもしれない。
取り戻せるかもしれない。
今度こそ、間に合うかもしれない。
その考えが、どれほど人を狂わせるか。
晴人は知っていた。
知っているから、腕を離せなかった。
「わかるから、止めてる」
瀬奈の顔が歪んだ。
怒りではない。
悲しみでもない。
その両方が、喉の奥で絡まっているような表情だった。
壁の中で、亜紀の声が小さくなった。
『瀬奈、逃げて』
「嫌だ」
『お願い』
「嫌だよ」
瀬奈の声が初めて崩れた。
「十五年待ったんだよ」
その言葉は廊下に落ちた。
雨の音はない。
子どもの笑い声も止まっていた。
六号棟全体が、その一言を聞いているようだった。
「十五年、誰も信じなかった。母は失踪した。逃げた。私を捨てた。そう言われ続けた。でも違った。ここにいた。ずっとここにいたんでしょ?」
瀬奈は壁に向かって言った。
「だったら、私が連れて帰る」
黒い隙間の奥で、何かが動いた。
亜紀の姿が見えた。
写真と同じベージュのコート。
肩までの髪。
黒いノートを抱えたまま、彼女は部屋の奥に立っていた。
顔は暗くて見えない。
けれど、瀬奈にはわかったのだろう。
彼女の手から写真が落ちた。
床に裏返しで落ちる。
その音と同時に、部屋の中の畳が軋んだ。
亜紀が一歩、こちらへ近づいた。
晴人は瀬奈を後ろへ引いた。
だが、次の瞬間、廊下の床が沈んだ。
違う。
床ではない。
廊下全体が、部屋のほうへ傾いていた。
白い壁が、ゆっくりと口を開ける。
黒い線はもう線ではなかった。
隙間でもない。
扉だった。
取っ手もない。
蝶番もない。
ただ、壁そのものが左右に分かれていく。
ギイ、とも鳴らなかった。
音もなく。
あまりにも静かに。
瀬奈は息を呑んだ。
晴人も動けなかった。
廊下の空気が、部屋の中へ吸い込まれていく。
髪が揺れる。
服の裾が引かれる。
手の中の折り鶴が震えた。
晴人はそれを握りしめる。
紙の内側から、小さな声がした。
『お兄ちゃん、だめ』
次の瞬間、六号棟のどこかで、チャイムが鳴った。
ピンポン。
古い団地の呼び鈴。
一度だけ。
扉のないはずの部屋の中から。
そして、誰の手も触れていないのに、零号室がゆっくりと開いた。




